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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (盛岡藩の参戦)

盛岡藩の参戦 こうして、秋田藩を目指して庄内・仙台・米沢藩ら同盟軍が北上を続ける中、今度は盛岡藩が不意,盛岡藩征討を進めるための決定であった。  ,盛岡藩の軍勢が十二所から再び進軍を開始したのが八月二十日。,盛岡藩も再進攻を試みるが、さらに攻め入られて盛岡藩領が脅かされるようになると、これ以上の進攻を実行できず,盛岡藩が正式に降伏を通告したのは、九月二十五日のことであった。 / 盛岡藩の参戦
通史編3(近世2) (野辺地戦争の経過)

いよいよ戦闘が野辺地川付近で開始されると、小銃・大砲による砲撃戦となり、盛岡藩は退却の様子をみせた。,弘前藩側は、盛岡藩兵が退きはじめるとさらに追撃したが、野辺地を目前にしたところで、盛岡藩兵の待ち伏せを,盛岡藩陣営は、小高い場所に砲台を設置し、家屋や木々に身を隠し、弘前藩兵を攻撃した。,だったにもかかわらず、段どりが悪く、翌朝を過ぎても、戦いは続いたため、身動きのとれなくなった弘前藩兵は次々と盛岡藩兵,対して盛岡藩側の死傷者は、およそ一〇人ほどにすぎなかった。
通史編3(近世2) (醍醐忠敬の弘前転陣)

結局、さまざまな経緯の末、盛岡藩は列藩同盟を貫くことを決意したのであった。,その盛岡藩から八月八日、弘前藩へ使者がやってきて秋田藩攻撃のための領内通行を求めてきた。,さらに、盛岡藩征討のために醍醐忠敬参謀が弘前藩へ転陣する旨が伝えられた(同前)。,醍醐一行は八月十七日に弘前入りをし、盛岡藩征討に関して軍事的中心の役割を担う。,彼らの弘前布陣は弘前藩とは逆に、反官軍を表明した盛岡藩との戦争を目的とするものであった。
通史編3(近世2) (野辺地戦争の動機)

野辺地戦争の動機 盛岡藩攻撃を命じられてから、弘前藩は佐賀藩出身の総督府参謀前山精一郎らと軍議を重ねていた,それは、前山精一郎・中牟田倉之助から、彼らによる海上攻撃と弘前藩による陸上攻撃で共同戦線を張り、盛岡藩,しかし、なかなか行動に移さない弘前藩を待つ間に盛岡藩側からの攻撃が開始されては元も子もないと、中牟田率,戦禍がとうとう陸奥湾に至ったことには、大きな動揺が走ったが、この攻撃で盛岡藩への打撃はほとんど与えられず,勤皇を表明している弘前藩に攻撃をしかけた時点で、朝廷に対する盛岡藩の罪状が決定しかねないからである。
通史編3(近世2) (近隣諸藩の動向)

一方で同盟遵守の方針を決めた藩が、盛岡藩であった。,はじめ、盛岡藩は、四月に出された会津・庄内征討応援命令には従う姿勢を示したものの、奥羽列藩同盟に加わり,さて、盛岡藩から分家して成立した八戸藩の動きは微妙なものであった。,しかし、この行動が盛岡藩の強い疑念を招いた。,五月十七日、八戸藩は太田広城を盛岡に派遣して釈明をし、盛岡藩の攻撃を避けたのであった。
通史編3(近世2) (野辺地戦争の開始)

野辺地戦争の開始 弘前藩庁より家臣一統へ盛岡藩征討の布告がされたのは、八月二十九日のことであった(資料近世,総督府から秋田領へ侵攻してきた盛岡藩の征討を命じられたためであった。,盛岡藩の征討命令を受けた弘前藩から、九月四日、二通の書翰が発信された。,戦争勃発後からこれまでの経緯を説明したうえで、盛岡藩征討命令が出されたこと、覚悟はあるが勝率が高くはないこと,そして、いよいよ九月二十二日から二十三日にかけて、弘前藩と盛岡藩は藩境に位置する馬門口で衝突する。
通史編3(近世2) (東北戊辰戦争の終結)

盛岡藩の降伏が決定された段階でしかけた戦争は、一見、無意味なようにも思われる。,勝敗は結果だが、それよりも、弘前藩としては盛岡藩に討ち入ったという事実が必要だったのであった。,盛岡藩は、野辺地戦争に勝利したものの、秋田藩を通じて嘆願交渉を続行し、九月二十五日、秋田水沢口において,盛岡藩は、秋田戦争・野辺地戦争の代価として、家老楢山佐渡の切腹と七万両の賠償を支払うことになった。
通史編2(近世1) (宝暦の飢饉)

