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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(社家・修験隊の組織)
社家
・修験隊の組織 藩兵の払底が深刻化していた明治元年(一八六八)十二月五日に軍政局は、榎本艦隊がどこに,侵入するかもわからず、応援人数の配置も困難だとして、
社家
(しゃけ)(神官)および修験(しゅげん)(山伏,)の者で武芸に精通し盛壮な者を、防備が手薄な所へ応援を命ずるとして、
社家
隊諸事取締役を斎藤長門・小野若狭,「御軍政御用留」十二月五日条によると、組織された
社家
・修験隊はそれぞれ二小隊ずつで、
社家
隊は小隊長の他,ハ元より得(え)ての笛太鼓、手拍子なくてハあら気之(の)毒な、 御獅子を真先ニたてた
社家
銃隊、賊従共 /
社家
・修験隊の組織
通史編3(近世2)
(神職の扱い)
そのため、
社家
の養子縁組や、婚姻は
社家
間で行われることが多かった。 ,
社家
の中の女性で、神職のことを学び「神子(かみこ)」になるものもいた。,
社家
の中での神子は、神事を行う時に欠かせない存在であった。 ,八幡宮・熊野宮の下
社家
は「六供」とも呼ばれ、それぞれ六
社家
ずつ神主の支配を受けた。,凶作による社会不安を取り除く祈祷札の配布は、下
社家
の家計負担の救済のためであった。
通史編3(近世2)
(弘前八幡宮小野家)
弘前八幡宮小野家 同十九年小野権太夫が、追放された神宮太夫に代わって神主になると、
社家
頭も命じられた,
社家
頭は社人頭(しゃにんかしら)・注連頭(しめかしら)とも呼ばれ、神職組織ができたのはこの時であろう。,また、八幡宮・熊野宮には、それぞれ六供と呼ばれる下
社家
一二人が所属し、両神主とともに禰宜(ねぎ)町を形成,八幡宮の別当最勝院は、寺社奉行のもとにあって、領内神職の約九〇パーセントを配下に置き、
社家
頭を通して神職,
社家
頭は、宝永四年(一七〇七)までは小野氏一人であったが、この時から熊野宮神主長利弁太夫が相役として加
通史編3(近世2)
(神仏分離の準備)
であるが、このふたつを比べると、薬王院(やくおういん)や最勝院などの別当寺院が配下神主らから切り離され、
社家
長,
社家
長には旧最勝院
社家
頭の小野磐根(いわね)(旧名若狭)と長利薩雄(おさりさつお)(旧名薩摩)が任命された,藩は最初
社家
長を家柄によらず公正に選定するとしていたが、結果的には国学者平田篤胤(あつたね)の没後の門人,その他、明治三年九月からは神明宮神官斎藤長門が
社家
長代に任命され、藩は彼ら三人を通して神仏分離を進めていった,のような組織を定め、神社から別当・社僧を切り離したが、仏像・仏具の除去までは行っておらず、小野・長利ら
社家
長
通史編3(近世2)
(神道)
また、
社家
頭の下の神職は、最勝院の支配下にあって「両部神道」に属することになる。,ところが、
社家
頭小野若狭が元禄七年(一六九四)、京都の吉田家へ官職受領に赴き、本末関係を結んで領内触頭,寺社奉行は宝暦七年(一七五七)、山村父子を寺社奉行の直接支配に変更したが、最勝院・
社家
頭の働きかけによって,吉田家は津軽弘前藩のように、最勝院・
社家
頭の下に置く神職組織を奇異なものとしてみていた。,
社家
頭は天保十二年(一八四一)、三奉行から吉田家の「公儀御条目」の提出を求められた。
通史編3(近世2)
(八幡宮)
神主小野氏は、別当最勝院の支配を受け、熊野宮(現熊野奥照(くまのおくてる)神社)神主長利氏とともに
社家
頭,禰宜町には八幡宮下
社家
五軒が置かれ、八幡宮の掃除・雪片付け等を行った。
通史編3(近世2)
(藩政後期)
同五年には
社家
頭小野左門は、堂社譲渡の混乱と経済的困窮から、神職が官職受領に上京する際に賤しい行動をとる,
社家
頭は宝暦改革の方針と進展をみながら、神職本来の役務を取り戻すために綱紀粛正に乗り出した。,それは
社家
頭とその上級役職である最勝院の権限を強化することを意味した。 ,最勝院配下の
社家
頭が、
社家
隊に他の別当寺院に属する神職も加えて編成し、命令系列の一元化を図っているのは,明治二年(一八六九)、奥羽列藩同盟の攻撃に対し
社家
隊は深浦方面、修験隊は赤石方面へ出兵したが、同三年に
通史編3(近世2)
(熊野宮)
神主長利氏は、八幡宮別当最勝院の支配のもと、八幡宮神主小野氏とともに
社家
頭を務めた。,熊野宮下
社家
五軒は禰宜町に置かれたが、天保十二年(一八四一)に家計の困難を救うため富籤(とみくじ)発行
通史編3(近世2)
(修験)
このことは最勝院を通して
社家
頭に伝えられたが、
社家
頭は祈祷は依頼する施主である檀那の信仰によるという立場
通史編2(近世1)
(寺社政策)
むしろ、寺社財政の再建と
社家
・僧侶の生活の建て直しもまた、藩財政再建策の一環としてあったといえる。,この段階で、家臣団や町・在とともに藩庁の債務から解放されたのであり、寺社財政の再建と
社家
・僧侶の生活の,
社家
においては、惣禄所(そうろくじょ)最勝院と
社家
頭(しゃけがしら)八幡宮小野家・熊野宮長利(おさり)
通史編3(近世2)
(戸口と住民構成)
このほか、寺院九一宇、庵三宇、
社家
二五戸、修験(しゅげん)一一戸、祠堂(しどう)(寺で檀家の位牌を祀る,武家は御目見得以上・以下を合わせて二万一〇〇四人、町人は一万四五四〇人、寺堂は三一一人、修験が三四人、
社家
通史編3(近世2)
(真言宗)
真言宗 真言宗は最勝院が僧録所であり、八幡宮(現弘前八幡宮)別当も兼職し、
社家
頭を通して領内の神職をも
通史編3(近世2)
(神明宮)
寺社奉行が直接取り扱う領内で唯一の宮で、下
社家
二軒が配された。
通史編3(近世2)
(住吉宮)
この時、寺社奉行直接の取り扱いで唯一神道をもって祀ったことから、両部(りょうぶ)神道に属する最勝院・
社家
頭
通史編3(近世2)
(最勝院)
最勝院は
社家
頭小野若狭・長利薩摩を通じて領内の神職大半を支配し、心応院を通じて修験のほとんどを支配するという
通史編3(近世2)
(修験道(しゅげんどう)の整理)
そのため、場合によっては一村に産土神の氏子と旧修験者の堂社を信奉する氏子が混在する事例もみられたが、藩では
社家
長
通史編4(近・現代1)
(大区小区制の成立)
足軽町は富田町、普光寺跡門前は住吉町、和徳足軽町・薬王院・薬王院門前町は和徳町、座頭町は小人町、神明宮
社家
通史編3(近世2)
(松前徳広の領内落去)
そして、十二月五日、
社家
隊等の編成が布告される。,新たな兵力の補充を迫られた軍政局は農兵隊に続いて
社家
隊の動員に踏み切ることになった。
通史編3(近世2)
(二代信枚)
両側には塔頭一二院を配し、亀甲(かめのこう)町からは道路をかぎの手に曲げ、八幡・熊野宮の神主二人と下
社家
一
通史編3(近世2)
(信政の教養)
朱子学との習合を推し進め、理学神道をもって治国の道を説いたものであり、その主張は道徳的側面を強調し、
社家
中心
資料編3(近世編2)
(【解説】)
第三節「神社」の「神祇管領吉田家諸国
社家
執奏記」には、藩内で八幡宮(弘前八幡宮)・熊野宮(熊野奥照神社
通史編4(近・現代1)
(戸籍法と戸籍区)
同元門前 笹森丁 長坂丁 蔵主丁 大浦町 同細小路 亀甲町 若党丁 春日丁 馬喰丁 座頭町 小人町 神明宮
社家
資料編2(近世編1)
(【解説】)
史料名は総称であり、各冊は例えば「宝暦六年 御用留書」などの表題が表紙に付されている)は、弘前八幡宮の
社家
頭小野家,にかかわる公用日記であり、寺社奉行からの通達、領内の寺社を総括する惣録所最勝院からの通達、さらには配下の
社家
通史編3(近世2)
(宗教と交通統制の低下)
一方神職は神明宮(しんめいぐう)をはじめとして八幡宮神官小野若狭・熊野宮神主長利薩摩(おさりさつま)を
社家
頭
通史編3(近世2)
(戦場に駆り出された民衆)
戦場に駆り出された民衆 さて、戊辰戦争ではこれまで述べた農兵・
社家
隊・修験隊などのほかに、多くの農民
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