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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (石川城跡)

石川城跡 当市域の南側に位置する石川地区にある石川城跡の開発に伴う発掘調査が平成七年度(一九九五)に,内(うち)館(八幡(はちまん)館跡とか次五兵衛殿館とも呼ばれる)という石川城跡の中心部に当たる曲輪と、,写真215 石川城跡内曲輪から検出された巨大な堀跡  さらに出土した遺物は、中世のものは中国青磁,図78 石川城跡検出の堀跡断面図 写真216 石川城跡発掘状況 / 石川城跡
通史編5(近・現代2) (石川町の存在)

石川町の存在 合併問題のなかで石川町は各方面から合併推進の対象候補に挙げられていた。,県は大鰐・蔵館両町の合併に石川町と碇ヶ関村を取り上げていたし、弘前市も弘前電鉄の開通から石川町との合併,その後、前述したように県の第二次試案で石川町は合併対象から外される。,そのため石川町は去就に迷っていた。,双方の首長が交替したことで、石川町合併問題は本格的な議題となる。 / 石川町の存在
通史編1(古代・中世) (石川楯の合戦)

石川楯の合戦 北条方はついで石川楯に立て籠って抵抗を続けたが、これも曽我光高らの奮戦で、建武元年(一三三四 / 石川楯の合戦
資料編1(古代・中世編) ((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)

(2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」 「前代歴譜」『津軽一統志』『館越日記(『永禄日記』一本,これがいわゆる「石川大仏ケ鼻城」で、ここに石川城は、南部氏の津軽支配の拠点として再び姿を現わす。,このように石川落城後も、津軽平野の関門に当たる石川・大鰐一帯の地は軍事的緊張が続いたため、為信は、戦略的要地,である石川城を重視して、重臣板垣兵部を城代に置きこの城を守らせた。,石川城への敗走途中、討ち死にした(『封内事実秘苑』『津軽一統志』、石川城で自殺したともいう)。 / (2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」
通史編5(近・現代2) (石川町、弘前へ合併)

石川町、弘前へ合併 昭和三十二年(一九五七)九月一日、弘前市と南津軽郡石川町が合併し、弘前市は人口一四万八七八八人,石川町との合併により、弘前市は小学校一校(分校一校を含む)と中学校一校が増加した。,合併に当たって、石川町教育委員会から弘前市教育委員会に「未済事件処理意見書」が提出された。,は、三十四年二月十四日、石川中学校に押しかけ、四部落から通学している同校生徒五六人を、全員大鰐中学校に,写真191 合併当時の石川小学校 / 石川町、弘前へ合併
資料編1(古代・中世編) (一 石川城の立地と現状)

一 石川城の立地と現状 石川城跡は、弘前市石川字大仏・平山・寺山・小山田、石川集落の南の大仏ケ鼻丘陵,乳井茶臼館跡から見た石川城跡 図2 石川城跡位置図  現在、石川城跡のある台地は、東側,また、この石川城跡は、一般に大仏ケ鼻の地名を取って「石川大仏ケ鼻城」と呼ばれ、そのため、この部分だけが,また13新館は、石川字小山田、JR奥羽本線石川駅南側の台地に位置する1~11の曲輪群とは別個の独立した,図5 石川城縄張り推定復元図 石川十三館のうち内館・寺山館地区を南より遠望 / 一 石川城の立地と現状
資料編1(考古編) (3.石川長者森遺跡)

3.石川長者森遺跡 (遺跡番号 02088)(図40~45) (1)所在地 弘前市大字石川字長者森,(3)調査の経緯  学校法人東奥義塾の移転に伴い、石川長者森遺跡発掘調査委員会及び石川長者森遺跡発掘調査団,※参考文献 学校法人東奥義塾『石川長者森」1987年3月 図40 石川長者森遺跡地形及び調査区設定図,(網部分) 図41 石川長者森遺跡空堀跡推定図(網部分) 図42 石川長者森遺跡 ,堀跡断面図 図43 石川長者森遺跡竪穴住居跡 図44 石川長者森遺跡出土遺物(土師器 / 3.石川長者森遺跡
資料編1(古代・中世編) ((1)南北朝時代の「石川楯」)

