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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編1(考古編)
(第5節 陶磁器類)
第5節 陶
磁器
類 青森県をはじめとする北日本においては、12世紀ごろを終末として窯業の展開がほとんど,青森県内で最も古い陶
磁器
が出土している事例は、古代集落における東海地方の灰釉陶器出土例を除き(前章の三浦執筆,における記述)、いわゆる舶載陶
磁器
と言われる中国を中心とする生産地の製品が認められる。,ただし、舶載陶
磁器
は船で運ばれたことを意味するから、中世の段階で津軽地方に入ってきた陶
磁器
のほとんどは,、生産地の違いを抜きにすれば国産陶
磁器
であっても舶載陶
磁器
と言えるのかもしれない。 / 第5節 陶
磁器
類
通史編1(古代・中世)
(二 陶磁器と津軽)
二 陶
磁器
と津軽 中世後期における陶
磁器
をみると、一五世紀と一六世紀で顕著な違いが認められる。,一五世紀の基本的な陶
磁器
の組み合わせは、碗・皿という器種が青磁・白磁・瀬戸であるのに対し、一六世紀はこれらの,けのされた製品が加わり、瀬戸はそれまでの窖窯(あながま)生産から大窯(おおがま)生産に移行し、大量の陶
磁器
,甕や壺・擂鉢(すりばち)のような比較的大型の陶
磁器
も、珠洲を中心とする流通から越前の製品に移行する変化,ここではこれら陶
磁器
の動きから中世後期の社会をみることにしよう。 / 二 陶
磁器
と津軽
通史編3(近世2)
((三)陶磁器)
(三)陶
磁器
陶
磁器
とは焼き物の総称であるが、ここではその中の陶器と
磁器
を主対象とする。,両者の大きな違いは、陶器は粘土を主な原料とし、
磁器
は陶石(主成分が長石(ちょうせき)や石英で白く
磁器
に,して白く透明性のあるのは
磁器
である。 ,や瀬戸系陶
磁器
を主とする)で賄われていた。 ,ここでは「国日記」の陶
磁器
関係の記録によって、その他関係史・資料の記述も取り入れ、領内における陶
磁器
の / (三)陶
磁器
資料編1(考古編)
(7.陶磁器の組成)
7.陶
磁器
の組成 以上の陶
磁器
類について、出土した破片数からその構成比率を見たのが表3、図16~18,13・14世紀になると荼毘館のように青磁・白磁の舶載陶
磁器
と、瀬戸・珠洲・越前・渥美などの国産陶
磁器
が,境関館でも、13・14世紀の陶
磁器
が認められるものの、主体は15世紀代の陶
磁器
であることから、しだいに,堀越城は、16世紀を主体とするため舶載陶
磁器
では染付、国産陶
磁器
では美濃灰釉の比率が高い。,図16 陶
磁器
の構成比率 図17 舶載陶
磁器
の出土比率 図18 国産陶
磁器
の出土比率 / 7.陶
磁器
の組成
通史編1(古代・中世)
(陶磁器と地域社会)
陶
磁器
と地域社会 津軽地域では、陶
磁器
の使用に関して興味ある事例が存在する。,それは、日常生活で使用した陶
磁器
を廃棄するとき、意図的に破砕して捨てる風習である。,浪岡城跡や中里城跡で出土した破砕陶
磁器
は、一定の場所に粉々に砕いた陶
磁器
片を撒くような状態で廃棄しているのである,事例としては特殊な部類に入るため、すべての陶
磁器
がそのようにされたわけではないが、かわらけの稀少性とともに,、陶
磁器
という「うつわ」に対する精神性のあらわれとして注視すべき出土状況である。 / 陶
磁器
と地域社会
通史編1(古代・中世)
(かわらけと陶磁器)
かわらけと陶
磁器
中崎館遺跡から出土する遺物のなかでもっとも特色のある遺物が「かわらけ」(写真80),現在のところ、かわらけとセット関係になって陶
磁器
を出土する遺跡は、北海道までは波及していないことから、,この場合、陶
磁器
とともに搬入された土器(かわらけ)までなくなるわけではないが、日常の食器は木器と陶
磁器
,の二器種だけで対応し、儀礼的な器は漆器・陶
磁器
と銅器が対応するようになる。 ,このような陶
磁器
の組み合わせの相違に加えて、時間の推移をみるときは土器が有効である。 / かわらけと陶
磁器
資料編1(考古編)
(第1節 中世・近世遺跡の概観)
小泊村 15 陶
磁器
7 中里城跡 中里町 15 陶
磁器
・他 66ほか 8 大開城跡 今別町 14,,15 陶
磁器
・銭貨・他 23ほか 11 油川城跡 青森市 15,16 陶
磁器
・銅製品 36ほか 12,15 陶
磁器
28 47 野田沢遺跡 川内町 15 陶
磁器
28 48 宿野部遺跡 川内町 15 陶
磁器
,13 陶
磁器
74 59 左組遺跡 七戸町 13 陶
磁器
74 60 堀越城跡 弘前市 16 陶
磁器
,弘前市 13,14 陶
磁器
・板碑 44 69 国吉館跡 弘前市 16 陶
磁器
通史編1(古代・中世)
(中国製品の出土)
中国製品の出土 搬入された交易品のうち、生産地や年代が推定できる資料として陶
磁器
が挙げられる。,県内最古の出土陶
磁器
は、黒石市高館(たかだて)遺跡や蓬田村蓬田大館(よもぎだおおだて)遺跡、さらに八戸市大仏,この陶
磁器
は竪穴建物跡(住居)のカマドから出土したもので、一二世紀ごろの年代観を有している。,蓬田大館遺跡の陶
磁器
もほぼ同時期の資料で、白磁と青磁が一片ずつ出土している。,また、大仏遺跡の陶
磁器
も白磁皿であり、竪穴住居跡から出土し、一一世紀代まで上る可能性もある。
資料編1(考古編)
(1.12世紀の様相)
1.12世紀の様相 青森県内に搬入された陶
磁器
の中で、明確に11世紀代と考えられるものは認められず、,また外ケ浜に位置する内真部遺跡からも同時代の陶
磁器
が出土しているが、未報告であるため詳細は後日を期したい,カラー図1 中崎館遺跡出土陶
磁器
(1) 1~6青磁(表裏) カラー図2 中崎館遺跡出土陶
磁器
,(2) 1~10白磁(表裏) カラー図3 中崎館遺跡出土陶
磁器
(3) 1~6珠洲鉢、7~9珠洲壺,カラー図4 中崎館遺跡出土かわらけ(表裏) 図5 陶
磁器
写真・実測図(1) 1
資料編1(考古編)
(第4節 中世・近世の生活用具)
素材として見た場合は、土器、陶
磁器
、鉄製品、銅製品、木製品、石製品、骨角製品、紙、革製品、竹、藁等で、,皿・壺・鉢・承台(しょうだい),白磁碗・皿・壺・小杯,染付碗・皿・鉢・小杯,赤絵碗・皿(以上中国製陶
磁器
,)/粉青沙器(ふんせいさき)碗・皿・壺(以上朝鮮製陶
磁器
)/瀬戸美濃灰釉(かいゆう)碗・皿・壺・盤・瓶子,,瀬戸美濃鉄釉(てつゆう)碗・皿・壺・天目台,唐津皿・碗・鉢・壺(以上日本製陶
磁器
)/土器皿 調理具,すり鉢,珠洲(すず)すり鉢,備前すり鉢,唐津すり鉢,瀬戸美濃灰釉鉢・卸皿(おろしざら)(以上日本製陶
磁器
通史編1(古代・中世)
(北日本の地域差)
北日本の地域差 ただ同じ北日本であっても勝山館と浪岡城を比較した場合、陶
磁器
などの共通性とともに一次生産用具,とくに、津軽地域の城館のなかでも平野部と海岸部では出土陶
磁器
に違いはないものの、農耕具や狩猟具といった,先に述べた破砕する陶
磁器
の類はアイヌ社会に認められる「物送り」といった精神構造と類似しており、和人社会,たとえば、図49に示した一五世紀代の遺跡における陶
磁器
組成をみると、志苔館は青磁・白磁の食膳具が大部分,で調理・貯蔵といった長期間の生活形態を示す陶
磁器
が少ないのに対し、境関館は逆に珠洲を中心とした甕・擂鉢
資料編1(考古編)
(6.17世紀以降の様相)
実際は16世紀代に廃絶を迎える遺跡であっても、17世紀以降の出土陶
磁器
がかなり認められる事例も存在する,主要な遺跡としては東通村浜通遺跡(図14・図15)や弘前城跡、野脇遺跡、平賀町永泉寺遺跡が存在し、肥前
磁器
搬入直前,図14 浜通遺跡出土陶
磁器
実測図(1) 図15 浜通遺跡出土陶
磁器
実測図(2)
通史編3(近世2)
(下川原における製陶)
下川原における製陶 「国日記」によると、下川原(現市内桔梗野)に白焼瀬戸(
磁器
)座が取り立てられたのは,九月二十二日の、国産御用掛の申し出によると、前述の悪戸焼のところで触れた筑前の陶師五郎七が、この陶座で
磁器
,文久二年(一八六二)十月には、石焼瀬戸(
磁器
)の製陶法について皆伝となり帰藩。,帰藩後は郡所の費用負担で
磁器
の焼成に取りかかったが、経費増のため一度は中止に追い込まれた。,
磁器
は焼きしまりが良く堅手(かたで)で、染付の発色も極めて良い。
通史編1(古代・中世)
(非かわらけ地域)
北日本では一二世紀ごろから津軽地域を中心として中国陶
磁器
が認められるが、一三世紀前半まではかわらけも陶
磁器
,東日本における陶
磁器
とかわらけの比率を大きな目で比較したのが、図47である。,図47 東日本の陶
磁器
類組成 この図から、ほぼ五〇〇〇平方メートルほどの発掘調査をすると、地域,しかしながら、かわらけが多いからといって陶
磁器
が少ないかというとそうではなく、五千点以上の陶
磁器
が出土,することは、陶
磁器
に対する権威性も失ってはいない。
通史編1(古代・中世)
(湊の最盛期)
それは出土陶
磁器
の年代や出土量がこの時期に集中していること、さらに検出される遺構群もこの時期に対応する,年代観のわかる瀬戸製品の出土状況をまとめると図43のようになり、一二世紀後半から一四世紀前半までは陶
磁器
自体,は存在するものの、明確な生活痕を示す段階までは至らず、一四世紀中ごろからは生活用具としての陶
磁器
が明確,一二・一三世紀の陶
磁器
は伝世的な意味も加味しなければならず、さらに発掘箇所によって年代の違う陶
磁器
が出土,それは、出土陶
磁器
における中国製品と国産(主として瀬戸)の比率である。
通史編1(古代・中世)
(舶載と国産)
一五世紀の状況は、弘前市内の境関館や、尻八館(青森市)・志苔(しのり)館(函館市)そして十三湊の出土陶
磁器
,このような陶
磁器
の広域搬入は、中世前半にみられた搬入の在り方とは段違いの状況となり、汎日本的な交易システム,とくに一六世紀になると津軽地域に搬入される陶
磁器
の量は、地域の拠点的城館である浪岡城・大光寺城・石川城,図46 15・16世紀における北日本の陶
磁器
出土遺跡 ただ、前述した十三湊の動きを別にすれば、,つまり中国製陶
磁器
には、所有者の権威が内在しているのである。
資料編1(考古編)
(資料編1「考古編」掲載図・表・写真一覧)
・実測図(1) 図6 陶
磁器
写真・実測図(2) 図7 陶
磁器
写真・実測図(3) 図8 尻八館出土陶
磁器
実測図,2) 図16 陶
磁器
の構成比率 図17 舶載陶
磁器
の出土比率 図18 国産陶
磁器
の出土比率 図, 野脇遺跡出土陶
磁器
実測図(4) 図133 野脇遺跡出土陶
磁器
実測図(5) 図134 野脇遺跡出土陶
磁器
実測図,10・11 荼毘館遺跡出土陶
磁器
12・13 独狐遺跡出土陶
磁器
14~16 堀越城跡出土陶
磁器
,17~22 野脇遺跡出土陶
磁器
23・24 弘前城跡出土陶
磁器
資料編1(考古編)
(3.14世紀の様相)
3.14世紀の様相 この時期になると青磁の出土量が多くなり、尻八館や境関館の出土陶
磁器
の組み合わせからすると,ほかの中国陶
磁器
としては、「利市」「招財」のスタンプをもつ壺(図9-2・3)があり、朝鮮の製品には三島手,図8 尻八館出土陶
磁器
実測図(1) 図9 尻八館出土陶
磁器
実測図(2) 図10 尻八館出土陶
磁器
類
資料編1(考古編)
(5.16世紀の様相)
5.16世紀の様相 16世紀の指標となる陶
磁器
は、中国製染付や美濃瀬戸大窯期の出土製品に現れる。,遺跡としては、浪岡町浪岡城跡、八戸市根城跡、北海道上ノ国町勝山館があり、ほぼこの三遺跡から出土する陶
磁器
,によって16世紀における搬入陶
磁器
について理解することができるであろう。 ,染付は、16世紀を代表する陶
磁器
であり、碗(図12-1~3)、皿(図12-4~9)、大皿(図12-10,図11 浪岡城跡出土陶
磁器
実測図(1) 青磁・白磁 図12 浪岡城跡出土陶
磁器
実測図(2)
通史編3(近世2)
(大沢における製陶)
姓高谷)は、かねて信仰してきた妙見堂の移転に関する申し立ての中に「四十年已前、大沢村ニ而白焼瀬戸座(
磁器
焼成,
磁器
焼成の技術については文化初年ころ(一八〇四~)、金蔵が北九州へ渡り、有田(現佐賀県有田市)で習得に,金蔵は大沢のあと、下川原に移って筑前から入国してきた陶師五郎七らと
磁器
の焼成に当たった。,製品は
磁器
が中心で茶碗・皿等の食器類・香炉・水滴・花瓶(びん)その他種々の器物が試みられている。
資料編1(考古編)
(3.野脇遺跡)
野脇遺跡出土陶
磁器
(2) 1~13唐津(表裏) カラー図19 野脇遺跡出土陶
磁器
(3) 1, 野脇遺跡出土陶
磁器
(6) 1~13肥前 陶
磁器
は、中世段階の舶載陶
磁器
として、白磁碗(図129,図130 野脇遺跡出土陶
磁器
実測図(2) SD01の陶
磁器
には、肥前染付皿(図131-1・2・,図131 野脇遺跡出土陶
磁器
実測図(3) 図132 野脇遺跡出土陶
磁器
実測図(4),特に、17世紀代の陶
磁器
より18世紀代の陶
磁器
が増加し、碗・皿・鉢・擂鉢・甕のほかに、水滴・紅皿・油壺
通史編1(古代・中世)
(一六世紀の湊)
浪岡城跡は一六世紀を代表する遺跡といえ、ここからは一二世紀後半から一七世紀初頭までの、長期間にわたる陶
磁器
,特に一六世紀段階の陶
磁器
については、中国製品・日本製品を問わず、津軽地域で最も多く出土しており、中世段階,、下北半島の川内町の鞍越(くらこし)遺跡出土遺物、野辺地町周辺の表採品に一六世紀から一七世紀初頭の陶
磁器
,する太平洋岸までの海運の経路を想定することができ、八戸市根城や南部諸城館に供給された一六世紀以降の陶
磁器
,朝鮮産の陶
磁器
にみるべきものがある。
資料編1(考古編)
(4.15世紀の様相)
と考えられる時期、後半は南部氏の支配が広がる時期と推定されるが、関連する遺跡から出土している多量の陶
磁器
,例えば、中国陶
磁器
の中で、青磁は蓮弁文を有する碗から無文碗の比率が増大し、白磁は軟質な口縁内湾形の皿と,、浪岡町浪岡城跡、平賀町大光寺城跡、弘前市境関館跡、八戸市根城跡であり、安藤氏関連遺跡が多いものの陶
磁器
,詳細は第5章の境関館出土陶
磁器
を参照願いたい。 ,北海道函館市の志海苔館の陶
磁器
は、青森県内の遺跡出土品と若干の相違はあるものの、15世紀代としてはまとまった
資料編1(考古編)
(4.発掘調査以外の遺跡)
内容としては、悪戸焼の器種を陶器と
磁器
別に分類し、窯道具の紹介もある。,カラー図23 弘前城跡出土陶
磁器
(1)(表裏) 1~8肥前 カラー図24 弘前城跡出土陶
磁器
資料編1(考古編)
(2.13世紀の様相)
大光寺城跡から瀬戸瓶子や青磁鎬蓮弁文碗・梅瓶、白磁口禿碗・皿などが出土していることから、ほぼ鎌倉での陶
磁器
組成,2七戸町出土常滑壺(個人蔵) 図6 陶
磁器
写真・実測図(2) 1七戸町出土常滑四耳壺(七戸町教育委員会蔵,) 2浪岡町出土珠洲四耳壺(個人蔵) 図7 陶
磁器
写真・実測図(3) 1田舎館村出土珠洲系四耳壺
通史編2(近世1)
(堀越城の構造)
図26.堀越城跡の航空写真(平成13年撮影) なお、堀越城跡から舶載
磁器
(はくさいじき)・国産陶
磁器
,舶載
磁器
について、青磁(せいじ)の皿は十五世紀後期~十六世紀中期の龍泉窯(りゅうせんよう)・龍泉窯系で,国産陶
磁器
については、瀬戸美濃産の緑釉(りょくゆう)または銅緑釉(どうりょくゆう)の小皿が多く出土しており,瀬戸窯産の陶
磁器
が北日本の城館に多数搬入されていることが知られることから、「津軽一統志」の文禄三年居城移転
通史編1(古代・中世)
(ムラの建物)
富山遺跡の中世遺構配置 このなかで第一〇号竪穴遺構は四隅に柱穴を有するタイプで、この覆土からは陶
磁器
片,、竪穴建物跡の全体を調査することはできなかったが、長軸一三メートルに及ぶ大形竪穴建物跡の床面から、陶
磁器
,図56 浜通遺跡の建物配置 浜通遺跡は出土した陶
磁器
によると、一六世紀末から一七世紀初頭の数十年間,出土陶
磁器
のうち、碗・皿の類は中国製染付および瀬戸・美濃(志野も含む)・唐津を使い、擂鉢に越前・肥前・,また、陶
磁器
の年代幅が狭いことや、遺構の重複が少ないことをみても、長くても数十年の期間しか生活していなかった
通史編1(古代・中世)
(四耳壺の出土)
四耳壺の出土 ここで注目すべきことは、陶
磁器
の中で四耳壺(しじこ)といわれる器種が多く出土することである,とくに中国製の白磁四耳壺は、陶
磁器
生産が未熟な日本社会のなかではとりわけ貴重な器であったらしく、全国的,写真82「鳥獣戯画」の四耳壺 このように特別な場面で使われる陶
磁器
は、それを所持する人物の権威,このように、中世初期の遺跡では古代まで一般的であった土器と木器(漆器)という食膳具の使用形態に陶
磁器
が,陶
磁器
は日常の食器であるとともに、所有者の権威を示す器でもあった。
資料編1(考古編)
(第2節 中世・近世の考古学研究略史)
(後略)』 と、十三湊周辺から中世の陶
磁器
が多量に掘り出され、各地に保管されていることを記述している,それは、竪穴住居跡(中世竪穴建物跡)等から、15・16世紀を主体とする青磁・染付・瀬戸美濃灰釉などの陶
磁器
,立場から研究し、昭和40年代後半以降「北奥古代文化」誌上を中心に、表採資料ではあるものの津軽地域の陶
磁器
,年(1977)から同54年にかけて調査された尻八館は*11、県内でも珍しい山城であったことと、出土陶
磁器
,の佐々木達夫はたびたび県内に足を運び、出土陶
磁器
の鑑定とともに陶
磁器
研究の指導を行い、北日本地域の出土陶
磁器
通史編1(古代・中世)
(大浦氏関係の中世城館跡)
出土遺物では中国青磁破片一〇点(碗・皿)や中国染付細片一〇点(碗・皿と思われる)、国産品では瀬戸・美濃陶
磁器
破片一六点,(碗・皿)、越前破片三点(甕(かめ)・擂(すり)鉢)、唐津破片八点(皿・碗・甕)といった陶
磁器
をはじめ
通史編1(古代・中世)
(第三節 南北交易と「境界地域」津軽)
もっとも特徴的な出土品として、生産地や流通量が理解できる陶
磁器
があり、鉄製品・銅製品・石製品などすべての,この背景には、津軽地域および夷島の各種物資が相当量南に向かって流通し始め、その見返りとして陶
磁器
や銭貨,津軽を中心とする北奥や夷島へ「京」から入った物としては前述した陶
磁器
のほか、鉄製品(鍋・釜・大工道具など
資料編1(考古編)
((4)12世紀代)
これらの遺跡では、青磁や白磁などの中国製陶
磁器
や、常滑(とこなめ)・渥美(あつみ)・珠洲(すず)焼などの,12世紀の津軽地方を中心とする地域は、遺跡の数、あるいは出土遺物の中での、「かわらけ」や中国製陶
磁器
・,国産陶
磁器
が、それぞれに平泉の都市域やその周辺、あるいはそれと深く係わる地域以外とは様相を異にする事を
通史編3(近世2)
(平清水三右衛門による作陶)
なお
磁器
の原料としては成分が良くなかったとみえ、京都黒谷の土の買い入れを申し立てている。,この場合の白焼は完全な
磁器
ではなく、透明性のない半
磁器
程度のものと考えられる。,なお、白土は窯の修理や窯道具用にも使用された(小人町の窯跡とされる場所からは、加熱のために白い
磁器
質の,匣鉢(こうはち)〈窯道具〉に溶着した
磁器
質の破片などが認められている)。,当時、このような
磁器
の製作は伊万里焼(有田焼)・鍋島焼・九谷焼(くたにやき)などを除くと全国的にみて希有
通史編1(古代・中世)
(城館発掘の成果)
また、荼毘館遺跡は出土陶
磁器
によると一三世紀後半から一五世紀にかけて成立している城館であるが、堀跡の確認,この遺跡に隣接して正応元年(一二八八)銘などの年号を有する中別所の板碑群が存在し、出土陶
磁器
と年代的には,写真180 境関館の板碑 図58 荼毘館の板碑 独狐館からは中世陶
磁器
が出土し、古い
資料編1(考古編)
(2.堀越城跡)
柾組検出状況 木製品出土状況 出土柾組図 (8)出土遺物 出土遺物としては、陶
磁器
,カラー図14 堀越城跡出土陶
磁器
(1)(表裏) 1~3青磁 4白磁 5~10染付 カラー図,15 堀越城跡出土陶
磁器
(2)(表裏) 1不明陶器 2・3肥前 4志野 5美濃瀬戸灰釉 カラー,図16 堀越城跡出土陶
磁器
(3)(表裏) 1~3美濃瀬戸灰釉 4~6越前 〔陶
磁器
〕 中国製青磁,・白磁・染付のほか、国産陶
磁器
としては、美濃瀬戸灰釉・鉄釉・長石釉(志野)、越前、珠洲などとともに17
資料編1(考古編)
(第7節 出土遺物と生活)
陶
磁器
の中に志野が出土していることから、16世紀末から17世紀初頭の埋葬が推定される。,出土文字資料(陶
磁器
・漆器・木器ほか)は比較的少ない。,陶
磁器
の底に文字・記号を書いた例と、漆器の底や側面に文字の書かれた例は、浪岡城跡に多いものの「大」「二,図23 陶
磁器
に書かれた文字(浪岡城跡出土資料) 木製品に墨書で書かれた例は、浪岡城跡において
資料編1(考古編)
(6.独狐遺跡)
晩期の土器・石器が、また平安時代後半期(10世紀~11世紀代)の土師器・須恵器等が、さらに中・近世の陶
磁器
,カラー図12 独孤遺跡出土陶
磁器
(1)(表裏) 1・2・8・9白磁 3~6青磁 7美濃瀬戸天目 10,・11染付 カラー図13 独孤遺跡出土陶
磁器
(2)(表裏) 1~4美濃瀬戸灰釉 5・6美濃瀬戸鉄釉,独狐遺跡出土遺物(土師器・須恵器) 図89 独狐遺跡出土遺物 図90 独狐遺跡出土陶
磁器
通史編1(古代・中世)
(石川城跡)
遺物は、中世のものは中国青磁(碗・皿・鉢)、中国染付(碗・皿)といった貿易によって持ち込まれた中国陶
磁器
,をはじめ、国産品では瀬戸・美濃の陶
磁器
(瓶子・香炉・壺・皿・鉢)なども出土している。
通史編1(古代・中世)
(食の道具)
その場合に盛りつける器は、陶
磁器
や漆器で、武家社会の正式な食事場面では折敷(おしき)(図51-8)と呼,ここで使われる陶
磁器
は、ほぼ一〇〇パーセント中国・朝鮮や日本列島各地から搬入された製品である。,しかしながら、陶
磁器
と同様に食器として使用された漆塗り椀・皿の出土量に比して、漆塗りの工具等は少なく、
通史編3(近世2)
(悪戸村における製陶)
悪戸焼は文化年間(一八〇四~一八一七)初期から現代にかけて悪戸村(現市内悪戸・下湯口)でつくられた陶
磁器
,藩では国産品の保護育成のために、白焼(この場合は
磁器
)は別として、悪戸で焼成される雑焼の移入を禁じた。,現福岡県糟屋(かすや)郡須恵町上須恵(かみすえ))の瀬戸師で、天保三年瀬戸商人彦右衛門(ひこえもん)の斡旋で陶
磁器
,岩手の陶窯―山蔭日誌」(盛岡市立図書館蔵)によると、宇吉は天保六年に盛岡の山蔭(やまかげ)焼の窯場で
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資料編1(考古編)
(5.荼毘館遺跡)
また、この時期の出土遺物には、中国産の青磁・白磁の舶載陶
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、瀬戸・珠洲・越前・信楽等の日本製陶
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が,カラー図10 荼毘館遺跡出土陶
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(1) 1~13青磁(表裏) カラー図11 荼毘館遺跡出土陶
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,土師器・須恵器) 図82 荼毘館遺跡出土土師器・須恵器 図83 荼毘館遺跡出土陶
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資料編1(考古編)
((1)東北地方南部以南との交易・交流)
200kmも離れているにもかかわらず、遺跡の数、あるいは出土遺物の中での「京都系かわらけ」や中国製陶
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,・国産陶
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は平泉の都市域やその周辺、あるいはそれと深くかかわる地域と様相を同じくしている。,一方、中国製
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は白磁の碗・皿類(蓬田大館・浪岡城・境関館・十三湊・内真部・中崎館)、四耳壺(浪岡城内館,図122 古代の陶
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(1灰釉陶器,2~15・17白磁,16~19青磁) 図123 古代の陶
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通史編1(古代・中世)
(湊の始まり)
しじこ)(写真168)は蔵骨器という性格上、十三湊周辺に居住した人々の葬制に、火葬の風習を伴うことと、陶
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,写真168 瀬戸四耳壺 近年の発掘調査によると、これまで一五世紀の陶
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が主体を占めていた十三湊遺跡,の北側(土塁の北側)や、内潟に面した地点からは、一三世紀代の年代観を示す陶
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も出土し、文献の面でも湊
資料編1(考古編)
(4.中崎館遺跡)
井戸跡内からは、上記の井筒のほか、折敷・樋底・箸・瓢箪製杓子等の木製品、陶
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・かわらけ・鉄製品が出土,それらは、「かわらけ」と呼ばれる素焼きの土器・舶載及び国産陶
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・鉄製品・木製品・石製品・銅製品等である,⑧国産陶
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(カラー図3) 国産陶
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には、渥美焼(越前焼?),⑨舶載陶
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(カラー図1・2) 出土した舶載陶
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には、青磁の碗26片・皿1片・白磁の碗16片がある。,この遺跡の性格は、儀礼的遺物である「かわらけ」を主体とし、当時、一般民衆が入手しがたい国産及び舶載陶
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通史編5(近・現代2)
(青森県工業試験場)
設備を有し、一般工芸品の試作見本、製作研究を行ふ 四 窯業部 (イ)窯業の指導 陶
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並,釉薬(〔うわぐすり〕)に関する実地指導、講習講話、質疑応答、審査、研究生並に練習生の養生 (ロ)陶
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試作研究, 窯業工場に於て陶
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試験、試作依頼製作、製品の払下を行ふ 五 工業相談部 (イ)工業
資料編1(考古編)
(1.境関館遺跡)
(5)出土遺物 城館期の出土遺物として陶
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類887点、鉄製品316点、銅製品22点、銭貨682枚,〕(カラー図6~9) 出土した陶
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は総破片887片、個体数では443個があり、舶載陶
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と国産陶
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,カラー図6 境関館遺跡出土陶
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(1) 1~6青磁(表裏) カラー図7 境関館遺跡出土陶
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,図106 境関館遺跡出土陶
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(1) ②白磁は、碗・皿・杯の器種が存在し、75破片、47個以上の,図108 境関館遺跡出土陶
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(3) ⑦珠洲は、408破片、個体数は186個体以上と推定され、出土陶
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通史編1(古代・中世)
(竪穴から掘立柱へ)
遺物の出土状況を見ると、Ⅲ期、Ⅳ期と考えた区画施設(溝)から、かわらけや陶
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の出土比率が高く、Ⅴ期以降,中崎館遺跡は陶
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やかわらけの出土によって年代的な面が理解できるとともに、饗宴を催した空間であることにも
資料編1(考古編)
(-中世Ⅰ期(12世紀代)-)
種類で、2技法をもった在地及び京都系かわらけ、須恵器系及び瓷器(しき)系国産陶器、青磁・白磁等の輸入
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通史編3(近世2)
(瀬戸師林兵衛による製陶)
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の下川原瀬戸座ではすでに早瀬野から採掘をしていたので、鉄三郎は悪戸における
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の焼成を目指したものと,製品には陶器・
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・瓦などが挙げられるが、多くを占めるのは陶器である。
資料編1(考古編)
(〈注一覧…第4章〉)
下北地方と蛎崎氏」(考古風土記創刊号) 1976年 7) 奈良岡洋一 「史跡浪岡城跡と水木館出土陶
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,(昭和55年)』(八戸市埋蔵文化財調査報告書第6集) 1982年 26) 佐々木達夫 「遺跡出土陶
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,44) 福田友之・工藤清泰・木村浩一 「南部町聖寿寺館・十和田湖町三日市館・横浜町牛ノ沢館跡等発見の陶
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資料,年 74) 小山彦逸 『考古学からみた七戸町』 1991年 75) 半沢紀 「琴湖岳遺跡採集の陶
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,創刊号の中では、鈴木古観(克彦)「青森県出土の中世陶器二例」、奈良岡洋一「史跡浪岡城跡と水木館出土の陶
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