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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(豊臣政権の奉行衆)
て伏見へと廻漕されたが、木村重茲は若狭府中城主であり、杉板が集結する敦賀の城主は、後に関ヶ原の戦いで
石田三成
側, 仙北の六郷氏・本堂氏・戸沢氏の太閤蔵入地は、「惣而川沿之地、御蔵入領に召出れ候は、治部様(
石田三成
,農業生産力が高く、しかも舟運に便利な川沿いの場所が特に選ばれており、その選定を推進したのは集権派の中心にいた
石田三成
,さんようじょう)は、秋田氏から集権化を目指す奉行衆徳善院(とくぜんいん)(前田玄以(まえだげんい))・
石田三成
通史編2(近世1)
(伏見指月城の普請)
秀吉と秀次との間の溝は埋めがたいほどに深まり、ついに文禄四年七月三日、秀次は聚楽第において、秀吉の奉行
石田三成
,秀次が
石田三成
らから謀反の嫌疑をかけられたのは、豊臣政権内の分権派である徳川家康・前田利家をはじめ東国
通史編2(近世1)
(福島正則の改易)
慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いでは、秀吉恩顧の大名であるにもかかわらず、家康に属し
石田三成
攻撃を主張
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)
戦いと奥羽の情勢 豊臣政権は、その天下統一が短期間になされたことにより、豊臣家内部の対立をはじめ、
石田三成
,佐竹・上杉両氏を代弁する立場にあったのが、
石田三成
・増田長盛であり、伊達・最上両氏は浅野長吉・徳川家康,家康が東下した後、上方の情勢は大きく転換し、
石田三成
が毛利輝元(もうりてるもと)を盟主として大坂城に招
通史編2(近世1)
(湊合戦と惣無事令違反)
すえかた))らを上洛させ(遠藤巌「安藤・秋田氏」『日本の名族』東北編I 一九八九年 新人物往来社刊)、
石田三成
通史編2(近世1)
(北奥羽の大名の動向)
豊臣政権の東国政策は、特に家康の臣従以前は増田長盛(ましたながもり)・
石田三成
を機軸とし、上杉―佐竹・
通史編2(近世1)
(刀狩り)
自今以後自然所持候百姓於在之は、其ものゝ事ハ不及申、其郷共ニ可為同罪事、 というような内容を持つ七ヵ条の定書を
石田三成
通史編2(近世1)
(浅利騒動の停戦命令)
長束正家は
石田三成
とともに集権派の中心人物であり、分権派の前田利家や徳川家康らと激しく権力抗争を重ねていた
通史編2(近世1)
(伏見滞在と派閥抗争)
長束正家は、
石田三成
ら集権派に属し、常に秀吉の側に仕えていた財務部門担当の奉行であり、長束を「御前之衆,出羽国の太閤蔵入地は
石田三成
らによって設定され、以後、吏僚派の奉行である三成のほか長束正家・増田長盛・
通史編2(近世1)
(信義の襲封)
母曽野(その)は信枚の側室で大舘御前と呼ばれたが、曽野の父は
石田三成
の子源吾といわれている。
通史編2(近世1)
(初代為信の動向)
信建の生年は天正二年(一五七四)で、烏帽子(えぼし)親は
石田三成
だといわれている(『伝類』)。
通史編2(近世1)
(名護屋における「日本之つき合」)
豊臣政権内では大名の独立性を重視する分権派であり、中央集権化を図り豊臣政権を強固なものにしようとする奉行衆の
石田三成
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●天正十八年(一五九〇)八月十日、豊臣秀吉、
石田三成
へ定書を下し、刀狩を再度徹底するとともに、奥羽両国
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