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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編5(近・現代2)
(石油危機の推移と高度成長の終焉)
石
油危機の推移と
高
度成長の終焉 一九七一年(昭和四六)夏、米国はベトナム戦争につまずき、ドル防衛に入,「日本列島改造論」は、田中が各省庁の専門家集団を動員して作り上げた
高
度成長期以後の日本の設計図である。,この政策から企業の土地買い占めが起こって全国の土地が投機の対象となり、諸物価の
高
騰が始まった。,の生活、総じて消費の多寡を文明のバロメーターとする
高
度成長によるエネルギーの需要増の生活に無警戒に惑溺,かくて
高
度成長の時代は終わった。 /
石
油危機の推移と
高
度成長の終焉
通史編1(自然・原始)
(黒石面)
黒
石
面 黒
石
面には、黒
石
市街地のほぼ全域および浅瀬
石
川南岸の
高
賀野(こがの)、尾上町金屋(かなや)・,は黒
石
市街地で標
高
約三五~九五メートルと約六〇メートルの
高
度差があって、一〇〇〇分の一〇~二〇と平野部側,以
高
では一〇〇〇分の一五~二〇と面の勾配が特に大きい。,軽
石
質砂層の上半部は含水性の
高
い、径〇・二センチメートル大の亜角礫~亜円礫(14)の混入が目立つ軽
石
質砂層,軽
石
質砂層の上半部は含水性の
高
い、径〇・一~〇・三センチメートル大の亜角礫~亜円礫の混入が目立つ淘汰不良 / 黒
石
面
通史編1(自然・原始)
(高杉面)
高
杉面
高
杉面は岩木川以北に分布し、市街地の城東面に対比される。,面の
高
度は鼻和・富栄付近で約三七~四〇メートル、独狐で約三二~三三メートル、前坂・
高
杉で約二七~二八メートル,後背湿地とは比
高
一~二メートルの傾斜面で臨んでいる。 ,このうち、最上位の黄灰色砂質粘土は碇ヶ関浮
石
層に相当し、また軽
石
粒混じりの細粒砂層中には埋もれ木が含まれることが,ところで、
高
杉面を構成する駒木浮
石
流凝灰岩に相当する軽
石
粒混じり粗粒砂層は、砂沢溜池に注ぐ小谷および前萢川流域 /
高
杉面
通史編1(自然・原始)
(環状列石)
式土器期)、青森市南郊の八甲田山地から枝状に延びる台地上に造営され、一九八九年(平成元)から青森山田
高
校,であり、数個ないし数十個の
石
を一つの単位とする集
石
の配列によって構成され、なかには立
石
を伴うものもある,
石
の組み方は河原
石
を一列または二列に円・楕円・長方形の形状に配列し、内部に立
石
または数個の
石
を積んだ組
石
,(特殊組
石
ともいわれる)、河原
石
を単に円または方形に配したもの、立
石
を中心に柱状の
石
(安山岩が多い)を,放射状に配列した組
石
(日時計ともいわれる)、立
石
の相互間を数段にわたって横
石
を積み上げた組
石
(特殊な組 / 環状列
石
資料編1(考古編)
((2)集石・配石遺構)
(2)集
石
・配
石
遺構
石
を利用して造られた遺構には、
石
棺墓のほかに、集
石
・配
石
などと言われる遺構もあり,、その大規模なものとして、
石
を大きく円形に配
石
した環状列
石
(ストーン・サークル)がある。,集
石
・配
石
遺構は、土壙墓の上部を多数の
石
で覆ったもの、火を焚いた炉跡としての性格を持つもの、何かの施設,述べたように、環状列
石
を中心とした同心円上の遺構配置に結び付く可能性も
高
い。,この小牧野における列
石
の組
石
は、縦
石
と縦
石
の間に横
石
を数枚重ねるという特殊な
石
の組み方をしており*226 / (2)集
石
・配
石
遺構
通史編1(古代・中世)
(石川楯の合戦)
石
川楯の合戦 北条方はついで
石
川楯に立て籠って抵抗を続けたが、これも曽我光
高
らの奮戦で、建武元年(一三三四 /
石
川楯の合戦
資料編1(考古編)
(9.高長根山遺跡)
9.
高
長根山遺跡 (遺跡番号 02070)(図22~24) (1)所在地 弘前市大字中別所字向野,(2)遺跡の立地 岩木山の東麓に点在する小丘陵の一つ、標
高
172.0mを有する
高
長根山の南東に位置,
高
長根山遺跡の復元住居 図22
高
長根山遺跡(縄文後期)出土土器 台付浅鉢形土器,深鉢形土器 浅鉢形土器 図23
高
長根山遺跡出土
石
器 図24
高
長根山遺跡出土,の
石
器・
石
製品 ※参考文献 弘前市教育委員会 『
高
長根山遺跡』 1981年3月 / 9.
高
長根山遺跡
資料編1(古代・中世編)
(一 石川城の立地と現状)
一
石
川城の立地と現状
石
川城跡は、弘前市
石
川字大仏・平山・寺山・小山田、
石
川集落の南の大仏ケ鼻丘陵,城内の最
高
所は南東端の大仏ケ鼻丘陵で、標
高
は九七・九メートル。,その西側、通称寺屋敷地区もほぼ同じ
高
さの丘陵をなし、大仏ケ鼻の南側は比
高
差四〇メートルの断崖となって切,北西に続く台地は標
高
六〇メートルほどの平坦地だが、ここでも低地との比
高
差は一〇メートル近くに達する。,には、1大仏ケ鼻城、2岡館、3猿楽館、4月館(2~4を総称して次兵衛殿館ともいう)、5坊館、6寺館、7
高
田館 / 一
石
川城の立地と現状
通史編2(近世1)
(二度の高直り)
二度の
高
直り 文化二年(一八〇五)五月、九代藩主津軽寧親(やすちか)は、領知
高
四万六〇〇〇
石
が七万
石
,に上昇する
高
直(たかなお)りの栄誉を幕府から受けた。,七万
石
の時と同様、
高
直りの一〇万
石
には領地の拡大はなく、これまでどおり、津軽郡一円の領知であった。,藩主寧親は、一〇万
石
への
高
直りを機会に、弘前城天守の再興を企図した。,禄
高
一〇〇
石
につき一ヵ年に一〇人ずつの割合であった。そのほか下級藩士、町人、百姓がかり出された。 / 二度の
高
直り
通史編1(自然・原始)
(古懸浮石流凝灰岩)
台地は河床面から約二〇~三〇メートルの
高
度差が認められ、平野寄りの大鰐町宿川原(しゅくがわら)や支流である,(標
高
40~43m)の堀跡。,(標
高
40~43m)の堀跡。,正平津川流域の比
高
10mの火砕流台地を構成する凝灰岩中に含まれる炭化物。,浪岡城跡がのる扇状地(標
高
45m)を構成する軽
石
流凝灰岩中の炭化物を測定。 / 古懸浮
石
流凝灰岩
資料編1(古代・中世編)
((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)
右の記録は津軽側のものだが、南部
高
信の津軽平定と
石
川居城は、南部側の記録でも元亀三年(一五七二)の事件,しかし、
石
川大仏ケ鼻は津軽平野の南の入口をなす戦略的要地に位置し、要害の地でもあるから、
高
信の入部以前,このときの、南部安信・
高
信による津軽平定と
石
川居城は、南部氏の領国支配強化政策の中で行われたことであった,」南部
高
信であった。,これらの城館も単独ではなく、南部
高
信時代の三戸との「繋(つな)ぎの城」、あるいは板垣兵部時代の
石
川城防衛 / (2)戦国時代の「
石
川城(
石
川大仏ケ鼻城)」
資料編1(古代・中世編)
(四 板碑の様式と石質)
四 板碑の様式と
石
質 津軽地方の板碑は、関東地方の板碑と違って自然
石
を利用しており、緑泥片岩を使用した,緑泥片岩を利用した日
高
市四本松の板碑 しかし碑面には、関東地方の板碑に似せるために郭線に工夫を,
石
質については、安山岩が圧倒的に多いほか、
石
英安山岩・流紋岩・溶結凝灰岩などが用いられている。,岩木山の周辺の板碑は、岩木町兼平や弘前市大森に見られる輝
石
安山岩に類似した
石
質である。 ,なお、板碑の
高
さは、弘前市中別所の弘安十年(一二八七)八月の板碑が二・六メートルあり、津軽地方最
高
である / 四 板碑の様式と
石
質
通史編3(近世2)
(高岡霊社)
高
岡霊社
高
岡霊社(たかおかれいしゃ)(現
高
照神社、中津軽郡岩木町)は四代藩主信政を祀る。,神主に当たる祭司役を置き、供料田三〇〇
石
が寄進された。,同社は藩士から「
高
岡様」と崇敬された。,明治元年(一八六八)の「
高
岡祭司下役并御宮附小人共迄人別増減書上帳」(
高
照神社蔵)によれば、祭司役の配下,図231.
高
照神社 /
高
岡霊社
通史編1(自然・原始)
(駒木浮石流凝灰岩)
重鉱物組成では磁鉄鉱・紫蘇輝
石
・普通輝
石
の順に多く含まれ角閃
石
を欠いている。,平川および浅瀬
石
川流域にみられる火砕流堆積物を駒木浮
石
流凝灰岩と呼称し、大不動浮
石
流凝灰岩に対比される,、堆積物上面は標
高
二三〇メートル以上あり、標
高
約二〇〇メートルのダムの湖水面からみても三〇メートル以上,この堆積物はダム湖南端に流れ込む深沢でも認められ、標
高
約二五〇メートルあり、異質礫の混入もなく均質な塊状,重鉱物組成ではいずれも磁鉄鉱・紫蘇輝
石
・普通輝
石
の順で多く含まれ角閃
石
を欠いている。 / 駒木浮
石
流凝灰岩
資料編1(考古編)
((2)石器)
岩手県軽米
高
校の教師をしていた鈴木孝志によって命名されたが*68、機能・用途の実態はまだ把握されていない,
石
器及び
石
製品には以上のもののほかに、
石
鏃(せきぞく)・
石
槍・
石
匙(さじ)・打製
石
斧・磨製
石
斧・スクレパー・,
石
錐・異形
石
器・不定形
石
器・剥片利用
石
器などの利器や刃器と、
石
棒・
石
剣・
石
刀のような
石
製品、並びに装身具,
石
器の形態から名付けられた定角並びに乳棒(にゅうぼう)状
石
斧と、原
石
を扁平な磨
石
(砥
石
)で擦って作り上,以上のように、利器としての機能を有するこれらの
石
器の原材は、
石
鏃・
石
槍・箆状
石
器・
石
匙・
石
錐・トランシェ / (2)
石
器
通史編2(近世1)
(黒石津軽家の大名昇格)
黒
石
津軽家の大名昇格 文化六年(一八〇九)四月、本家が一〇万
石
になって三ヵ月後、幕臣で四〇〇〇
石
の黒
石
津軽家,は、本家弘前津軽家の強力な運動によって、一万
石
に
高
直しされ、大名に昇格した。,黒
石
津軽氏は、明暦二年(一六五六)二月、四代藩主津軽信政の叔父である信英(のぶふさ)が、五〇〇〇
石
をもって,本家に入る貢米のうち、六〇〇〇
石
を足し与えて、表
高
(おもてだか)を一万
石
の大名に上昇させれば、蝦夷地と,このように一藩の内部において、領地を動かさず行う
石
高
操作を「足
石
(たしこく)」という。 / 黒
石
津軽家の大名昇格
資料編1(考古編)
(3.石川長者森遺跡)
3.
石
川長者森遺跡 (遺跡番号 02088)(図40~45) (1)所在地 弘前市大字
石
川字長者森,9番地ほか (2)遺跡の立地 遺跡は標
高
60m~80m、長さ約240m、幅50m~130mの独立,(3)調査の経緯 学校法人東奥義塾の移転に伴い、
石
川長者森遺跡発掘調査委員会及び
石
川長者森遺跡発掘調査団,調査面積から推測すると、隣接地にはまだ多くの類似遺構が検出される可能性が
高
い。 ,これらの空堀跡は、丘陵斜面上の標
高
66~71mの等
高
線上にあることから、この位置で丘陵全体を囲っているものであろう / 3.
石
川長者森遺跡
通史編1(自然・原始)
(座頭石のチャート)
座頭
石
のチャート ツツジの名所でもある座頭
石
は、稲刈沢の河床から垂直な壁がそびえた、一〇〇メートル余,りもの
高
さをもつ大岩壁である(写真64)。,岩壁に登るのは危険なので、崖のふもとで手の届く範囲の岩
石
や、足下の岩
石
を注意深く観察してみよう。,上下ともにこぶし大の転
石
。 ,チャート、凝灰岩も元来は海洋プレートの上に層状に堆積していたのだが、後述のように陸側へ付加される時に、
高
い / 座頭
石
のチャート
通史編5(近・現代2)
(高度経済成長の終焉)
高
度経済成長の終焉 昭和四十六年(一九七一)に、アメリカのニクソン大統領は、金とドルの交換停止を主な,このことによりドルの円に対する価値が下がり、円
高
となり、日本の輸出が不利となって景気が後退した。,この影響は、ニクソン・ショックと重なり、日本経済に深刻な影響を与え、
高
度経済成長は行き詰まった。,こうした経過は日本の
高
度経済成長を終焉させ、安定成長への転換を促した。 ,昭和六十年のアメリカでの五ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議におけるプラザ合意による円
高
の容認は、日本にバブル /
高
度経済成長の終焉
資料編1(古代・中世編)
((1)南北朝時代の「石川楯」)
」に立てこもり抗戦を続けた(元弘四年正月十日曽我光
高
代沙弥道為軍忠状案、建武元年六月日曽我光
高
申状・曽我光
高
軍忠状,
石
川の地は、この時代、津軽平賀郡岩楯郷に属していたと思われ、給主曽我光
高
は、国府=建武政府側について奮戦,曽我光
高
軍忠状は、光
高
が
石
川合戦で討ち取った者として「曽我彦三郎・曽我与次若党」以下の名を、また建武元年十二月十四日,
石
川楯は五月に陥落したらしく、曽我光
高
軍忠状に「五月廿一日
石
河合戦事、分取頭 ……」、建武元年六月十二日北畠顕家御教書,しかし、名越時如・安達
高
景を主将とする北条勢は、奥地の持寄(もちよせ)城(中津軽郡相馬村)に立てこもって / (1)南北朝時代の「
石
川楯」
通史編5(近・現代2)
(草薙小学校大石寮の設置)
草薙小学校大
石
寮の設置 草薙小学校学区の大
石
開拓部落(のち大
石
農場と呼称)は、昭和三十八年(一九六三,)春入植、大
石
神社附近の標
高
二〇〇メートルの原野を開拓して酪農を営んだが、その戸数は一四戸であった。,三十九年当時、大
石
開拓部落から草薙小学校に通学する児童は八人、通学距離は六キロメートルもあった。,市教委は、季節分校の設置より、大
石
部落の児童を通年収容する寄宿舎を設置することが、はるかに教育効果を
高
,写真194 草薙小学校大
石
寮全景 しかし、大
石
農場での酪農は、その後の経営が軌道に乗らなかったため / 草薙小学校大
石
寮の設置
通史編2(近世1)
(信政の襲封と黒石分知)
信政の襲封と黒
石
分知 明暦元年(一六五五)十一月二十五日に津軽信義が江戸で死去した(資料近世1No.,も止められた(『黒
石
市史』通史編I)。,その結果、黒
石
領分二〇〇〇
石
、平内領分一〇〇〇
石
が打ち出された。,この時の目録によれば、領地の内
高
は一万
石
を超える(同前)。,図87.黒
石
領内図(上)と黒
石
領平内之図(下) / 信政の襲封と黒
石
分知
通史編5(近・現代2)
(指導者・石岡彦一)
指導者・
石
岡彦一 農民組合の出した声明書によると、相馬村の一件は次の状況だった。,この昭和六年九月、
石
岡彦一は全国農民組合本部へ次のような手紙を書いている。,青森県弘前市外清水村下湯口 清水村準備会
石
岡彦一 全農本部御中 ,写真89 清水農民組合(昭和23年頃)(矢印が
石
岡彦一、最前列左端から三浦勝三郎・大沢久明・田村文雄・,津川武一、二列目左端から二人目が大
高
勝次郎) / 指導者・
石
岡彦一
資料編1(考古編)
(1.旧石器時代の概観)
旧
石
器時代とは、硬質の
石
を打ち欠いて鋭利な刃を持つ
石
器(旧
石
器)を作り、それを生活に必要な利器(刃物),図1 旧
石
器時代の
石
器 群馬県笠懸町岩宿遺跡の現状
石
刃(ブレード)… 野辺地町・目ノ越遺跡,近年の調査研究によると、大きく新聞等に報道された宮城県栗原郡築館町の
高
森遺跡をはじめ*2、同県の北部を,前期旧
石
器時代 後期旧
石
器時代 中
石
器時代 礫器→スクレパー →ナイフ形
石
器→彫刻刀形
石
器→(
石
刃技法,)→尖頭器→細
石
刃→ 片刃
石
斧→有舌尖頭器 また、芹澤長介は、各地で発掘された
石
器と出土した地層とを / 1.旧
石
器時代の概観
通史編5(近・現代2)
(弘前電波高校の開校)
弘前電波
高
校の開校 昭和三十二年(一九五七)、弘南電鉄南弘前駅の近くに、弘前電波
高
校の前身たる弘前
高
等電波学校,四十三年、弘前
高
校を退職したばかりの庄司初郎を校長に迎えた。,これが
高
等学校昇格のための布
石
となって、翌年には
高
校設置の基準に達したと認められ、電子科四クラスの学校法人弘前電波
高
等学校,四十四年(一九六九)四月、晴れて電波
高
校としての第一回入学式が行われ、一二〇人の新入生を迎えた。,なお、
高
校設置に伴い、各種学校としての電波学校の方はこの年から新入生を募集せず、四十六年、最後の卒業生 / 弘前電波
高
校の開校
通史編5(近・現代2)
(鉄道の高速化)
鉄道の
高
速化 自家用車の普及に伴う鉄道利用客の減少に歯止めをかけるため、輸送サービスの質的向上を目的,これにより弘南黒
石
-弘南弘前間は従来に比べ七分短縮され、二四分で結ばれることになった。 / 鉄道の
高
速化
通史編2(近世1)
(城下高岡の形成)
城下
高
岡の形成 当時、弘前は「二
石
(についし)」と呼ばれており、築城後は、「
高
岡(たかおか)」と呼ばれた,なお、「
高
岡」の地名由来は「鷹が営巣(えいそう)する岡」にあるらしく、慶長十五年八月幕府の鷹匠三橋但馬,築城当時の城下
高
岡がどのような状況であったのかは、資料がなく不明である。,68.正保2年津軽弘前城之絵図 基本的には、両絵図は弘前城を中心に、城下の町割りの様子、台地や
石
垣,書かれており、それにより町名がわかるところは、袰(ほろ)町(現四の郭)、侍町(現三の丸)、大浦町、黒
石
町 / 城下
高
岡の形成
通史編4(近・現代1)
(県立弘前高等女学校)
県立弘前
高
等女学校 大正時代、県立弘前
高
等女学校の校長は三人いるが、第二代の永井直好は明治三十六年(,国民的作家といわれた
石
坂洋次郎は、弘前市出身だが、十四年七月十五日から翌年の八月二十五日までのわずか一年余,
石
坂の場合は、作家志望のためとか人間関係のいざこざとかいろいろあるが、待遇がよく、そこにたまたま勤めていた,これまでは青森・碇ヶ関・黒
石
などへのいわば遠足にすぎなかったのが、本格的な修学旅行への幕開けとなった。,参加校は、弘
高
女・青
高
女・青女師・青森女子実業・八
高
女の五校であったが、試合は問題なく弘
高
女が他校を圧 / 県立弘前
高
等女学校
通史編2(近世1)
(津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)
四〇〇〇
石
は実際に黒
石
津軽家が内分で得ている知行地の
高
であり、六〇〇〇
石
は蔵米支給のため、判物の役割りである,次に朱印状・判物に記載される
石
高
の変化及び領知の移動についてである(津軽家の領知
高
変動については、長谷川成一,(一六九八)黒
石
津軽家が上野国の残り一五〇〇
石
と天領(表
高
一一二八
石
三斗五升)との交換を願い出て許可され,しかし、文化五年の際同時に
高
直りを受け二〇万
石
の領知
高
となった南部家の場合、幕府に領知宛行状の発給について,に
高
直りするまでの期間に、弘前藩は、「津軽之
高
四万五千
石
」と飛地領を加えた
高
を本
高
として公役を賦課されたのであって / 津軽家宛ての領知宛行状と領知
高
の変動
資料編1(考古編)
(2.青森県の旧石器時代(図1))
2.青森県の旧
石
器時代(図1) 青森県に関する旧
石
器時代の研究は、発見した遺跡等が少ないために進展していない,しかし、我が国における旧
石
器発見への願望と研究の礎は、昭和初期に本県で採集された
石
片を基として、学会誌上,を採集し、研究の結果、フランスの前期旧
石
器であるシエレアン文化以前の旧
石
器ないしはエオリス(原
石
器)に,下北郡東通村尻屋字物見台 ナイフ形
石
器ほか 2 〃 大川目 むつ市城ヶ沢字大川目
石
刃・ナイフ形
石
器,・剥片・スポール(削片) 13 〃 尻
高
(4) 東津軽郡平館村今津字尻
高
川
石
刃 14 〃 大平山元Ⅱ / 2.青森県の旧
石
器時代(図1)
通史編4(近・現代1)
(弘高女の運動会)
弘
高
女の運動会 弘前
高
等女学校の運動会は、その華やかなことで、生徒だけでなく弘前市民の間でも楽しみにされていたが,、創立十周年の運動会に参加した第七回卒業生
石
戸谷きよは、次のように述べている。,(前掲『母校今昔』) 写真113 弘
高
女運動会賞品授与(大正初年) 見物人にはもう一つの,明治四十三年十月には、
高
等女学校令が改正され、
高
等女学校にも実科教育に関する規定が設けられた。 / 弘
高
女の運動会
通史編1(自然・原始)
(水系と等高線の配置)
水系と等
高
線の配置 図7には岩木火山周辺の水系および等
高
線の配置を示した。,まず等
高
線の配置をみると、標
高
約五〇〇メートルを境にしてその間隔に違いが認められる。,)(下流側で鳴沢川)から時計回りに、長前(ちょうまえ)川・赤倉(あかくら)沢(下流側で大
石
川)・前萢(,これらの放射谷は、図8の断面に示したが、岩木火山体の
高
度約五〇〇メートル以
高
にあっては比
高
五〇メートル,しかし、火山麓扇状地内では土
石
流などで供給された砂礫により谷底が埋積され扇状地面とほとんど
高
度差が認められない / 水系と等
高
線の配置
通史編2(近世1)
(信寿の高増運動)
大名の社会でも、領地の
石
高
、将軍家との親疎などの要素から家格が決定され、これらの要素の外に、大名が叙任,そういった家格を
高
めるために、大名たちはさまざまな運動を展開していく。 ,津軽弘前藩では
高
増願(たかましねがい)を享保八年(一七二三)に行っていた。,これら三点の史料の目的は、
高
増の実現のため、幕藩体制のなかに当藩の積極的な位置づけを図るとともに、
高
増,図113.
高
増に関する信寿の内存を記した書付 しかし幕府は津軽家の
高
増願を認めなかった。 / 信寿の
高
増運動
通史編1(古代・中世)
(堀越城・石川城を中心とした城館群)
や沖館城跡・
高
畑城跡・新館城跡などの城館跡が点在し、南側には森山館跡をはじめとし、大鰐町の蔵館(くらだて,この東側後方には神岡(かみおか)山があり、そこには
高
伯(こうはく)寺跡がある。,その上流の山手には三ツ目内城の「
高
館」があるといわれている。,
高
館の立地について「由緒書抜」には「御中小性 小友左蔵」の中に「三ツ目内村比内領御境目見継役被仰付」と,しかし何らかの施設が存在していた可能性は
高
い。 / 堀越城・
石
川城を中心とした城館群
通史編1(自然・原始)
(第二節 旧石器時代)
第二節 旧
石
器時代 果てしないほど広大な宇宙の惑星の一つである地球が誕生したのは、今から四五億年前といわれている,っているわれわれ人類は、『地球カレンダー』の上ではその誕生からわずか四時間に過ぎず、その短い時間のなかで今日の
高
度 / 第二節 旧
石
器時代
通史編2(近世1)
(越後高田領検地の実施)
津軽家が担当する検地受持分は、
高
田領二四万
石
のうち刈羽(かりわ)・三嶋(さんとう)両郡で六万九〇〇〇
石
余,このような中で、現地の幕府代官から渡された清書の帳面の
石
高
と、江戸で下付された
高
割帳のそれが相違し、検地条目,それによると三嶋郡の農村三組(五千
石
組、批把嶋組、小国東組)は合わせて六五ヵ村(含新田村)で、検地総
高
,古
高
は一万七四二七
石
六斗であるから、打出
高
(うちだしだか)は一七四一
石
六斗一合となり、約一割の打ち出しがみられたことになる,すなわち新検
高
には人為的な操作が施され、越後
高
田領の
石
高
は幕府と検地担当藩との間で、人為的に決定されたものと / 越後
高
田領検地の実施
通史編4(近・現代1)
(高等学校誘致運動の展開)
高
等学校誘致運動の展開 明治二十七年(一八九四)に制定された
高
等学校令により、明治四十一年までに全国,(東京)、第二
高
等学校(仙台)、第三
高
等学校(京都)、第四
高
等学校(金沢)、第五
高
等学校(熊本)、第六
高
等学校,(岡山)、第七
高
等学校(鹿児島)、第八
高
等学校(名古屋)があった。,冠する
高
等学校の増設が図られるようになった。 ,弘前市においても
高
等学校誘致運動がいっそう盛んになり、同年七月には
石
郷岡文吉市長から市会に提出された
高
等学校設置 /
高
等学校誘致運動の展開
資料編3(近世編2)
(第二節 藩政改革の実施と黒石藩の成立)
第二節 藩政改革の実施と黒
石
藩の成立 一 寛政改革の実施 (一)改革意見書 (二)改革の諸政策, (三)藩士土着政策の実施 二 化政期藩政の動向と黒
石
藩 (一)廃田・新田開発の展開, (二)国産の奨励 (三)文化の
高
直り (四)相馬大作事件 (五)黒
石
藩の成立 三 / 第二節 藩政改革の実施と黒
石
藩の成立
通史編1(自然・原始)
(平野内の水系と等高線の配置)
平野内の水系と等
高
線の配置 津軽平野および周辺の水系として、まず一級河川である岩木川があげられる(図,途中の藤崎付近では、大鰐山地に源を発する平(ひら)川と十和田湖の外輪山に源を発する浅瀬
石
(あせいし)川,河口からの距離が六〇キロメートル以遠の相馬村からは勾配が急となり、標
高
二〇〇メートル付近には目屋ダムで,流れる河川として中村(なかむら)川・赤
石
(あかいし)川・追良瀬(おいらせ)川・笹内(ささない)川などがあるが,平野内の等
高
線をみると、藤崎以北では標
高
二〇メートル未満で、勾配が一〇〇〇分の一以下の平坦な沖積低地( / 平野内の水系と等
高
線の配置
通史編5(近・現代2)
(高速交通体系の整備)
高
速交通体系の整備 昭和四十一年七月、東北地方の
高
速交通体系の整備として、東北縦貫自動車道建設(岩槻,においては津軽平野東端の丘陵地帯を北上する計画(昭和四十二年十一月決定)であったため、昭和四十四年四月、黒
石
市,では
高
速自動車道交通対策特別委員会を発足させ、整備計画による建設促進の陳情運動を積極的に展開した。,これに対し、黒
石
市側か反論し、通過路線に関して両市が対立した。,結局、青森県議会議長が、弘前市側から要望された西・北津軽郡地方と
高
速道路を結ぶバイパス建設の促進等の四項目実現 /
高
速交通体系の整備
通史編5(近・現代2)
(輝く弘前工高のスポーツ)
輝く弘前工
高
のスポーツ 弘前工業
高
校の歴史をひもとくとき、工業界における活躍はもとより、スキー、ボクシング,甲子園初勝利は、翌平成元年夏に連続出場を果たしたときで、沖縄
石
川校を五対一で下したが、二戦目(三回戦),五十二年に全国
高
校バレーボール選手権大会で初優勝を飾り、さらに全国
高
校総体、あすなろ国体でも優勝し、前人未踏,その他、紙幅の都合で書き切れないほどの活躍が弘前工業
高
校には燦然と輝いている。,写真204 弘前工業
高
校あすなろ国体で優勝(昭和52年10月6日) / 輝く弘前工
高
のスポーツ
資料編1(考古編)
(28.尻高沢層Ⅲ)(しりたかざわそう))
28.尻
高
沢層Ⅲ)(しりたかざわそう) 岩井(1965)の命名による。,模式地は、西目屋村湯ノ沢上流より尻
高
沢一帯。藍内川・藤倉川・大沢川・横倉川などの流域に広く分布する。,変朽安山岩は、緑泥
石
化・曹長
石
化・珪化・赤鉄鉱化などの変質作用を強く受けている。,自破砕溶岩*40相を経て
石
質の凝灰角礫岩相に移化する。,また、安山岩溶岩には斜長
石
の巨斑晶を持つ斜長
石
ヒン岩が存在するが、貫入岩的産状は確認されていない。 / 28.尻
高
沢層Ⅲ)(しりたかざわそう)
通史編1(古代・中世)
(安藤高季の活躍)
安藤
高
季の活躍
高
季は、建武方に加わって大光寺合戦にも参戦し、新たに平賀郡上柏木郷(現平賀町柏木町付近,建武元年(一三三四)五月、
石
河(川)合戦での安藤五郎六郎などもその例であった(史料六三九)。 / 安藤
高
季の活躍
通史編2(近世1)
(赤石安右衛門・菊池寛司の「覚」)
収納
高
が減少したとしている。 ,後述のように、寛政二年(一七九〇)十月、土着令と同時に凶作の備えとして百姓に対して
高
一〇
石
につき米三斗分,にかかわるものは、毛内宜応の意見書とほぼ共通しており、荒田開発・帰農等による藩庫増収、軍役確保、物価
高
騰,この「半知」の措置は、後に各自の開発地を知行
高
に加えることを前提にしていると考えられるのであるが、いわゆる,結局寛政四年令では、年貢徴収率を生産
高
の六割(六ツ物成)から四割(四ツ物成)にすることで落ち着いている / 赤
石
安右衛門・菊池寛司の「覚」
資料編1(古代・中世編)
(三 石川城「縄張り(平面プラン)」の復元)
三
石
川城「縄張り(平面プラン)」の復元 現在の
石
川城跡は、城域の内部をJR奥羽本線が通過しているほか,(1)分限図(明治二十七年測量)(図4) ア、大字
石
川字大仏 イ、大字
石
川字平山 ウ,、大字
石
川字寺山 図4
石
川城跡分限図(大仏ケ鼻城、岡館、猿楽館、月館、及び寺屋敷地区),の縄張り図 (『青森県南津軽郡
石
川町郷土史』より) 天和四年上
石
川村書上絵図(写),地元住民からの聞き取り このうち、(1)により明治時代初期における遺構のありさまを、(3)からは
高
度経済成長以前 / 三
石
川城「縄張り(平面プラン)」の復元
資料編1(考古編)
(5.浅瀬石川玄武岩Ⅷ)(あせいしがわげんぶがん))
5.浅瀬
石
川玄武岩Ⅷ)(あせいしがわげんぶがん) 村岡・長谷(1990)の命名による。,模式地は、黒
石
市板留(いたどめ)南方の浅瀬
石
川沿い。,黒
石
市南中野から一ノ渡までの浅瀬
石
川西岸に分布する。岩相は、緑色変質し暗緑色を呈する玄武岩から成る。,緑泥
石
から成る杏仁状(きょうじんじょう)*18孔隙(こうげき)が見られることがある。 ,備考:小
高
(1970)の沖浦玄武岩部層に相当する。 / 5.浅瀬
石
川玄武岩Ⅷ)(あせいしがわげんぶがん)
通史編5(近・現代2)
(弘前実科高等女学校の変遷)
わったのが弘前実科
高
等女学校である。,、女子実業学校から四年制の弘前実科
高
等女学校に昇格した。,忠霊塔建設のための
石
を採集したり、養蚕、南塘農園の農作業などに精を出している。,写真73 農耕作業に出る弘前市立弘前
高
等女学校生(昭和18年頃) 十八年には弘前市立弘前
高
等女学校,
高
杉・独狐の託児所にも出かけている。 / 弘前実科
高
等女学校の変遷
資料編1(考古編)
(25.黒石扇状地堆積物Ⅷ)(くろいしせんじょうちたいせきぶつ))
25.黒
石
扇状地堆積物Ⅷ)(くろいしせんじょうちたいせきぶつ) 岩井(1980)の命名によるが、ここでは,模式地は、黒
石
市
高
館川上流域。
高
清水山より北西の丘陵地域に広く分布する。,また、黒
石
市街地におけるボーリング調査から、海水準下約390mまで厚い礫層が存在することが確認されている,岩相は、塊状で淘汰不良の亜円礫層から成り、上記火砕流堆積物に由来する軽
石
は普遍的に混入する。,備考:岩井(1980)の黒
石
市街地に伏在する扇状地堆積物の主要部分に相当する。 / 25.黒
石
扇状地堆積物Ⅷ)(くろいしせんじょうちたいせきぶつ)
通史編2(近世1)
(土着策実施への布石(Ⅱ期))
土着策実施への布
石
(Ⅱ期) 寛政二年(一七九〇)十月一日、土着策について再び大目付より法令が出された,(1)近年の物価
高
により、扶持米だけでは小給で家内人数の多い者は生活が困難である。,こうして、同三年一月、赤
石
安右衛門が郡奉行(勘定奉行兼帯)に、菊池寛司が勘定奉行(郡奉行兼帯)に登用され / 土着策実施への布
石
(Ⅱ期)
資料編3(近世編2)
(●高照神社 岩木町大字百沢字神馬野)
●
高
照神社 岩木町大字百沢字神馬野 (一)本殿--県重宝 津軽四代信政が神式で埋葬されたところであり,図31
高
照神社本殿・拝殿・幣殿平面図 (二)中門--県重宝 一間一戸の平唐門で屋根は柿葺であり,幣殿から中門まで、
石
敷きの床に連子窓を連ねた長い廊下が付けられているのは珍しい。 / ●
高
照神社 岩木町大字百沢字神馬野
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