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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(津軽領の知行制)
津軽領の
知行
制 いわゆる「地方(じかた)
知行
制」とは主として中・上層藩士に個別の
知行
地が設定され、年貢,この
知行
制のもとでも、個々の
知行
地は著しく細分化されており、一つの村が複数の
知行
主によって支配される相給,
知行
百姓も一つの村で多くて四人、石高は多くとも三〇石ほどである。,一〇〇石程度の中級の藩士でも四~七ヵ村に分散しているのが通常だった(「
知行
帳」弘図津)。,、藩主から宛てがわれる
知行
帳には、形式的にせよ
知行
・村名が書かれるのが一般的であった。 / 津軽領の
知行
制
通史編2(近世1)
(知行安堵と検地)
知行
安堵と検地 宇都宮に到着した秀吉は、奥州の諸大名を呼び寄せて
知行
割を決定した(以下の記述は特に断,一方、これら二氏以外の大名は、
知行
高と
知行
地、あるいは、
知行
地のみが特定されて
知行
が給与されることになった,このことは、
知行
地が直接・間接的に豊臣政権より
知行
高が確認されたか、もしくは、いずれは豊臣政権により確認,)に対して
知行
を書き出すことを命じ、直轄地と家臣
知行
地から指出(さしだし)(領内の家臣に
知行
地の面積などを,この時の検地の成果をもとに、
知行
高が決められたのであろう。 /
知行
安堵と検地
通史編2(近世1)
(知行宛行状の発給)
知行
宛行状の発給 家臣団の成立を裏付けるものとして、藩主から個々の藩士へ出された
知行
宛行状(ちぎょうあてがいじょう,現在のところ、為信が発給した
知行
宛行状といえるものは以上二点しか判明しておらず、家臣に対してどの程度
知行
宛行状,革秀寺を除いては、いずれも小
知行
の
知行
宛行状といえよう。,この二人になぜほぼ同じ内容の
知行
宛行状が、この時期に発給されたのかを分析してみると、信枚は当時、
知行
宛行状,ここまでの
知行
宛行状は信吉名で出されている。 /
知行
宛行状の発給
通史編2(近世1)
(知行安堵)
知行
安堵 豊臣政権による検地が実施されようとしたころ、天正十八年(一五九〇)七月二十七日に陸奥の南部信直,津軽・南部両氏は「肥前名護屋在陣衆」の一員として動員されているので、両氏の
知行
石高は、少なくとも天正十九年十月 /
知行
安堵
通史編2(近世1)
(恒常化する知行借り上げ)
恒常化する
知行
借り上げ 十八世紀に入ると、財政窮乏のため、藩士からの
知行
借り上(ちぎょうかりあ)げがしばしば,第三章第一節でみたように、元禄飢饉で財政が窮乏した元禄八年(一六九五)には、
知行
の半知借り上げを実施し,一方、
知行
制そのものも十八世紀には大きな変動をみせる。,藩の俸禄制度は
知行
制と蔵米制を繰り返していたが、宝暦改革期の一時的な蔵米制導入を経て、安永三年(一七七四 / 恒常化する
知行
借り上げ
通史編2(近世1)
(地方知行制の復活と借知制の実施)
地方
知行
制の復活と借知制の実施 正徳二年八月二十六日、地方(じかた)
知行
制の復活と、さらに六ツ物成給付,蔵米制の
知行
宛行状では藩士に宛行(あてが)われる
知行
高のみの記載となっているが、これが地方
知行
制になると,、目録(
知行
帳)が別に付され、それに地方
知行
の内容(
知行
所・
知行
高など)が記載されるのである(資料近世,地方
知行
制の復活に伴って、同年九月から各給人(一般に地方
知行
を宛行われている家臣は、「給人」ないし「地頭,」と呼ばれる)に対して、
知行
村と農民を割り付けた
知行
帳が渡された。 / 地方
知行
制の復活と借知制の実施
資料編2(近世編1)
(第五節 倹約・知行借上の実施)
第五節 倹約・
知行
借上の実施 [倹約・
知行
借上の実施] / 第五節 倹約・
知行
借上の実施
通史編2(近世1)
(新施策の実施と知行制度の転換)
新施策の実施と
知行
制度の転換 津軽弘前藩は、貞享(じょうきょう)元年(一六八四)から実施された領内総検地,その一環として、貞享二年四月、藩士の
知行