(1)南北朝時代の「石川楯」 石川城は、最初に「石川楯」の名で文献に登場する。,彼ら曽我一族が大光寺・石川の戦いで北条勢の主力だったのであろう。,に「津軽事、石川楯無為責落候、目出候」と見える。,この「石川楯」がどこにあり、いかなる規模と性格の施設だったかは、よく分からない。,沼舘愛三は、「石川楯」を石川十三館の「内館」を中心とする地域に比定しているが(『津軽諸城の研究』)この / (1)南北朝時代の「石川楯」
資料編1(古代・中世編) (三 石川城「縄張り(平面プラン)」の復元)

三 石川城「縄張り(平面プラン)」の復元 現在の石川城跡は、城域の内部をJR奥羽本線が通過しているほか,(1)分限図(明治二十七年測量)(図4)   ア、大字石川字大仏   イ、大字石川字平山   ウ,、大字石川字寺山 図4 石川城跡分限図(大仏ケ鼻城、岡館、猿楽館、月館、及び寺屋敷地区),)   イ、沼舘愛三作成の見取図(『津軽諸城の研究』昭和五十二年)   ウ、天和四年上石川村書上絵図,の縄張り図 (『青森県南津軽郡石川町郷土史』より) 天和四年上石川村書上絵図(写) / 三 石川城「縄張り(平面プラン)」の復元
通史編1(古代・中世) (堀越城・石川城を中心とした城館群)

堀越城・石川城を中心とした城館群 堀越城と石川城を中心とした城館群のネットワークについては、まず南部氏,大浦氏はその石川城を津軽領域を掌握する手始めとして攻撃し、その石川城を攻撃する拠点とした場所が堀越城である,堀越城や石川城は、現在の当市域の中心地からかなり南に位置しているが、このように石川地域を中心として見た,石川城を南下し大鰐町に入ると、まずはじめに蔵館跡がある。,このように石川城跡周辺、とくに石川城跡の南側に造られた城館群の大きな特徴としては、交通の要衝地、あるいは / 堀越城・石川城を中心とした城館群
資料編1(考古編) (5.浅瀬石川玄武岩Ⅷ)(あせいしがわげんぶがん))

5.浅瀬石川玄武岩Ⅷ)(あせいしがわげんぶがん) 村岡・長谷(1990)の命名による。,模式地は、黒石市板留(いたどめ)南方の浅瀬石川沿い。,黒石市南中野から一ノ渡までの浅瀬石川西岸に分布する。岩相は、緑色変質し暗緑色を呈する玄武岩から成る。 / 5.浅瀬石川玄武岩Ⅷ)(あせいしがわげんぶがん)
通史編5(近・現代2) (混乱・混迷の合併交渉)

その結果、石川町当局者の間では弘前市か大鰐町への合併が望ましいとの結論になった。,藤森市長は「大弘前市」建設のため石川町や大鰐町との合併を推進していた。,一月十八日、県の斡旋で弘前市・石川町合併協議会が開催された。,この協議会で石川町の弘前市編入は原則的に了承され、合併が成立するかに見えた。,写真150 石川町の合併反対運動  三月十六日の石川町議会は、すでに反対派の運動が盛り上がりを見
通史編5(近・現代2) (波乱含みの合併成立)

波乱含みの合併成立 自治庁は弘前市と石川町の合併に対し、すでに内閣総理大臣が異議なしと決定している以上,石川町長の解職請求や石川町議会の解散請求がなされるなど、市町村合併史上でも例のない争議が起きた。  ,石川町での争議・分裂状態が悪化するにつれ、問題は県当局から自民党県議会議員間へと発展した。,しかし石川町の合併が県議をも巻き込む大問題に発展したのはなぜなのか。,石川町だけのことではないが、町民自体にも問題がなかったわけではない。
通史編1(自然・原始) (平野南縁の地形区分)

