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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (石川城跡)

石川城跡 当市域の南側に位置する石川地区にある石川城跡の開発に伴う発掘調査が平成七年度(一九九五)に,内(うち)館(八幡(はちまん)館跡とか次五兵衛殿館とも呼ばれる)という石川城跡の中心部に当たる曲輪と、,写真215 石川城跡内曲輪から検出された巨大な堀跡  さらに出土した遺物は、中世のものは中国青磁,図78 石川城跡検出の堀跡断面図 写真216 石川城跡発掘状況 / 石川城跡
資料編1(古代・中世編) (一 石川城の立地と現状)

一 石川城の立地と現状 石川城跡は、弘前市石川字大仏・平山・寺山・小山田、石川集落の南の大仏ケ鼻丘陵,乳井茶臼館跡から見た石川城跡 図2 石川城跡位置図  現在、石川城跡のある台地は、東側,また、この石川城跡は、一般に大仏ケ鼻の地名を取って「石川大仏ケ鼻城」と呼ばれ、そのため、この部分だけが,」として紹介している文献もあるが、天和四年上石川村書上絵図には「新館」と記載されている)、いちおう「石川城跡,図5 石川城縄張り推定復元図 石川十三館のうち内館・寺山館地区を南より遠望 / 一 石川城の立地と現状
通史編1(古代・中世) (堀越城・石川城を中心とした城館群)

堀越城・石川城を中心とした城館群 堀越城と石川城を中心とした城館群のネットワークについては、まず南部氏,が津軽を押さえるための拠点として築城したとされる石川城跡について考えることが必要である。  ,大浦氏はその石川城を津軽領域を掌握する手始めとして攻撃し、その石川城を攻撃する拠点とした場所が堀越城である,石川城を南下し大鰐町に入ると、まずはじめに蔵館跡がある。,このように石川城跡周辺、とくに石川城跡の南側に造られた城館群の大きな特徴としては、交通の要衝地、あるいは / 堀越城・石川城を中心とした城館群
資料編1(古代・中世編) (三 石川城「縄張り(平面プラン)」の復元)

三 石川城「縄張り(平面プラン)」の復元 現在の石川城跡は、城域の内部をJR奥羽本線が通過しているほか,(図4)   ア、大字石川字大仏   イ、大字石川字平山   ウ、大字石川字寺山 図4 石川城跡分限図,  ウ、天和四年上石川村書上絵図(写)   エ、貴田稲城筆写の古絵図(明治十六年) 図3 石川城跡,明治16年9月,貴田稲城筆写の古絵図 (3)航空写真(昭和四十年代のもの、弘前市役所蔵) 石川城跡 / 三 石川城「縄張り(平面プラン)」の復元
資料編1(古代・中世編) ((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)

(2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」 「前代歴譜」『津軽一統志』『館越日記(『永禄日記』一本,これがいわゆる「石川大仏ケ鼻城」で、ここに石川城は、南部氏の津軽支配の拠点として再び姿を現わす。,しかし、元亀二年(一五七一)五月、大浦城主大浦為信は謀略をもって石川城を急襲。,したがって、今日残る石川城の遺構には、板垣兵部時代のものも加わっているはずである。  ,石川城への敗走途中、討ち死にした(『封内事実秘苑』『津軽一統志』、石川城で自殺したともいう)。 / (2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」
資料編1(古代・中世編) (五 縄張りからの問題点)

五 縄張りからの問題点 以上、これまで石川城跡に現存する遺構の検討を通じて、この城の「縄張り」=平面,しかし、かつて戦国時代に存在した石川城の姿を復元するには、まだ大きな問題が残っている。,石川城の中心は「大仏ケ鼻城」地区なのか「内館」地区なのか。,第一は、石川城の三つの空間は、それぞれがまとまりの完結した独立空間をなしていて、これらが同時期に造られたということは,第二に、南部高信時代の石川城の中心部、すなわち南部氏の津軽支配の政庁はどこかであるが、城郭の縄張りから
通史編1(古代・中世) (調査された館)

弘前市域では現在まで五〇ヵ所の中世城館が確認されており、中崎館をはじめ石川城(楯)(写真178)・福村城,写真178 石川城跡航空写真 写真179 福村城跡航空写真  しかしながら、発掘面積は,少なく、明確に中世段階の生活痕を確認した調査は、中崎館・荼毘館・独狐館・境関館・石川城・堀越城・福村城
通史編1(古代・中世) (本城(根城)の城館跡)

本城(根城)の城館跡 当市域内にある城館跡で、領国支配の拠点的性格をもった戦国期の城館跡としては石川城跡,石川城跡は、天文二年(一五三三)か文亀二年(一五〇二)に三戸南部安信が、藤崎城主安東教季・大光寺城主葛西頼清,ちなみに南部安信・高信による津軽平定と石川城への拠城は、南部氏の領国支配強化政策の中で行われたものである
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

図6 石川城縄張り推定復元図(岡館・猿楽館・月館を中心とした地区) 図7 石川城跡の現状写真,図9 石川城跡の現状写真と模式図(大仏ケ鼻城地区) 図10 石川城跡の現状写真と模式図(大仏,図11 石川城縄張り推定復元図(内館を中心とした地区及び寺山館)  この坊館は、石川城の弱点を補,図13 石川城跡の現状写真と模式図(寺山館地区) 図14 石川城跡の現状写真と模式図(寺山館地区,)  石川城を構成するのは、基本的に以上三つのブロックである。
通史編1(古代・中世) (城館調査の今後)

平成八年度(一九九六)に実施した石川城跡内館跡の調査では、広大な領域を有する石川城跡のごく一部ではあったが,写真181 石川城跡内館の堀跡  とくに、堀跡から出土した下駄・箸・曲物・箆(へら)・取手などの
通史編1(古代・中世) (大浦氏の城下町建設の流れ)

その後、文亀二年(一五〇二)三戸南部安信(やすのぶ)は、弟の高信(たかのぶ)を津軽郡代とし、平賀郡石川城,文禄三年(一五九四)の五年間、近世大名津軽氏の領国支配の本拠として大浦城を利用していたが、同年に大浦から石川城
通史編1(古代・中世) ((五)発掘調査から見た遺跡)

当市域においては石川城跡の内館部分や福村城跡の堀跡が発掘調査され、また大浦氏に関係した城館跡としては、
通史編1(自然・原始) (城東面)

大和沢川以南でも、松木平-石川間に帯状に分布し、面上には石川城跡が位置している。,石川城跡では上位の古懸浮石流凝灰岩に相当する軽石質砂層に包含される未分解の流木から一万二六〇〇年前の年代測定値
通史編2(近世1) (三戸南部氏の津軽進出と大浦築城)

そしてこの天文十五年以後、三戸南部氏は、鹿角(かづの)・比内(ひない)に通じる津軽南部の要衝石川城に三戸南部当主安信,こうした三戸南部家が内部で動揺していた元亀二年(一五七一)五月、為信は三戸南部氏に反旗を翻し、石川城を
資料編1(古代・中世編) ((1)南北朝時代の「石川楯」)

(1)南北朝時代の「石川楯」 石川城は、最初に「石川楯」の名で文献に登場する。,ただ、どちらの場合でも、当時の遺構は戦国時代の石川城の構築によって破壊されているはずで、地表からその跡
資料編1(古代・中世編) (二 本章で取り上げる中世城館跡)

小栗山館(小栗山字沢部)、29大沢館(大沢字村元、Bのみ)、30堂ヶ平館(大沢字堂ヶ平、Bのみ)、31石川城,① 石川城跡(弘前市石川)   ② 大浦城跡(中津軽郡岩木町賀田(よした)・五代(ごだい))   ,弘前市国吉・館後)と東目屋地区の城館群   ⑤ 乳井茶臼館跡(弘前市乳井)と周辺の城館群  ①の石川城,しかし、この方法によって、重要な城跡ながらこれまで研究の少なかった石川城跡や、遺構自体が消滅の危機にさらされている
通史編2(近世1) (堀越城への移転)

津軽全域を支配する本拠地としては不十分であり、これに対して堀越の地は、津軽の西根と東根の接点にあり、かつ石川城,為信の堀越城進出を可能にした背景には、戦国以来、南部氏が勢力を置いた「西根」地方の大光寺城・石川城の自力
資料編1(古代・中世編) (二 大浦城の歴史)

はあくまでも〝南部氏の目下の同盟者〟にとどまり、天文二年(一五三三)、津軽平定作戦の上、「津軽郡代」として石川城,元亀二年(一五七一)、石川城を急襲して攻略したのを皮切りに、津軽地方の領有を進め、天正十八年(一五九〇
資料編1(古代・中世編) ([口絵])

土塁 堀越城 曲輪Ⅰ遠景(南東から) 石川大仏ケ鼻城跡遠景(南東から) 石川城跡内館地区遠景
資料編1(古代・中世編) (新編 弘前市史 資料編1-2 古代・中世編 目次)

………  四二八   二 本章で取り上げる中世城館跡…………………………………  四三〇  第二節 石川城跡,………………………………………………………  四三四   一 石川城の立地と現状……………………………,………………  四三四   二 石川城の歴史……………………………………………………  四三八    ,(1) 南北朝時代の「石川楯」…………………………………  四三八    (2) 戦国時代の「石川城(,石川大仏ケ鼻城)」………………  四三九   三 石川城「縄張り(平面プラン)」の復元……………………
通史編1(古代・中世) (為信の離反)

そのような南部領国の混乱のさなか、元亀二年(一五七一)五月、大浦為信(写真197)は反旗を翻(ひるがえ)し、石川城
資料編1(古代・中世編) ((2) 戦国時代の堀越城)

五月、ここを前進拠点として一気に石川城を攻略した。この「町飛鳥の屋敷」こそ問題の堀越城である。
通史編1(古代・中世) (文献史料から見た戦国動乱の激化)

のりすえ)を討ち、平賀町大光寺(だいこうじ)城主葛西頼清(かさいよりきよ)を討って、弟の高信(たかのぶ)を石川城,その代表的な合戦としては、元亀二年(一五七一)五月の南部氏が津軽地方支配の拠点としていた石川城の攻撃(
資料編1(古代・中世編) ([付図])

[付図] 石川城縄張り推定復元図   乳井茶臼館縄張り推定復元図   大浦城縄張り推定復元図,28 小栗山館 93 五日市館 29 大沢館 94 荒田館 30 堂ヶ平館 95 平田森館 31 石川城
資料編1(古代・中世編) (一 乳井茶臼館の立地と現状)

この地は、平川・六羽川(ろっぱがわ)を挟んで西の石川城と向かい合う場所であり、石川と同様、津軽平野の南
資料編1(古代・中世編) ((3) 津軽氏の政庁としての堀越城)

これに対し堀越は、津軽の西根と東根の接点にあり、かつての南部高信の本拠石川城にも近く、津軽の政治的中心
通史編1(古代・中世) (合戦の方法)

取った合戦(史料八九九・九〇〇)、元亀二年(一五七一)五月五日夜に、大浦為信が五〇〇騎ほどの軍勢で、石川城
通史編1(古代・中世) (舶載と国産)

とくに一六世紀になると津軽地域に搬入される陶磁器の量は、地域の拠点的城館である浪岡城・大光寺城・石川城
通史編4(近・現代1) (町村合併と弘前市制施行)

石川村-大村石川村と歴史上有名な石川城の所在地である。 裾野村-岩木山麓の村である。
通史編1(古代・中世) (城館タイプの分類)

支配するために造られた、「領主居住型城館跡」ともいえる拠点的性格を持つ城館は、浪岡町浪岡城跡や弘前市石川城跡
資料編1(古代・中世編) (一 はじめに)

降って天文二年(一五三三)、三戸の南部氏は市内石川に石川城(石川大仏ケ鼻城)を営み、一族の重鎮南部高信
通史編1(自然・原始) (平賀面)

弘前市の石川城跡発掘調査では、平賀面を構成する軽石質砂層に未分解の流木が含まれているのを確認しているが
通史編1(自然・原始) (第三期)

弘前市石川城跡では、カレーパーミス直下に堆積する軽石質砂層中の流木を年代測定したところ、約一万二六〇〇
通史編1(古代・中世) (南部晴政の登場と一族間の対立)

その原因は当主晴政と石川城主南部高信の長男で田子(たっこ)城主である信直(のぶなお)(一五四六~一五九九
通史編1(古代・中世) (三戸南部氏による領国支配の強化)

』津軽の弓矢  反乱鎮圧後、南部高信は津軽郡代となり、要衝石川の地(市内石川)に、大規模な城郭石川城
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

●天文二年(一五三三)、この年、南部安信、藤崎城主安東教季・大光寺城主葛西頼清を討ち、弟高信を石川城に,●元亀二年(一五七一)五月、大浦為信、石川城に南部高信を攻め、これを滅ぼすという。
資料編1(古代・中世編) ([十四世紀])

●建武元年(一三三四)五月、曾我光高、石川城で合戦。
通史編1(自然・原始) (古懸浮石流凝灰岩)

N 40°32.8' E140°32.6' 弘前市石川城跡内
通史編1(古代・中世) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

図73~75 作成 図76・77 『大鰐町史』上巻 1991年 大鰐町刊 図78 弘前市教育委員会『石川城跡内館発掘調査報告書
資料編1(考古編) ([付図])

包含地・住居跡 平安 02037 寺山館遺跡 弘前市大字石川字大仏 包含地・城館跡 歴史 02038 石川城跡,弘前市大字石川字大仏1-5-89 城館跡・包含地 平安 02038 石川城跡 弘前市大字石川字大仏1
通史編1(古代・中世) ([付図])

2、11 〃 包蔵地・集落跡 平安 37 早稲田遺跡 福村字早稲田 畑・宅地 〃 平安・鎌倉 38 石川城跡
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

………………………… 南部家文書 182 ●建武元年(一三三四)五月、曾我光高、石川城で合戦。,284 ●天文二年(一五三三)、この年、南部安信、藤崎城主安東教季・大光寺城主葛西頼清を討ち、弟高信を石川城,………………………… 南部家文書 310 ●元亀二年(一五七一)五月、大浦為信、石川城に南部高信を攻め
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