• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 73件
辞書ファセット
/ 2ページ
通史編4(近・現代1) (就学励行)

三十二年県知事牧朴真は県内小学校長に内訓を発して、就学督促を厳重にするよう命令した。  ,このような未就学児童の父兄や雇傭先の主人を説いて就学を督促するのは、校長や教員の仕事の一つであった。,)、県視学、郡視学と、その官僚組織を強化して、全国の教育画一化の促進や文部官僚による監督指導が、末端の,小学校にまで及ぶ措置をとったが、これら視学官や視学が最も力を注いだのは、就学奨励とそれによる就学率の向上,県視学や郡視学を月に二回も学校を巡視させ、就学状態を調査させては現場の校長を督励し、視学に尻をたたかれ / 就学励行
通史編3(近世2) (蘭学堂)

蘭学堂 次いで安政六年(一八五九)二月二十八日、学問所に蘭学堂付設の触れが出され、家中の子弟、在・町,の医師の子弟のうち医学・西洋学に志ある者の入学を督励している。,し、蘭学を修めた。,蘭学堂への抜擢がその理由であろう。,元俊は蘭学のみならず、英学、西洋医学をもって後進を指導し、種痘の普及にも努めた。 / 蘭学堂
通史編3(近世2) (学官の職掌)

「典成」(小司)は国師を補佐して、学校法規を励行せしめ、学官を指揮監督し、学校運営に当たるのがその職掌,「二教」(添学頭)は学士を補佐して、学生の教導に当たる助教授職である。,「司糾」(学校目付)は学生の心身面や生活面を訓導し、学規の励行を督励し、違反者を糾弾補導するのがその任,.二八五を参照)、兵学学頭五人、紀伝学頭二人、天文暦学頭一人、法律学頭一人、数学頭一人、書学頭一人、馬廻番頭一人,、学校目付四人、経学添学頭五人、兵学九人添学頭、紀伝添学頭一人、天文暦学添学頭一人、学校物書頭一人等々 / 学官の職掌
通史編5(近・現代2) (時敏小学校焼失)

時敏小学校焼失 五年六月十五日午後三時、時敏尋常高等小学校から出火、同校を全焼して同三時半鎮火した。,尋常科第一・二学年-和徳小学校、第三・四学年-朝陽小学校、第五・六学年-城西小学校。,高等科・実科女学校生徒-旧公会堂。,市当局は二部授業により学力の落ちることを心配してこれが解消に努め、仙台税務監督局に旧歩兵第三一連隊兵舎,写真52 時敏尋常高等小学校校舎(昭和6年7月落成) / 時敏小学校焼失
通史編4(近・現代1) (東奥義塾開学)

東奥義塾開学 明治五年十一月、東奥義塾が開学した。,その直接の前身は、旧弘前藩学校を引き継いで、明治五年五月に設立された弘前漢英学校である。,このとき、旧藩学を継承した各府県の学校はおおむね存続の危機に直面したが、実際には名称を変えるなどして近代学校,承昭は五〇〇〇円の開学資金及び「奨学の書」を学校に寄せるなど、物心両面から同校を支えた。,通じた学者として藩校稽古館の教育に当たっており、明治三年には現在の学校長に当たる稽古館督学となった人物 / 東奥義塾開学
通史編3(近世2) (稽古館の儒学者たち)

当時古学派が隆盛であった稽古館の学風を朱子学に改革せんことを家老大道寺隼人に進言した。  ,葛西善太も山崎蘭洲の門人で、江戸に上って昌平坂学問所に学び、帰藩後学校小司となり、藩校の学風を古学から,、あるいは佐藤一斎に学び、帰藩後はそれぞれ学校の要職について教学に力を尽くした。,寧親はその才を愛し、賞を与えて学業を奨励し、成言は昌平黌に入学し、古賀侗庵(どうあん)、佐藤一斎に学んだ,には督学(惣司)になり、稽古館廃校までの多難な時期を最高責任者として重職を全うした。 / 稽古館の儒学者たち
通史編4(近・現代1) (授業料)

授業料 白銀・和徳・亀甲小学とも明治七年の開校当初は授業料六銭六厘(当時、米一升は五銭)であったが、,極貧ノ者ハ戸長ヨリ見聞ノ実証ヲ以テ不納ヲ許スモノトス、一家ニ二人ノ子弟ヲ学校ニ入ルルハ一人半分、三人以上,当時の就学の不振と学校への不満は、授業料の徴収が原因であった。,文部省、地方官による厳しい就学督促や学事督促も学校への不平不満をかき立てたが、授業料は直接家計に響くだけに,その後授業料が値上げされるたびに退学者が増加するが、これは政府の教育行政に対する民衆の、無言の抗議と見
通史編3(近世2) ((一)東北諸藩と弘前藩)

(一)東北諸藩と弘前藩 新政府は二月九日、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を東征総督に、,沢為量(さわためかず)を奥羽鎮撫総督とした。,総督にはそれぞれ副総督と参謀が従い、総督府を構成していた。,)に、公卿である沢為量と醍醐忠敬(だいごただゆき)をそれぞれ副総督・参謀に決定した。,しており、世良は、高杉晋作(たかすぎしんさく)率いる奇兵隊(きへいたい)に参加し、長州藩の海軍局で洋学を
通史編4(近・現代1) (協力機関一覧(五十音順))

青森市) 青森銀行記念館(弘前市) 青森県 青森県議会図書室 青森県史編さん室 青森県近代文学館,青森県立図書館 鬼沢ねぷた同好会(弘前市) 学校法人柴田学園(弘前市) 学校法人東奥義塾(弘前市,) 学校法人弘前学院(弘前市) 株式会社まつもと(埼玉県春日部市) 弘南鉄道株式会社(南津軽郡平賀町,財団法人弘前市体育協会 貞昌寺(弘前市) 独立行政法人国立公文書館(東京都千代田区) 日本基督教団弘前教会,弘前市) 弘前市教育委員会 弘前商工会議所(弘前市) 弘前昇天教会(弘前市) 弘前市内各県立高等学校
通史編4(近・現代1) (東洋宣教会ホーリネス教会)

四十年四月には万国基督教青年大会が開かれ、救世軍のブース大将も来日した。,四月十二日夜、青山学院で本多の追悼会が行われたが、中田の追憶の辞は、中田が最初に渡米するとき、オーバー,カウマンは会の総理、中田は一般伝道部長、笹尾鉄三郎が聖書学院長だった。,そして、大正六年新年号から『焔の舌』が『聖潔の友』と改題され、十月二十五日から東洋宣教大会が聖書学院で,中田はホーリネス教会の監督となった。弘前にもホーリネス教会ができた。
通史編4(近・現代1) (校名改称と一校新設)

校名改称と一校新設 明治七年三月、学校番号について左のような通達があった。,学校名称之番号可取除(とりのぞくべき)旨、督学局ヨリ御達ニ付(つき)、以来取除候条此段相達候事    ,の名称は取り除いて、学校所在地を校名とするよう改められた。,の元西館宇膳の家屋に移っていたため、校名を「白銀小学」と改称、二番小学は和徳町六番地にあったので「和徳小学,これが現在の弘前市立時敏小学校の前身である。 写真53 亀甲小学校舎絵図 (明治7年)
通史編3(近世2) (桐山正哲)

桐山正哲 津軽弘前藩の蘭学は桐山正哲に始まる。,四代正哲は明和七年(一七七〇)に家督(高一五〇石六人扶持)を相続し、表医となった。,天明八年(一七八八)江戸詰の近習医となり、寛政九年江戸藩邸に弘道館が創設されると医学教官となり、文化二年,当時有名な蘭学者八〇人ほどを相撲の番付に見立てた「洋学者相撲見立番付」(寛政十年〈一七九八〉)には、「,東方の年寄」に前野良沢、「西方の年寄」に杉田玄白の名があり、正哲は「東方の行司」に名が挙がっており、蘭学者
通史編4(近・現代1) (大正期の弘中)

それと中等学校への進学者が激増したことである。,ちなみに、十年三月、この年に創立された官立弘前高等学校の入学試験が実施され、弘中も試験場となった。,十四年四月には、生徒数は各学年二〇〇人、全五学年で一〇〇〇人となった。,写真185 弘前中学校講演部 (大正15年)  大正後期はまた、文部省督学官、視学委員、県視学,大戦後の中等学校のめざましい増設に伴い、文部省が指導監督を強化したためである。  
通史編3(近世2) (藩論の紛糾)

これによって、沢副総督一行の弘前藩への入領を実際的に不可能にしたのである。  ,当然、総督軍も秋田藩も弘前藩の動向について不信の念を抱くことになる。,「公私留記」明治元年五月条 弘前大学附属図書館蔵)。,こうした弘前藩の釈明を沢副総督も一応聞き入れることを認めたのであったが、二十七日には沢副総督からの使者,(資料近世2No.五三二)、同藩の藩論がいまだ統一をみないことを懸念した総督府付参謀の判断により、九条道孝総督
通史編5(近・現代2) (協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))

東奥日報社メディア本部調査部 (青森市) 青森県立郷土館                    日本基督教団弘前教会, (弘前市)             弘前商工会議所 (弘前市) 学校法人城東学園 (弘前市)             ,弘前市立郷土文学館 学校法人東奥義塾 (弘前市)             弘前市立博物館 学校法人弘前学院, (弘前市)             弘前市立堀越公民館 学校法人弘前東高等学校 (弘前市)          ,弘前大学 工学院大学図書館 (東京都新宿区)          北門書道会 (弘前市) 弘南鉄道株式会社
通史編4(近・現代1) (弘前市青年団分団の結成)

弘前市青年団分団の結成 四年(一九一五)九月、政府は内務・文部両省の共同訓令を発し、全国の地方自治体を督励,ごとに青年団の分団を作ることになり、分団長には小学校長が任命された。,学区内の勤労青少年たちは早速入団を勧誘された。,市内各学区ごとに設立をみた市青年団分団は学区の小学校長を分団長とし、その小学校の施設を利用して活動を始,平常の事業としては運動部と弁論部を置き、小学校の教員や学区内の有志が指導に当たった。
通史編4(近・現代1) (青年訓練所の設置)

青年訓練所の設置 大正十五年(一九二六)四月、政府は青年訓練所令を公布したが、県は市町村を督励して青年訓練所,青年訓練所も青年団分団と同じように市内の各小学校に併設の形で開所され、小学校長は青年訓練所の主事を命ぜられた,教科は軍事訓練のほか修身公民科、普通学科、職業科を課し、対象となる生徒は小学校卒業者、高等小学校卒業者,主事に任ぜられた校長は、その運営を委任されたほか修身公民科を担当し、他の学科はその学校の教員が担当した,青年訓練所はやがて、青年学校へと発展して行く。
通史編3(近世2) (政争の激化と第三次改革)

らはやがて同調者を集め、藩首脳の失政を挙げ連ね、明治三年(一八七〇)四月には弘前に民情視察に来ていた民部省監督権正岩男俊貞,かれ、下部機関として監正・会計・営繕・租税・通商・庁訟・山林・記録・輜重(しちょう)・督学などがそれぞれ,兵学助教 兵学副助教 生兵学教授 生兵学助教 学 校 少参事 権少参事 大 属 権大属,少 属 権少属 史 生 校掌 督 学 教 授 助 教 副助教,小学教授 小学助教 (注) 資料近世2No.五八三より作成。  
通史編4(近・現代1) (伝道の日々)

かつて学んだムーディの方式をまねたのである。,そのときの写真を見ると、「日本福音伝道隊 福音を信ぜよ」という長い垂幕と、「基督(キリスト)教福音伝道会,に似た学生服・学帽で立っている。,基督教青年会同盟委員長の本多庸一は、福音同盟会の小崎弘道とともに従軍布教師または軍隊慰問師を派遣することについて,募集は寄宿生一〇〇人で寄宿費月六円、修学年限二年、夫婦でも清韓人でもよく、入学期はなかった。
通史編4(近・現代1) (教育とキリスト教の問題)

教育とキリスト教の問題 明治二十六年(一八九三)、弘前女学校は学校の充実を図るため規則を改正して認可,「女子ノ徳性ヲ発達セシメン為付加科トシテ基督教ノ聖教ヲ授ク」という一項がそれであり、規則改正に当たって,弘前女学校は、キリスト教主義を学校教育の方針としたが、そのため政府文部省の教育宗教分離の方針とに軋轢(,あつれき)が生じ、学校経営にさまざまな困難を感じたことも事実であった。,の妨害となって、学校の経営を困難にさせた原因ともなったが、同時にその宗教が背景となって、弘前女学校の輝
通史編4(近・現代1) (養生幼稚園の創設)