南縁部の主要河川として、十和田湖の外輪山を源とする浅瀬石川と白神山地に隣接する大鰐山地を源とする平川があげられる,なお、浅瀬石川北方には十川が流れている。,図20 津軽平野南縁における水系と等高線図  黒石市は浅瀬石川北岸に発達する開析された扇状地(9,平野南縁の地形は、平川および浅瀬石川流域に発達した複合扇状地であって、尾上付近がその接合部にあたると考,もし浅瀬石川の下刻作用がなければ、尾上町の舌状台地の等高線にほぼ連続するものと思われる。
資料編1(古代・中世編) (五 縄張りからの問題点)

五 縄張りからの問題点 以上、これまで石川城跡に現存する遺構の検討を通じて、この城の「縄張り」=平面,しかし、かつて戦国時代に存在した石川城の姿を復元するには、まだ大きな問題が残っている。,石川城の中心は「大仏ケ鼻城」地区なのか「内館」地区なのか。,第二に、南部高信時代の石川城の中心部、すなわち南部氏の津軽支配の政庁はどこかであるが、城郭の縄張りから,このほかにも、戦国時代の石川「城下町」の復元などが残された問題は多いが、今後の研究課題としたい。
通史編1(自然・原始) (駒木浮石流凝灰岩)

図19に示したが、井戸沢や沖浦など浅瀬石川流域においても、火砕流堆積物が丘陵前縁にあって、基盤に張りつくように,平川および浅瀬石川流域にみられる火砕流堆積物を駒木浮石流凝灰岩と呼称し、大不動浮石流凝灰岩に対比される,図19 浅瀬石川流域での火砕流堆積物の確認地点(5万分の1津軽地域広域市町村圏図〈国土地理院承認番号 ,平元、東複第8号〉を使用)  写真32は浅瀬石川ダム東岸の沖浦橋付近に分布する軽石質砂岩であるが,写真32 浅瀬石川ダム湖岸に分布する沖浦軽石質砂岩  浅瀬石川支流の中野川においても火砕流堆積物
通史編1(古代・中世) (調査された館)

弘前市域では現在まで五〇ヵ所の中世城館が確認されており、中崎館をはじめ石川城(楯)(写真178)・福村城,写真178 石川城跡航空写真 写真179 福村城跡航空写真  しかしながら、発掘面積は,少なく、明確に中世段階の生活痕を確認した調査は、中崎館・荼毘館・独狐館・境関館・石川城・堀越城・福村城
通史編1(自然・原始) (谷底平野)

谷底平野 浅瀬石川および平川流域内には砂礫を主体とする谷底平野が分布している。,浅瀬石川の、黒石市境松に位置するバイオ技術センター(約二八メートル)では、地表下約五五メートルまで暗青灰色
資料編1(考古編) (29.下山形礫層Ⅵ)(しもやまがたれきそう))

模式地は、黒石市下山形付近の浅瀬石川北岸の中位段丘崖。,上位の浅井火山灰ともに、浅瀬石川流域での中位段丘を構成している。
通史編4(近・現代1) (町村合併と弘前市制施行)

中津軽郡一六村のうち、現在弘前市になっている旧村と南津軽郡石川村を構成した村(大字)を挙げる。,薬師堂村 高杉村 糠坪村 裾野村(大字大森)-大森村 貝沢村 鬼沢村 楢木村 十面沢村 十腰内村 石川村,(大字八幡舘)-乳井村 八幡舘村 鯖石村 小金崎村 薬師堂村 石川村 大沢村 森山村  町村合併で重要,石川村-大村石川村と歴史上有名な石川城の所在地である。 裾野村-岩木山麓の村である。
通史編1(古代・中世) (本城(根城)の城館跡)

本城(根城)の城館跡 当市域内にある城館跡で、領国支配の拠点的性格をもった戦国期の城館跡としては石川城跡,石川城跡は、天文二年(一五三三)か文亀二年(一五〇二)に三戸南部安信が、藤崎城主安東教季・大光寺城主葛西頼清,ちなみに南部安信・高信による津軽平定と石川城への拠城は、南部氏の領国支配強化政策の中で行われたものである
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

四 城館の構造 石川城には「石川十三館」と呼ばれる多数の曲輪(郭)が存在するが、図5に示したように、,図6 石川城縄張り推定復元図(岡館・猿楽館・月館を中心とした地区) 図7 石川城跡の現状写真,図9 石川城跡の現状写真と模式図(大仏ケ鼻城地区) 図10 石川城跡の現状写真と模式図(大仏,図11 石川城縄張り推定復元図(内館を中心とした地区及び寺山館)  この坊館は、石川城の弱点を補,図13 石川城跡の現状写真と模式図(寺山館地区) 図14 石川城跡の現状写真と模式図(寺山館地区
資料編1(古代・中世編) (二 本章で取り上げる中世城館跡)

(7)千年・石川・堀越地区 26大和沢館(大麻館、一野渡字野尻)、27一野渡館(一野渡字西平山、Bのみ,小栗山館(小栗山字沢部)、29大沢館(大沢字村元、Bのみ)、30堂ヶ平館(大沢字堂ヶ平、Bのみ)、31石川城,(石川大仏ケ鼻城・石川十三館、石川字大仏・平山・寺山・小山田)、32堀越城(堀越字川合・柏田)。,① 石川城跡(弘前市石川)   ② 大浦城跡(中津軽郡岩木町賀田(よした)・五代(ごだい))   ,しかも「石川十三館」と総称される多くの曲輪を持ち、津軽ではおそらく最大規模の中世城館であろう。
資料編1(考古編) (2.青荷層Ⅲ)(あおにそう))

模式地は、黒石市浅瀬石川(あせいしがわ)支流の青荷川流域。浅瀬石川東方の丘陵地一帯に広く分布する。
資料編1(考古編) (41.遠手沢層(とおてざわそう))

模式地周辺及び浅瀬石川左岸に分布する。岩相は、砂岩及びシルト岩から成る。,村岡・長谷(1990)では模式地における本層が大釈迦層に、浅瀬石川左岸に分布するものは六萬平層に対比している
資料編1(考古編) (8.板留層Ⅷ)(いたどめそう))

模式地は、黒石市板留南縁から沖浦に至る浅瀬石川沿い。,浅瀬石川沿いの、板留南方から虹ノ湖周辺にかけて広く分布する。
通史編1(自然・原始) (平賀面)

一方、浅瀬石川以北にあっては黒石面の前縁部に幅約一キロメートルの帯状の分布を示し、田舎館村東光寺・前田屋敷,六羽川以東では二五~五五メートル、浅瀬石川以北では標高二五~三五メートルで、面の勾配はおよそ一〇〇〇分,浅瀬石川以北の平賀面に位置する、黒石市の運動公園⑥(三三メートル)および田舎館村東光寺⑦(二七メートル,弘前市の石川城跡発掘調査では、平賀面を構成する軽石質砂層に未分解の流木が含まれているのを確認しているが,かつて扇状地面上を平川や浅瀬石川、そして引座川などが網状に流れていたものであって、平川や浅瀬石川ではクロスラミナ
通史編1(古代・中世) (種里城を中心とした城館群)

種里城を中心とした城館群 種里城跡を中心とした城館群は、川崎城をはじめ、赤石川流域を中心とした山の麓,赤石川の水源部分に当たる西側には種里城跡が造られている。,(現岩木町大字常盤野)→百沢(現岩木町大字百沢)→相馬(現相馬村)→大光寺城(現平賀町大字大光寺)か石川,(現弘前市石川)という中世の街道ルートがあったことが伝えられている。
資料編1(古代・中世編) (一 堀越城の立地と現状)

