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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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資料編1(考古編) (6.碇ヶ関層Ⅷ)(いかりがせきそう))

6.碇ヶ関層Ⅷ)(いかりがせきそう) 井上・三橋(1961)の命名によるが、ここでは村岡・長谷(1990,本層の分布は、碇ヶ関カルデラの地形的カルデラ縁の内側に限定される。,備考:岩井(1965)及び小高ほか(1970)の碇ヶ関層から青荷凝灰岩と小国湖成堆積物を除いたものに相当 / 6.碇ヶ関層Ⅷ)(いかりがせきそう)
通史編1(自然・原始) (カルデラ内の堆積物)

こうしてできた堆積物は、阿闍羅山の周囲(鎌田、一九九三)や碇ヶ関付近(写真55)でみることができる。,碇ヶ関層についてこれまでに調査された報告書の化石のリストをみると、碇ヶ関カルデラの中の湖沼の周囲にはクマシデ,写真55 碇ヶ関カルデラ内の扇状地堆積物。,(碇ヶ関村東部) 写真56 碇ヶ関カルデラ内の湖底に堆積したシルト岩。,(碇ヶ関村碇沢付近)  このようなカルデラ湖や浅くなりつつあった狭い海は、地殻変動が次第に激しくなり
資料編1(考古編) (48.虹貝凝灰岩Ⅷ)(にじかいぎょうかいがん))

碇ヶ関カルデラの地形的カルデラ縁及びその外縁に広く分布する。,岩井(1965)の虹貝層、井上ほか(1960)及び上田・井上(1961)の遠部層に相当するが、本層は碇ヶ,関カルデラの形成に伴って噴出したと見なされる火砕流堆積物に限って用いられる。
資料編1(考古編) ((3)10世紀後半~11世紀)

これには、小友遺跡(弘前市)・石川長者森遺跡(弘前市)・大平野遺跡(弘前市)・古館遺跡(碇ヶ関村)・砂沢平遺跡,くめがわ)遺跡(稲垣村)などの集落や、低平台地や丘陵上に立地するものの、防御施設を持たない永野遺跡(碇ヶ,関村)・朝日山遺跡(青森市)なども存在する。,図13 10世紀の集落跡(大鰐町大平遺跡) 図14 津軽型防御性集落(11世紀,碇ヶ関村古館遺跡,また、永野遺跡(碇ヶ関村)や源常平遺跡(浪岡町)のように、貯蔵庫と推定される張出施設を付属させるものも
資料編1(考古編) (42.遠部層Ⅲ)(とべそう))

模式地は、碇ヶ関村遠部沢。碇ヶ関村を中心として、盆状構造を成して分布する。
通史編5(近・現代2) ((一)私小説の神様・葛西善蔵)

以後、今でいう青森市、五所川原市、碇ヶ関村を転籍しながら、三十五年に初めて上京した。,翌月に単身上京し、徳田秋声に師事したが、六月には帰郷し、碇ヶ関村でぶどう園の小屋に滞在したのも束の間、,昭和三十一年(一九五六)七月二十三日、碇ヶ関村の三笠山に文学碑が建立された。
通史編1(自然・原始) (広野面)

広野面は最上部に碇ヶ関浮石層を載せるが、火砕流起源の堆積物は存在しない。,安原第三児童公園では地表直下に碇ヶ関浮石層があって、下位に砂礫層と淘汰不良の砂層の互層が堆積している。,大和沢川南岸の堀越城跡の位置する清野袋面は、同じ氾濫性の堆積物で構成されているが、碇ヶ関浮石層を欠いていることから
通史編2(近世1) (参勤交代路と街道の状況)

しかし、四代藩主信政は寛文五年(一六六五)、碇ヶ関から矢立峠を越えて秋田領へ入る羽州街道を参勤交代路に,についてみると、「道程帳」の大道筋は、矢立峠~弘前間では矢立峠の部分は一間(けん)半(二・七メートル)から二間、碇ヶ,関から石川間は二間が主で三間の所もあり、石川から堀越間は二間から二間半が主で、三間の所もあるという状況,一方、松並木については、「国日記」天和二年(一六八二)三月十五日条に、弘前の土手町から碇ヶ関までの道普請,「従碇ヶ関峠古懸山入り口迄海道筋絵図」(弘図津)には、碇ヶ関から古懸(こがけ)入り口付近の街道の両側には
資料編1(考古編) ((11)その他の生活用具)

鉄鍋は、蓬田大館遺跡(蓬田村)、古館遺跡(碇ヶ関村)で出土している。,火打金は12世紀の中崎館遺跡(弘前市)、11世紀の古館遺跡(碇ヶ関村)から出土している。,このほか、古代末期の段階では和鋏(碇ヶ関村古館遺跡)も出現する。
通史編3(近世2) (飢餓の状況)

食物を求めて他領へ脱出を図る者が続出したので、それを阻止するために、野内(のない)(現青森市野内)・碇ヶ,関(現南津軽郡碇ヶ関村)・大間越(おおまごし)(現西津軽郡岩崎村)の関所では厳重な取り締まりを行っていた
通史編5(近・現代2) (石川町の存在)

県は大鰐・蔵館両町の合併に石川町と碇ヶ関村を取り上げていたし、弘前市も弘前電鉄の開通から石川町との合併,しかし碇ヶ関村が自立に固執し、石川町が弘前市との合併交渉に取り込まれている間に、大鰐・蔵館両町は単独合併
通史編5(近・現代2) (東北縦貫自動車道の全通)

東北縦貫自動車道の全通 東北縦貫自動車道は、青森線の十和田-碇ヶ関区間(二八・一キロメートル)が昭和六十一年七月三十日,最終の工区となったのは秋田県側鹿角市十和田インターから青森県側碇ヶ関インターまでであった。
通史編3(近世2) (時期・日数・通路)

帰路、秋田領から津軽領に入る際は矢立峠(やたてとうげ)を越え碇ヶ関(いかりがせき)(現南津軽郡碇ヶ関村
通史編5(近・現代2) (景気回復後の弘前市の商業)

31年7月現在 種別 事例 商品仕向地 卸売割合 茶 A 主として弘前市周辺農村 20% B 鰺ヶ沢,碇ヶ,関,黒石,浪岡,五所川原 65%-70% C 北,中,南,西郡,弘前市内,大館,能代 90% 紙類 A,北郡,岩崎,碇ヶ関,中郡,弘前市内 90% B 西郡,十三湖方面,南郡,大館 95% 靴,馬具等皮革製品,浪岡,七和,鶴田,金木,車力,深浦,鰺ヶ沢,五所川原 40% 繊維製品 A 秋田県北郡,鷹巣,尾上,碇ヶ,関   B 市周辺,黒石,浪岡,青森,鰺ヶ沢,五所川原,木造,板柳,大浦,相馬,目屋   C 秋田,大館
資料編1(考古編) (12.大落前川層Ⅲ)(おおらくまえかわそう))

模式地は、碇ヶ関村大落前川上流域。模式地及びその北東の山地、大鰐町三軒新田の西方に分布する。
資料編1(考古編) (47.鍋子沢層Ⅲ)(なべこざわそう))

模式地は、碇ヶ関村津苅川支流鍋子沢上流。十和田湖西麓より馬糞森山一帯に分布する。
通史編4(近・現代1) (奥羽本線の開通)

明治二十八年(一八九五)十月二十一日、弘前-碇ヶ関間が開通、三十二年六月二十一日には碇ヶ関-白沢間、同年十一月
通史編4(近・現代1) (鉄道の開通と運輸事業)

共同馬車会社(青森浜町)は、馬車台数二八輌で、同盟員は青森五人、弘前三人(田辺粂吉・福津兼蔵・鹿内友蔵)、碇ヶ,関二人、蔵館(現大鰐町蔵館)三人、大鰐二人、小湊(現平内町小湊)一人、野辺地一人で構成され、相当広い営業圏,新城 大釈迦 浪岡 弘前 大鰐 碇ヶ関運賃 八・五銭 二三銭 三〇・五銭 五五・五銭 七三銭 八八銭
通史編1(自然・原始) (湯口面)

メートル)の上位に軟弱な(N値二~三)灰色砂質シルトが約三メートルの厚さで堆積しているが、火砕流堆積物や碇ヶ,関浮石層は存在しない。
通史編3(近世2) (三代信義)

(現善知鳥神社(うとうじんじゃ)、青森市)を再建、古懸不動尊(こがけふどうそん)(現国上寺、南津軽郡碇ヶ,関村)を移転させ、寺社の保護に当たった。
資料編1(考古編) (14.大鰐湖成堆積物Ⅷ)(おおわにこせいたいせきぶつ))

備考:北村ほか(1972)の碇ヶ関層の一部に相当する。
資料編1(考古編) (63.三ツ森安山岩Ⅷ)(みつもりあんざんがん))

碇ヶ関カルデラ形成に先立つ火山岩類で、三ツ森山から矢捨山や阿蘇ヶ岳にかけて点々と分布する。
通史編1(自然・原始) ([口絵])

(五所川原市小田川) 碇ヶ関カルデラの水域に堆積した、泥炭質シルト岩。,(碇ヶ関村碇沢) 中央の谷にそって並ぶ三角形の山すそを三ッ目内川が流れ,その位置を三ッ目内断層
通史編1(自然・原始) (真夏日・夏日・真冬日からみた地域特性)

アメダス資料による真夏日の出現日数は、弘前一六日、碇ヶ関(いかりがせき)一七日、五所川原(ごしょがわら,弘前、碇ヶ関にみられるように、弘前・南津軽地域は高温日が多いことがわかる。  ,真冬日出現日数は、青森二九日、弘前三一日、黒石三八日、鰺ヶ沢二八日、市浦二六日、深浦二九日、八戸二一日、碇ヶ,関三八日、酸ヶ湯一〇四日。
通史編3(近世2) (国上寺)

国上寺 国上寺(こくじょうじ)(現南津軽郡碇ヶ関村)は古懸不動尊(こがけふどうそん)を祀る。
資料編1(考古編) (16.小国湖成堆積物Ⅷ)(おぐにこせいたいせきぶつ))

備考:岩井(1965)及び小高ほか(1970)の碇ヶ関層の一部に相当する。
通史編3(近世2) (民衆の動揺)

そこで藩は五重塔から碇ヶ関(いかりがせき)方面を見渡す調査をしたところ、近隣の寺社の杉類が邪魔でよく見通,碇ヶ関や大間越(おおまごし)には盛岡藩兵に追い立てられた秋田藩士らが妻子を連れて大挙逃れて来たが、その
通史編1(自然・原始) (松原面)

(五〇メートル)・寺沢川流域の新寺町(五二メートル)や朝陽小学校(四七メートル)などでは、地表直下に碇ヶ,関浮石層があって、下位に暗灰色軽石質粗粒砂層が五~七メートルの厚さで堆積している。,また、山崎一丁目(六八メートル)・稔町(五二メートル)でも碇ヶ関浮石層直下に五~八メートルの厚さをもつ
通史編5(近・現代2) (鉄道の高速化)

一方、昭和六十一年六月には東北縦貫自動車道青森線の碇ヶ関-十和田(秋田県)間の開通により、青森-浦和(
通史編1(自然・原始) (古懸浮石流凝灰岩)

古懸浮石流凝灰岩 碇ヶ関村古懸(こがけ)、大鰐町唐牛(かろうじ)・苦木(にがき)・蔵館(くらだて)・,#160;40°28'55” E140°37'49” 南津軽郡碇ヶ,Gak-19385 山口 (2000a)  古懸浮石流凝灰岩は、碇ヶ関村古懸では軽石粒やマグマと直接的,(碇ヶ関村古懸)  古懸浮石流凝灰岩直上には特徴的な黄褐色の軽石質火山灰層が載っている。,厚さ三〇~六〇センチメートルの降下火山灰で、碇ヶ関浮石層(山口、一九九三)と呼ばれ、古懸浮石流凝灰岩とほぼ
資料編1(考古編) ([口絵])

ゴロタ〟、8,600年前)/Cu:中掫浮石層(通称〝アワズナ〟、5,000~6,000年前) 〔碇ケ,関村古懸〕 約1万3,000年前に十和田カルデラ(外側カルデラ)に起因する火砕流(古懸浮石流凝灰岩,この火砕流の直下には、碇ケ関カルデラ内に堆積した湖成層(写真右が碇ヶ関層)が堆積している。
通史編3(近世2) (猿賀神社より盗み)

鞭刑の執行後に、尾太(おっぷ)銅山(現中津軽郡西目屋村、現在廃坑)や湯野沢(ゆのさわ)鉱山(現南津軽郡碇ヶ,関村、現在廃坑)で労役に従事することになっていたのだが、「文化律」段階で銅鉱山の労役に代わって牢居となった
通史編1(自然・原始) (日降雪量と年合計降雪量の分布)

五所川原六〇センチメートル、蟹田三四センチメートル、弘前四〇センチメートル、黒石四五センチメートル、碇ヶ,関六三センチメートル、今別五〇センチメートル、鰺ヶ沢四八センチメートル、深浦三六センチメートル。  ,平地で五〇センチメートルを超えているのは、青森~五所川原の例年の多雪地帯で、今別(いまべつ)・碇ヶ関も
資料編1(考古編) ((10)工具)

鉋は、古館遺跡(碇ヶ関村)・砂沢遺跡・大平遺跡(大鰐町)の3遺跡から出土している。
通史編3(近世2) (藩論の紛糾)

五月十四日には、仙台から同盟に調印した山中兵部が帰藩し、より詳しい事情を得た弘前藩は、十六日、碇ヶ関(,十六日、杉山上総・加藤善太夫らが碇ヶ関で同盟に従い、薩長勢を討つように命じたが、こうした処置はその場しのぎの,二十三日には碇ヶ関に詰めていた山崎所左衛門が参謀大山格之助(おおやまかくのすけ)へ書状を送り、藩境の兵
通史編3(近世2) (帰国の旅)

午後四時ころ碇ヶ関へ到着。今日は一日中雨が降って道路が悪く、領内へ入ってからは沢や川を何回も越えた。,碇ヶ関の宿へ到着後、子供たちからの手紙をみる。,二十一日、午前七時すぎ碇ヶ関を出発し、正午に弘前城へ到着(二十一日以後のことについては、本節四(三)参照
通史編1(自然・原始) (海に流れ込んだ火砕流)

湯ノ沢カルデラは、碇ヶ関カルデラ(一六四頁参照)とほぼ同じ所にあったが、碇ヶ関カルデラよりは、古い時代
通史編2(近世1) ([口絵])

口絵7 近衛龍山(前久)筆 津軽富姫弔歌 口絵8 信政公葬送図絵巻 口絵9 碇ヶ関秋田境
資料編1(考古編) (1.青荷凝灰岩Ⅷ)(あおにぎょうかいがん))

カルデラ外青荷凝灰岩は、今泉(1949)の大釈迦層、井上・三橋(1961)の碇ヶ関層、岩井(1965)
通史編3(近世2) (参勤の準備)

また近日中参府となるので、碇ヶ関の山中の雪切りや途中の橋などを修理させる。
通史編5(近・現代2) (度重なる大水害)

)年八月二日から三日未明にかけて、岩木川上流の県境付近に集中豪雨があり、岩木川下流の弘前市や大鰐町、碇ヶ,関村に大水害をもたらしたのである。,碇ヶ関駅付近で退避していた上り列車が崖崩れに巻き込まれ、列車二両が転覆、二人の死者と重軽傷者五三人を出
通史編2(近世1) (陸上交通網の整備)

油川(あぶらかわ)~青森~浅虫~小湊(こみなと)~狩場沢(かりばさわ)~南部領、②弘前~堀越~大鰐~碇ヶ,関~秋田領境杉峠、の二本の道筋である。,油川間と、奥州街道の油川~狩場沢間を合わせたものであり、②は後に参勤交代路となる羽州街道の弘前~大鰐~碇ヶ,関間を指している。
資料編1(考古編) (第4節 弘前地域内の地質系統の放射年代一覧表)

;40°28′55″ E 140°37′49″ 山口 (1993) 南津軽郡碇ケ,関村古懸浮石流凝灰岩中の砂層直上の凝灰岩に含まれる樹幹 Gak-16552 古懸浮石流凝灰岩 13,170&,;40°28′55″ E 140°37′49″ 山口 (1993) 南津軽郡碇ケ,関村古懸浮石流凝灰岩中の砂層直下の凝灰岩に含まれる樹幹 Gak-16553 古懸浮石流凝灰岩 12,960&,デイサイト(溶結凝灰G岩) SJ-R47353 遠部層 2.4~5.0Ma (K-Ar法・全岩) 碇ヶ
通史編3(近世2) (出発)

)村へ入り、ここから左の道を進んで古懸不動(現国上寺、本尊は不動明王(ふどうみょうおう))に参詣し、碇ヶ,関村へ到着。,碇ヶ関番所では、碇ヶ関町奉行および諸役人が出迎え、それから矢立峠へ向かったのである。
通史編2(近世1) (天保四年の飢饉)

八月になると、秋田領へ逃散する飢民が発生し、四〇〇〇人を越える飢民が碇ヶ関の関所を越えていった。
通史編2(近世1) (安政期の蝦夷地警備と交通問題)

さらに、交通量の激増は碇ヶ関(いかりがせき)・大間越(おおまごし)などの関所の機能を麻痺させていった。,碇ヶ関は羽州街道最大の関所であったが、山中にあるため、早瀬野口など他の間道から通行手形を持たない旅人の,表63は元治元年(一八六四)の九浦(くうら)(碇ヶ関・野内・大間越の三関と青森・鰺ヶ沢など六つの主要港町,14.8 4 十 三 1,231 619 386 2 0.5 612 327 2 0.6 0.6 5 碇ヶ,関 802 408 252 3 1.2 394 242 0 0 0.6 6 大間越 270 125 82
通史編3(近世2) (鎮撫総督軍の領内通行問題)

そして、この兵が碇ヶ関付近の藩境に集められ、そのまま警備を命じられたのである。  ,翌十一日、佐藤英馬の報告を受けた弘前藩は、これを了承して、藤川能登一行の領内通過については、「碇ヶ関ヨリ,図57.庄内藩士が描いた碇ヶ関  翌五月十二日、再々度藩の方針は転換された。
通史編1(自然・原始) (桔梗野面)

八五メートル)では、黒色腐植土直下に厚さ二メートル弱の黄褐色ローム層(N値四~七)が堆積し、最上部には碇ヶ,関浮石層に相当する軽石層が認められる。,碇ヶ関浮石層を除く黄褐色ローム層を載せるのは桔梗野面のみである。
通史編1(古代・中世) (擦文文化圏との交易)

にみてもこの時期の木製品の出土例が多い津軽地方では、大鰐町大平遺跡・同町砂沢平遺跡・黒石市高館遺跡・碇ケ,関村古館遺跡・木造町石上神社遺跡などで出土した皿・椀が知られている。
通史編1(自然・原始) (大規模な海底地滑りの痕跡)

津軽平野は広く海に覆われ,南の方にあった碇ヶ関カルデラからは,時々火砕流が周囲へ流れ出していた。,カルデラは、現在の津軽平野よりやや広い範囲を覆うように広がっていた海域の南の方に三つもあり、それぞれに碇ヶ,関(いかりがせき)カルデラ、沖浦(おきうら)カルデラ、湯ノ沢(ゆのさわ)カルデラと名前がつけられている,碇ヶ関カルデラから流出した火砕流堆積物は虹貝(にじかい)凝灰岩、沖浦カルデラから流出した火砕流堆積物は,碇ヶ関カルデラの外輪山の北西部は、ちょうど弘前市と大鰐町の境界付近に位置し、北部のへりにあたる外輪山の
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