設立者伊東重は医学士で、弘前市長や衆議院議員を務めたが、以前から養生哲学を提唱し、養生会を設置して独得,将来強壮な身体と高尚なる人格を造るを目的とする」とあり、第三条に「本園に医師若干名を置き幼児の健康状態を監督せしむ,同園の定員は六〇人、満三年以上学齢に達するまでの幼児を保育し、保育料は毎月三〇銭である。
通史編5(近・現代2) (キリスト教の復興)

キリスト教の復興 敗戦によって諸教会の合同を強制した宗教団体法は廃止され、諸教会の日本基督(キリスト,東奥義塾も再びキリスト教主義の旗印を掲げ、弘前学院(昭和二十五年弘前女学校を改称)も日本の地に帰ってきた
資料編1(考古編) (「新編 弘前市史」編纂事業関係者名簿(平成6年4月1日現在辞令交付分))

 小野正文  元青森中央短期大学学長  千葉寿雄  弘前市教育委員  村越潔   弘前大学教育学部教授, 長谷川成一 弘前大学人文学部教授 【編集委員会】 ○監修者  乕尾俊哉  弘前大学名誉教授, 千葉寿雄  弘前市教育委員  村越潔   弘前大学教育学部教授  長谷川成一 弘前大学人文学部教授,さん担当総括主査  坂本寿夫  県立五所川原高校教諭 ○執筆・調査協力員  小島康敬  国際基督教大学準教授, 成田敏   県立郷土館主任学芸主査  高島成侑  八戸工業大学教授  須藤弘敏  弘前大学人文学部助教授
通史編3(近世2) (野辺地戦争の動機)

野辺地戦争の動機 盛岡藩攻撃を命じられてから、弘前藩は佐賀藩出身の総督府参謀前山精一郎らと軍議を重ねていた,ちなみに、中牟田倉之助は、海軍伝習所で学んだ後、佐賀藩海軍学寮の教官を務めた人物である。  ,逆に、加賀丸は損傷を受け、盛岡藩は馬門口の警備強化を進めたため、弘前藩はその意に反し、総督軍の威を損なう,そのうえ、今回は弘前藩自体の敗戦ではなく、総督府中牟田の失敗であり、弘前藩は、今回の作戦に関して官軍に,さらに、仙台をはじめとする列藩同盟中心藩の降伏を受け、九月二十一日には、秋田藩へ総督府との調停を申し込
資料編3(近世編2) (「新編 弘前市史」編纂事業 関係者名簿(平成十一年四月一日現在辞令交付分))

     長谷川成一 弘前大学人文学部教授    【編集委員会】 監修者    乕尾俊哉  弘前大学名誉教授, 〃     長谷川成一 弘前大学人文学部教授  〃     齊藤利男  弘前大学教育学部教授,弘前学院大学非常勤講師   〃    篠村正雄  元県立大鰐高等学校長   〃    瀧本壽史  ,さん室主幹   〃    坂本壽夫  県立五所川原工業高校教諭 執筆協力員  小島康敬  国際基督教大学教養学部教授,  〃    山上貢   弘前大学国史研究会会員   〃    神田健策  弘前大学農学生命科学部教授
通史編5(近・現代2) (撃剣家・市川宇門)

四十二年、旧制第二高等学校(現東北大学)の剣道師範となる。,大正六年(一九一七)、関東都督府(旧満州)巡査兼外務省巡査を命ぜられ剣道師範となる。,弘前中学校(現弘前高等学校)の剣道師範も務める。,警察や学校の師範を務めるなど、青森県の剣道の振興・発展に尽くした功績は大きい。,剣道史上最大の遺恨試合と称された青森中学と弘前中学の剣道試合を「弘前新聞」は詳細にわたって報告している
通史編4(近・現代1) (細民救済対策事業)

大正三年、中郡の小学校では修学旅行を中止した。,第一尋常高等小学校 高等科 五三名 尋常科 七八名 第二尋常高等小学校 高等科 五二名 尋常科 四一名,朝陽尋常小学校   一九五名 第一大成尋常小学校 一四一名 第二大成尋常小学校 一八三名 和徳尋常小学校,   一六八名 時敏尋常小学校   一一五名 城西尋常小学校   二六〇名      合計  一二七五名,この督促は、経費、日数がかかって効果が上がらないので、市では授業料全廃を考慮中という答弁だった。  
通史編1(自然・原始) (「新編 弘前市史」編纂事業関係者名簿(平成十三年一月一日現在辞令交付分))