制度を土地そのものを宛行(あてが)っていた地方
知行
制(じかたちぎょうせい,)から、藩が一元的に取り立てた年貢米から
知行
高相当の米を俸禄として与える蔵米(くらまい)
知行
制に切り替,藩政の確立期を画期として各藩では家臣団の地方
知行
の形骸化が進行し、年貢率は藩の決定に基づき、所領は細分化,それ以外の大名家でも、
知行
権は限定され、実質的に藩庫支給の俸禄と大差のないものとなっていた(笠谷和比古 / 新施策の実施と
知行
制度の転換
資料編2(近世編1)
(第一節 領内支配と支配機構の整備)
展開(旧八木橋氏所蔵) (一)青森 (二)鰺ヶ沢 (三)小泊 (四)十三 六 地方
知行
,の状況 (一)
知行
充行状の下付 (二)
知行
帳 (三)寺院への
知行
方 (四)黒石津軽氏
知行
通史編2(近世1)
(宝暦改革と蔵米)
宝暦五年(一七五五)、藩は飢饉のため在方の借金・借米を免除、同年九月に
知行
取から切米取(きりまいとり),「平山日記」の作者は地方
知行
制の復活を喜ぶ藩士層の様子を紹介している。 ,ところで興味深いのは、地方
知行
制復活の布達において
知行
主の非道を藩が強く戒めていることであって、万一百姓,に対し非道の取り立てがあった場合は、
知行
を永久に取り上げ蔵米渡しにする、と述べている。,の分散・相給(あいきゅう)化で
知行
主と
知行
地百姓との結びつきは薄まっていたといえ、借金などにみられる
知行
地百姓
通史編2(近世1)
(安永期の蔵米化)
同年には
知行
の三分の一を三ヵ年借り上げし(「秘苑」ほか)、明和五年(一七六八)には
知行
の半知借り上げが,それ以前の地方
知行
制のもとでは六ツ物成であったから、かなりの減収である。,寺社領に関しては宝暦五年の際と異なり、従前どおりの
知行
渡しとされた。 ,ここでいうたとえば
知行
一〇〇俵というのは、いわば年俸であるが、年三回の分割支給であった。,さらに安永七年(一七七八)からは
知行
米は月割りに変更された。
通史編2(近世1)
(経済政策の前提)
この措置は、同五年の大凶作を経て、翌六年からの
知行
蔵入り(蔵米
知行
制)へと展開している。,今年の凶作を乗り切るためには、藩の蔵から農工商の扶助を行い、家中については出来高にかかわらずすべての
知行
米,(ちぎょうどり)層が結束することによって、一部の
知行
取が困窮することを防ぎ、また
知行
取層の困窮を切米取層,藩はこの申し出を受ける形で、翌年から
知行
の蔵入りを実施し、それに伴い、藩は
知行
取・切米取に対するこれまでの,このような
知行
の蔵入りは、
知行
の借り上げの延長線上にとらえられるのであるが、このときの蔵入りと借金の帳消
通史編2(近世1)
(土着対象者)
土着対象者 土着対象者は寛政四年令によって上限が二〇〇石以下の
知行
取家臣、同五年十月二十四日令(「要記秘鑑,享和年間の「家中給禄調」(弘前市立図書館蔵)によれば、
知行
取が五一六人、切米取が五六四人、金給が五〇九人,このうち土着対象者の基準に該当するものは、
知行
取が四六八人、切米取が一四二人、金給一九七人で合計八〇七人,また、このうち五八パーセントが
知行
取家臣であり、その過半数以上を占めている。,さらに
知行
取家臣のみについてみると、計五一六人の内二〇〇石以下の家臣は四六八人であり、
知行
取家臣の実に
通史編2(近世1)
(検地の性格と目的)
しかし、検地打出分の蔵入地(藩の直轄地)編入を原則禁止とする一方で、
知行
地不足の給人の私的な土地の交換,蔵入地と給人
知行
地との関係は、すでに寛文期には、藩の許可を得ない蔵入地相互、または、蔵入地と給人地との,また、給人
知行
地は、給人自身による畑から田への地目変更は禁止された。,
知行
地不足の給人が、畑から田に地目変更をする場合、検地を受け実際の生産高と都合をつけることになっていた,、畑を田に変換することで生産高を上げて不足分を補うこととし、さらに検地によってそれを確認し、生産高と
知行
高
通史編2(近世1)
(元禄の大飢饉と家臣召し放ち)
さらに九月二十八日には
知行
米を規定どおりに渡すことができないため家中に節倹を求めるものと、一〇〇〇石以上,の大身の家臣に対しては、来月朔日以降
知行
米を渡すという達が出されている。,一方
知行
米取に対しても、十一月二十八日に、
知行
半減などが伝達された(資料近世1No.八六八)。,」『津軽史』八)から、減少人数の
知行
は全
知行
高の二六・五パーセントを占める。,暇を出された人数と
知行
高の割合を勘案してみると、
知行
高では平均三六・六石で、召し放ちの主要な対象が下級家臣
通史編2(近世1)
(下級藩士への開発奨励(I期))
「小
知行
派立」は、耕作が可能となった土地を、藩が新たに取り立てた「小
知行
」により耕作を行うものである。,つまり「小
知行
」は開発の功によってその土地を
知行
地として与えられ、郷足軽からさらに上級の藩士に取り立てられる,つまり、藩士、特に小給藩士の多くは「小
知行
」として開発に当たった系譜を有していたということである。,また「御蔵派立」は、「御蔵百姓」が耕作者の場合の開発をいい、「小
知行
派立」と区別されている。,ただし、この「御蔵派立」さえも、地方(じかた)の給人や「小
知行
」の開発申し立てによって行われ、「小
知行
派立
通史編1(古代・中世)
(津軽曽我氏の所領・平賀郷)
承久四年(一二二二)、惟重が父広忠の時の例に任せての
知行
を、北条義時から安堵されているので(史料五五三,、このように平賀郷についてはまだ惟重が
知行
していた。,したがって、あるいは光弘の実際の
知行
開始はもっと早かった可能性もある。 ,建武元年(一三三四)ころには、先に触れた岩楯村女子跡
知行
の要求とともに、平賀郷の牧士田の返給をも申請している,またいつのころからか不明であるが、貞和三年には柏木郷(平賀町柏木町付近)を
知行
していることがわかる(史料七
通史編2(近世1)
(町年寄の由緒)
松山・松井家の由緒をみてみると、ともに、近江国坂本の出身であり、文禄二年(一五九三)に大浦へ下向し、
知行
一,また、表中の「
知行
取之分」など町支配の下部組織が、三〇~五〇石取の小
知行
層を取り立ててゆくことで、しだいに,為信代 万治3年 100石 100石 30石 為信代 (大坂浪人) 為信代 (浪人)
知行
取之分, (碇ヶ関番 寛文11年より) 寛永20年(延宝3年より) 慶安2年 万治3年 (小
知行
役
通史編2(近世1)
(地方支配機構の確立)
また、主に
知行
地が新田開発地に与えられる新参家臣を中心に編成されていた。,したがって、彼らは、本来は前期一般にみられる小
知行
など、新田開発の中核となっている極めて在地性の強い階層,前期の新田開発では、小
知行
は三〇から一〇〇石以下の
知行
高であるにもかかわらず、普請にかかる労働力を自らの,これは、在地土豪としての経営と
知行
地への支配権によって支えられていたことにより可能であったと思われる。,こうした状況になった最大の理由は、地方制から蔵米制という
知行
制の変換にあった。
通史編2(近世1)
(土着策への本格的展開(Ⅲ期))
基本的には
知行
取層を対象の中心に据えていることと、地方割や勤仕に直接言及していることから、土着策の全面的,そして、同年九月九日には
知行
取と切米取の収納方についての指令も具体的に出されている(同前No.七四)。,(1)
知行
取層を対象の中心に据えていること。具体的には繁勤の者を除いた二〇〇石以下が対象。,(2)在宅地は、
知行
地の内、石高の多い村への引っ越しとする。,
知行
取層と切米取層に違いを設けながら、土着に向かえる諸条件を整えていることがわかる。
通史編2(近世1)
(家中払米の展開)
笹覚之丞連名の青森沖口出米願書(資料近世1No.七九六)によれば、大光寺村の仁左衛門をはじめとする七人の小
知行
士,七人の小
知行
士は上方詰中であり、その滞在費捻出のためであろうか。,八人の小
知行
士は上方滞在中であり、滞在費捻出のために米を売りさばいたものと考えられる。,同年五月十三日付の野呂善左衛門の鰺ヶ沢沖口出米願書(同前No.八〇六)は、野呂の
知行
米一二〇石を松前へ,前述と同じくこれら一一人の小
知行
士は上方詰めであり、その滞在費捻出のためと思われる。
通史編2(近世1)
(三 貞享検地と地方支配機構の確立)
貞享検地と地方支配機構の確立 津軽弘前藩は、貞享元年(一六八四)から貞享総検地に着手するとともに、
知行
制度,をそれまでの地方
知行
(じかたちぎょう)制から俸禄(ほうろく)制に、また、天和三年(一六八三)には、一六
通史編2(近世1)
(土着策の展開と農村)
したがって土着藩士がその財政を豊かにするには、特に
知行
取層においては百姓からの収取強化、および夫役徴収,年貢収納が行いやすいように、生産力の高い土地や代々つながりの深い土地を
知行
地として家臣に与えるとともに,、百姓からの直収納の形態をとった結果、百姓からの収奪が強化されたと同時に、年貢収納における
知行
権が拡大,在宅藩士が、
知行
地の百姓に対してこのような行為ができる根拠として、彼らの御蔵諸役を軽減したり(「要記秘鑑,」(御家中在宅御触)寛政六年二月十二日条)、この時期の
知行
帳に記されているように、手取り分の小役米などを
通史編2(近世1)
((二)藩士土着政策の展開)
二)藩士土着政策の展開 改革意見書にみられるように、藩士土着策は、端的には、藩士の城下集住策と蔵米
知行
制,し、藩士を在方に居住させ、直接生産活動に従事させることを基本とし、農民から直接に年貢を徴収させる地方
知行
制,この政策は、前述したように、給地在住による兵農一致、地方
知行
制の復活として、熊沢蕃山(くまざわばんざん,Ⅲ期は対象者を
知行
取層へ拡大し、また、土着地での給人
知行
権を強化する本格的展開期。
通史編1(古代・中世)
(津軽曽我氏の所領・名取郡)
名取郡四郎丸郷のことは、嘉元二年の泰光の譲状に、「四郎丸うち、泰光かちきやうふん(
知行
分)」を「一ふんもよけす,「四郎丸うち、泰光かちきやうふん」と「四郎丸郷おたかせの村」とが同一なのか、あるいは四郎丸郷内の泰光
知行
分
通史編2(近世1)
(検地帳の特色)
さきに触れたように、明暦検地は、津軽信英への分知と、分家家臣団を創出するための
知行
割であって、その
知行
高,したがって、前期の津軽領における給人
知行
地の設定は、その土地の実際の生産力を把握した上で行われたのではなかったのである
通史編2(近世1)
(元文検地の実施)
地方
知行
制がとられていたため、検地によって厳密に土地の丈量が計測され、それによって
知行
割が行われた結果
通史編2(近世1)
(町支配の役人)
町支配の役人 「町支配并びに諸職人と
知行
取の由緒書」(資料近世1No.一一五一、故八木橋武實氏旧蔵),によると、弘前の町支配の役人は、町年寄・町年寄手(町名主・月行事(がつぎょうじ))・
知行
取(町方の有力町人
通史編2(近世1)
(藩政の転換と家臣団統制の動き)
正徳元年(一七一一)二月十二日には藩士の
知行
米を月割支給して当面の困窮を収拾し、八月二十六日には藩士窮乏,を理由に拝借・町借返済を延期、
知行
六ツ成に戻した。,さらには同年八月、藩士の蔵米
知行
制が、再び旧来の地方
知行
制へと転換した。
通史編2(近世1)
(本村と新田)
正保二年(一六四五)の「津軽
知行
高之帳」(資料近世1No.一一六〇)によれば、津軽郡は三郡からなり、平賀郡一万九二六五石余,寛永十七年(一六四〇)に三代藩主信義が弟の津軽百助(ももすけ)に与えた、五〇〇石の黒印
知行
宛行状にも村名,占める割合 28.0% 鼻和郡新田高合計に占める割合 32.6% 注) 正保2年(1645)「津軽
知行
高之帳,しかし、「津軽
知行
高之帳」の村名記載を最後に、あとの時代の史料には村名がみえなくなるのである。,なお、参考として「津軽
知行
高之帳」にみえる弘前市域の古村名を表11に作成した。
通史編2(近世1)
(天明期の借り上げと寛政期までの状況)
天明三年(一七八三)十一月三日、
知行
・切米・扶持方の別を問わず、一律に一日一人四合の支給とし、足軽・小者,藩庁は彼らを救う究極的な手段として、藩士に自ら
知行
地を耕作させる在宅制度を実施するに至る。 ,この制度の目的と経過については本章第二節のとおりであるが、在宅制度は
知行
地と藩士財政が完全に分離される,蔵米制とは対極的に、藩士財政と
知行
地の経営を完全に一体化させるものであり、これまでの政策を大きく転換させるものであった
通史編3(近世2)
(天台宗)
図193.天台宗本末関係図 薬王院の塔頭千寿院は、文化七年(一八一〇)に
知行
米横領と、寺院修復
資料編3(近世編2)
(第一節 後期藩政の展開と社会状況)
)諸色高値 (七)松前稼ぎ 二 藩財政の窮乏と商品流通 (一)廻米と借財 (二)
知行
借
通史編2(近世1)
(北奥羽の領知確定)
この後、表4にも明らかなように、戸沢氏は翌天正十九年一月十七日に仙北の北浦郡において四万四三五〇石の
知行
,由利五人衆の石沢氏・祢々井(ねのい)氏・下村(しもむら)氏らはわずか一ヵ村のみを
知行
する小名であるが、,所 石 高 年 代 南部大膳大夫 南部内七郡 天正18年7月27日 戸沢九郎 出羽国仙北之内九郎当
知行
分,南部氏も、戦国末期に獲得した志和(しわ)郡や旧九戸領、和賀・稗貫両郡については
知行
宛行状を発給していたが,、本貫(ほんかん)の地である糠部郡の譜代家臣にはまったく
知行
安堵状・宛行状を発給していない。
通史編2(近世1)
(改革意見書の基調)
(3)この場合、土着は藩士が
知行
地に在住する地方
知行
に復することを意味し、これによって藩士財政を藩財政
通史編2(近世1)
((四)改革の諸政策と藩士土着政策)
代官機構の再編や縁組み規定の解消、
知行
の蔵入化および切米取・金給家臣の
知行
に召し直された分の切米・金給
通史編2(近世1)
(一 明暦検地の意義)
また、その目的は、分知による分家家臣団創出の基礎づくり、すなわち、新
知行
地設定にあったと考えられる。,そして、これを基にして、翌明暦三年(一六五七)に
知行
替えが行われて、分家家臣団が成立した。
資料編2(近世編1)
([口絵])
信枚〕黒印寺領充行状 革秀寺宛 (本文史料266号) 慶長十四年八月六日 津軽信枚黒印
知行
充行状町田勝右衛門宛,(本文史料二六九号) 寛永十一年正月十一日 津軽信吉〔信義〕黒印
知行
充行状神左馬丞宛,(本文史料五五五号) 寛文元年11月10日 津軽信政
知行
目録竹内長右衛門宛 (本文史料811
通史編2(近世1)
(茨木屋の苦悩)
をしてくれたので乗り切ることができたと感謝しながらも、返済の見込みが立たないことを恐縮しており、同年の藩士の
知行
蔵米化,しかし、今年限りで地方
知行
制に戻るので、少しでも寸志を送って銀主達の機嫌を損わないようにしたらどうか、,さらに安永九年の
知行
三分の一借り上げに至っては、蔵元への廻米を確保するための手段として、
知行
借り上げが
通史編2(近世1)
(浅利頼平の比内帰還)
を説得し、比内から没落して為信のもとに十数年身を寄せていた頼平(よりひら)(近義)を比内に帰還させ、
知行
主,その間、浅利氏の
知行
は安東氏で支配していたが、その後、津軽氏からの度重なる申し出により浅利氏の旧領を頼平,この時、実季は、浅利領にも太閤蔵入地を設定し、七〇〇〇石の内、五〇〇〇石を浅利氏の
知行
、二〇〇〇石を太閤蔵入地,については秀吉が派遣した検地奉行に全面的に委任すること、また、「天下」(豊臣政権)によって保障された上は
知行
通史編2(近世1)
(本村と新田)
『津軽郡中名字』には「圓(マリノ)澤」とすでに地名がみえているが、「津軽
知行
高之帳」には村名はみえず、,ちなみに「津軽
知行
高之帳」では、深浦村は鼻和郡に高三九一・九八石の村としてある。 ,ちなみに「津軽
知行
高之帳」では、柏木町村は平賀郡の新田として高四八九・二八石とある。 ,「津軽
知行
高之帳」では、松神村も大間越村も鼻和郡の新田として村名がみえ、高はそれぞれ三・一六石と一〇・
通史編2(近世1)
(請作)
そして、給地作人地は、中期にそうであるように、
知行
地を領内に分散(前期は積極的に外浜に
知行
地が設定される,また、給地作人には御蔵百姓なども当てられており、こうした農民を、給人が藩の地方支配とまったく別に
知行
地
通史編3(近世2)
(他領から技術を導入)
貞享二年(一六八五)に抱えられていた大川善兵衛の祖父、弥七郎は、秋田出身の者であり、初代藩主津軽為信から
知行
,また、貞享三年(一六八六)の「町支配
知行
取由緒書職」(前掲『津軽塗』)に塗師として岩崎明右衛門・野里村作左衛門
通史編2(近世1)
(黒石津軽家の大名昇格)
采女(うねめ)(政兕(まさたけ))の元禄二年(一六八九)に、分家が嗣子(しし)なくて断絶したために、
知行
,文化五年(一八〇八)、弘前津軽家は北方永久警衛を命ぜられ、一〇万石に昇格したが、
知行
四〇〇〇石で幕府寄合
通史編2(近世1)
(寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)
藩では早速、松前から連絡がありしだい加勢人数を派遣することを決定し、その際には、鉄炮足軽・小
知行
二五人,小
知行
小頭 2 組士 36 149 旗差 10 足軽,25 25 小
知行
31 寄騎 10 32 ここまでの上下人数 ,1 2 医者 2 12 馬医 1 2 賄役 (小
知行
与頭,) 6 12 小荷駄付小
知行
48 夫嵐子 10 支配人夫79
通史編2(近世1)
(幕末期の藩財政)
安永、文化期にあった家中
知行
の借り上げは考慮されていないため、財政収支が安永・文化期よりも縮小している,米方の支出のうち、家中への
知行
切米・扶持の合計は五万三〇三四石(歩引渡をしている)、江戸廻米は五万石、
通史編2(近世1)
(赤石安右衛門・菊池寛司の「覚」)
藩士を村ごとに適宜割り付けるという形態をとらず、
知行
地に在宅させることにした理由もここにあった。,つまり、土着の「益分」とは、藩士が
知行
地においてその支配権を十全に発揮できる体制の確立と、年貢諸役の集取強化,この「半知」の措置は、後に各自の開発地を
知行
高に加えることを前提にしていると考えられるのであるが、いわゆる,次に、土着制施行に当たっての関連事項であるが、(1)
知行
割・百姓割・人足馬割と城下から
知行
地(土着地・,勘定所と郡所の一体化は、藩士の再生産が
知行
地在宅による地方(じかた)
知行
=年貢直収納形態をとるために、
通史編2(近世1)
(土着策実施への布石(Ⅱ期))
をもっての開発となっているが、勘定奉行への「承合」や勤仕の問題が取り上げられていることから、小給の者の内には
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取層,
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取層の給地在宅による荒地開発は、必然的に給地百姓の労働力化と、給地における荒地と耕作可能な「生地」
通史編2(近世1)
(本百姓)
また、村役人の特権として、肝煎(きもいり)には
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が与えられ、真綿・野手役が免除された(同前五二・五三,しかし、軍事訓練とでもいうべき追鳥狩(おいとりがり)のときには、給人(
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地を与えられた武士)も動員されるため
通史編2(近世1)
(信政晩年の藩政)
りをめぐって差別があること、困窮した家中が貸金業者の金に頼り、連帯責任を負った者も難儀していること、家臣の
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米前借,りにおいて、その
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米を町人に払い下げた額と家臣に給与する際に換算した額との間に差があり、不当な利鞘を,その財源は、藩士に対して、
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米借上と手伝人足として一〇〇石に付き一ヵ年一二人の差し出し、農民・町人に,この中では、領内を覆う困窮と藩士が武士らしさを失っている原因を、素行派の家老で元禄十年(一六九七)に
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,そして建白書提出の理由を
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の借上策によって、江戸・国元ともに困窮の極みに達したためとする。
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