一 堀越城の立地と現状 堀越城跡は、弘前市街から旧国道七号を通って石川に至るほぼ中間、市内堀越字川合,津軽平野南部を南北に縦断して流れる平川(中世には平賀川・堀越川などと呼ばれた)のすぐ西岸に位置し、平賀・石川,はリンゴ園に、それ以外の多くは宅地となり、昭和五十二年(一九七七)には、城跡の一部を横切って国道七号石川,なお、石川バイパス建設工事に伴い、昭和五十一年・五十二年(一九七六・一九七七)、二の丸地区で緊急発掘調査
通史編1(自然・原始) (三 津軽平野南部の地形発達)

総じて、平川、浅瀬石川および大和沢川の各流域には、山地および丘陵から供給された砂礫を主体とした膨大な扇状地性,すでに、浅瀬石川や平川流域では黒石面と平賀面、大和沢川流域では松原面と城東面が山地から供給された膨大な,そして、浅瀬石川および平川を流下してきた約三万年前の火砕流堆積物(駒木浮石流凝灰岩)の流下によって扇状地性,この結果、浅瀬石川流域や平川-引座川間では開析された扇状地が断片的な分布を示し、平川流域では六羽川および,この火砕流は平川および浅瀬石川流域内に比高二〇~三〇メートルの火砕流台地を形成するほどで、その供給量は
通史編1(古代・中世) (城館調査の今後)

平成八年度(一九九六)に実施した石川城跡内館跡の調査では、広大な領域を有する石川城跡のごく一部ではあったが,写真181 石川城跡内館の堀跡  とくに、堀跡から出土した下駄・箸・曲物・箆(へら)・取手などの
通史編1(自然・原始) (城東面)

大和沢川以南でも、松木平-石川間に帯状に分布し、面上には石川城跡が位置している。,石川城跡では上位の古懸浮石流凝灰岩に相当する軽石質砂層に包含される未分解の流木から一万二六〇〇年前の年代測定値
通史編2(近世1) (堀越城への移転)

(ひらか)郡に属していたが、この地は津軽平野南部を南北に縦断して流れる平川のすぐ西岸に位置し、平賀・石川,津軽全域を支配する本拠地としては不十分であり、これに対して堀越の地は、津軽の西根と東根の接点にあり、かつ石川城,太閤蔵入地は、岩木川・平川・浅瀬石川の三つの河川を分岐点とする津軽平野中心部一帯に設定され、為信はその,為信の堀越城進出を可能にした背景には、戦国以来、南部氏が勢力を置いた「西根」地方の大光寺城・石川城の自力
通史編3(近世2) (川龍院)

川龍院 川龍院(せんりゅういん)は、寛永二年(一六二五)、石川村(現市内)に耕春院五世𡧩
資料編1(古代・中世編) ([口絵])

上空南東から) 堀越城 曲輪Ⅰ(本丸)土塁 堀越城 曲輪Ⅰ遠景(南東から) 石川大仏,ケ鼻城跡遠景(南東から) 石川城跡内館地区遠景(南方丘陵上から) 坂本館跡遠景(南方
通史編5(近・現代2) (松原小学校の創立)

学区は弘前市の南側に位置し、南北に走る県道石川・土手町線と石川・百田線に挟まれた地域で、県道に沿って松原東一丁目
通史編3(近世2) (教応寺)

)、了春が開基・開山となって創建した(資料近世2No.四〇九)、『新撰陸奥国誌』は、開基を了竜とし、石川大膳大夫
資料編1(古代・中世編) (一 はじめに)

十四世紀半ばの南北朝動乱時代、弘前周辺では南北両党の激戦が繰り広げられ、大光寺楯・石川楯・船水楯・新里楯,降って天文二年(一五三三)、三戸の南部氏は市内石川に石川城(石川大仏ケ鼻城)を営み、一族の重鎮南部高信,この地域の城郭遺構を実測し、図面化して、城郭の構造を分析する作業を行った(中村良之進『青森県南津軽郡石川町郷土史
通史編5(近・現代2) (上水道整備の方向)

第四期拡張事業の主要事業は、浅瀬石川ダムを水源として水道用水を供給する津軽広域水道企業団から、平成七年度,簡易水道では、石川地区簡易水道が平成元年四月に上水道へ編入された。
通史編5(近・現代2) (中弘地区の合併推移)

弘前市も市の発展が南方に広がりつつあり、弘前電鉄の開通もあって、南津軽郡石川町との合併も考慮し始めた。,弘前市が郡を越えて南津軽郡石川町への接近をはかっていたころ、裾野村と新和村も郡を越えて北津軽郡板柳町との,七月二十四日、県の第二次試案(原案)は、第一次試案で対象としていた一六村から裾野・新和両村を除き、別に石川町,八月十二日、県の合併促進審議会は原案から石川町を除き、代わりに裾野村を加えた一五村の合併を、県の第二次試案
通史編1(古代・中世) (為信の離反)

そのような南部領国の混乱のさなか、元亀二年(一五七一)五月、大浦為信(写真197)は反旗を翻(ひるがえ)し、石川城,を攻め、石川高信は自害したと伝えられる(史料九八六~九八八)。
通史編1(古代・中世) (一 十三湊と津軽)

津軽平野部を流れる岩木川(いわきがわ)をはじめ平川(ひらかわ)・浅瀬石川(あせいしがわ)・十川(とがわ
資料編1(考古編) (7.井戸沢礫層Ⅵ)(いどざわれきそう))

浅瀬石川上流左岸の琵琶ノ平付近では、青荷層の上位にほぼ水平な不整合*20面をもって載っている。
資料編1(考古編) (21.貝吹山デイサイトⅧ)(かいふきやまでいさいと))

黒石市落合から虹ノ湖にかけての浅瀬石川西岸及び中野川北岸に分布する。斑晶が少なくガラス質である。
通史編5(近・現代2) (反対運動の展開)

しかし、保安林解除に対して異議意見書で抵抗できることを知った連絡協議会のりーダーたちは必死に行動し、赤石川流域,赤石川は金アユの川で、昔は一簗(やな)で一万尾も取れたという。簗は六ヵ所もあった。
通史編1(古代・中世) (大浦氏の城下町建設の流れ)

その後、文亀二年(一五〇二)三戸南部安信(やすのぶ)は、弟の高信(たかのぶ)を津軽郡代とし、平賀郡石川城,文禄三年(一五九四)の五年間、近世大名津軽氏の領国支配の本拠として大浦城を利用していたが、同年に大浦から石川城
通史編4(近・現代1) (中津軽郡会)

船沢村 成谷亀之助      清水村 三浦大吉 新和村 小山内小三郎     藤代村 不詳 石川村,和徳村  福士音太郎(憲政)  堀越村 工藤長左衛門(憲政) 清水村  今八太郎(中立) 南津軽郡石川村
通史編1(自然・原始) (田舎館面)

田舎館面 浅瀬石川南岸および平川流域内に帯状の自然堤防として分布している。,高度は浅瀬石川流域において、黒石市浅瀬石付近で五〇~六〇メートル、下流側の田舎館村大根子(おおねこ)や
通史編5(近・現代2) (東奥義塾幼稚園)

東奥義塾幼稚園は、東奥義塾の石川移転に伴い、平成四年(一九九二)四月一日廃園となった。
通史編1(自然・原始) (黒石面)

黒石面 黒石面には、黒石市街地のほぼ全域および浅瀬石川南岸の高賀野(こがの)、尾上町金屋(かなや)・,黒石面は、浅瀬石川流域では黒石市石名坂付近を扇頂部とする五~五・五キロメートルの弧状の分布を示し、尾上付近,ボーリング資料などから、黒石市と尾上付近に分布する黒石面はおそらく連続する面であったと考えられ、浅瀬石川,なお、扇頂部の石名坂付近では上位の花巻面と五~一〇メートルの段丘崖で接するが、浅瀬石川の河床面とは約一
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