・考古学研究所顧問   〃    長谷川成一 弘前大学人文学部教授   〃    黒瀧十二郎 弘前学院大学講師,  〃    工藤大輔 青森市史編さん室嘱託員   〃    千葉一大 青山学院大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程,  〃    坂本壽夫 青森県立郷土館主任研究主査 執筆協力員  小島康敬 国際基督教大学教養学部教授,  〃    高島成侑 八戸工業大学工学部教授   〃    須藤弘敏 弘前大学人文学部教授,  〃    千葉一大 青山学院大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程   〃    向美紀 
通史編5(近・現代2) (出席率向上の努力)

出席率向上の努力 初期中学校において、長欠者と未就学者の問題が大きな悩みであった。,青森県が昭和二十三年二月一日発表の「中学校未就学・長欠生徒数」で見るとおり、県全体で未就学者だけで三二七人,表29 中学校未就学・長期欠席の状況 (23.2.1) (1)未就学・長欠生徒数 (2)未就学・長欠,や、地方教育事務所を通して、長欠者と未就学生徒の登校を督励するよう指示した。,中地方教育事務所管内では、昭和二十七年三月、千年中学校、船沢中学校、相馬村舟打鉱山中学校(舟打鉱山の閉山
通史編4(近・現代1) (東奥義塾の再興なる)

大正八年十一月十七日米メソジスト監督教会監督ヘルバート・ウェルチ外一行は青森県知事道岡秀彦等と面会し「,当時は中等学校への進学希望者が激増し、各小学校では受験のための補習に追われ、ようやくその弊害が問題となりつつあった,諮問によって答申された意見を採り入れ、義塾では、入学の選抜に当たって、小学校長の成績証明書と身体検査及,再興東奥義塾は私立学校令によったが、礼拝への出席はさておき、笹森塾長は市民教育にも意を用い、英語夜学校,このころ、陸軍大臣から在学中の徴兵延期、卒業後の陸軍幹部候補生としての資格が与えられるなど、公立中学校
通史編3(近世2) (醍醐忠敬の弘前転陣)

秋田藩はいち早く勤皇を表明し、奥羽鎮撫総督府を迎え入れたが、盛岡藩は弘前藩と同様に同盟に参加し、藩の行,及醍醐殿御出馬御国表江御転陣之旨申来候、   八月十四日 (弘前八幡宮古文書「公私留記」明治元年八月十四日条 弘前大学附属図書館蔵,)  つまり、十日に九条奥羽鎮撫総督からの招集に応じ、行ってみたところ、盛岡藩が秋田十二所へ侵入・発砲,また十二日には、館山善左衛門が総督府から参謀添役を任じられ、臨時の場合の指揮を任せられたばかりでなく、,醍醐総督府参謀の本陣は最勝院境内に置かれ、また、八幡宮の神楽殿も休息所として使われることに決まった。
通史編5(近・現代2) (銃後後援強化週間の実施)

これを受けて県では各市町村長、各警察署長、公私立各学校長宛に、銃後後援強化週間の実践運動に入る準備を整,しかし銃後後援強化週間のもつ重要性は、学童児童への精神教育の徹底にあった。,通達自体が公私立各学校長宛に出されたことに注目したい。,実施要項には「少国民への強化」と題し、学校現場で運動を徹底することが指示されている。,は市町村の軍人援護の中枢団体として位置づけられ、会の指導・統制は市町村長が行い、県内の全般的指導・監督・
通史編5(近・現代2) (宗教団体法の成立)

弘前の宣教師たちも、教会、東奥義塾、、弘前女学校から帰国する者が目立った。,十六年六月二十四、二十五日の両日にわたって、日本のプロテスタント四十余の教派が解消を遂げて、「日本基督教団,センター所長となり、東奥義塾教師となった滝沢清牧師は、弘前市公会堂で内務省神祇院の神官から、全市内中等学校生徒,また、学校では、古田という軍人上がりの教師が机を叩き、生徒を扇動して排撃運動を起こさせ、馬車を差し向けられて
通史編4(近・現代1) (生い立ち)

