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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (裁判と判決)

評定所では大目付(おおめつけ)または目付が担当し、武士とともに斬(ざん)罪や追放が申し渡され、四奉行(,寺社奉行・郡(こおり)奉行・町奉行・勘定奉行)・徒(かち)目付・足軽目付・町同心などが出席した。,・町目付・町同心などが出席した。,・足軽目付・町同心・縄取人足(なわとりにんそく)・太刀取(たちとり)などが出席した。,、足軽目付・町同心警固・町同心・縄取人足などが出席した。
通史編2(近世1) (藩士対象の司法制度)

家老・用人・大目付・勘定奉行など上級藩士に対する取り調べの詳細は不明であるが、「国日記」によれば、預り,表58 申し渡し人と申し渡し場所 申し渡し人 申し渡し場所 ① 家老 家老宅 ② 大目付 評定所 ③,目付 評定所 ④ 御馬廻 取上御仕置場 ⑤ 御徒目付 取上御仕置場 ⑥ 御徒目付 牢前 ⑦ 御徒目付,④~⑧までは、④のみが馬廻による取上御仕置場での申し渡しで、そのほかは徒目付による。,馬廻と徒目付の区別は容疑者の階層差に求められない。
通史編3(近世2) (礼服)

……大目付の指揮を受ける監察の官)、平服麻裃(掃除見分の用人(ようにん)・大目付(おおめつけ)……用人,大目付は諸役・諸士の監察と法規・典礼を担当する)  宝暦二年(一七五二)(藩主在府)――右とほとんど,文政十一年(一八二八)――「国日記」に「四日御箒(ごほうき)初に付、罷出候御用人并大目付常服麻上下」とあり,享保二年(一七一七)――常服半袴(藩主の一族・家老・用人・大目付)、常服麻裃(城中の諸番人) 宝暦三年,文政十一年――熨斗目麻裃(家老・用人)常服麻裃(大目付)  藩主在国中の文政十一年より、在府中の前二者
通史編3(近世2) (勤務の状況)

御用座敷は上ノ間から家老、二ノ間は用人・大目付、三ノ間は三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)、四ノ間は,梅ノ間御次ノ間には大目付が午前十時から午後二時まで勤め、家老・用人が退出後、用事がなければ帰る。,目付(めつけ)は二人ずつ昼夜連続で勤務し、小納戸役(こなんどやく)(藩主の衣類やその他の諸調度類などの,さらに歩行(かち)(徒)目付・足軽目付(ともに用人や大目付・目付の指揮下にあり、藩士の行状を監察し、非違,年頭・節句・御礼日には組頭(くみがしら)より歩行(かち)まで城門番所へ詰め、御礼が終わったならば、目付
通史編3(近世2) (日常勤務の服装)

「国日記」宝暦六年(一七五六)十一月十七日条に、御目付(おめつけ)(大目付の指揮を受ける監察の官)以上,天保六年(一八三五)には目付以上の者が継肩衣の着用を命じられ(同前天保六年三月十六日条)、さらに幕末の
通史編3(近世2) (学官の職掌)

「司糾」(学校目付)は学生の心身面や生活面を訓導し、学規の励行を督励し、違反者を糾弾補導するのがその任,寛政八年五月、同年六月二十三日、学官員の任命があり、総司津軽永孚を筆頭に、小司(大目付次順格)山崎図書,兵学学頭五人、紀伝学頭二人、天文暦学頭一人、法律学頭一人、数学頭一人、書学頭一人、馬廻番頭一人、学校目付四人
通史編2(近世1) (捜索・召捕)

津軽弘前藩では町奉行(弘前城下の町方の行政・司法を担当)の付属吏である町同心・町目付・目明が担当した(,目明は町目付の下にあり、定員二名で蔵米一〇俵が給せられていた。
通史編3(近世2) (盆踊り)

(3)盆中は、歩行・目付・足軽目付に見回らせるので、子供・下人に至るまで不行儀があってはならない。,元禄五年(一六九二)には、目付・町同心・町目付が上町・下町を巡回したり、同九年の盆前には町奉行が無頼の,静山は肥前平戸藩主で、平戸藩上屋敷が津軽家の柳原中屋敷(現東京都台東区鳥越一丁目付近)に隣接していたことから
通史編3(近世2) (情事の発覚)

であるため一五鞭に減らし、実家へ返したうえ残りの一五鞭の分は罰金として納入するようにと、桃井村端で御徒目付,牢屋奉行の石出帯刀(いしでたてわき)、見廻与力(みまわりよりき)・検使与力・御徒目付・小人(こびと)目付
通史編3(近世2) (切支丹類族)

この時、徒目付・足軽目付が検使となり、町年寄・町名主・月行事が立ち会い、死体は古箱に入れ、蓋を釘付にし,死体は、町名主・五人組・子供が付き添って月峰院まで運び、目付が見届けたうえで町奉行の手で塩詰めにした。
通史編2(近世1) (越後高田領検地の実施)

三月二十八日には、江戸から派遣される役人として、惣奉行一人、元締め二人、検地奉行二人、目付一人などの人数,図90.越後高田領検地拝命を伝える書状の写し 目録を見る 精細画像で見る  二十四日には幕府目付高木守勝,岩田又五郎 目付 7 賄方 長尾戸左衛門 馬廻組士 8 〃 杉山田金助 (不明) 9 医者,矢野道節 表医者 10 歩行目付 津島武右衛門 歩行目付 11 足軽目付 黒滝太郎右衛門 足軽目付,「竿目付」「勘定人」省略した。○印は高田検地につき,新規召し抱えられた者。
通史編2(近世1) (僧侶・神官対象の司法制度)

○申し渡し人と申し渡し場所――①の場合では申し渡しは徒目付が担当したことが多く、申し渡し場所については,これに対し俗人は、正犯・従犯にかかわらず徒目付が取上の御仕置場や町端・村端で、あるいは評定所で申し渡すなどであった
通史編2(近世1) (領内海防と台場の構築)

1 旗差之者 8 旗3本 長柄奉行 1 長柄之者 35 うち6人警固 検 使 1 目付役,筆談之者 1 物 書 1 絵図師 1 医 師 2 馬 医 1 忍之者 5 徒目付,1 横目付 1 小荷駄取扱役 1 算 者 2 普請方 2 雑 卒 346 小,この台場設置は、先に松前に出張し、その後領内沿岸を巡視した幕府大目付中川忠英(なかがわただてる)の示唆
通史編3(近世2) (門の構造と屋根の材料)

「国日記」嘉永二年(一八四九)十一月二十四日条にある御目付触(おめつけふれ)に「(上略)為手入高百石ニ,この御目付触は、屋根を修理するため、役高一〇〇石につき柾五〇〇〇枚ほど借りることを藩が承認したものである
通史編3(近世2) (藩主の位牌を盗む)

位牌の中でも初代藩主のそれを盗むことは、僧侶にあるまじき行為として厳罰に処せられるべく、牢屋前で御徒目付
資料編1(考古編) (59.前田野目層Ⅳ)(まえだのめそう))

模式地は、五所川原市前田野目付近。模式地のほかに同市東方丘陵地及び浪岡町北西部の丘陵地に分布する。
通史編3(近世2) (相対死(心中))

両者は入牢(じゅろう)となって取り調べを受け、その後牢屋前で御徒目付(おかちめつけ)より、町中引き廻し・
通史編3(近世2) ((三)住居)

の突きあたりは屯(たむろ)所といわれる休息所があり、御玄関を入って右の方には二階のある御徒(おかち)目付,したところで、西から東へ上段・御用所上ノ間(家老〈大名の重臣で家務を統轄する者〉が詰める)、二ノ間(用人・大目付,…用人は家老の補佐役、大目付は監察を任務とし法規典礼を掌る)・三ノ間(三奉行…寺社奉行・町奉行・郡奉行
通史編2(近世1) (相馬大作事件)

なくして轅を用いたのは不束(ふつつか)であるとして信順は逼塞(ひっそく)を命ぜられ、これをとがめなかった大目付,・目付・小人目付らは、お目見(めみ)え差し控えや押し込めに処せられた。  
資料編1(考古編) (39.鶴ヶ坂層Ⅲ)(つるがさかそう))

新城川流域及び大釈迦・前田野目付近に広く分布する。
通史編2(近世1) (大問屋制の導入)

荷物は関所の役人が確認した後、扱いの問屋が「出入目録」を作り勤番目付へ提出し、勤番目付が印を押して大問屋
通史編3(近世2) (道路の整備)

して出された触は、道路の清掃と下水の手入れを前々から命じていたが、徹底されず、往来の者が難渋している、目付,(大目付の指揮を受ける監察の官)を派遣し見回るから道路の整備をしっかり行うように、というものである(「
通史編3(近世2) (生活の困窮)

天明三年十一月の大目付触(おおめつけふれ)に、藩士がこの春に冬用の衣類を質入れしたが、まだそれを取り出,天明六年の御目付からの触は、藩士が質保管の期限が来ても取り出しに来ない。,ただし、藩士の勤務にかかわる品物は、質屋に届け出て手続きをすれば流れないように取り扱うという御目付触が
通史編2(近世1) (一 青森開港と初期海運)

津軽領内の物資交易のため、従来の十三湊のほか近世初期に青森・鰺ヶ沢・深浦等の湊も成立させ、各々に町奉行や沖目付
通史編3(近世2) (鳥羽・伏見の戦い)

一月二日朝、「討薩表」を携えた幕府大目付滝川具挙(たきがわともたか)が先鋒となって北上した幕府軍は、伏見
通史編3(近世2) (学びの光景)

無礼・争論があれば学校目付に申し出ること。申し出ないで口論に及べば退学。,一、病気の者が出た場合は慇懃(いんぎん)にし、医薬等学校目付に申し出て、看護するように。
通史編3(近世2) (出発)

玄関より出る時は、玄関下座敷西の方に家老、同東の方に城代、その後に用人が控え、さらに白砂東の方に大目付,松森町(まつもりまち)から富田町(とみたまち)に入ると、橋のそばに町奉行や町目付が出ており、ここまで先払,そうじぶぎょう)・使番(つかいばん)・下役人(したやくにん)・作事受払役(さくじうけはらいやく)・徒目付
通史編2(近世1) (弘前藩庁日記の開始)

国日記」一日分の記事内容は、初期のころを除いて、まずその月初めには、その月の月番である家老・用人・大目付,それから日々の記事は、まず、月日と天候が記されたあと、その日の家老・用人・大目付の登城の有無、次に祭祀
通史編2(近世1) (東蝦夷地直轄下の勤番体制)

東蝦夷地直轄下の勤番体制 寛政十年(一七九八)三月、幕府は目付渡辺久蔵以下、一八〇余人に及ぶ大規模な,危機感を持ち、翌十一年、書院番頭(しょいんばんがしら)松平忠明・勘定奉行石川忠房(いしかわただふさ)・目付羽太正養
通史編3(近世2) (武士に不相応な行為と食料奪取)

平生不覚悟、侍の仕方これ無きにつき」ということで、弘前城内三の丸にある評定所(ひょうじょうしょ)で大目付
通史編4(近・現代1) (最初の県会)

山田登は旧藩の勘定奉行、用人として功があり、山崎清良も旧藩大目付で戊辰の役で活躍、藩を勤王とした功があるが
通史編2(近世1) (寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)

それでも手に余るようなら、盛岡藩が八戸藩とともに加勢を命じられるという認識を示しているのである(「八戸藩御目付所日記,  小知行 31   寄騎 10 32 ここまでの上下人数 255 目付,1 4   使番 1 6   徒目付 1 2   小知行目付
通史編3(近世2) (拡大する風儀・治安の乱れ)

安政六年(一八五九)六月の目付触では、近年盆踊りの時に手踊りを企画する家中召使の者がおり、彼らは一般の,こった九ヵ月前の二月には、夜に提灯をつけずに往来を通らないこと、手拭いなどで顔を覆うことがないようにとの目付触
通史編2(近世1) (海防報告書にみる天保期の海防体制)

現東津軽郡今別町)・蟹田・青森・野内(現青森市野内)といった領内の主要地には、町奉行が「浦奉行」という名目で、湊目付,・平士・横目付・足軽を指揮して、非常時に港湾警備の指揮を執る体制が採られていた。,表53 黒石藩平内領海防人数とその配置(天保14年3月調べ) 代官 目付役 諸士 浦役人 小頭 小役人
通史編2(近世1) (樋口善兵衛の報告書)

津軽領内で、凶作が本格的に意識されるようになるのは、八月七日、武田源左衛門(本締役〈出納総括責任者〉兼大目付
通史編3(近世2) (能楽)

二日には城内各所に徒目付・足軽目付・足軽を配置し、足軽の中から特に火消番を命じて警備に当たらせた。
通史編2(近世1) (窮民対策)

十月十日、弘前・青森・鰺ヶ沢・十三に小屋を設置して窮民を収容し、在では一組ごとに目付を置いて御救を実施
通史編3(近世2) (民衆の動揺)

藩は目付触で病院や出陣先に私的な使いや手紙・品物を送ることを厳禁し、家中(藩士)はもちろん、在・町に至
通史編3(近世2) (宗教と交通統制の低下)

ところが風体(ふうてい)がいかにも怪しげだったため住民より井戸に毒を流したと騒がれ、町目付に捕縛(ほばく,あるごとに旅人規制を発し、怪しげな者の出入りを阻止しようとしたが、蝦夷地警備に人材を奪われ、町方や関所・湊目付
通史編2(近世1) (情報収集活動)

さらに、足軽目付・小知行組頭のうち、一月に二、三度、二人ずつ松前に派遣するように、また青森・鰺ヶ沢の両浜
通史編2(近世1) (津軽信英による後見政治と法令の整備)

両名は信義時代からの家老で、明暦三年八月五日付で幕府大目付北条氏長宛てに信政家督相続に際しての家老起請文
通史編2(近世1) (土着策実施への布石(Ⅱ期))

土着策実施への布石(Ⅱ期) 寛政二年(一七九〇)十月一日、土着策について再び大目付より法令が出された
通史編2(近世1) (蝦夷地への人口流出)

町方は町名主、在方は庄屋が発行する印形(いんぎょう)を湊口の問屋を経由して湊目付に提出し、改めを受けた
通史編3(近世2) (館神)

        八幡宮  御城内鎮守       御相殿(アイドノ)         稲荷宮 となっており、目付三上定右衛門
通史編2(近世1) (賃銭・物価の統制)

寛政元年(一七八九)の目付触れによれば、他国産の品は一割、国産の品は二割引き下げ、さらに「諸色直段帳」
通史編2(近世1) (厄介視される預手形)

目付から出された触れは、正金銭との引き替えについては追って指令することとしている。
通史編3(近世2) (紺屋町末紙漉所)

元締兼大目付武田源左衛門(たけだげんざえもん)らによる藩の行財政改革の対象になったことを物語っている。
通史編2(近世1) (綱紀粛正・倹約奨励)

(同前No.九〇二)、同年十二月十八日には主として家中の質素倹約・貸借の在り方・諸上納方についての大目付触
通史編2(近世1) (異国船打払令の発令と津軽弘前藩)

また、触書の趣旨の周知徹底については、三厩派遣の兵員・浦々の町奉行・湊目付にその心得方を申し渡すよう、
通史編2(近世1) (林政の展開と漆木の栽培)

さらに漆掻きが行われるときには、漆奉行の他に足軽目付や足軽組頭から命じられた漆掻き立ち会い目付が領内を,漆掻き立ち会い目付の任命の場合にも徐々にこの傾向がみられるようになっていく。
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