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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (教科目)

教科目 稽古館は藩の規模の割には広範囲にわたる教科目を用意した。,後に時代の要請に応じるべく、安政六年(一八五九)、蘭学堂が付設され蘭学が加えられるが、その時にはすでに,必修科目として経学と書学とが全生徒に課され、規定の年齢に達した者に限り、志望により一科目若しくは数科目,そしてまた、雅楽を教科のなかに組み入れている点も注目に値する。,人間の心を外から方向付けるものとして、「礼」とともに「楽」を重んじた徂徠の礼楽思想の影響がここにもうかがわれる / 教科目
通史編2(近世1) (刑罰の目的)

刑罰の目的 刑罰の目的は一般予防(威嚇(いかく))と特別予防の二種類がある。,前者は獄門・火罪・磔などの刑罰そのもののほか、これらの重科に付加された引き廻しや、鋸挽(のこびき)・磔,などに付加されたさらしおよび鞭刑や入墨(いれずみ)が見懲(みこらし)的意味をもっていた。,これに該当しないものとしては、逆罪の者、邪曲(じゃきょく)の殺人、火付け、追剥(おいはぎ)、人家に立ち,これは改心奨励を目的としたものである(石井前掲書)。 / 刑罰の目的
資料編1(古代・中世編) ([付図])

[付図] 石川城縄張り推定復元図   乳井茶臼館縄張り推定復元図   大浦城縄張り推定復元図,愛宕神社境内 30 弘前市境関字富岳 境関館跡(県埋蔵文化財調査センター保管) 31・32 弘前市外崎3丁目,外崎誠氏地所 33・34 弘前市城東中央4丁目 城東八幡宮境内 35 弘前市和徳町 武田ハルエ氏宅地内,36 弘前市和徳町 稲荷神社神官宅地内 37 弘前市八幡町1丁目 八幡宮境内 38 弘前市田町4丁目,白山神社御神体 131・132 弘前市小友字宇田野 小友小学校校門横 133 弘前市十腰内字猿沢 寺庵跡付近 / [付図]
資料編3(近世編2) (●革秀寺 藤代一丁目)

●革秀寺 藤代一丁目 (一)本堂--重要文化財  建立年代についてはさまざまな伝承があるが、慶長年間,正面一間側面二間で、入母屋造の妻入とし、正面に軒唐破風を付けた柿葺の屋根である。 / ●革秀寺 藤代一丁目
通史編5(近・現代2) (岩木川開発と目屋ダムの建設)

目屋ダムは岩木川上流の西目屋村に建設され、昭和三十四年(一九五九)十月に本体工事が完成して貯水を開始し,平成三年(一九九一)以降、目屋ダムを再開発し、機能向上を意図して目屋ダムの直下流に新たに津軽ダムを建設,多目的ダムとして期待されている。,ダムが完成すれば目屋ダムは水没し、その役割を終える。,そのため平成十五年十月六日付で、国土交通大臣から青森県知事とダム使用権設定予定者に対し、基本計画の変更案 / 岩木川開発と目屋ダムの建設
資料編1(考古編) (54.東目屋層Ⅱ)(ひがしめやそう))

54.東目屋層Ⅱ)(ひがしめやそう) 金谷(1950)の命名によるが、ここでは大沢(1962)の再定義,模式地は、西目屋村田代付近。弘前地域南西部に広く分布する。,備考:井上・酒井(1960)、岩佐(1962)、北村ほか(1972)の東目屋層に相当する。 / 54.東目屋層Ⅱ)(ひがしめやそう)
通史編1(古代・中世) (津軽奪還を目指して)

津軽奪還を目指して 安藤盛季(もりすえ)の甥にあたる潮潟重季(うしおがたしげすえ)の嫡子政季(師季),応仁二年(一四六八)二月二十八日付で師季が熊野那智山に捧げた願文には、もとの如く津軽外浜・宇楚里(うそり,写真183 『松前年代記』 安東政季の渡海 目録を見る 精細画像で見る 写真184 安東師季願文,いてもわからないほどの者であり、また朝鮮側に提出した書契は宮内卿の筆跡と同じものであることなどから、疑惑の目でみられ / 津軽奪還を目指して
資料編3(近世編2) (●長勝寺 西茂森一丁目)

●長勝寺 西茂森一丁目 (一)本堂--重要文化財  規模が大きく、側廻りには三本溝の窓を配しており,であったといい、中央に両折戸をつって欄間を設け、間仕切りは一間毎に柱が立ち、二本溝の仕切を置くが、鴨居には付樋端,仏間は板敷きとなり、来迎柱を立てるが、当初は背面壁に祭壇が取り付けられていた痕跡も見られる。  ,親柱を互平の鏡柱とし、角柱の控え柱を立てて貫で繋ぎ、木鼻付き頭貫型虹梁を架け、腕木を出して軒桁を受け、 / ●長勝寺 西茂森一丁目
資料編3(近世編2) (●隣松寺 久祥院殿位牌堂 西茂森二丁目--県重宝)

●隣松寺 久祥院殿位牌堂 西茂森二丁目--県重宝 元禄年間(一六八八~一七〇四)に津軽四代信政が、その,台座の上に置かれた建築型一間厨子の形を取っており、宝形造木瓦葺の屋根の正面に軒唐破風を付けて、屋根の頂上,全体に黒漆が塗られ、細部に付けられた金具や細工物に特徴があり、細木を組み合わせた内部の格天井など、凝った / ●隣松寺 久祥院殿位牌堂 西茂森二丁目--県重宝
通史編5(近・現代2) ([付図])

[付図] 弘前市域航空写真 昭和23年8月22日撮影   弘前市史寫眞館(昭和・平成) 1,藩祖三百五十年祭パレード〈昭和31年〉 29 岩木川氾濫による水害〈昭和33年〉 30 目屋 / [付図]
資料編1(考古編) (59.前田野目層Ⅳ)(まえだのめそう))

59.前田野目層Ⅳ)(まえだのめそう) 今泉(1949)の命名によるが、ここでは中川(1972)の再定義,模式地は、五所川原市前田野目付近。模式地のほかに同市東方丘陵地及び浪岡町北西部の丘陵地に分布する。 / 59.前田野目層Ⅳ)(まえだのめそう)
通史編1(古代・中世) ([付図])

[付図] 弘前市遺跡地図   1. ,1-1       〓0172-35-1111 内線398・399(市役所新館3階)   付図,弘前市ほか 2 市 〃 曹洞宗津軽山革秀寺 18,807.41m2 S,60年1月24日 藤代1丁目4,祭祀跡 鎌倉 25 国吉経塚遺跡  〃 〃 7の3 宅地 経塚 平安 26 若葉遺跡 若葉1・2丁目,縄文・平安 33 新館遺跡 石川字小山田29ほか 田・境内 包蔵地 〃 34 旭ヶ丘遺跡 旭ヶ丘2丁目 / [付図]
通史編2(近世1) (高照神社「御告書付」の開始)

高照神社「御告書付」の開始 次に、高照(たかてる)神社(中津軽郡岩木町)に所蔵されている「御告書付(,図158.御告書付  表45・46は御告内容・回数・年代を「御告書付」および「国日記」にみえる記事,表45 「御告書付」の内容と御用回数 分 類 項   目 御用回数(%) 天皇家 天皇家即位、崩御、改元,のように行われていくわけであるが、この享和年間以降、御告先に長勝寺(ちょうしょうじ)(弘前市西茂森一丁目),その意味で、高照神社蔵「御告書付」の残存状況は本来的なものとしてよい。   / 高照神社「御告書付」の開始
資料編3(近世編2) (●蘭庭院 栄螺堂 西茂森二丁目--市指定文化財)

●蘭庭院 栄螺堂 西茂森二丁目--市指定文化財 東長町の豪商であった中田屋嘉兵衛(賀兵衛)が、天保の,屋根は八角宝形造であるが、下屋を一辺ごとに段差を付けているのは、柱を内転びにして八角錘形にしているのと / ●蘭庭院 栄螺堂 西茂森二丁目--市指定文化財
資料編1(考古編) ([付図])

[付図] 境関館遺構配置図   野脇遺跡遺構配置図       弘前市内源泉分布図 番号,500 150~100 39.5 0 340 12 津軽長寿温泉 津軽長寿温泉 弘前市大字東城北3丁目4,-2 420 150~100 37.0 0 360 26 浜館温泉 弘前市大字駅前2丁目2-33,450 100 30.0 0 133 27 富田2丁目源泉 弘前市大字富田2丁目8-4 300 150,-3 500 150~100 40.5 0 115 36 山崎温泉 弘前市大字山崎2丁目10-9 / [付図]
資料編1(古代・中世編) (新編 弘前市史 資料編1-2 古代・中世編 目次)

新編 弘前市史 資料編1-2 古代・中世編 目次 ■口絵 ■序 〈例言〉…………………………………, 堀越城下(都市としての堀越)の構造…………………………  五〇七  第五節 国吉館跡・坂本館跡と東目屋,の城館群……………………  五一二   一 東目屋地区の中世城館と領主の歴史…………………………  五一二,……  五二三    (3) 城館の構造…………………………………………………  五二三   五 東目屋地区,     市浦1~5      青森1~2      種子一覧      参考文献    〈付図 / 新編 弘前市史 資料編1-2 古代・中世編 目次
資料編1(考古編) (新編 弘前市史 資料編1-1 考古編 目次)

新編 弘前市史 資料編1-1 考古編 目次 ■口絵〈自然〉地形と地質 〈考古〉市内の遺跡と遺物      ,八甲田第1期火砕流堆積物          53.八甲田第2期火砕流堆積物          54.東目屋層,          57.屏風山砂丘砂          58.藤倉川層          59.前田野目層,          60.松木平層          61.萬左衛門山層          62.三ツ目内川層, 648     ■カラー図1~24 ……………………………………………  巻末        <付図 / 新編 弘前市史 資料編1-1 考古編 目次
通史編2(近世1) (裁判と判決)

評定所では大目付(おおめつけ)または目付が担当し、武士とともに斬(ざん)罪や追放が申し渡され、四奉行(,寺社奉行・郡(こおり)奉行・町奉行・勘定奉行)・徒(かち)目付・足軽目付・町同心などが出席した。,・町目付・町同心などが出席した。,・足軽目付・町同心・縄取人足(なわとりにんそく)・太刀取(たちとり)などが出席した。,、足軽目付・町同心警固・町同心・縄取人足などが出席した。
通史編3(近世2) (礼服)

……大目付の指揮を受ける監察の官)、平服麻裃(掃除見分の用人(ようにん)・大目付(おおめつけ)……用人,大目付は諸役・諸士の監察と法規・典礼を担当する)  宝暦二年(一七五二)(藩主在府)――右とほとんど,文政十一年(一八二八)――「国日記」に「四日御箒(ごほうき)初に付、罷出候御用人并大目付常服麻上下」とあり,文政十一年――熨斗目麻裃(家老・用人)常服麻裃(大目付)  藩主在国中の文政十一年より、在府中の前二者,)ただし、熨斗目麻裃(用人以上)、常服麻裃(大目付)  右によれば、それぞれの年によって異なるが、藩主在府
資料編2(近世編1) (新編 弘前市史 資料編2(近世編1) 目次)

新編 弘前市史 資料編2(近世編1) 目次 ■序  はじめに …………………………………………………,状況  ………………………………………………………………………  四一三     (一)知行充行状の下付  ,安永律・寛政律・文化律の制定  ……………………………………………………  八七八   二 揚屋御条目  , ■協力者一覧  …………………………………………………………………………………  一二五四 〈付図 / 新編 弘前市史 資料編2(近世編1) 目次
通史編2(近世1) (捜索・召捕)

召捕(めしとり)には、町奉行(まちぶぎょう)のもとに、町与力(よりき)と町同心(どうしん)が配され、火付盗賊改,目明(めあかし)(岡っ引き(おかっぴき)・口間(くちとい)・御用聞(ごようきき)・手先(てさき)などともいう,津軽弘前藩では町奉行(弘前城下の町方の行政・司法を担当)の付属吏である町同心・町目付・目明が担当した(,目明は町目付の下にあり、定員二名で蔵米一〇俵が給せられていた。
通史編2(近世1) (藩士対象の司法制度)

家老・用人・大目付・勘定奉行など上級藩士に対する取り調べの詳細は不明であるが、「国日記」によれば、預り,表58 申し渡し人と申し渡し場所 申し渡し人 申し渡し場所 ① 家老 家老宅 ② 大目付 評定所 ③,目付 評定所 ④ 御馬廻 取上御仕置場 ⑤ 御徒目付 取上御仕置場 ⑥ 御徒目付 牢前 ⑦ 御徒目付,④~⑧までは、④のみが馬廻による取上御仕置場での申し渡しで、そのほかは徒目付による。,馬廻と徒目付の区別は容疑者の階層差に求められない。
通史編5(近・現代2) (岩木村の成立と飛び地の誕生)

ここに新弘前市の誕生は確定的となり、関係市村の議会の議決をまち、三月一日付で合併を実施する旨知事に申請,ごろの市町村境界と弘前市の新市域  弘前市長と関係一一ヵ村長の連名で合併処分申請書が、二月十日付で,ところが突如、岩木・大浦・駒越三村が二月十日付で、三村合併促進協議会の協議により合併を決定してしまった,二月十五日付で申請された三村合併による新「岩木村」の設置は見送られた。,その結果、三月一日付で岩木村が誕生したのである。  
通史編3(近世2) (日常勤務の服装)

「国日記」宝暦六年(一七五六)十一月十七日条に、御目付(おめつけ)(大目付の指揮を受ける監察の官)以上,は麻裃(半袴と同じと思われる)を、それ以下は裏付裃を着用すべきことを申し付けられているのがみえる。,さらに「国日記」文政八年(一八二五)三月四日条には、御目見(おめみえ)以上は麻裃で登城すべきことが記されている,天保六年(一八三五)には目付以上の者が継肩衣の着用を命じられ(同前天保六年三月十六日条)、さらに幕末の
通史編1(自然・原始) ([口絵])

1200mにみられる崩落地。古岩木火山体を形成する溶岩と火砕岩からなる。 赤倉沢の高度500m付近,ヶ滝付近) 中央の矢はず状の縞模様はヘリンボーン構造である。,れた後に,反転して右手へ流れたことを示している。約150万年前のエスチュアリー堆積物。 (平賀町唐竹付近,(碇ヶ関村碇沢) 中央の谷にそって並ぶ三角形の山すそを三ッ目内川が流れ,その位置を三ッ目内断層,(大鰐町三ッ目内) 砂沢遺跡から検出された最北の水田跡 台付浅鉢形土器(重要文化財
通史編2(近世1) (大問屋制の導入)

大問屋制の導入 天保期の流通統制を特徴付けるものとして、「大問屋(おおどいや)」制の導入が挙げられる,・東長町大坂屋福次郎・和徳町猿賀屋小市郎・親方町木野屋善次郎・笠島太平太の五人に弘前大問屋家業を申し付けた,これに伴い、大問屋には関所を出入りする荷の管理の役目も担わされた。,荷物は関所の役人が確認した後、扱いの問屋が「出入目録」を作り勤番目付へ提出し、勤番目付が印を押して大問屋,大問屋は日々の出入りの状況を確認し、月ごとに町奉行に目録を整えて報告した。
資料編3(近世編2) (新編 弘前市史 資料編3 近世編2 目次)

新編 弘前市史 資料編3 近世編2 目次 ■口絵 ■序 はじめに …………………………………………,4「新編 弘前市史」編纂事業関係者名簿 ……………………………………………………  一六二六 〈付図 / 新編 弘前市史 資料編3 近世編2 目次
通史編3(近世2) (学官の職掌)

学官の職掌 工事と並行して学官名、各建物の名称、職制、教科科目の構成、教官人事等々にわたる制度面の検討,「司糾」(学校目付)は学生の心身面や生活面を訓導し、学規の励行を督励し、違反者を糾弾補導するのがその任,学舎の名称もこのころには確定していた(稽古館本の「孝経」には「寛政七年乙卯六月、津軽稽古館蔵版」の奥付があるから,寛政八年五月、同年六月二十三日、学官員の任命があり、総司津軽永孚を筆頭に、小司(大目付次順格)山崎図書,兵学学頭五人、紀伝学頭二人、天文暦学頭一人、法律学頭一人、数学頭一人、書学頭一人、馬廻番頭一人、学校目付四人
通史編2(近世1) (越後高田領検地の実施)

三月二十八日には、江戸から派遣される役人として、惣奉行一人、元締め二人、検地奉行二人、目付一人などの人数,図90.越後高田領検地拝命を伝える書状の写し 目録を見る 精細画像で見る  二十四日には幕府目付高木守勝,より検地条目と越後知行高書付一通を手渡され(「江戸日記」天和二年三月二十四日条)、さらに勘定組頭佐野から,矢野道節 表医者 10 歩行目付 津島武右衛門 歩行目付 11 足軽目付 黒滝太郎右衛門 足軽目付,「竿目付」「勘定人」省略した。○印は高田検地につき,新規召し抱えられた者。
通史編2(近世1) (領内海防と台場の構築)

1 旗差之者 8 旗3本 長柄奉行 1 長柄之者 35 うち6人警固 検 使 1 目付役,筆談之者 1 物 書 1 絵図師 1 医 師 2 馬 医 1 忍之者 5 徒目付,1 横目付 1 小荷駄取扱役 1 算 者 2 普請方 2 雑 卒 346 小,表48 一番手人数所持の大筒 種 別 員 数 30目筒 3 50目筒 3 100目筒 2 200目筒,この台場設置は、先に松前に出張し、その後領内沿岸を巡視した幕府大目付中川忠英(なかがわただてる)の示唆
通史編3(近世2) (勤務の状況)

御用座敷は上ノ間から家老、二ノ間は用人・大目付、三ノ間は三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)、四ノ間は,梅ノ間御次ノ間には大目付が午前十時から午後二時まで勤め、家老・用人が退出後、用事がなければ帰る。,目付(めつけ)は二人ずつ昼夜連続で勤務し、小納戸役(こなんどやく)(藩主の衣類やその他の諸調度類などの,さらに歩行(かち)(徒)目付・足軽目付(ともに用人や大目付・目付の指揮下にあり、藩士の行状を監察し、非違,年頭・節句・御礼日には組頭(くみがしら)より歩行(かち)まで城門番所へ詰め、御礼が終わったならば、目付
通史編3(近世2) (町役負担と御用金)

一方、表5からわかるように町自体にも上・中・下のランク付けがなされており、領内の村々に村位が付けられたのと,五丁目) 鞘師町(三丁目・四丁目),黒石町坂下,五十石町後袋町 山伏覚勝院罷在候町(当時角仙町),,表6.弘前城下の地子銀(1軒あたり) 上 役 52文目8分 中之上役 40文目  4厘 中 ,役 34文目8分 下 役 21文目5分 下之下役 11文目5分5厘 備 考 元禄14年(1701)6月朔日,2人 瀬戸物焼 30俵 1人 御豆腐屋 20俵 1人 町年寄手付并小遣 銭100目2人扶持(2人)
通史編3(近世2) (諸役と仲間)

たとえば、寛文四年(一六六四)十一月六日付けで酒麹(こうじ)御役米蔵奉行に出された「定」(『津軽家御定書,また、酒造に使用する米の量については、城下では町ごとにそれぞれ調べて帳付けをし、一人ずつ判をとるようにという,同年十二月十六日付けで居鯖御役銀御催促奉行に出された「定」(前掲『津軽家御定書』)も、同じく城下のみならず,ところが、寛文五年(一六六五)十月六日付けで町奉行福士甚左衛門宛てに出された「覚」(前掲『津軽家御定書,枚に付き(不明)・小釜2朱 小泊壱所に付き2斗5升入10俵宛金1歩 注) ただし,「鯵立待」以下の漁業関係役銀
通史編1(自然・原始) (城東面)

枝・堅田付近では三〇~三七メートルであって、およそ一〇〇〇分の七~八の勾配となっている。,城南地区の山崎堤付近にも小規模ながら分布する。  ,城南三丁目の山崎堤付近(五八メートル)でも二枚の軽石質砂層が堆積し、上位の砂層直下には薄い泥炭層が認められる,城東中央四丁目での地表下三メートル地点と八メートル地点、山崎堤の地表下二メートル地点と六メートル地点から,この火砕流起源の軽石質砂層は市街地においては粘土化した軽石粒が目立ち、全体的に粘土質であってN値が小さくなっている
通史編2(近世1) (相馬大作事件)

文化三年、十八歳で江戸に出た彼は幕臣夏目長右衛門に師事、同五年には夏目の紹介で、当時、名剣士として名をはせた,秀之進は文政四年、江戸から帰国途中の寧親を秋田藩領白沢(しらさわ)駅(現秋田県大館市)付近で狙撃しようとしたが,なくして轅を用いたのは不束(ふつつか)であるとして信順は逼塞(ひっそく)を命ぜられ、これをとがめなかった大目付,・目付・小人目付らは、お目見(めみ)え差し控えや押し込めに処せられた。  ,図163.轅の図 目録を見る 精細画像で見る
通史編3(近世2) (切支丹類族)

この時、徒目付・足軽目付が検使となり、町年寄・町名主・月行事が立ち会い、死体は古箱に入れ、蓋を釘付にし,、宝積院では住職と小僧が、位牌の前で読経し、寺まで付き添ってきた町名主・月行事が土葬するのを見届けた(,死体は、町名主・五人組・子供が付き添って月峰院まで運び、目付が見届けたうえで町奉行の手で塩詰めにした。,江戸に飛脚便を立て、幕府から片付けの許可を待って、死体を掘り出して桶に入れ替えた後、引導を渡して葬式を
通史編2(近世1) (海防報告書にみる天保期の海防体制)

表50 弘前藩海岸固人数とその配置(天保14年3月調べ) 物 頭 目 付 役 浦 奉,行 同 下 役 湊 目 付 同 下 役 平 士 浦 番 人 同 下 役 浦,役 人 横 目 付 大 筒 役 同 下 役 足 軽 遠 見 番 人 大間越,、湊目付・平士・横目付・足軽を指揮して、非常時に港湾警備の指揮を執る体制が採られていた。,表53 黒石藩平内領海防人数とその配置(天保14年3月調べ) 代官 目付役 諸士 浦役人 小頭 小役人
通史編3(近世2) (鳥羽・伏見の戦い)

鳥羽・伏見の戦い 明治元年(一八六八)一月三日夕刻、下鳥羽赤池(現京都市南区・伏見区境)付近で、砲弾,一月二日朝、「討薩表」を携えた幕府大目付滝川具挙(たきがわともたか)が先鋒となって北上した幕府軍は、伏見,三日、入京を目指して北上する幕府軍とそれを阻止する薩摩藩の軍勢との押し合いが続き、ついに強行前進を決めた,六日夜、徳川慶喜は密かに大坂城を脱出して海路で江戸を目指し、旧幕府軍は瓦解していった。
通史編4(近・現代1) (『東奥日報』従軍記者の書いた雪中行軍記)

これまで東海記者の「雪中行軍記」は、行軍四日目(一月二十三日)を記した一月二十九日付の第三七三六号と、,それが二月四日付の新聞から、行軍二日目の一月二十一日の様子を記した記事が発見されたのである。,さらにこの新聞記事内容から、行軍三日目の一月二十二日の記事が、欠号となっていた一月二十八日付の第三七三五号,また前記の「日記の四日目」とは、一月二十三日の行動を指し、その記事は一月二十九日付『東奥日報』記事に掲載,一〇日間近い行軍のうち、この新聞記事の発見で、行軍二日目(一月二十一日)と、四日目(一月二十三日)、そして
通史編1(自然・原始) (原ヶ平面)

・三岳・豊原・富田・大富町・土手町・大町・駅前などが位置し、特に中野地区から北側の土手町・大町・駅前付近,富田の清水は原ヶ平面の扇端部付近にあって、伏流(ふくりゅう)水が湧出源となっているものと思われる。,また、城南一丁目③(六六メートル)・中野二丁目(五九メートル)でも地表下約一〇メートル付近に駒木浮石流凝灰岩,軽石質砂層の上位には暗茶褐色砂質シルト層(N値五未満)が堆積し、下半部のシルト層には軽石粒の混入が目立,特に下部はN値五〇以上の固結状態であり、地表下二七メートル付近には貝殻が含まれていることから基盤岩と判断
通史編3(近世2) (藩主の位牌を盗む)

藩主の位牌を盗む 曹洞宗盛雲(せいうん)院(現市内西茂森一丁目)隠居、海中(かいちゅう)の弟子である,天保十四年(一八四三)五月に津軽家の菩提寺で、曹洞宗僧録所の長勝寺(ちょうしょうじ)(現市内西茂森一丁目),位牌の中でも初代藩主のそれを盗むことは、僧侶にあるまじき行為として厳罰に処せられるべく、牢屋前で御徒目付
通史編2(近世1) (農政の転換)

豊田彦右衛門ら城下町を中心とした領内の商人と連携して買米を行い(同前元禄十二年八月二日条)、廻米の実現を目指,、新たな収取体制を作ることを目指したものであった。,図105.十三での仕立山(人工造林)の図 目録を見る 精細画像で見る  さて、このような農政の,まず、夫食の貸し付けの返済は強制的に行われ、しかも、これは直接貸し付けを受けた農民ばかりでなく、その農民,復興政策、なかでも廃畑における植林政策は、「高無」の「成立」とともに、このような農法の上にその実現を目指
通史編5(近・現代2) ((二)相撲王国)

昭和三十三年一月三十日付の『東奥日報』は「第四十五代目の横綱若乃花『土俵の鬼』嬉し涙」の見出しをつけ、,二十九日の番付編成会議で横綱に推薦された若乃花に対する協会からの使者として、高島理事、湊川検査役の二人,席上高島理事から『本日の番付編成会議で役員と横綱審議会が満場一致で横綱に推薦されました』と伝えれば、若乃花,四十五代目横綱の伝達を終った。 (資料近・現代2No.六九八)  横綱若乃花の誕生である。,横綱としてはむろんだが、親方としても横綱隆の里(たかのさと)、二代目横綱若乃花、大関貴ノ花(たかのはな
資料編1(考古編) (39.鶴ヶ坂層Ⅲ)(つるがさかそう))

模式地は、青森市鶴ヶ坂付近。新城川流域及び大釈迦・前田野目付近に広く分布する。,特に、模式地付近では径10~30cm、ときに50cmに及ぶ同岩質の軽石片・玻璃質*48岩塊を含む。
通史編1(自然・原始) (松原面)

標高五〇~七〇メートルであって、面上には松原西二丁目・松原東一・二丁目・学園町・北園町・清原・取上などが,腰巻川流域の、三岳公園から中野四・五丁目そして富士見台にかけては西側に隣接する原ヶ平面と比高三~六メートル,の急崖が認められるが、扇端部にあたる取上付近では原ヶ平面上の土手町・大町とほぼ同一面をなしている。,松原面は、腰巻川流域では松原地区から取上地区にかけて、また土淵川流域では山崎から城南一丁目にかけては頂部,また寺沢川流域の新寺町や在府町付近にも小規模ながら分布している。  
資料編1(考古編) (33.相馬集塊岩層Ⅱ)(そうましゅうかいがんそう))

模式地は、相馬村屏風岩付近。模式地周辺を中心に東西に帯状に分布する。,西目屋村沢田付近から貝化石を産出したという報告がある(大沢,1962)。
資料編1(考古編) (3.野脇遺跡)

」寛文4年(1664)などがあり、「津軽知行高之帳」及び「津軽郡知行高辻帳目録」には、村高212石余、,SE01出土の肥前灰釉皿は一般的に唐津と称されるものであり、胎土目(図130-1・2・4)と砂目(図130,ST01では、灰釉皿胎土目(図130-5・7)及び砂目皿(図130-11・12)と肥前染付皿(図130,(図132-12・14・16・17、図133-4・6)、染付八角鉢(図132-13)、青磁染付蓋付碗(,図133-1・2)、紅皿(図133-5)、染付蕎麦猪口(図133-9)、刷毛目壺(図133-10)、鉄釉壺
通史編3(近世2) (情事の発覚)

であるため一五鞭に減らし、実家へ返したうえ残りの一五鞭の分は罰金として納入するようにと、桃井村端で御徒目付,この判決(申し渡し)には、「寛政律」の総則的な項目第一六「婦人犯罪候事」の中の「一、婦人之罪を犯し候ハ,鞭十五ニ不レ可レ過、鞭十五以上ニ相当候節ハ十五切にて、残数ハ過料ニ而罪贖可申事」と、各則的な項目第九五,牢屋奉行の石出帯刀(いしでたてわき)、見廻与力(みまわりよりき)・検使与力・御徒目付・小人(こびと)目付
資料編1(考古編) ((6)縄文時代晩期)

,盤形 浅鉢形,台付浅鉢形,甕形,注口土器 鉢形,台付鉢形,皿形 大洞BC式 平行沈線 刻目,または列点文 羊歯状文 巴状文 半円文 弧状文 X字状文 K字状文 平行沈線 刻目または,刻目または列点文 平行沈線 羊歯状文 磨消縄文 壺形,深鉢形,台付深鉢形,片口形 浅鉢形,台付浅鉢形,式 平行沈線 刻目 工字文 平行沈線 工字文 矢羽状(杉綾状)文 刺突文 斜縄文 磨消縄文,縦位縄文 壺形,台付浅鉢形,皿形 浅鉢形,台付鉢形,注口土器 鉢形,台付深鉢形, 深鉢形,甕形
通史編3(近世2) (盆踊り)

(3)盆中は、歩行・目付・足軽目付に見回らせるので、子供・下人に至るまで不行儀があってはならない。,元禄五年(一六九二)には、目付・町同心・町目付が上町・下町を巡回したり、同九年の盆前には町奉行が無頼の,図22.盆踊りの規制に関する国日記記事 目録を見る 精細画像で見る  延享元年(一七四四)には,静山は肥前平戸藩主で、平戸藩上屋敷が津軽家の柳原中屋敷(現東京都台東区鳥越一丁目付近)に隣接していたことから,静山は、身分の差なく入り交じり、着物に轡を付けて鳴らし、下駄の音を響かせ、鳴物に合わせて酔いながら踊る
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