重治は伝道者を志し、恩師本多庸一の青山学院に学んだが、明治二十四年の神学部卒業試験に合格できず退校となった,かつ子は弘前女学校で教え、さらに横浜の女子神学校で学び、弘前教会で働いていた。,サンフランシスコではメソジスト教会のハリス監督が温かい手を差し延べ、カリフォルニアの日本人伝道の手助けを,ハリスは内村鑑三、新渡戸稲造ら札幌農学校の生徒に洗礼を授けていた。,しかし、重治は辞退し、労働して資金を稼がねばならぬムーディ聖書学院に入学した。
通史編2(近世1) (野本道玄の招聘)

これらの人材が、領内の農業・林業・工業・鉱業の発展、儒学・兵学などの学問導入に果たした役割は大きい(表,横山嘉右衛門,斉藤長兵衛 茶道 野本道玄,後藤兵司,高杉久伯 絵師 鵜川常雲,今村朴元,新井寒竹ほか 兵学,高森太郎兵衛,道玄に代わり,織物会所監督。,1710 宝永7 56 5代藩主信寿,織物会所訪問督励。
通史編4(近・現代1) (掲載写真・図版の典拠・所蔵一覧)

弘前市蔵 写真59 「中津軽郡公立中学在籍生徒学齢調及東奥義塾学齢生徒名簿」弘前市立図書館蔵 写真60,明冶44年)弘前市立図書館蔵 写真100 「青森県布達綴」弘前市立図書館蔵 写真106 「和徳尋常小学校槇山文部視学官批評概略,』弘前市立図書館蔵 写真111 『弘前学院八十周年記念小誌』学校法人弘前学院 1967年 写真115,128 「青森県弘前市実地明細絵図」弘前市立図書館蔵 写真129 『弘前教会120年のあゆみ』日本基督教団弘前教会,弘前相互銀行 1974年 写真169 『弘南鉄道五十年史』弘南鉄道株式会社 1977年 写真170 日本基督教団弘前教会蔵
通史編4(近・現代1) (城西小野球部全国大会出場)

十四年七月十二日北奥羽予選は弘前市南塘球場で開催され、出場チームは盛岡市城南小学校、青森市莨町小学校、,城西小学校の三チーム。,この城西小学校の勝利は、本市小学校の野球チームが他県チームを破った最初の出来事として、まさに記念すべき,全国大会出場の城西小学校野球部の指導監督は同校訓導成田敏衛。,市内在府町の人、大正五年三月青森県師範学校卒業。
通史編3(近世2) (野本道玄)

母の家に育てられ、洛北鷹峯(たかがみね)に住んで漢学や仏学に通じ、長じて赤穂浅野家に仕えていた一樹庵三世野本道玄,彼は機織、製糸の改良を督励し、上方から「きんこ繭」の種を取り寄せるなど上質蚕糸の生産に努めた。
通史編5(近・現代2) (津軽の精神風土を追究)

さらに、『見知らぬ戦場』で第六回新田次郎文学賞を受賞。それだけではない。,だから、長部日出雄は津軽の文学の集大成者と言える。  ,それを象徴するのが自ら原作・脚本・監督した映画「夢の祭り」(一九八九年公開)の制作である。,これほど津軽の風土、棟方志功や太宰治をはじめとする津軽の文学者を、つまり、小説やエッセイ、そして映画で,その功績は、まことに偉大であり、まさに〈北の文学連峰〉を象徴する作家である、というほかない。
通史編5(近・現代2) (市の衛生対策と生活改善運動)

沿道居住者や建物管理者に道路掃除を督促し、荷牛馬車の使用者には、自発的に糞収容箱をとりつけさせるなど、,そのため東北振興当局と日本学術振興会が中心となって、東北地方の生活改善を督促する運動が高まった。,日本学術振興会は昭和七年、皇室の下賜金を基に設立された財団法人で、総裁は秩父宮だった。,文部省が所管する学術研究奨励機関だったが、同振興会は当時東北の農村問題を重要な研究テーマとしていたのである
通史編5(近・現代2) (連合軍の弘前進駐)

そのため連合軍は青森県に対しても、九月二十五日「青森県知事は県庁に止」つて、歩兵第八一師団司令官の「監督の,すべきものとす」と命令を下している(連合軍の青森進駐に関する詳細な資料は、江藤淳『占領史録(下)』講談社学術文庫
通史編4(近・現代1) (市税の構造)

明治三十二年においては、高等小学校の授業料は手数料の項目にはなく、雑収入に含められている。,各年次 表23 手数料予算 (明治32年) 項 目 金額(円) 道路並木敷手数料 10.0 県税督促手数料,70.3 市税督促手数料 52.6 各区市税督促手数料 57.5 証明及び手数料 24.2 閲覧手数料,3,807.6 幼稚園保育料 400.8 土地使用料 6.2 病院使用料 49,667.0 手 数 料 督促手数料,・実業補習学校・市外から通う生徒が支払う尋常小学校の授業料からなる、小学校授業料の収入である。  
通史編4(近・現代1) (村会情景)

賛成 議長  当議案ノ通リ決定シ置キマス 番外  当時本村ノ経済ハ非常ノ困難デアル 何セト言フニ学校,ハ暑中休暇ト言ヘ夫レガ教員ヨリ八月ノ給料請求セラレ其上ノミナラス学校増築費等ニ要スル工料引渡済ノ上ハ直,ニ支払ハサルベカラス 今日小使ヲ以テ毎日督促セシト雖トモ上納セス 尚ホ夫レガ為メ県税トカ交付金トカ応用
通史編2(近世1) (乳井の略歴)

六代藩主津軽信著(のぶあき)に奉公見習として仕え、手廻五番組に任じられ、翌元文元年(一七三六)に父儀右衛門の家督五,した哲学が語られている。,(『伝類』)  さらには漢学や算数を教え、村に文化をもたらした。,それは朱子学で説くところの道徳の体現者としての聖人とは決定的にかけ離れている。,彼は『志学幼弁』一〇巻をはじめとして、農学・土木学・算学等々の経世致用に関する実学的な著述を多く残している
通史編4(近・現代1) (弘前市財政の整備)

廿二年度市税ノ滞納金参百五十五円参十六銭ニ対シ、督促令状ヲ発シタル数六百参十九件ナリシカ、処分決行ニ係,ノ創業ナルヲ以テ、旧戸長役場ニ於テ賦課シタル仮市費仮町費ノ類ハ市税ヘ差引計算賦課シタルニ依リ、市税ト学区費,ニ異ナラス、徴収ノ実況ハ期限内ニ納ムルモノ国税ハ概子〔ネ〕九歩以上地方税ハ六七歩ノ間ニ上下セリ、市税学区費,ハ督促令状ヲ受クレハ本税外ニ手数料参銭ヲ払フノ責アルヲ以テ、大体期限内ニ納税スルノ感想ヲ有セリ、故ニ市税,弘前市による租税の賦課事務は、徴税令書の発行や収納、督促にとどまるものではなかった。
通史編5(近・現代2) (傷痍軍人の保護)

傷痍軍人の保護を徹底することは、その顕著な対応策であり、戦争への支持を督促する方便でもあった。,昭和十七年(一九四二)一月二十六日、青森県学務部から軍人援護の普及徹底をはかる通達があった。
通史編4(近・現代1) (キリスト教)

キリスト教 弘前はメソジスト派合同の際に初代監督となった本多庸一をはじめ、数々のキリスト者を送り出した,しかし、この学校は、本当にお金がないのです。,「ここに学校教師の助けをかりて外国のミッションをおく方法が、一番いいでしょう。,そうすると教会のためにも学校のためにもなります。,明治十年には東奥義塾だけではなく市内の他の学校にもキリスト教が広がっている。
通史編5(近・現代2) (健民運動と女性問題)

健民運動と女性問題 健民運動に関しては近年顕著な動きを示している女性史学の成果を見逃すわけにはいかない,ところが健民運動の進展とともに、良妻賢母と多産政策は督促されたが、性教育に関する問題は雑誌から閉め出されるようになっていった
通史編5(近・現代2) (教会堂建築)

日本聖公会弘前昇天教会司祭館〔明治三十三年〔一九〇〇〕)、東奥義塾外人教師館(明治三十四年〔一九〇一〕)、弘前学院外人宣教師館,〔明治三十七年〔一九〇四〕登記済)、日本基督(キリスト)教団弘前教会牧師館(明治三十七年〔一九〇四〕)
通史編3(近世2) (討庄応援部隊の解兵)

解兵報知と、秋田藩長瀬隼之助から同藩兵の「国境引上、止戦防禦之達」の情報を得て、討庄応援兵の総退去を総督府使節,弘前八幡宮神主小野若狭(おのわかさ)は社務日記(弘前八幡宮神社文書「公私留記」明治元年五月条 弘前大学附属図書館蔵
/ 2ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました