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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (寛文十年の情報収集)

牧は、石狩アイヌ・ハウカセの動静が把握できず、石狩への探索を断念している。,しかし、「津軽一統志」には、石狩へ赴き地形を実測し、あわせて川の深さをも調査したと考えられる数通の報告書,松前上下口々商物」、全島産物出高、松前上下国々より諸方への道程、山河・道路の難易、松前より蝦夷地の地名・戸数、石狩,への密偵船に関する松前城下での風評と松前藩の対応、償いと交易再開をめぐる上・下蝦夷地のアイヌの対応、石狩,の地形と石狩アイヌ・ハウカセの動向、交易がとだえて火の消えたような松前城下の様子、松前藩の兵糧等などである
通史編1(古代・中世) (原エミシ文化の形成)

本州の平安時代に併行する時期に、東北地方北部や石狩低地帯を中心とする地域における続縄文・土師器混交文化,石狩低地帯を中心とする地域でも採集・狩猟を基盤とする文化と、農耕を基盤とする文化、この両者の交流によって,石狩低地帯における群集墳の出現は、この地帯が東北地方北部とさらに交流の拠点地域として機能していたことを
資料編1(考古編) ((4)縄文時代中期)

縄文時代の前期と中期に栄えた円筒土器は、その下層式土器の段階において、北は津軽海峡を越えて北海道の石狩川河口,にある石狩町から室蘭市を結ぶ線を北限とし*49、南は太平洋側で岩手県一関市付近、日本海側は秋田県南部ないし,また上層式土器は北において北海道の石狩平野から南の日高地方を下って襟裳(えりも)岬付近に達し、南は山形県南部
通史編1(古代・中世) (古墳文化と続縄文文化の交流)

古墳文化と続縄文文化の交流 石狩低地帯での東北地方弥生時代最終末の天王山系土器と江別C2・D式土器の,そして、古墳文化と続縄文文化の交流の中心は、東北地方北部から石狩低地帯以南にあったとみてよさそうである
通史編1(古代・中世) (擦文文化の特徴)

巨視的にみると、北海道地方では初期には石狩低地帯を中心に横走沈線文を主要モチーフとする深鉢と坏が、盛期,図27 初現期~盛期の擦文土器  先にも触れたように、原エミシ文化の時代に東北地方北部や石狩低地帯
通史編1(自然・原始) (亀ヶ岡文化の広がり)

土器の広がりをみると、北においては、亀ヶ岡の古い形式の土器(大洞B・BC式)は、札幌から苫小牧市を結ぶ石狩低地帯
通史編1(古代・中世) (五所川原窯跡群の操業)

に分布するほか、南限は日本海側では米代川流域、太平洋側では馬淵川上流域を結ぶ北緯四〇度ライン、北方は石狩低地帯
通史編1(古代・中世) (後方羊蹄の所在地)

なお「しりへし」をアイヌ語の大河と解して、そこから後方羊蹄を岩木川とか石狩川と結びつける説が古来多数あるが
通史編1(自然・原始) (前期)

をみると津軽海峡を越えて渡島(おしま)半島に上陸し、さらに北へ向かって北上を続け、現在の札幌市を経て北の石狩川
資料編1(考古編) ((3)葬制(終末期古墳))

(3)葬制(終末期古墳) 飛鳥時代から平安時代初期(7世紀~9世紀後葉)にかけて東北地方と北海道石狩低地帯
通史編1(自然・原始) (中期)

北は石狩川を越えてさらに北上し、北海道北端の宗谷岬にまで達し(31)、一部は海を越えて礼文島(れぶんとう
通史編2(近世1) (寛文蝦夷蜂起の経過)

その後アイヌ側は石狩地方のアイヌを除いて次々に降伏し、蜂起はほぼ鎮圧された。  
資料編1(考古編) ((6)縄文時代晩期)

野村崇の分類によると、北の場合は、第Ⅰ期(大洞B・BC式土器期)が北海道渡島半島の西南端と石狩勇払低地帯付近,に存在し、第Ⅱ期(大洞C1式土器期)は奥地へ進出して小樽市郊外の余市町から石狩低地帯の東側を通って苫小牧
資料編1(考古編) (〈用語の解説…はじめに・第1節〉)

オホーツク海沿岸及び石狩地域以西の西南北海道、本州弧内帯、九州-琉球弧内帯及びフォッサマグナ地域がこれに
資料編1(考古編) ((3)10世紀後半~11世紀)

の分布を見ると、南限は日本海側では米代川流域、太平洋側では馬淵川上流域、北限は常呂(ところ)川流域・石狩川上流域
通史編1(自然・原始) (第三節 注および引用・参考文献)

青森県芦野遺跡の土器群について」『考古学雑誌』五七-二 一九七一年 (23)石橋孝夫・工藤義衛ほか 『石狩町上花畔地区宅地開発事業,に伴う埋蔵文化財調査報告書-紅葉山砂丘内陸側低湿地における考古学的調査』 北海道石狩町教育委員会 一九九二年
通史編1(古代・中世) (弥生文化と続縄文文化)

従来通り「後北式」という名称を用いることが一般的であるが、主に江別墳墓群から出土した土器を基準に後北式石狩型
通史編2(近世1) (津軽領内のアイヌ民族)

たとえば、寛文九年、石狩の「犾大将」ハウカセは「我々先祖は高岡へ参、商仕候」と述べている(同前)。
通史編2(近世1) (開国と箱館警備)

松前藩) 援兵担当大名 津軽順承(弘前藩) 南部利剛(盛岡藩) 元陣屋 マシケ ユウフツ 出張陣屋 石狩
資料編1(考古編) ((2)太平洋戦争後から現代まで)

なお、これらは従来北海道石狩低地帯を中心に発見された「北海道式古墳」と呼ばれるものと類似し、その関連性
資料編1(考古編) (〈注一覧…第2章〉)

高橋潤 「井沢遺跡」(平賀町埋蔵文化財報告書5) 1976年3月 *49A 石橋孝夫・工藤義衛ほか 『石狩町上花畔地区宅地開発事業,に伴う埋蔵文化財調査報告書-紅葉山砂丘内陸側低湿地における考古学的調査』(北海道石狩町教育委員会) 1992
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