他の北奥諸藩でも同様で、盛岡藩では四万九四九五人の餓死者(「篤焉家訓」による。,八戸藩は表高二万石のうち一万八五七三石の損毛(そんもう)、盛岡藩は表高一〇万石のうち七万七一七〇石の損毛
通史編2(近世1) (寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)

松前藩と海を隔てて隣国である津軽弘前藩や盛岡藩にとっては、蜂起の報がもたらされた段階で、今後の派兵が想定,津軽弘前藩のみならず、盛岡藩・秋田藩でも出兵の準備が進められ、盛岡藩から分かれた八戸藩も、寛文四年(一六六四,)、宗家である盛岡藩と行動をともにすべく協議を重ねていた。,また、松前藩からの要請に応じて、津軽弘前藩、秋田藩、盛岡藩、仙台藩が兵器・兵糧の貸与という具体的な形での,実際に加勢の行動に入らない段階では、盛岡・八戸藩では総力を挙げた出兵体制がとりにくかったと考えられ、盛岡藩
通史編3(近世2) (戦局の展開と兵員の不足化)

一方、北奥羽では同盟側に立った盛岡藩が隣の秋田藩に猛烈な勢いで攻め込んでいた。,ことにその戦場が大館(おおだて)近辺で展開されていただけに、藩首脳としては、盛岡藩の攻撃がやがて津軽領,さらに、この時期の弘前藩にとって厄介(やっかい)だったのは、盛岡藩が野辺地(のへじ)(現上北郡野辺地町,時局はやがて野辺地戦争を経て、会津・盛岡藩も降伏し、十月十八日に鎮撫総督府から東北平定の宣言が出されるが
通史編2(近世1) (相馬大作事件)

相馬大作事件 このような津軽家の官位昇叙(しょうじょ)に伴う家格の上昇に不満を募らせたのが、盛岡藩の,秀之進は寛政元年(一七八九)、盛岡藩領二戸郡福岡(にのへぐんふくおか)村(現二戸市)に生まれた。,図162.相馬大作画像  文政三年、盛岡藩主利敬(としたか)が三十九歳の若さで世を去った。
通史編2(近世1) (有史以来最大級の大量死)

他の北奥諸藩も同様で、史料によって違いはあるが、盛岡藩は約四万余、仙台藩は一四万~一五万、八戸藩は約三万人,天明日記」 天明4年2月晦日 9374人 2万8224人 死絶・立去 助米必要人数 「御勘定所日記」 盛岡藩
通史編3(近世2) (民衆の動揺)

盛岡藩兵が秋田に侵入し、大館に火をつけて陥落させた明治元年(一八六八)八月、その戦闘の様子は市街の高所,碇ヶ関や大間越(おおまごし)には盛岡藩兵に追い立てられた秋田藩士らが妻子を連れて大挙逃れて来たが、その
通史編2(近世1) (「分領」と津軽弘前藩)

津軽弘前藩と盛岡藩に対しては、警衛の持ち場は従来どおりとし、さらに陣屋のある場所において、それ相応の「,同じ日に、盛岡藩主南部利剛(としひさ)の名代盛岡新田藩主南部信誉(のぶのり)にも津軽家と同内容の達しがあり,・会津の各藩には、従来仙台藩と秋田藩が警備していた地域を領地として新たに分与するのに対し、津軽弘前・盛岡藩,によって、各藩に対して与えられることになった漁場の運上金および別段上納金の見込額をみると、津軽弘前藩・盛岡藩
通史編2(近世1) (「松前復領期」における蝦夷地派兵準備体制)

規模や形態に変更があるものの、松前復領期においても継続していたのである(千葉一大「松前復領期における盛岡藩,一方、盛岡藩の体制は、幕府の達書とそれ以後の幕府との間に課役内容に関して交渉を行い、そこで決定した事項,・御領分海岸防禦(ぼうぎょ)平常備組」(総勢一〇〇〇人)を編成していた(千葉前掲「松前復領期における盛岡藩
通史編3(近世2) (戦局の推移と戦費負担の増加)

七月に藩論が勤皇に統一されてからは、挙藩体制での鶴岡藩討伐が行われ、同藩はもとより、弘前藩と決裂した盛岡藩,九月二十三日の野辺地戦争は、官軍に頑強な抵抗を続ける盛岡藩を牽制(けんせい)する目的から、奥羽鎮撫総督府付軍監,弘前藩側は四九人にも及ぶ戦死者を出して敗退したが、盛岡藩にはもはや戦争を続行する余力はなく、ほどなく降伏,出兵人数606人  3 庄内藩討伐矢島口出兵 3,650 出兵人数312人  4 盛岡藩討伐大館
通史編2(近世1) (烏帽子山紛争)

この言葉は、山の入会権をめぐって黒石津軽領狩場沢村と南部領馬門村の間に対立が起こり、それが津軽弘前藩と盛岡藩,正徳二年(一七一二)四月、津軽弘前藩の役人から隣領盛岡藩の役人に対して、烏帽子山の一峰、津軽領堀指(ほりさし,この境論の判決の際に作成された裁許絵図(さいきょえず)が当事者である津軽弘前藩と盛岡藩双方の史料の中に
通史編3(近世2) (松前方面の攻防と青森)

浪士からは庄内酒井氏や盛岡藩に対する処分についてや政府軍の状況について、また清水谷らの行方についての問,そして、その対処策として、先に命じられていた盛岡藩主らの東京への護送兵を転用したいとした。,盛岡藩主ら護送の件については、十月三十日に命じられていたのだが、十一月二十一日、その任は奥羽監察使藤川能登
通史編3(近世2) ((一)箱館戦争の開始)

箱館詰の藩士はすでに八月二十二日に盛岡藩との対立の激化によって帰藩しており、そのこともあって、箱館警衛
通史編2(近世1) (津軽領の知行制)

その中で、北奥諸藩の中には形式的でなく、仙台藩・盛岡藩のように実質的にも幕末まで存続させていた藩もあった
通史編2(近世1) (東蝦夷地直轄下の勤番体制)

幕府は津軽弘前藩と盛岡藩の二藩の兵を要地に駐屯させるという方針を立て、同年十一月、両藩に東蝦夷地警衛を,津軽弘前藩はサワラ(現北海道茅部郡砂原町)からウラカワまでを担当して、サワラ・エトロフに勤番所を設け、盛岡藩
通史編2(近世1) (乏しい国産品)

津軽弘前藩の場合、盛岡藩・八戸藩など太平洋岸の諸藩と違い、寒冷地とはいいながら米の生産に適する領地を持
通史編2(近世1) (警備引き揚げとその背景)

蝦夷地警衛の体制は縮小へと向かい、文政元年(一八一八)以来、蝦夷地警衛の勤番地は、津軽弘前藩が松前、盛岡藩,ただ、この拝借金が藩財政に与えた影響は、当時の松前奉行が同時に金七〇〇〇両の拝借を許された盛岡藩ともども,田中三七発行)、劇的に状況が変わるといった性格のものではなかったようである(千葉一大「文化年間における盛岡藩
通史編2(近世1) (開国と箱館警備)

によれば、異国船が不慮に着岸して不義を働くような事態が発生した場合、鎮圧に人数が必要ならば津軽弘前藩・盛岡藩,伊達慶邦(仙台藩) 上杉斉憲(米沢藩) 松前崇広(松前藩) 援兵担当大名 津軽順承(弘前藩) 南部利剛(盛岡藩,マシケ ソウヤ 津 軽 弘前藩 箱館 江差在乙部村から西蝦夷地ヲカムイ岬まで 箱館千代ヶ台 スッツ 盛岡藩
通史編3(近世2) (旧幕府軍の軌跡)

十月十三日、薪水補給のため、盛岡藩領宮古に寄港し、開陽・回天・蟠龍・神速・長鯨と、仙台から加わった大江
通史編5(近・現代2) (伊東梅軒)

当たり、さらに藩内では軍政調方副役として活躍、八月十二日に今別町奉行に任命されながら、翌日は秋田藩と盛岡藩,の戦端が開かれたので藩境碇ヶ関町奉行助(すけ)として赴任、盛岡藩降伏後、十月十一日改めて箱館戦争の前線基地今別
通史編2(近世1) (ロシアによるエトロフ襲撃事件)

続いてエトロフの中心であるシヤナに二度にわたって上陸し、勤番の津軽弘前・盛岡藩兵を撃退し、ナイボ同様、
資料編3(近世編2) (【解説】)

に戊辰戦争は薩摩・長州藩の私怨から出たもので、朝敵とされた会津・米沢藩らの寛典処分を主張する仙台藩や盛岡藩,秋田藩は盛岡藩によって大館を陥落され、その落人が大挙弘前藩に逃げてきた。,奥羽鎮撫総督府は弘前藩に盛岡藩征討を命じ、このために引き起こされた戦闘が九月二十三日の野辺地(のへじ),この戦いで弘前藩は死傷四九名を出して惨敗したが、時に会津・庄内・仙台・米沢藩ら朝敵側は降伏しており、盛岡藩
通史編2(近世1) (一里塚)

しかし、盛岡藩の場合は同年二月に奥州街道の分について一里塚築造に着手したと思われ(「篤焉家訓(とくえんかくん
通史編2(近世1) ((二)蝦夷地出兵の諸段階)

この「蜂起」は幕府にも大きな衝撃を与え、幕府は津軽弘前藩に出兵を命じるとともに、盛岡藩にも松前藩から救援依頼,シャクシャインの戦いは、結局松前藩によって制圧されたため、津軽弘前藩は松前に駐屯しただけで帰弘し、また盛岡藩
通史編2(近世1) (飢饉の惨状)

飢饉の惨状 飢饉の悲惨な状況を伝える史料は津軽弘前藩をはじめ、八戸藩(『天明卯辰梁』)、盛岡藩(『飢歳凌鑑
通史編2(近世1) (東西蝦夷地直轄下の勤番体制)

東西蝦夷地直轄下の勤番体制 文化四年三月の松前および西蝦夷地の上知決定に伴い、翌四月、津軽弘前藩は盛岡藩
通史編3(近世2) (戦線の北上)

軟禁状態下にあった九条道孝(くじょうみちたか)と醍醐忠敬(だいごただゆき)は、五月十八日、仙台を出発し盛岡藩
通史編2(近世1) (陸上交通網の整備)

ともに津軽領と秋田藩領・盛岡藩領を結ぶ道路であり、弘前城下を中心として藩領外へ通じる道が大道筋として認識
通史編2(近世1) (飢饉のその後)

他の諸藩も八戸藩が表高二万石のうち一万九二二三石の損毛、盛岡藩が表高新田高合わせて二四万八〇〇〇石のうち
通史編2(近世1) (開発の実行者たち)

野村軍記(のむらぐんき)(長苗代新田)、幕末の津軽弘前藩の山田登(やまだのぼる)(豊富(とよとみ)新田)、盛岡藩
通史編4(近・現代1) (県内遊説)

上北、三戸は盛岡藩や斗南藩、八戸藩の地ゆえ、信頼の厚い服部尚義(ひさよし)が派遣された。
通史編3(近世2) (二等銃隊の補充と特質)

~八月五日とは二等銃隊の発足から第二次討庄援兵期までを、(第2期)の明治元年八月六日~十月十八日とは盛岡藩
資料編2(近世編1) (第一章 編年史料出典・典拠一覧)

…………国立公文書館内閣文庫    も 盛岡南部家文書……………………………盛岡市中央公民館 盛岡藩雑書
通史編2(近世1) (領内海防と台場の構築)

領内海防と台場の構築 津軽弘前藩は、蝦夷地警衛などに当たった実績と、その影響によって、同様の境遇にあった盛岡藩
通史編3(近世2) (藩論の紛糾)

さらに、十八日にはこの間の事情を説明する書翰が杉山上総ら三人の連名で盛岡藩および仙台藩重役へ送られた(
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●正保二年(一六四五)九月十九日、盛岡藩、津軽牢人工藤氏の南部領入国を認める。,●慶安元年(一六四八)九月九日、盛岡藩、津軽領に付け置いた治右衛門よりの口書を受領する。,●慶安三年(一六五〇)四月六日、盛岡藩、津軽領よりの欠落百姓三十二人へ、扶持米を給与する。,●承応元年(一六五二)四月十七日、盛岡藩、津軽領目内沢より六戸への欠落者へ扶持米を給付する。,●承応元年(一六五二)五月十一日、盛岡藩、津軽領より八戸町への欠落者へ扶持米を給付する。
通史編3(近世2) (藩から県へ)

この当時、青森県域には江戸時代からの藩領を管轄する弘前・黒石・八戸藩と、盛岡藩の減封に伴って明治二年に
通史編2(近世1) (廃田復興・新田開発の進展)

幕末期の本県では、盛岡藩の三本木新田に匹敵する開発である。
通史編3(近世2) (出開帳)

菓子は、盛岡藩で毎日朝夕に供えた例を聞いているので、これに倣ったものとみられる。
通史編3(近世2) (農兵の組織)

農兵隊の精度はしだいに高まっていき、八月十二日には郡奉行小山内清之丞(せいのじょう)が四小隊を率いて、盛岡藩兵
通史編3(近世2) (松前徳広の領内落去)

また、東北戦争後の処理も進み、弘前藩は盛岡藩領のうち北郡・三戸郡・二戸郡の取り締まりを命じられ、二十九日
通史編1(古代・中世) (三戸南部氏による領国支配の強化)

また、江戸中期に盛岡藩主南部氏が編纂を行った家臣の系図集である『系胤譜考』などによれば、久慈氏の流れをくむ
通史編2(近世1) (信政晩年の藩政)

盛岡藩の家老席日誌である「雑書」(盛岡市中央公民館蔵)がこの事件に関して記している(「雑書」宝永五年十二月七日条
通史編2(近世1) (津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)

されるのは、寛永十一年(一六三四)の徳川家光上洛を機に実施されたときで、実際にこの時仙台藩主伊達政宗・盛岡藩主南部重直
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