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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(弘前八幡宮の祈祷)
弘前八幡宮の
祈祷
津軽弘前藩は、藩体制の危機を回避する願望を込めて
祈祷
(きとう)を寺社に命じている。,40 藩主并津軽氏一族病気平癒
祈祷
35 廻船廻米海上無難
祈祷
35 五穀成就・風雨順時
祈祷
163,16 藩主家平癒
祈祷
23 廻船海上無難
祈祷
1 五穀成就
祈祷
99 蝦夷地渡海安全
祈祷
50 国家安全
祈祷
,と国家安全
祈祷
が加わったことと、廻船海上無難
祈祷
が皆無に等しい状況になったということである。,の際に執行された
祈祷
を指しており、ここに蝦夷地渡海安全
祈祷
は藩主平癒(へいゆ)
祈祷
と同格の重い
祈祷
となったのである / 弘前八幡宮の
祈祷
通史編3(近世2)
(祈祷の地としての南溜池)
祈祷
の地としての南溜池 「国日記」享保十年(一七二五)六月十日条によれば、大円寺に「渇水」につき「雨乞之御
祈祷
,次いで、翌日には大行院に「請雨御
祈祷
」が命じられ、白狐寺境内の南溜池に張り出した出崎に壇場を設定して、,導師と山伏合わせて二六人が
祈祷
を行うというものであった(「国日記」享保十年六月十一日条)。 /
祈祷
の地としての南溜池
通史編1(古代・中世)
(三 中世寺社の存在形態)
、福王寺と極楽寺の両別当職を得ていた栄秀は、貞応二年にこの両職を子の長秀に譲り、その地内を殺生禁断、
祈禱
,この僧栄秀はこの
祈禱
の戒めについて、「僧栄秀譲状」(史料五五六)では、こうも述べている。,(前略)為院王両寺之間、種ゝ御
祈禱
无懈怠可令勤行、為別賞職寺領之間之僧房 在家一同云公云私、倶御
祈禱
忠節可致,、殺生禁断の地とされた中世の堂社は、「別当職」の形態をとり個人的な所有に属しながらも、地内住人全体の
祈禱
,光貞は坂上田村麻呂の造立と伝える熊野堂を再興し、「大般若会」と転読を退転なく行い、
祈禱
の忠節を務めていた
通史編3(近世2)
(修験)
図200をみると、山伏は領内各地の加持・
祈祷
を行うことで、領民の生活と密接なつながりをもっていたことがわかる,宝暦六年(一七五六)に大行院から寺社奉行に対し、神職が霞内で修験の
祈祷
を排除する動きに抗議が出された。,このことは最勝院を通して社家頭に伝えられたが、社家頭は
祈祷
は依頼する施主である檀那の信仰によるという立場
通史編3(近世2)
(神明宮)
「国日記」によると雨乞い・日和揚・五穀成就の
祈祷
を主な役務としていた。,そのほか安政二年(一八五五)には松前渡海安全の
祈祷
、慶応三年(一八六七)には疱瘡(ほうそう)安全の守札
通史編3(近世2)
(神職の扱い)
祈祷
に関する施主の奪い合いは、依頼側の施主の信仰によって決まることであり、社家頭は関知しないことにした,凶作で救米が認められなかった時は、弘前町内へ獅子舞を出し、火難消除、諸病追放の
祈祷
札を配布した。,凶作による社会不安を取り除く
祈祷
札の配布は、下社家の家計負担の救済のためであった。
通史編3(近世2)
(大行院)
翌二年より毎年、領内の山伏を集め、藩主の繁栄と領内安全の
祈祷
を行うようになった。,享保十年(一七二五)の干ばつでは南溜池に祭壇を設け、雨乞いの
祈祷
を行ったところ、多くの人々の見物があった
通史編2(近世1)
(寺社政策)
その上で、藩は領内寺社に対して、その最も重要な役務は、藩の安泰と藩主家の繁栄、そして五穀成就の
祈祷
を行,そして、
祈祷
に専念させるために、今後臨時の
祈祷
料などの支給に関しては寺社奉行が直接行い、また堂塔の修復,さて、宝暦五年の飢饉を経て、困窮化した寺社は、本来の役務である
祈祷
をおろそかにし、生活の維持のために、
通史編3(近世2)
(稲荷宮)
五穀成就や藩主家安全の
祈祷
を行うほか、文化九年(一八一二)、富籤の発行により修復を行った。
通史編3(近世2)
(真言宗)
最勝院・百沢寺・国上寺・橋雲寺・久渡寺を津軽における真言宗の「五山」として重要視し、たびたび五穀成就の
祈祷
通史編3(近世2)
(袋宮寺)
信義は別当慶覚の
祈祷
により男子(信政)が誕生したので二〇石を寄進し、合わせて五〇石とした(同前No.四
通史編3(近世2)
(心応院)
宝暦元年(一七五一)には五穀成就の
祈祷
を行い、同二年には開帳によって薬師堂の屋根を修理する資金を調達した
通史編3(近世2)
(八幡宮)
毎年正月には藩士による鉄砲打・二月の初卯日・八月十五日には神楽が奏され、
祈祷
が行われた。
通史編1(古代・中世)
(蝦夷の乱と安藤氏の乱)
『鶴岡社務記録』には、この時「蝦夷降伏」の
祈祷
がなされたことが見えるが(史料六一八)、そこにおいて行われた,修法は、弘安時の蒙古退散
祈祷
に匹敵するものであった。
通史編4(近・現代1)
(伝統習俗の刷新)
また、「梓巫市子憑
祈禱
狐下等厳禁之儀ノ布告」というのが、六年一月三十一日に出ている。,あずさみこ)、市子(いちこ)はともにいわゆるイタコのことであり、狐や下等(げどう)(つきもの)をつけたり
祈禱
通史編2(近世1)
(飢饉に至るまでの経緯)
正月より折々「山瀬(ヤマセ)」が吹き、晩春の四月一日になっても草木の芽吹きが遅れ、天候回復を願う藩の
祈祷
,七月・八月と長勝寺や百沢寺(ひゃくたくじ)下居宮・高照(たかてる)神社・猿賀(さるか)神社で五穀豊穣の
祈祷
,高照神社の神官が、今さら
祈祷
をやっても無駄だから止めるべきと言上したものの、用人は江戸からの指示なので
通史編3(近世2)
(六 南溜池の四季)
②殺生禁断の地、
祈祷
の場としての南溜池であり、都市民の信仰を支え、宗教的な雰囲気がただよう聖地としての
通史編3(近世2)
(藩政後期)
続いて、臨時の
祈祷
を命じる時は寺社奉行より
祈祷
料を出すこと、堂社破損の際は財政難ですぐにできないが、いずれ,文化十年(一八一三)クナシリ方面への出兵に当たって、八幡宮(現弘前八幡宮)は藩命により松前渡海安全の
祈祷
通史編3(近世2)
(稲荷宮)
毎年、二月の初午には藩より供物が献じられ、また毎年五穀成就の
祈祷
が命じられた。
通史編3(近世2)
(住吉宮)
願いから、寺社奉行の手で江戸から護穀大明神(現護穀神社(ごこくじんじゃ))を移し、領内五穀成就を祈る
祈祷
所
通史編3(近世2)
(熊野宮)
毎年六月十五日の神事には寺社奉行が出座して神楽を奏するほか、五穀成就・国家安穏の
祈祷
を行った(「国日記
通史編2(近世1)
(樋口善兵衛の報告書)
樋口善兵衛の報告書 元禄八年六月ころ、領内に害虫が発生し、虫除(むしよけ)の
祈祷
札一万七〇〇〇枚が求
通史編1(古代・中世)
(「嘉元鐘」)
写真113 『集古十種』長勝寺鐘銘文 元来この鐘は、鎌倉建長寺流の禅宗寺院で関東
祈禱
所でもある
通史編3(近世2)
(修験道(しゅげんどう)の整理)
を持ち、笈(おい)を背負い、法螺貝(ほらがい)を吹き、総髪の者が多く、とても僧侶にはみえなかったが、
祈祷
通史編3(近世2)
(藩士の信仰)
また、過去・現世・未来と三世の
祈祷
や一門九族の武運長久・延命を祈った願文もあった。
通史編2(近世1)
(天保飢饉と一揆・騒動)
天保八年十一月二十日には、村々で時疫(じえき)が流行しているので、大圓寺で疫病退散の
祈祷
をして薬を配ったり
通史編2(近世1)
(高照神社「御告書付」の開始)
以上、
祈祷
内容の変化と「御告書付」の開始時期とにかんがみると、これらは対外危機を契機とした藩体制維持のための,そして弘前藩における対外危機意識を収斂(しゅうれん)するものとして機能したのが、この
祈祷
と「御告書付」
通史編3(近世2)
(神仏分離政策の転換)
同年四月に復飾して神主となり、天満宮を譲り受け、茂森町観音堂の廃社に伴って多くの氏子から依頼を受けて重要な
祈祷
通史編3(近世2)
(館神)
和徳稲荷宮・白狐寺稲荷宮・革彦稲荷宮・築館稲荷宮・住吉宮とともに六ヵ所稲荷の一つとして、領内五穀成就の
祈祷
通史編4(近・現代1)
(女学生の岩木山登山)
山頂にて
祈禱
。下山は山蔭よりして嶽温泉に一泊▲十四日午前七時帰途に就き岩木橋にて解散。
通史編3(近世2)
(神事能)
護穀神は、六代藩主夫人の願いから寛延三年(一七五〇)江戸から寺社奉行によって移され、領内五穀成就を祈る
祈祷
所
資料編1(古代・中世編)
([十四世紀])
●文保二年(一三一八)五月二十一日、北条高時、蝦夷静謐の
祈禱
の効を喜ぶ。,正中元年(一三二四)五月、翌年正月、鶴岡八幡宮にて、蝦夷調伏の
祈禱
。,●建武元年(一三三四)八月、中尊寺衆徒、津軽合戦
祈禱
の忠勤を言上する。
通史編1(古代・中世)
(四 執権時頼の東国廻国をめぐって)
のち、この護国寺を蘭渓道隆のよる建長寺の末流として、関東
祈禱
所化した。,幕府がその襲来の難を除くべく、真言密教に大きな期待を寄せて、種々の
祈禱
を修したことは多言を要しまい。,この幕府による元寇を対象にした真言密教
祈禱
のほかに、北奥においては蝦夷反乱が幕閣の頭を悩ませていた。,その折も採り入れられたのは、やはり真言密教の
祈禱
修法であった。
通史編3(近世2)
(寺院の動向)
藩の
祈祷
システムは近世期と同様に機能しており、藩からは困窮した寺院に救い米が貸し出され、やがてその返済
通史編3(近世2)
(民衆の精神世界)
そうでないとしても、一介の瞽女が藩の宗教組織や
祈祷
システムを超越して公然と託宣を言いふらし、人々の好奇
通史編3(近世2)
(宗教と交通統制の低下)
)の八三郎という町人は勝手に稲荷神を勧進(かんじん)し、町内の者から依頼を受けて病気平癒(へいゆ)の
祈祷
通史編3(近世2)
(江戸時代中期の建築)
が将軍綱吉の四十二歳の厄年に当たっており、各大名が江戸神田の知足院(ちそくいん)において最在を奉して
祈祷
通史編2(近世1)
(災害の続発とその影響)
このような防御策の外に、藩は虫除けの
祈祷
札を百姓に配布するなどして、天災に動揺する人心の安定を図ってもいる
資料編1(古代・中世編)
([十六世紀])
(一五五〇)八月、若狭守護武田信豊、関戸豊前守(下国安東舜季家臣か)に「奥州戸館馬」贈与の礼として、
祈禱
所小浜本鏡寺
通史編1(古代・中世)
(一 古代における北奥の宗教世界)
メッカとするなら、後者は北奥と道南との円滑なる人的のみならず物的交流を図る、航海安全と豊漁を祈願する
祈禱
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
………………………… 南部家文書 170 ●文保二年(一三一八)五月二十一日、北条高時、蝦夷静謐の
祈禱
,正中元年(一三二四)五月、翌年正月、鶴岡八幡宮にて、蝦夷調伏の
祈禱
。,………………………… 南部家文書 187 ●建武元年(一三三四)八月、中尊寺衆徒、津軽合戦
祈禱
の忠勤を,(一五五〇)八月、若狭守護武田信豊、関戸豊前守(下国安東舜季家臣か)に「奥州戸館馬」贈与の礼として、
祈禱
所小浜本鏡寺
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