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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (石油危機の推移と高度成長の終焉)

石油危機の推移と高度成長の終焉 一九七一年(昭和四六)夏、米国はベトナム戦争につまずき、ドル防衛に入,「日本列島改造論」は、田中が各省庁の専門家集団を動員して作り上げた高度成長期以後の日本の設計図である。,この政策から企業の土地買い占めが起こって全国の土地が投機の対象となり、諸物価の高騰が始まった。,の生活、総じて消費の多寡を文明のバロメーターとする高度成長によるエネルギーの需要増の生活に無警戒に惑溺,かくて高度成長の時代は終わった。 / 石油危機の推移と高度成長の終焉
通史編1(自然・原始) (黒石面)

黒石面 黒石面には、黒石市街地のほぼ全域および浅瀬石川南岸の高賀野(こがの)、尾上町金屋(かなや)・,は黒石市街地で標高約三五~九五メートルと約六〇メートルの高度差があって、一〇〇〇分の一〇~二〇と平野部側,以高では一〇〇〇分の一五~二〇と面の勾配が特に大きい。,軽石質砂層の上半部は含水性の高い、径〇・二センチメートル大の亜角礫~亜円礫(14)の混入が目立つ軽石質砂層,軽石質砂層の上半部は含水性の高い、径〇・一~〇・三センチメートル大の亜角礫~亜円礫の混入が目立つ淘汰不良 / 黒石面
通史編1(自然・原始) (高杉面)

高杉面 高杉面は岩木川以北に分布し、市街地の城東面に対比される。,面の高度は鼻和・富栄付近で約三七~四〇メートル、独狐で約三二~三三メートル、前坂・高杉で約二七~二八メートル,後背湿地とは比高一~二メートルの傾斜面で臨んでいる。  ,このうち、最上位の黄灰色砂質粘土は碇ヶ関浮石層に相当し、また軽石粒混じりの細粒砂層中には埋もれ木が含まれることが,ところで、高杉面を構成する駒木浮石流凝灰岩に相当する軽石粒混じり粗粒砂層は、砂沢溜池に注ぐ小谷および前萢川流域 / 高杉面
通史編1(自然・原始) (環状列石)

式土器期)、青森市南郊の八甲田山地から枝状に延びる台地上に造営され、一九八九年(平成元)から青森山田高校,であり、数個ないし数十個の石を一つの単位とする集石の配列によって構成され、なかには立石を伴うものもある,石の組み方は河原石を一列または二列に円・楕円・長方形の形状に配列し、内部に立石または数個の石を積んだ組石,(特殊組石ともいわれる)、河原石を単に円または方形に配したもの、立石を中心に柱状の石(安山岩が多い)を,放射状に配列した組石(日時計ともいわれる)、立石の相互間を数段にわたって横石を積み上げた組石(特殊な組 / 環状列石
資料編1(考古編) ((2)集石・配石遺構)

(2)集石・配石遺構 石を利用して造られた遺構には、石棺墓のほかに、集石・配石などと言われる遺構もあり,、その大規模なものとして、石を大きく円形に配石した環状列石(ストーン・サークル)がある。,集石・配石遺構は、土壙墓の上部を多数の石で覆ったもの、火を焚いた炉跡としての性格を持つもの、何かの施設,述べたように、環状列石を中心とした同心円上の遺構配置に結び付く可能性も高い。,この小牧野における列石の組石は、縦石と縦石の間に横石を数枚重ねるという特殊な石の組み方をしており*226 / (2)集石・配石遺構
通史編1(古代・中世) (石川楯の合戦)

石川楯の合戦 北条方はついで石川楯に立て籠って抵抗を続けたが、これも曽我光高らの奮戦で、建武元年(一三三四 / 石川楯の合戦
資料編1(考古編) (9.高長根山遺跡)

9.高長根山遺跡 (遺跡番号 02070)(図22~24) (1)所在地 弘前市大字中別所字向野,(2)遺跡の立地  岩木山の東麓に点在する小丘陵の一つ、標高172.0mを有する高長根山の南東に位置,高長根山遺跡の復元住居 図22 高長根山遺跡(縄文後期)出土土器 台付浅鉢形土器,深鉢形土器 浅鉢形土器 図23 高長根山遺跡出土石器 図24 高長根山遺跡出土,の石器・石製品 ※参考文献 弘前市教育委員会 『高長根山遺跡』 1981年3月 / 9.高長根山遺跡
資料編1(古代・中世編) (一 石川城の立地と現状)

一 石川城の立地と現状 石川城跡は、弘前市石川字大仏・平山・寺山・小山田、石川集落の南の大仏ケ鼻丘陵,城内の最高所は南東端の大仏ケ鼻丘陵で、標高は九七・九メートル。,その西側、通称寺屋敷地区もほぼ同じ高さの丘陵をなし、大仏ケ鼻の南側は比高差四〇メートルの断崖となって切,北西に続く台地は標高六〇メートルほどの平坦地だが、ここでも低地との比高差は一〇メートル近くに達する。,には、1大仏ケ鼻城、2岡館、3猿楽館、4月館(2~4を総称して次兵衛殿館ともいう)、5坊館、6寺館、7高田館 / 一 石川城の立地と現状
資料編1(古代・中世編) ((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)

右の記録は津軽側のものだが、南部高信の津軽平定と石川居城は、南部側の記録でも元亀三年(一五七二)の事件,しかし、石川大仏ケ鼻は津軽平野の南の入口をなす戦略的要地に位置し、要害の地でもあるから、高信の入部以前,このときの、南部安信・高信による津軽平定と石川居城は、南部氏の領国支配強化政策の中で行われたことであった,」南部高信であった。,これらの城館も単独ではなく、南部高信時代の三戸との「繋(つな)ぎの城」、あるいは板垣兵部時代の石川城防衛 / (2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」
通史編1(自然・原始) (古懸浮石流凝灰岩)

台地は河床面から約二〇~三〇メートルの高度差が認められ、平野寄りの大鰐町宿川原(しゅくがわら)や支流である,(標高40~43m)の堀跡。,(標高40~43m)の堀跡。,正平津川流域の比高10mの火砕流台地を構成する凝灰岩中に含まれる炭化物。,浪岡城跡がのる扇状地(標高45m)を構成する軽石流凝灰岩中の炭化物を測定。 / 古懸浮石流凝灰岩
資料編1(古代・中世編) (四 板碑の様式と石質)

四 板碑の様式と石質 津軽地方の板碑は、関東地方の板碑と違って自然石を利用しており、緑泥片岩を使用した,緑泥片岩を利用した日高市四本松の板碑  しかし碑面には、関東地方の板碑に似せるために郭線に工夫を,石質については、安山岩が圧倒的に多いほか、石英安山岩・流紋岩・溶結凝灰岩などが用いられている。,岩木山の周辺の板碑は、岩木町兼平や弘前市大森に見られる輝石安山岩に類似した石質である。  ,なお、板碑の高さは、弘前市中別所の弘安十年(一二八七)八月の板碑が二・六メートルあり、津軽地方最高である / 四 板碑の様式と石質
通史編2(近世1) (二度の高直り)

二度の高直り 文化二年(一八〇五)五月、九代藩主津軽寧親(やすちか)は、領知高四万六〇〇〇石が七万石,に上昇する高直(たかなお)りの栄誉を幕府から受けた。,七万石の時と同様、高直りの一〇万石には領地の拡大はなく、これまでどおり、津軽郡一円の領知であった。,藩主寧親は、一〇万石への高直りを機会に、弘前城天守の再興を企図した。,禄高一〇〇石につき一ヵ年に一〇人ずつの割合であった。そのほか下級藩士、町人、百姓がかり出された。 / 二度の高直り
通史編1(自然・原始) (駒木浮石流凝灰岩)

重鉱物組成では磁鉄鉱・紫蘇輝石・普通輝石の順に多く含まれ角閃石を欠いている。,平川および浅瀬石川流域にみられる火砕流堆積物を駒木浮石流凝灰岩と呼称し、大不動浮石流凝灰岩に対比される,、堆積物上面は標高二三〇メートル以上あり、標高約二〇〇メートルのダムの湖水面からみても三〇メートル以上,この堆積物はダム湖南端に流れ込む深沢でも認められ、標高約二五〇メートルあり、異質礫の混入もなく均質な塊状,重鉱物組成ではいずれも磁鉄鉱・紫蘇輝石・普通輝石の順で多く含まれ角閃石を欠いている。 / 駒木浮石流凝灰岩
通史編3(近世2) (高岡霊社)

高岡霊社 高岡霊社(たかおかれいしゃ)(現高照神社、中津軽郡岩木町)は四代藩主信政を祀る。,神主に当たる祭司役を置き、供料田三〇〇石が寄進された。,同社は藩士から「高岡様」と崇敬された。,明治元年(一八六八)の「高岡祭司下役并御宮附小人共迄人別増減書上帳」(高照神社蔵)によれば、祭司役の配下,図231.高照神社 / 高岡霊社
通史編2(近世1) (黒石津軽家の大名昇格)

黒石津軽家の大名昇格 文化六年(一八〇九)四月、本家が一〇万石になって三ヵ月後、幕臣で四〇〇〇石の黒石津軽家,は、本家弘前津軽家の強力な運動によって、一万石に高直しされ、大名に昇格した。,黒石津軽氏は、明暦二年(一六五六)二月、四代藩主津軽信政の叔父である信英(のぶふさ)が、五〇〇〇石をもって,本家に入る貢米のうち、六〇〇〇石を足し与えて、表高(おもてだか)を一万石の大名に上昇させれば、蝦夷地と,このように一藩の内部において、領地を動かさず行う石高操作を「足石(たしこく)」という。 / 黒石津軽家の大名昇格
資料編1(考古編) ((2)石器)

岩手県軽米高校の教師をしていた鈴木孝志によって命名されたが*68、機能・用途の実態はまだ把握されていない,石器及び石製品には以上のもののほかに、石鏃(せきぞく)・石槍・石匙(さじ)・打製石斧・磨製石斧・スクレパー・,石錐・異形石器・不定形石器・剥片利用石器などの利器や刃器と、石棒・石剣・石刀のような石製品、並びに装身具,石器の形態から名付けられた定角並びに乳棒(にゅうぼう)状石斧と、原石を扁平な磨石(砥石)で擦って作り上,以上のように、利器としての機能を有するこれらの石器の原材は、石鏃・石槍・箆状石器・石匙・石錐・トランシェ / (2)石器
資料編1(考古編) (3.石川長者森遺跡)

3.石川長者森遺跡 (遺跡番号 02088)(図40~45) (1)所在地 弘前市大字石川字長者森,9番地ほか (2)遺跡の立地  遺跡は標高60m~80m、長さ約240m、幅50m~130mの独立,(3)調査の経緯  学校法人東奥義塾の移転に伴い、石川長者森遺跡発掘調査委員会及び石川長者森遺跡発掘調査団,調査面積から推測すると、隣接地にはまだ多くの類似遺構が検出される可能性が高い。  ,これらの空堀跡は、丘陵斜面上の標高66~71mの等高線上にあることから、この位置で丘陵全体を囲っているものであろう / 3.石川長者森遺跡
通史編1(自然・原始) (座頭石のチャート)

座頭石のチャート ツツジの名所でもある座頭石は、稲刈沢の河床から垂直な壁がそびえた、一〇〇メートル余,りもの高さをもつ大岩壁である(写真64)。,岩壁に登るのは危険なので、崖のふもとで手の届く範囲の岩石や、足下の岩石を注意深く観察してみよう。,上下ともにこぶし大の転石。  ,チャート、凝灰岩も元来は海洋プレートの上に層状に堆積していたのだが、後述のように陸側へ付加される時に、高い / 座頭石のチャート
通史編5(近・現代2) (高度経済成長の終焉)

高度経済成長の終焉 昭和四十六年(一九七一)に、アメリカのニクソン大統領は、金とドルの交換停止を主な,このことによりドルの円に対する価値が下がり、円高となり、日本の輸出が不利となって景気が後退した。,この影響は、ニクソン・ショックと重なり、日本経済に深刻な影響を与え、高度経済成長は行き詰まった。,こうした経過は日本の高度経済成長を終焉させ、安定成長への転換を促した。  ,昭和六十年のアメリカでの五ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議におけるプラザ合意による円高の容認は、日本にバブル / 高度経済成長の終焉
資料編1(古代・中世編) ((1)南北朝時代の「石川楯」)

」に立てこもり抗戦を続けた(元弘四年正月十日曽我光高代沙弥道為軍忠状案、建武元年六月日曽我光高申状・曽我光高軍忠状,石川の地は、この時代、津軽平賀郡岩楯郷に属していたと思われ、給主曽我光高は、国府=建武政府側について奮戦,曽我光高軍忠状は、光高が石川合戦で討ち取った者として「曽我彦三郎・曽我与次若党」以下の名を、また建武元年十二月十四日,石川楯は五月に陥落したらしく、曽我光高軍忠状に「五月廿一日石河合戦事、分取頭 ……」、建武元年六月十二日北畠顕家御教書,しかし、名越時如・安達高景を主将とする北条勢は、奥地の持寄(もちよせ)城(中津軽郡相馬村)に立てこもって / (1)南北朝時代の「石川楯」
通史編5(近・現代2) (草薙小学校大石寮の設置)

草薙小学校大石寮の設置 草薙小学校学区の大石開拓部落(のち大石農場と呼称)は、昭和三十八年(一九六三,)春入植、大石神社附近の標高二〇〇メートルの原野を開拓して酪農を営んだが、その戸数は一四戸であった。,三十九年当時、大石開拓部落から草薙小学校に通学する児童は八人、通学距離は六キロメートルもあった。,市教委は、季節分校の設置より、大石部落の児童を通年収容する寄宿舎を設置することが、はるかに教育効果を高,写真194 草薙小学校大石寮全景  しかし、大石農場での酪農は、その後の経営が軌道に乗らなかったため / 草薙小学校大石寮の設置
通史編2(近世1) (信政の襲封と黒石分知)

信政の襲封と黒石分知 明暦元年(一六五五)十一月二十五日に津軽信義が江戸で死去した(資料近世1No.,も止められた(『黒石市史』通史編I)。,その結果、黒石領分二〇〇〇石、平内領分一〇〇〇石が打ち出された。,この時の目録によれば、領地の内高は一万石を超える(同前)。,図87.黒石領内図(上)と黒石領平内之図(下) / 信政の襲封と黒石分知
通史編5(近・現代2) (指導者・石岡彦一)

指導者・石岡彦一 農民組合の出した声明書によると、相馬村の一件は次の状況だった。,この昭和六年九月、石岡彦一は全国農民組合本部へ次のような手紙を書いている。,青森県弘前市外清水村下湯口           清水村準備会 石岡彦一  全農本部御中      ,写真89 清水農民組合(昭和23年頃)(矢印が石岡彦一、最前列左端から三浦勝三郎・大沢久明・田村文雄・,津川武一、二列目左端から二人目が大高勝次郎) / 指導者・石岡彦一
資料編1(考古編) (1.旧石器時代の概観)

旧石器時代とは、硬質の石を打ち欠いて鋭利な刃を持つ石器(旧石器)を作り、それを生活に必要な利器(刃物),図1 旧石器時代の石器 群馬県笠懸町岩宿遺跡の現状 石刃(ブレード)… 野辺地町・目ノ越遺跡,近年の調査研究によると、大きく新聞等に報道された宮城県栗原郡築館町の高森遺跡をはじめ*2、同県の北部を,前期旧石器時代 後期旧石器時代 中石器時代 礫器→スクレパー →ナイフ形石器→彫刻刀形石器→(石刃技法,)→尖頭器→細石刃→ 片刃石斧→有舌尖頭器 また、芹澤長介は、各地で発掘された石器と出土した地層とを / 1.旧石器時代の概観
通史編2(近世1) (津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)

四〇〇〇石は実際に黒石津軽家が内分で得ている知行地の高であり、六〇〇〇石は蔵米支給のため、判物の役割りである,次に朱印状・判物に記載される石高の変化及び領知の移動についてである(津軽家の領知高変動については、長谷川成一,(一六九八)黒石津軽家が上野国の残り一五〇〇石と天領(表高一一二八石三斗五升)との交換を願い出て許可され,しかし、文化五年の際同時に高直りを受け二〇万石の領知高となった南部家の場合、幕府に領知宛行状の発給について,に高直りするまでの期間に、弘前藩は、「津軽之高四万五千石」と飛地領を加えた高を本高として公役を賦課されたのであって / 津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動
資料編1(考古編) (2.青森県の旧石器時代(図1))

2.青森県の旧石器時代(図1) 青森県に関する旧石器時代の研究は、発見した遺跡等が少ないために進展していない,しかし、我が国における旧石器発見への願望と研究の礎は、昭和初期に本県で採集された石片を基として、学会誌上,を採集し、研究の結果、フランスの前期旧石器であるシエレアン文化以前の旧石器ないしはエオリス(原石器)に,下北郡東通村尻屋字物見台 ナイフ形石器ほか 2 〃 大川目 むつ市城ヶ沢字大川目 石刃・ナイフ形石器,・剥片・スポール(削片) 13 〃 尻高(4) 東津軽郡平館村今津字尻高川 石刃 14 〃 大平山元Ⅱ / 2.青森県の旧石器時代(図1)
通史編5(近・現代2) (弘前電波高校の開校)

弘前電波高校の開校 昭和三十二年(一九五七)、弘南電鉄南弘前駅の近くに、弘前電波高校の前身たる弘前高等電波学校,四十三年、弘前高校を退職したばかりの庄司初郎を校長に迎えた。,これが高等学校昇格のための布石となって、翌年には高校設置の基準に達したと認められ、電子科四クラスの学校法人弘前電波高等学校,四十四年(一九六九)四月、晴れて電波高校としての第一回入学式が行われ、一二〇人の新入生を迎えた。,なお、高校設置に伴い、各種学校としての電波学校の方はこの年から新入生を募集せず、四十六年、最後の卒業生 / 弘前電波高校の開校
通史編1(古代・中世) (堀越城・石川城を中心とした城館群)

や沖館城跡・高畑城跡・新館城跡などの城館跡が点在し、南側には森山館跡をはじめとし、大鰐町の蔵館(くらだて,この東側後方には神岡(かみおか)山があり、そこには高伯(こうはく)寺跡がある。,その上流の山手には三ツ目内城の「高館」があるといわれている。,高館の立地について「由緒書抜」には「御中小性 小友左蔵」の中に「三ツ目内村比内領御境目見継役被仰付」と,しかし何らかの施設が存在していた可能性は高い。   / 堀越城・石川城を中心とした城館群
通史編4(近・現代1) (県立弘前高等女学校)

県立弘前高等女学校 大正時代、県立弘前高等女学校の校長は三人いるが、第二代の永井直好は明治三十六年(,国民的作家といわれた石坂洋次郎は、弘前市出身だが、十四年七月十五日から翌年の八月二十五日までのわずか一年余,石坂の場合は、作家志望のためとか人間関係のいざこざとかいろいろあるが、待遇がよく、そこにたまたま勤めていた,これまでは青森・碇ヶ関・黒石などへのいわば遠足にすぎなかったのが、本格的な修学旅行への幕開けとなった。,参加校は、弘高女・青高女・青女師・青森女子実業・八高女の五校であったが、試合は問題なく弘高女が他校を圧 / 県立弘前高等女学校
通史編5(近・現代2) (鉄道の高速化)

鉄道の高速化 自家用車の普及に伴う鉄道利用客の減少に歯止めをかけるため、輸送サービスの質的向上を目的,これにより弘南黒石-弘南弘前間は従来に比べ七分短縮され、二四分で結ばれることになった。   / 鉄道の高速化
通史編2(近世1) (城下高岡の形成)

城下高岡の形成 当時、弘前は「二石(についし)」と呼ばれており、築城後は、「高岡(たかおか)」と呼ばれた,なお、「高岡」の地名由来は「鷹が営巣(えいそう)する岡」にあるらしく、慶長十五年八月幕府の鷹匠三橋但馬,築城当時の城下高岡がどのような状況であったのかは、資料がなく不明である。,68.正保2年津軽弘前城之絵図  基本的には、両絵図は弘前城を中心に、城下の町割りの様子、台地や石垣,書かれており、それにより町名がわかるところは、袰(ほろ)町(現四の郭)、侍町(現三の丸)、大浦町、黒石町 / 城下高岡の形成
通史編1(自然・原始) (水系と等高線の配置)

水系と等高線の配置 図7には岩木火山周辺の水系および等高線の配置を示した。,まず等高線の配置をみると、標高約五〇〇メートルを境にしてその間隔に違いが認められる。,)(下流側で鳴沢川)から時計回りに、長前(ちょうまえ)川・赤倉(あかくら)沢(下流側で大石川)・前萢(,これらの放射谷は、図8の断面に示したが、岩木火山体の高度約五〇〇メートル以高にあっては比高五〇メートル,しかし、火山麓扇状地内では土石流などで供給された砂礫により谷底が埋積され扇状地面とほとんど高度差が認められない / 水系と等高線の配置
通史編4(近・現代1) (弘高女の運動会)

弘高女の運動会 弘前高等女学校の運動会は、その華やかなことで、生徒だけでなく弘前市民の間でも楽しみにされていたが,、創立十周年の運動会に参加した第七回卒業生石戸谷きよは、次のように述べている。,(前掲『母校今昔』) 写真113 弘高女運動会賞品授与(大正初年)  見物人にはもう一つの,明治四十三年十月には、高等女学校令が改正され、高等女学校にも実科教育に関する規定が設けられた。 / 弘高女の運動会
通史編1(自然・原始) (第二節 旧石器時代)

第二節 旧石器時代 果てしないほど広大な宇宙の惑星の一つである地球が誕生したのは、今から四五億年前といわれている,っているわれわれ人類は、『地球カレンダー』の上ではその誕生からわずか四時間に過ぎず、その短い時間のなかで今日の高度 / 第二節 旧石器時代
通史編2(近世1) (越後高田領検地の実施)

津軽家が担当する検地受持分は、高田領二四万石のうち刈羽(かりわ)・三嶋(さんとう)両郡で六万九〇〇〇石余,このような中で、現地の幕府代官から渡された清書の帳面の石高と、江戸で下付された高割帳のそれが相違し、検地条目,それによると三嶋郡の農村三組(五千石組、批把嶋組、小国東組)は合わせて六五ヵ村(含新田村)で、検地総高,古高は一万七四二七石六斗であるから、打出高(うちだしだか)は一七四一石六斗一合となり、約一割の打ち出しがみられたことになる,すなわち新検高には人為的な操作が施され、越後高田領の石高は幕府と検地担当藩との間で、人為的に決定されたものと / 越後高田領検地の実施
通史編2(近世1) (信寿の高増運動)

大名の社会でも、領地の石高、将軍家との親疎などの要素から家格が決定され、これらの要素の外に、大名が叙任,そういった家格を高めるために、大名たちはさまざまな運動を展開していく。  ,津軽弘前藩では高増願(たかましねがい)を享保八年(一七二三)に行っていた。,これら三点の史料の目的は、高増の実現のため、幕藩体制のなかに当藩の積極的な位置づけを図るとともに、高増,図113.高増に関する信寿の内存を記した書付  しかし幕府は津軽家の高増願を認めなかった。 / 信寿の高増運動
資料編3(近世編2) (第二節 藩政改革の実施と黒石藩の成立)

第二節 藩政改革の実施と黒石藩の成立 一 寛政改革の実施  (一)改革意見書  (二)改革の諸政策, (三)藩士土着政策の実施   二 化政期藩政の動向と黒石藩  (一)廃田・新田開発の展開, (二)国産の奨励  (三)文化の高直り  (四)相馬大作事件  (五)黒石藩の成立   三 / 第二節 藩政改革の実施と黒石藩の成立
通史編4(近・現代1) (高等学校誘致運動の展開)

高等学校誘致運動の展開 明治二十七年(一八九四)に制定された高等学校令により、明治四十一年までに全国,(東京)、第二高等学校(仙台)、第三高等学校(京都)、第四高等学校(金沢)、第五高等学校(熊本)、第六高等学校,(岡山)、第七高等学校(鹿児島)、第八高等学校(名古屋)があった。,冠する高等学校の増設が図られるようになった。  ,弘前市においても高等学校誘致運動がいっそう盛んになり、同年七月には石郷岡文吉市長から市会に提出された高等学校設置 / 高等学校誘致運動の展開
通史編1(自然・原始) (平野内の水系と等高線の配置)

平野内の水系と等高線の配置 津軽平野および周辺の水系として、まず一級河川である岩木川があげられる(図,途中の藤崎付近では、大鰐山地に源を発する平(ひら)川と十和田湖の外輪山に源を発する浅瀬石(あせいし)川,河口からの距離が六〇キロメートル以遠の相馬村からは勾配が急となり、標高二〇〇メートル付近には目屋ダムで,流れる河川として中村(なかむら)川・赤石(あかいし)川・追良瀬(おいらせ)川・笹内(ささない)川などがあるが,平野内の等高線をみると、藤崎以北では標高二〇メートル未満で、勾配が一〇〇〇分の一以下の平坦な沖積低地( / 平野内の水系と等高線の配置
通史編5(近・現代2) (輝く弘前工高のスポーツ)

輝く弘前工高のスポーツ 弘前工業高校の歴史をひもとくとき、工業界における活躍はもとより、スキー、ボクシング,甲子園初勝利は、翌平成元年夏に連続出場を果たしたときで、沖縄石川校を五対一で下したが、二戦目(三回戦),五十二年に全国高校バレーボール選手権大会で初優勝を飾り、さらに全国高校総体、あすなろ国体でも優勝し、前人未踏,その他、紙幅の都合で書き切れないほどの活躍が弘前工業高校には燦然と輝いている。,写真204 弘前工業高校あすなろ国体で優勝(昭和52年10月6日) / 輝く弘前工高のスポーツ
通史編5(近・現代2) (高速交通体系の整備)

高速交通体系の整備 昭和四十一年七月、東北地方の高速交通体系の整備として、東北縦貫自動車道建設(岩槻,においては津軽平野東端の丘陵地帯を北上する計画(昭和四十二年十一月決定)であったため、昭和四十四年四月、黒石市,では高速自動車道交通対策特別委員会を発足させ、整備計画による建設促進の陳情運動を積極的に展開した。,これに対し、黒石市側か反論し、通過路線に関して両市が対立した。,結局、青森県議会議長が、弘前市側から要望された西・北津軽郡地方と高速道路を結ぶバイパス建設の促進等の四項目実現 / 高速交通体系の整備
資料編1(考古編) (28.尻高沢層Ⅲ)(しりたかざわそう))

28.尻高沢層Ⅲ)(しりたかざわそう) 岩井(1965)の命名による。,模式地は、西目屋村湯ノ沢上流より尻高沢一帯。藍内川・藤倉川・大沢川・横倉川などの流域に広く分布する。,変朽安山岩は、緑泥石化・曹長石化・珪化・赤鉄鉱化などの変質作用を強く受けている。,自破砕溶岩*40相を経て石質の凝灰角礫岩相に移化する。,また、安山岩溶岩には斜長石の巨斑晶を持つ斜長石ヒン岩が存在するが、貫入岩的産状は確認されていない。 / 28.尻高沢層Ⅲ)(しりたかざわそう)
通史編2(近世1) (赤石安右衛門・菊池寛司の「覚」)

収納高が減少したとしている。  ,後述のように、寛政二年(一七九〇)十月、土着令と同時に凶作の備えとして百姓に対して高一〇石につき米三斗分,にかかわるものは、毛内宜応の意見書とほぼ共通しており、荒田開発・帰農等による藩庫増収、軍役確保、物価高騰,この「半知」の措置は、後に各自の開発地を知行高に加えることを前提にしていると考えられるのであるが、いわゆる,結局寛政四年令では、年貢徴収率を生産高の六割(六ツ物成)から四割(四ツ物成)にすることで落ち着いている / 赤石安右衛門・菊池寛司の「覚」
資料編1(古代・中世編) (三 石川城「縄張り(平面プラン)」の復元)

三 石川城「縄張り(平面プラン)」の復元 現在の石川城跡は、城域の内部をJR奥羽本線が通過しているほか,(1)分限図(明治二十七年測量)(図4)   ア、大字石川字大仏   イ、大字石川字平山   ウ,、大字石川字寺山 図4 石川城跡分限図(大仏ケ鼻城、岡館、猿楽館、月館、及び寺屋敷地区),の縄張り図 (『青森県南津軽郡石川町郷土史』より) 天和四年上石川村書上絵図(写),地元住民からの聞き取り  このうち、(1)により明治時代初期における遺構のありさまを、(3)からは高度経済成長以前 / 三 石川城「縄張り(平面プラン)」の復元
通史編1(古代・中世) (安藤高季の活躍)

安藤高季の活躍 高季は、建武方に加わって大光寺合戦にも参戦し、新たに平賀郡上柏木郷(現平賀町柏木町付近,建武元年(一三三四)五月、石河(川)合戦での安藤五郎六郎などもその例であった(史料六三九)。   / 安藤高季の活躍
資料編1(考古編) (5.浅瀬石川玄武岩Ⅷ)(あせいしがわげんぶがん))

5.浅瀬石川玄武岩Ⅷ)(あせいしがわげんぶがん) 村岡・長谷(1990)の命名による。,模式地は、黒石市板留(いたどめ)南方の浅瀬石川沿い。,黒石市南中野から一ノ渡までの浅瀬石川西岸に分布する。岩相は、緑色変質し暗緑色を呈する玄武岩から成る。,緑泥石から成る杏仁状(きょうじんじょう)*18孔隙(こうげき)が見られることがある。  ,備考:小高(1970)の沖浦玄武岩部層に相当する。 / 5.浅瀬石川玄武岩Ⅷ)(あせいしがわげんぶがん)
資料編1(考古編) (25.黒石扇状地堆積物Ⅷ)(くろいしせんじょうちたいせきぶつ))

25.黒石扇状地堆積物Ⅷ)(くろいしせんじょうちたいせきぶつ) 岩井(1980)の命名によるが、ここでは,模式地は、黒石市高館川上流域。高清水山より北西の丘陵地域に広く分布する。,また、黒石市街地におけるボーリング調査から、海水準下約390mまで厚い礫層が存在することが確認されている,岩相は、塊状で淘汰不良の亜円礫層から成り、上記火砕流堆積物に由来する軽石は普遍的に混入する。,備考:岩井(1980)の黒石市街地に伏在する扇状地堆積物の主要部分に相当する。 / 25.黒石扇状地堆積物Ⅷ)(くろいしせんじょうちたいせきぶつ)
通史編5(近・現代2) (弘前実科高等女学校の変遷)

わったのが弘前実科高等女学校である。,、女子実業学校から四年制の弘前実科高等女学校に昇格した。,忠霊塔建設のための石を採集したり、養蚕、南塘農園の農作業などに精を出している。,写真73 農耕作業に出る弘前市立弘前高等女学校生(昭和18年頃)  十八年には弘前市立弘前高等女学校,高杉・独狐の託児所にも出かけている。 / 弘前実科高等女学校の変遷
通史編2(近世1) (土着策実施への布石(Ⅱ期))

土着策実施への布石(Ⅱ期) 寛政二年(一七九〇)十月一日、土着策について再び大目付より法令が出された,(1)近年の物価高により、扶持米だけでは小給で家内人数の多い者は生活が困難である。,こうして、同三年一月、赤石安右衛門が郡奉行(勘定奉行兼帯)に、菊池寛司が勘定奉行(郡奉行兼帯)に登用され / 土着策実施への布石(Ⅱ期)
資料編3(近世編2) (●高照神社 岩木町大字百沢字神馬野)

●高照神社 岩木町大字百沢字神馬野 (一)本殿--県重宝  津軽四代信政が神式で埋葬されたところであり,図31 高照神社本殿・拝殿・幣殿平面図 (二)中門--県重宝  一間一戸の平唐門で屋根は柿葺であり,幣殿から中門まで、石敷きの床に連子窓を連ねた長い廊下が付けられているのは珍しい。 / ●高照神社 岩木町大字百沢字神馬野
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