• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 35件
辞書ファセット
/ 1ページ
通史編4(近・現代1) (最初の県会)

最初の県会 名望人の文字は、青森県政の場合、明治八年(一八七五)十二月に「青森県会規則」を制定した際,、その第一条に、県会は現在の正副区長、戸長、学区取締及び名望人を召集して議事を為すとあり、塩谷良翰参事,は翌九年二月二十五日の県会の開会式で「将来施行ノ方法ヲ議セントス 今各員ノ如キ平素部民ノ信頼ヲ受ケ新シク,『青森県人名大事典』の山崎の経歴には明治九年県会議員とある。,しかし、閉会式時の県会議員九三人の名簿に山崎の名は見当たらない。 / 最初の県会
通史編4(近・現代1) (第一回通常県会)

第一回通常県会 三新法(府県会規則ほか)に基づき、明治十二年三月五日通常県会が開かれた。,写真66 第1回県会記念写真(明治12年)  第一回通常県会は、明治十二年(一八七九)三月二十五日閉会,となったが、同年三月三十一日発売の東奥義塾開文社の『開文雑誌』第一号に今宗蔵の筆と言われる論説「県会傍聴余論,我青森県会議ハ既ニ本月五日ヲ以テ開会ノ式ヲ行ハレ、県会ヨリ下附セラルル地方政治ノ緊要事務ナル五号ノ議案,したがって、初期の県会議員も多くは保守系の者たちが選ばれ、民権運動に活躍した者たちが県会に顔を出すのは / 第一回通常県会
通史編4(近・現代1) (弘前の紛紜の始まり)

それは十一月の臨時県会の言動のはしばしににじみ出ていた。  ,しかし、本多の県会での発言は、弘前出身の保守派のみならず、多数の県会議員に反対される要素を持っていた。,際、本多は県会が徴税方法の細目まで決めてしまうのは町村会の領域を侵すことになると反対した。,事態が起き、さらに翌十五日県会議長大道寺繁禎も県会議員を辞職し、本多に「到底団結に従事し難いゆえ、発起人,県会で本多を押さえたのは、自由民権運動を県下に推進するときに同志になった七戸の山田改一だった。
通史編4(近・現代1) (保守派との合同団結)

保守派との合同団結 明治十四年十月二日、本多庸一は野呂源太辞任による中津軽郡県会議員に当選した。,まず、保守派の代表で県会議長だった大道寺繁禎に合同団結を申し入れた。,集まった顔ぶれは、県会議長大道寺繁禎、郡長は東郡館山漸之進、中郡笹森儀助、北郡工藤行幹(ゆきもと)、下北郡一町田大江,、西郡蒲田昌清、県会議員赤石行三、同本多庸一、共同会員菊池九郎、同石岡周右衛門、県属菊池元衛、同伊藤珍英
通史編4(近・現代1) (弘前市経済改善への提言)

医学校ハ、明治九年県会ニ於テ当弘前ニ設立ノ義決議ニ及、既ニ開校ノ処、何等ノ訳ナルヤ一昨十一年冬右校青森,具体的な提案としては、小学校維持法はこれまで連合会議に付され、経費の支出が求められていたが、これを県会,次に提言は、営業税の卸売商と小売商の税額について不満を述べ、また、それを決定する県会議員の選挙方法を改正,また、県会の議員選挙についての規定は、明治十一年(一八七八)制定の府県会規則により定められているもので,県会ニテ決議ノ経費金各郡ニ賦課シ、各郡割当リノ金額ヲ、更ニ各郡聯合会適宜ノ乗率ヲ定メ、之ヲ各町村ニ賦課
通史編4(近・現代1) (道路改修問題と佐和知事)

道路改修問題と佐和知事 明治二十四年八月二十一日、府県制実施後の第一回県会議員選挙が行われた。,      一九票  佐田正之丞(弘前・自由)   次点  一二票  藤岡知言(弘前・自由)  この時の県会,明治二十四年の第一回臨時県会は、三〇議席のうち三分の二が自由党系で、積極的な佐和知事の県政に協力した。
通史編5(近・現代2) (県債五〇〇万円の成立)

政界においては、昭和六年(一九三一)十一月二十五日が県会議員選挙にあたり、二十七日に県会が召集されたが,金融機関救済のため、同年十二月三日付けで、政府に次のような二〇〇〇万円融資の意見書を提出し、守屋知事を始め県会議員全員,右府県制第四十四条に依り意見書を呈す    昭和六年十二月三日                    県会議長,商工業者連合協議 弘前 昭7 1.19 県債千五百万円の許可促進運動を開始す 銀行代表者、知事と協力し、県会委員
通史編4(近・現代1) (弘城政社の衰退)

選挙には、急遽県会議長の弘城政社幹事石郷岡文吉が立候補し、弘前出身の中立派の万朝報記者齋藤久三郎にわずか,のうち、国民党は石郷岡文吉、小山内鉄弥、市田兵七、竹内清明の四人、政友会は大坂金助、阿部政太郎の二人で、県会
通史編4(近・現代1) (東奥共同会の設立)

東奥共同会の設立 明治十五年(一八八二)十一月、青森県会議員で東奥義塾塾長の本多庸一は旧藩主の津軽家,#160;6 東奥義塾生工藤覚蔵、国会開設を建言    9 (1876)  2 最初の県会,)  9 町村戸長公選法布達   12 (1879)  3 公選議員による第1回県会開催,1881) 10 山田県令 弘前地方の保守・革新両派に団結を促す 11 笹森中津軽郡長辞職、大道寺県会議長県議辞職
通史編4(近・現代1) (県立弘前医学校(県立青森医学校))

県立弘前医学校(県立青森医学校) 明治九年(一八七六)二月二十五日、青森県参事塩谷良翰は、県会での医学生教育,弘前医学校設置のとき弘前は、県会議員たちの充分な諒解をとらず、塩谷参事と馴れ合いで決定したことが尾を引
通史編4(近・現代1) (遊説の影響)

明治十九年二月北津軽郡から県会議員に当選した。,そして、明治二十一年十二月の通常県会で警察機密費削減問題の際、「本県警察官の器・量・」を考えると、三分,村谷の逮捕で県会運営に問題が生じ、村谷側一六人、県側一六人となった。
通史編5(近・現代2) (県の対応)

県の対応 この極度に窮迫した状況に対し、県当局、県会は声を大にして救済を叫ぶが、その実態は凶作救済に
通史編4(近・現代1) (地主制の確立と在村地主の役割)

四代目、実業家、貴族院議員)、宮本甚兵衛(弘前市、実業家、貴族院議員)、岩谷吉太郎(藤代村、第三代村長、県会議員,船沢村、中津軽郡議会議長)、高杉金作(高杉村、衆議院議員、弘前商業会議所会頭)、笹森栄(和徳村、村長、県会議員,)、松木純一郎(千年村、村長、県会議員、酒造業)、宮川久一郎(弘前市松森町、二代目、貴族院議員、弘前商業会議所会頭,はこの時期の農村不況に際し、在村地主に農業振興の指導的役割を期待し、本県農事の改良と農村の振興を目的に県会議事堂
通史編4(近・現代1) (工業学校の創設と東奥義塾の廃校)

事態を憂慮した弘前商業会議所会頭の宮川久一郎は、「県会議員各位に告す」と題して、工業学校の弘前設置に関,これに対して青森市および県当局から反論があったが、再び県会に意見書を出して再考を促した。  
通史編4(近・現代1) (知事辞職勧告)

許可ヲ与サル件タルノミナラス、同胞ノ事業ヲ妨害スルノ一事ニ属セリ、尤甚シキハ特別起工中止ノ件ニシテ、県会
通史編4(近・現代1) (弘前高等女学校の開校)

弘前市は市勢振興の一環として、早くから高等女学校設置に名乗りを上げていたが、県は臨時県会で、本県初の県立高等女学校,偉方が綺羅星のごとく参列していることであり、ほかに、判事、検事、両院議員、視学官、市長、師範学校長、県会議員
通史編4(近・現代1) (青森県立弘前女子師範学校)

しかし、県会議員の中には女子師範学校廃止を唱える者が多く、女子師範学校への入学志望者の減少、入学したものの
通史編4(近・現代1) (県内遊説)

き、これまでの日本人の卑屈さを慨(なげ)き、明治元年の五箇条の御誓文、同八年の立憲の詔、同十二年の府県会開設,西・北両郡は田中耕一、遊説人としては最年長の三十二歳、明治十六年から十九年まで北郡選出の県会議員、さらに
通史編4(近・現代1) (中弘政社の誕生)

しかし、翌二十八年八月、県会の半数改選において弘前市の立憲革新党(革新自由党が改名)は分裂、芹川得一、
通史編4(近・現代1) (郡区町村編制法への移行)

郡からは県会議員三人が選挙された。
通史編5(近・現代2) (昭和恐慌の勃発と商工業)

に於ては一片の空文的対策たるに過ぎざるを信ずるものなり  是れ県下商工団は猛然蹶起して、地方長官、県会並,て政府当局に向って至急救済的精神に立脚せる、徹底的低利資金貸付方法の断行を要望すべく、県選出代議士、県会委員
通史編1(古代・中世) (東北地方の古墳時代)

古填時代前期には、東北地方南部では四世紀に属する福島県会津大塚山(あいづおおつかやま)古墳や宮城県遠見塚
通史編4(近・現代1) (後藤象二郎の青森県遊説)

工藤善太郎は翌年県会議員となり、のち衆議院議員となり、憲政会・民政党の県下の指導者となり、西村も村会議員
通史編3(近世2) (第二次藩政改革)

M5.7県権典事 M10年後各地郡長歴任 大道寺繁禎(200俵) M4.9免官 郡長歴任後M12年県会議員,等出仕 M8.10第五大区長 楠美和民(80俵) M6.9県権少属 赤石礼次郎(80俵) M13年県会議員,M6.4開拓使権中主典 長尾又右衛門(30俵) M4年旧藩財務調方 長谷川良八(30俵) M13年県会議員
通史編4(近・現代1) (地方の政争激化)

特に明治三十二年府県制が改正され、村会、郡会、県会の議員選挙は直接選挙となったため、抗争は激しくなった
通史編4(近・現代1) (弘前市政の乱れ)

これに対して、佐田助役(彼は四十一年五月から四十四年九月まで県会議員で、当時議長でもあった。
通史編4(近・現代1) (不平の源流)

ナラン」と自分らが青森県の近代的発展阻害の震源なのに正義者を自称し、しかも「官権ニハ正義之ニ多ク居ルモ県会
通史編4(近・現代1) (菊池武徳と中央政治)

前年十二月まで弘前士族で国士肌の笹森儀助が市長であり、その後任の芹川得一も弘前士族で東奥義塾の先輩、有力な県会議員
通史編4(近・現代1) (弘前の紛紜の裏面)

自由民権派はこの紛紜事件で保守派の大反撃を受けたが、しかし、明治十五年十月の県会半数改選の選挙で、中津軽郡
資料編1(考古編) (1.古墳時代の概観)

東北地方においては、古墳時代前期(4世紀)に属する福島県会津大塚山古墳や宮城県遠見塚古墳をはじめとして
通史編5(近・現代2) (翼賛選挙)

県会も十七年三月十日「大東亜戦争完遂の決意を新たにし、翼賛議会の確立に最適の人材を選び、選挙の倫理化を
通史編4(近・現代1) (青森県立弘前中学校の変遷)

この際、青森か黒石に設置してはどうかという移転話も再燃したが、十一月の臨時県会で弘前市新寺町の慈雲院の
通史編4(近・現代1) (戸籍法と戸籍区)

最初の区会が開かれる   11 (1878)  7 三新法発布 ・郡区町村編制法 ・府県会規則
通史編3(近世2) (弘前の民衆)

を唱える弘前の士族に対して明治七年(一八七四)四月には集会争論の禁止が告諭され、同九年に青森で最初の県会
通史編2(近世1) (初代為信の動向)

慶長六年四月段階で三人全員が在京しており、この年八月二十四日に上杉景勝が会津若松(あいづわかまつ)(現福島県会津若松市
/ 1ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました