• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 107件
辞書ファセット
/ 3ページ
通史編4(近・現代1) (鍋島知事の対応)

鍋島知事の対応 鍋島知事は弘化元年(一八四四)佐賀に生まれた。,鍋島家の門閥のため、明治二年二十二歳の若さで日光県権知事となり、のち日光県知事、栃木兼宇都宮県令となったが,鍋島知事を補佐した松沢光憲は秋田県新庄の出身で、昌平黌に学び、舎長となり、のち警視庁に入り、鍋島知事の,鍋島知事は松沢を連れて本県に赴任してきた。事件が表面化してから知事は急遽対策を講じた。,云  九月四日 郡衙モ知事ノ来弘ニ付テハ種々議論アル由ナレハ夜分ナカラ立寄リテ之ヲ聞合タリシニ、其内郡書記一二名知事 / 鍋島知事の対応
通史編4(近・現代1) (知事辞職勧告)

知事辞職勧告 九月五日、中津軽郡役所は郡長以下吏員が辞職の決意を固め、戸長らも同調の方針を決定した。,そして、知事に辞職を勧告する代表が青森に派遣された。,今般知事ニ勧告スル書面ニ副フル県政ヲ論責スルケ条十一アリ、各見ル処ヲ以テ材料ヲ出セル故、一、二条ヲ除ク,タルノミナラス、同胞ノ事業ヲ妨害スルノ一事ニ属セリ、尤甚シキハ特別起工中止ノ件ニシテ、県会ノ決議ニヨリ知事赴任否 / 知事辞職勧告
通史編4(近・現代1) (道路改修問題と佐和知事)

道路改修問題と佐和知事 明治二十四年八月二十一日、府県制実施後の第一回県会議員選挙が行われた。,すでに明治十八年十一月、福島九成知事によって県内道路改修のため三〇万円の特別起債工事が企てられ、十一月三日,の天長節を期して青森古川で起工式が行われたのだが、翌十九年七月福島知事が非職となって、次の鍋島知事によって,多くの問題を残して、明治二十二年暮れ、鍋島知事は広島県知事に転出し、後任に宮内省大書記官から佐和正が本県知事,明治二十四年の第一回臨時県会は、三〇議席のうち三分の二が自由党系で、積極的な佐和知事の県政に協力した。 / 道路改修問題と佐和知事
通史編5(近・現代2) (知事・市長への陳情)

知事・市長への陳情 弘前商工会議所は、安定成長期に各方面に陳情を活発に行った。,まず、昭和五十一年一月に県知事への陳情を行った。  ,同年九月に、弘前商工会議所は竹内知事を迎え、懇談した。,知事の回答は沖浦ダムの浚渫については実施し、工業団地建設については調査すること、空港については安全第一 / 知事・市長への陳情
通史編4(近・現代1) (辞職勧告運動の失敗)

辞職勧告運動の失敗 ところで、事件の推移を見ると、九月八日朝の委員らの知事官舎訪問をピークにして、知事側,ル六日以来青森ニ出タル委員等并書生等其他各郡ヨリ出タル人員大凡百名許ニシテ、其内数十名ハ八日ノ朝ニ県知事,ノ官宅ニ至リテ勧告書ヲ出シテ知事ニ退職ヲ迫リシテ知事ハ、予ハ是マテ本県ノ為ニ福履(ふくり)ヲ起サント熱心,、認メタルニアラス、委員認タリト云フニアラス、御一見済メリト云ナリ、知事云、苟モ天皇陛下ノ勅ヲ奉シテ知事,其反対党カ力ヲ尽シテ結合知事ヲ助ケシハ委員等主唱者ハ即後藤熱党ニシテ勧告副書二十ヶ条余ノ知事ノ失政ヲ並
通史編5(近・現代2) (波乱含みの合併成立)

石川町の合併に対し、すでに内閣総理大臣が異議なしと決定している以上、三月三十一日までに合併せよとする知事勧告,知事は、県議会が合併案を否決しているため苦しい立場にあったが、自治庁からは再三の催促があり、総理大臣の,知事罷免権発動もあり得たため議会側に事情説明の上、三十一日付で知事勧告を発令した。,知事勧告を受けた両市町は、まず、石川町議会がその日のうちに可決、次いで四月三日、弘前市議会が合併議案審議,知事をはじめ県当局の政治工作や県議間の政治交渉などで、時間だけが過ぎていった八月六日、臨時県議会が招集
通史編4(近・現代1) (廃藩置県)

廃藩置県 明治四年(一八七一)七月十四日、弘前藩知事津軽承昭(つぐあきら)は全国二六一藩知事らと参朝,)テ冗ヲ去リ簡ニ就キ 有名無実ノ弊ヲ除キ政令多岐ノ憂ヒ無(なから)シメントス」と、旧藩主をそのまま藩知事,そして藩知事は東京に留め置かれ、全員免官となった。,写真2 弘前藩知事免官の詔  事態は早打で七月二十五日横島彦八が弘前にもたらし、翌二十六日藩士総登城
通史編4(近・現代1) (遊廓と小学校)

『東奥日報』はじめ各新聞は連日、県知事牧朴真(なおまさ)を攻撃し、弘前教育会、青森県教育会、弘前市会も,のため永く病臥中だったが、新遊廓地指定に大いに驚き、病軀(く)をおして市長を訪問、変更を要求する一方、知事,第三学区会及び弘前教育会の誠意を込めた遊廓指定地変更の願いに対し、知事は変更の意思はないの一点張りで会談,その上、知事は警察力を使って遊廓地指定に反対する運動を弾圧した。  
通史編4(近・現代1) (騒動の発端)

然るに何ぞや、それが牧民官(ぼくみんかん)なる知事より無神経なる語を以て愚弄(ぐろう)さるるに至らんとは,弘前市内各部有志は其の方面の道場に集合し、専ら民心の奮起高潮に力を致し、一面檄(げき)を飛ばして鍋島(なべしま)知事,一部内に五名乃至六名の委員を設け、三百余名の同意を得、委員は数台の馬車に分乗して青森に向ひ、県庁に鍋島知事,弘前各町有志の出した檄文でも「無神経云々は語を換へて云へば馬鹿と罵(ののし)りたるものに有之べく、是即ち県知事,(笹森丁)ヘ集会ノ儀申来リ退下、懸(かかりて)之ニ会ス七八十名ノ人員ニテ比日嗷々タル無神経云々ニ付県知事
通史編4(近・現代1) (事件の波紋)

八戸の蒔田長蔵・関春茂・源晟(あきら)らは、九月十四日、「該報は知事の与り知らざる所と、また言ふ一時の,したる役場にて)と言ひしは現に長蔵等の耳にする所なり、其無神経と言ふと何の異なるあるか」と言葉鋭く鍋島知事,「吾輩は敢て青森県の辞表を出したる郡・村吏諸氏に告ぐ、諸氏は県知事の臣僚なるか、将(は)た県民の傭吏なるか,、更らに凱切(がいせつ)に之を言へば、諸氏は県知事の嚢中より其俸給を受くるか、将た県民の税金より其俸給,を受くるか、諸氏の職掌ハ、県知事の家事を執るに在るか、将た県民の公務を司るに在るか、此問題を考察して軽重
通史編4(近・現代1) (工業学校の創設と東奥義塾の廃校)

時の県知事は武田千代三郎であったが、設置場所をどこにするかで一悶着が起こった。  ,武田知事は、弘前市には従来工業講習所があり、位置としては青森市に設置するのが「適当と知りながらも」、設置,しかし、弘前市は、東奥義塾は弘前にとって由緒ある伝統校であるから転用には応じられないとし、その対立から知事,このように、弘前市と県知事の感情的なもつれから問題は内務省と文部省に持ち込まれたが、県知事、弘前市の両方
通史編4(近・現代1) (助役問題)

このため次の助役問題が紛糾し、さらに非政友の民友会主体で市長退職建議案を提出、監督権の発動を青森県知事,三年十一月十三日、小浜松次郎県知事は市長退職建議を取り消し、助役問題も調停した。
通史編3(近世2) (政争の激化と第三次改革)

こうして、三年六月七日、按察使府次官菱田重禧(しげよし)(後、青森県権令)が弘前に到着し、藩知事承昭(,がいまだ不問であること、人材登用が不公平なこと、明治二年中の租税取り立てが不条理であること、および藩知事承昭,六月十八日に再び藩知事承昭は告諭を発布したが、その中で自分は朝廷の家臣であり、改革が進まないと官職も取,実はこの認識こそ幕藩体制から朝藩体制への転換を示しており、藩知事でさえ非世襲の一官職として位置づけられたことを,従五位 正六位 従六位 正七位 従七位 正八位 従八位 正九位 従九位 大初位 少初位 藩 庁 知事
通史編3(近世2) (英学寮)

藩知事津軽承昭は進取の知識を洋学に求め、稽古館の教育を刷新し、最勝院に敬応書院を設けて皇・漢・英の三教科,、同じく旧家老津軽廷尉の邸宅とで修学することとなり、また敬応書院も同九月に廃されて、城内二の丸の旧藩知事承昭
通史編5(近・現代2) (青森県における恐慌の影響)

その結果、昭和七年の五・一五事件で政党政治が終焉(えん)を告げるわずか五年半の間に、青森県知事は六人の,この官僚知事や部長たちには県民の将来は眼中になく、己の立身出世が目標だった、とは初代民選知事津島文治の
通史編5(近・現代2) (高速交通体系の整備)

青森県議会議長が、弘前市側から要望された西・北津軽郡地方と高速道路を結ぶバイパス建設の促進等の四項目実現を強力に知事,こうした状況から藤森弘前市長と小畑秋田県知事との間で共同歩調がとられ、昭和四十七年には、盛岡以北の東北新幹線,こうして、新幹線路線問題は県論を二分することになったが、昭和四十八年九月、青森県知事と青森県議会議長の,なお、日本海新幹線に関しては、当時の田中首相が小畑秋田県知事に東北新幹線盛岡以北と同時期着工を確約したことを
通史編4(近・現代1) (第二大成尋常小学校の創設)

それが急に一校新築が議決されたのは、知事による諮問の結果であった。,知事は児童の増加状態を見て、増築より一校新設の方が適当と思うと述べたが、それが市会に影響して、一校新設
通史編5(近・現代2) (岩木村の成立と飛び地の誕生)

ここに新弘前市の誕生は確定的となり、関係市村の議会の議決をまち、三月一日付で合併を実施する旨知事に申請,だがいずれの市・村も合併賛成の議決となりあとは知事処分をまつのみとなった。,市町村境界と弘前市の新市域  弘前市長と関係一一ヵ村長の連名で合併処分申請書が、二月十日付で県知事宛,県では十八日の県議会に提案し、議決をへて知事が処分するだけとなった。
通史編5(近・現代2) (県債五〇〇万円の成立)

挙県一致、金融機関救済のため、同年十二月三日付けで、政府に次のような二〇〇〇万円融資の意見書を提出し、守屋知事,、県民は実に悲愴なる不安に駆られて、其の対策の一日も速に確立せられんことを翹望しつゝあり、依て、政府知事,                   県会議長 内閣総理大臣 内務大臣 大蔵大臣 農林大臣 商工大臣 青森県知事,救済陳情 商工業者連合協議 弘前 昭7 1.19 県債千五百万円の許可促進運動を開始す 銀行代表者、知事,安田主事交渉中 〃 3.20 県債五百万円最後の決定を見る 二十一日銀行重役と懇談して参事会に諮り、知事再
通史編5(近・現代2) (反対運動の展開)

を青森営林局に提出し、青秋林道予定地では着工許可前にブナなど二〇〇本以上伐採され、農林水産省も青森県知事,昭和六十二年(一九八七)十一月、北村正哉(まさや)青森県知事は青秋林道建設見直しを発言した。
通史編5(近・現代2) (都市計画の開始)

13 都市計画の体系(種類)  都市計画は市が主体的に原案を作成し、課題のうち、広域的なものは県知事,が関係大臣(平成十年時点では建設大臣)の認可を受けて決定し、その他の課題については市が県知事の承認を受
通史編5(近・現代2) (三 津軽の文学の新たな展開(昭和の文学))

竹内は後年代議士や県知事を長く務め、〈文人知事〉と呼ばれるほど青森県の文化の隆盛に力を尽くした政治家であったが
通史編4(近・現代1) (産業調査会の結成)

産業調査会の結成 大正二年(一九一三)の凶作に対応して、青森県は、小浜松次郎知事の主導により、県内の
通史編4(近・現代1) (家禄制度改革)

明治四年(一八七一)七月に廃藩置県が行われ、旧弘前藩は弘前県となり、知藩事(藩名を付すときは、弘前藩知事,この賞典禄も上層に厚く、旧弘前藩知事津軽承昭は二五〇〇石であった。,3,849.118 旧八戸県華士族 536 17,071.844 旧七戸県華士族 58 2,173.213 旧斗南藩知事,1 2,545.738 旧弘前藩知事 1 6,422.087 前掲『青森県歴史』第4巻 注)このほか
通史編4(近・現代1) (無神経事件のその後)

無神経事件のその後 無神経事件は、この後、十月半ばに開かれたリンゴ品評会会長に鍋島知事を戴くかのトラブル
通史編4(近・現代1) (弘前市学区会の廃止)

三十四年末から学区廃止が問題とされていたが、三十五年末に至って県知事から諮問案が出されてようやく表面化,三十五年三月四日、山之内一次知事は弘前学区会の廃止を命令して、種々論議を呼んだ学区問題も廃止に決定、区会
通史編5(近・現代2) (全農青森県連合大会)

直ちに街頭をいっぱいにした抗議デモとなり、同日スキー県大会に来ていた県知事に金木駅で面会を求めたが、知事
通史編5(近・現代2) (商工会議所の廃止)

青森県商工経済会の発足に当たって宇都宮知事は挨拶を行ったが、その中には商工業に関する国の施策を実施する,昭和十八年八月三十日              青森県知事 宇都宮孝平 (前掲『弘前商工会議所五十年史
通史編4(近・現代1) (帰田法の帰結)

無方向ノ者弐千九百九十壱名 旧弘前藩減禄改正、弐百俵以下十五俵以上、壱俵ハ四斗入、弐千五百八名 旧知事公,の田園を買ひ、家禄高に応し、夫々分賦、追々移住、諸費等に至まで多分の金穀を発し、切実に世話致候儀、旧知事広,其実婦女子村居を厭ふの俗情に出候儀、何等の狂惑にて右様妄迷の挙動に立至候や、上は朝廷遠下の御旨趣を奉体し、旧知事刻苦
通史編4(近・現代1) (「教科書事件」と国定教科書の使用)

二〇〇人の被告の中で罪の確定した者は一六〇人、その中には代議士、県知事、視学官、師範学校長、中学校長、,すなわち、これまでの小学校教科書は小学校図書審査会を経て知事が採択していたのを、単に「小学校ノ教科用図書
通史編4(近・現代1) (市青年団の結成)

があってのち団員を査閲、次いで全員が君が代斉唱、団長(市長)による教育勅語と戊申詔書の奉読があり、県知事道岡秀彦
通史編5(近・現代2) (りんご栽培の進展)

昭和七年(一九三二)、青森県に多久安信(たくやすのぶ)知事が赴任した。,同知事は前任地長崎で内務部長として枇杷(びわ)の県営検査を実施してきただけに、再び検査制度が県議会の議題,知事は事態の収拾に上京し、商工省局長に県支持の姿勢を明示させることにより、妥協案をもって対立は沈静化した
通史編4(近・現代1) (授業料の廃止)

明治三十三年の「再改正小学校令」で義務教育の授業料は廃止するとうたっていながら「特別ノ事情アルトキハ府県知事
通史編4(近・現代1) (御真影下賜と教育勅語)

御真影は青森県庁において佐和正知事の手から相馬保之進弘前高等小学校長に手渡された。,佐和知事は諭告を発して、今後各学校は天長節、紀元節、新年開校式、学年始業式、卒業証書授与式及び学校設立記念日
通史編5(近・現代2) (ストライキの顛末)

山崎知事も動いたが、争議の調停は中央労働委員会に持ち込まれ、七月九日中労委の仲裁裁定を労使がのんで争議
通史編4(近・現代1) (市立図書館の設置)

写真115 弘前市立図書館(上)と自他楽会に対する知事感謝状(下)
通史編5(近・現代2) (青少年団の動向)

青森県青少年団長は上田誠一知事、副団長は進藤憲三(予備役大佐)、中野四郎県労務課長が当たった。
通史編4(近・現代1) (町村合併と弘前市制施行)

町村長は、原則として名誉職(無給)で、町村会で選挙し府県知事の認可を受ける。,望ミアルモノハ特ニ市制ヲ行フコトヲ許ス」に当たるとして、内務大臣松方正義が市制施行地に指定し、青森県知事鍋島幹
通史編3(近世2) ((一)箱館戦争の開始)

十月十七日、政府から派遣され、箱館府知事に任じられていた清水谷公考(しみずだにきんなる)から、八月に品川
通史編3(近世2) (廃藩置県後の処理)

大蔵大丞(だいじょう)渡辺清が青森県権令菱田重禧(ごんれいひしだしげよし)と相談し、明治四年十二月に旧藩知事津軽承昭
通史編5(近・現代2) (東北女子短期大学の開学)

同年六月には、第二代学長として前青森県副知事で農学博士の松野伝が就任した。
通史編3(近世2) (近隣諸藩の動向)

箱館裁判所は箱館府、総督は府知事と改称されて、五稜郭(ごりょうかく)で旧幕府箱館奉行からの引き継ぎを受,下級藩士であった松井屯(たむろ)・鈴木織太郎、下国東七郎を中心とする正議隊(せいぎたい)が、箱館府知事
通史編5(近・現代2) (弘前大学後援会と農学部の新設)

それは財団法人弘前大学後援会が、知事・市長をはじめ、県内・市内の政界・財界の幹部をメンバーに設立されたことからも,後援会は知事を会長とし、弘前市長を副会長として、県内各地の政財界の代表を集めた機関だった。
通史編3(近世2) (藩から県へ)

図79.弘前藩知事辞令  廃藩置県の断行は新政府内で極秘裏に検討され、万一の反対に備えて薩摩・長州,弘前藩知事津軽承昭(つぐあきら)は明治四年四月二十八日に弘前を発し、五月十五日に東京に着いており、七月十四日,には東京で藩知事を免官された。
通史編4(近・現代1) (蓬萊館から大和館へ)

大和館は、新派(邦画の現代物)の弁士として、東京の人気弁士・坂巻ラッパを県知事の給料を上回る月給を出して
通史編5(近・現代2) (道路の整備)

昭和六年十二月二十一日                       弘前市会議長 工藤道生  青森県知事
通史編5(近・現代2) (終戦の詔勅降る)

同日県内政部長と金井元彦学徒隊長(青森県知事)名で左の告諭が県内各学校長宛に発せられた。  
通史編5(近・現代2) (争議の顛末)

にそぐわない企業として県参事会の県営電気企業実施意見となり、三ヵ年の専門調査の上で、昭和八年、多久安信知事
通史編4(近・現代1) (盗伐問題と師団の設置)

盗伐問題と師団の設置 この年八月十二日、信望厚く、七年間も本県知事を務めた佐和正が免官になった。,名県令と言われた山田秀典知事より一年長く在職し、県民挙げての留任運動が展開され、青森駅では四〇〇人余の
通史編3(近世2) (箱館戦争の開始)

開始 このとき、上陸を知った箱館府では、派遣されていた福山・大野藩兵と、松前・弘前藩兵、そして箱館府知事
/ 3ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました