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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (四 社会教育)

四 社会教育 明治初年から大正十年(一九二一)までの社会教育は、一般庶民を対象とする啓蒙的、教化的な,社会教育を主体とするもので、これを「通俗教育」と称した。,学校関係者は意識しなかったにせよ、それは一般庶民に対する啓蒙的、教化的な社会教育すなわち通俗教育であった,通俗教育という言葉が、文部省法令からなくなるのは、大正十年の文部省官制の改正においてであり、通俗教育を社会教育 / 四 社会教育
通史編5(近・現代2) (社会教育研究大会)

社会教育研究大会 昭和二十二年(一九四七)七月、文部省と県主催の第一回青森県社会教育研究大会が、青森軍政部指導,これは戦後における社会教育の振興と普及を図るために実施したもので、津軽地区は七月十六日から四日間にわたり,および社会教育協会員、市町村会代表、軍政部指名者、学校長、労働組合、教師父母会、婦人団体、青年団、新聞記者,この社会教育研究大会は、アメリカ軍政府の指導に行われたもので、戦後の社会教育の方向を決めたものとして重要,また、出席者の広汎な顔ぶれを見ても、社会教育の徹底を図ろうとする軍政府の意図が読み取れるのである。 / 社会教育研究大会
通史編5(近・現代2) (第二回社会教育大会)

第二回社会教育大会 社会教育大会は翌二十三年にも弘前市と八戸市で開かれた。,公民館・民主団体・青年団・婦人会・PTA  第二日目 放送教育と視聴覚教育・新学制実施の報告・県の社会教育計画,生活改善・平和思想の普及とユネスコ運動  この種の研究集会は、その後も度重なって開かれるにしたがい、社会教育,以上のごとく終戦直後の社会教育は、文部省と県が中心となり、青森軍政部の指導で行われた。,したがって、前述の研究大会や協議会は、いわば社会教育の指導講習会というべきものであった。 / 第二回社会教育大会
通史編5(近・現代2) (通俗教育から社会教育へ)

通俗教育から社会教育へ 通俗教育という言葉を廃し、社会教育という新しい言葉が用いられたのは大正十年(,名称が通俗教育から社会教育に改められたものの、本市の社会教育活動は、青年団、少年団、青年訓練所、処女会,戦争に勝つためのさまざまな活動が、社会教育の名のもとに行われたからである。,社会教育局の廃止とともに、広汎な社会教育関係の所管事項はすべて新設の教化局に移管された。,この部局は従来の社会教育局と宗教局を統合し、新設されもので、社会教育はすなわち社会教化であるべきだとする / 通俗教育から社会教育へ
通史編5(近・現代2) (市村合併と公民館)

市村合併と公民館 戦後から現代までの社会教育活動で、公民館の果たした役割は大きい。,それ以前の弘前市には公民館施設はなく、社会教育事業としての各種研修会は市内の学校を会場として行われていたが,したがって、合併によって公民館を引き継いだ弘前市にとって、公民館行政は社会教育の新しい、しかも重要な施策,そこで市では、三十年四月から新たに社会教育課を設け、早速に公民館設置条例を制定した。,その結果、社会教育課に併置されていた中央公民館を独立させ、支館を廃止し、分館中心の活動を目指したが、分館
通史編5(近・現代2) (弘前高等学校と市民)

このように弘高は、国の社会教育振興の施策に協力する形で、当時における弘前市民の文化的渇望の一部を満たしたものといえる
通史編4(近・現代1) (養生幼稚園の創設)

設立者伊東重は医学士で、弘前市長や衆議院議員を務めたが、以前から養生哲学を提唱し、養生会を設置して独得の社会教育
通史編5(近・現代2) (PTAの発足)

PTAの発足 戦後の社会教育活動の一つに、PTAの結成と活動が挙げられる。
通史編5(近・現代2) (戦後の佐藤正三)

に『広報ひろさき』は県一位となり、また、市制施行七十周年の記念事業として『弘前市史』編纂事業に着手、社会教育課長時代
通史編5(近・現代2) (弘前学院大学の開学)

また、昭和五十年六月、大学の学則を変更し、この年の入学生から、司書教諭、学芸員、社会教育主事任用資格の
通史編4(近・現代1) (伊東重と養生哲学)

伊東重と養生哲学 弘前における西洋医学の草分けである伊東重は、社会教育の面でも幅広い功績を残した。
通史編5(近・現代2) (市民の要望と行政の方向)

すでに合併後の社会教育にはいろいろな問題が生じてきており、合併計画も農業補助事業に偏重し、肝心の基本的
通史編1(自然・原始) (現在の態勢)

このような事態に対応するため、青森県教育委員会では、昭和四十八年(一九七三)機構改革を行って従来の社会教育課
通史編5(近・現代2) (郁田流箏曲(いくたりゅうそうきょく))

その中の一人、鷹匠町の道場「明治館」(通史近・現代1第二章第五節第四項「社会教育」参照)の娘、貞子が青森市
通史編4(近・現代1) (新編 弘前市史 通史編4(近・現代1) 目次)

…………  425   三 幼稚園教育 ……………………………………………………  440   四 社会教育,…………  642   三 官立弘前高等学校の創設 ……………………………………  661   四 社会教育
通史編5(近・現代2) (新編 弘前市史 通史編5(近・現代2) 目次)

…………  207   六 幼稚園教育 ……………………………………………………  211   七 社会教育,…  424   五 幼稚園教育 ……………………………………………………  432   六 戦後の社会教育,………  668   五 学園紛争と弘前大学の拡充 …………………………………  672   六  社会教育
通史編1(自然・原始) (太平洋戦争終結後)

一方、同年の発掘調査は、県教育委員会社会教育課長であった横山武夫(一九〇一~一九八九)や青森市の開業医
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