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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
((一)神社)
(一)
神
社
領内の
神
社
の九〇パーセントは、「
神
社
微細
社
司由緒調書上帳」(資料近世2No.四二一)に記載,ここでは、明治三年(一八七〇)、
社
寺署より新政府へ提出した「御藩内御崇敬
神
社
調」(同前No.四二二)が,領内の主要な
神
社
を挙げているので、これを中心にみていくことにする。 / (一)
神
社
資料編3(近世編2)
(第三節 神社)
第三節
神
社
[
神
社
] / 第三節
神
社
通史編3(近世2)
(小社の神仏分離)
しかし、在村では専業
神
主のいない小さな堂
社
も多く、七四六の
社
堂の内、四一〇は
神
官のいない堂
社
であった。,①一村の産土
神
(うぶすながみ)(守護
神
)で仏体仏号の
神
社
は仏体を上納し、従来祀っていた
神
号をつけた
神
社
,なお、別
社
があり、それが
神
体
神
号の場合はその別
社
を産土
神
とすること。,⑥
神
明宮・八幡宮・熊野宮・天満宮のほかは何
神
社
と
社
号を改名すること。,4 8 3
神
体そのまま 28 119 4
神
社
社
号改正 70 216 5
社
号そのまま 16 / 小
社
の
神
仏分離
通史編3(近世2)
(大社の神仏分離)
大
社
の
神
仏分離 弘前藩の
神
仏分離は、大
社
から行われた。,次に深沙宮(現南津軽郡尾上町)は
神
宮寺が別当を免じられ、本
社
の仏像は
神
宮寺に預けられ、
社
号を猿賀(さるか,)
神
社
と改称することとなった。,また、下居宮
神
社
安倍貞世が岩木山
神
社
神
主に任命され、広大な境内の林は岩木山
神
社
・百沢寺・救聞持堂(ぐもんじどう,後に岩木山
神
社
は国幣小
社
(こくへいしょうしゃ)に指定され、津軽惣鎮守として多くの信奉者を集めたが、この / 大
社
の
神
仏分離
通史編3(近世2)
(猿賀神社より盗み)
猿賀
神
社
より盗み 文政二年(一八一九)、三上清吉の次男の庄五郎は、猿賀(さるか)深沙宮(現南津軽郡尾上町猿賀
神
社
,すなわち庄五郎は「国日記」文化八年十一月七日条にみえる四奉行(寺
社
奉行・町奉行・勘定奉行・郡奉行)の命令 / 猿賀
神
社
より盗み
資料編3(近世編2)
(●高照神社 岩木町大字百沢字神馬野)
●高照
神
社
岩木町大字百沢字
神
馬野 (一)本殿--県重宝 津軽四代信政が
神
式で埋葬されたところであり,、五代信寿により、吉川
神
道の思想に基づいて配置されたもので、珍しく貴重な遺構である。 ,図31 高照
神
社
本殿・拝殿・幣殿平面図 (二)中門--県重宝 一間一戸の平唐門で屋根は柿葺であり,(三)随
神
門--県重宝 県内では珍しい三間一戸の八脚門で、切妻造の鉄板葺である。 / ●高照
神
社
岩木町大字百沢字
神
馬野
通史編1(古代・中世)
(二 津軽の修験道と神社)
二 津軽の修験道と
神
社
一般に修験道とは、宗教現象的には原始的な山岳信仰に真言密教的な信仰が合体した,古代の坂上田村麻呂に開基伝承を持つ津軽地域の
神
社
の多くは、その当初、天台系密教(台密)を基調とし、鎌倉時代,
神
社
の創立とその経営にも、よって力があったことは前に『津軽一統志』によって、
神
社
造立の中に検証したところでもある,その岩木山
神
社
に修験の世界にも君臨していた安藤氏の一族の阿部氏が祠官したことは、津軽地域における
神
社
造営,安倍吉季がその岩木山
神
社
祠官に任じられる経緯を語る次の「安倍
社
司由緒書」は、安倍氏の山伏修験の前歴を知 / 二 津軽の修験道と
神
社
通史編2(近世1)
(高照神社「御告書付」の開始)
高照
神
社
「御告書付」の開始 次に、高照(たかてる)
神
社
(中津軽郡岩木町)に所蔵されている「御告書付(,高照
神
社
は、四代藩主信政を祀り、津軽弘前藩において岩木山
神
社
とともに厚く信仰された
神
社
である。,この高照
神
社
には、次の史料(大正五年「
神
社
創設ノ由来」高照
神
社
蔵)に示された内容の「御告書付」が、享和元年,ところで、高照
神
社
に残る最も古い「御告書付」は享和元年(一八〇一)のものであるが、「国日記」によれば高照
神
社
創建時,を加えているが、それによって「
神
威発揚(しんいはつよう)」がなされたとされている(前掲「
神
社
創設ノ由来 / 高照
神
社
「御告書付」の開始
資料編3(近世編2)
(●岩木山神社 岩木町大字百沢字寺沢)
図24 岩木山
神
社
楼門立面図・平面図 (『重要文化財 岩木山
神
社
本殿外四棟修理工事報告書』より転載),」によって百澤寺から岩木山
神
社
へと移行し、密教寺院本堂から
神
社
拝殿となった際に改造されたものである。,図25 岩木山
神
社
拝殿立面図・平面図 (『重要文化財 岩木山
神
社
本殿外四棟修理工事報告書』より転載),図26 岩木山
神
社
本殿立面図・平面図 (『重要文化財 岩木山
神
社
本殿外四棟修理工事報告書』より転載),図28 岩木山
神
社
社
務所 / ●岩木山
神
社
岩木町大字百沢字寺沢
通史編3(近世2)
(神道)
神
職組織は延宝六年(一六七八)に寺
社
奉行が設置されて、寺
社
行政が整備されていく中で形成されてきた。,
神
道の本末関係と
神
職組織は、安政二年(一八五五)の「
神
社
微細
社
司由緒調書上帳」(同前No.四二一)から,図202.
神
職組織と
神
道本末関係図
神
明宮(現弘前
神
明宮)
神
主斎藤長門のみは寺
社
奉行の直接支配,また、
社
家頭の下の
神
職は、最勝院の支配下にあって「両部
神
道」に属することになる。,この中に、「諸
神
社
之家禰宜等専於日本国中則文武士也、宜学
神
国文武道奉守護国家候事」とあることから、
神
職 /
神
道
資料編3(近世編2)
(●厳鬼山神社 本殿 十腰内字猿沢--県重宝)
●厳鬼山
神
社
本殿 十腰内字猿沢--県重宝 棟札に「……十一面観世音精舎一宇……」と記されているように,、かつては観音堂であったものであり、近世津軽の三間仏堂が、
神
社
本殿となる典型的なものである。,図29 厳鬼山
神
社
本殿平面図 / ●厳鬼山
神
社
本殿 十腰内字猿沢--県重宝
資料編3(近世編2)
(●猿賀神社 本殿 尾上町大字猿賀字石林--県重宝)
●猿賀
神
社
本殿 尾上町大字猿賀字石林--県重宝 この
神
社
の創立については、古代にまで遡る伝承も伝えられており,中世を通して信仰され、近世においても、津軽家の祈願所となるなど、周辺の人々の篤い信仰に支えられてきた
神
社
,素木造の簡素な
社
殿であるが、その規模は大きく、梁間三間の流造という形であり、形式的にも珍しいもので、文政九年,のような空間も含まれていたと考えられるが、一般的な形式である「前室付き流造」とはなっておらず、県内の近世
神
社
建築,図32 猿賀
神
社
本殿平面図 / ●猿賀
神
社
本殿 尾上町大字猿賀字石林--県重宝
資料編3(近世編2)
(●熊野奥照神社 本殿 田町四丁目--重要文化財)
●熊野奥照
神
社
本殿 田町四丁目--重要文化財 慶長十八年(一六一三)に、津軽二代信枚らによって復興建立,三間
社
流造で素木造とし、屋根は柿葺である。,図21 熊野奥照
神
社
立面図・平面図 (『重要文化財熊野奥照
神
社
本殿修理工事報告書』より転載) / ●熊野奥照
神
社
本殿 田町四丁目--重要文化財
通史編2(近世1)
(高照神社の造営と「名君」信政像の創出)
高照
神
社
の造営と「名君」信政像の創出 生前、津軽信政は、幕府の
神
道方であった吉川惟足(よしかわこれたり,)に師事し、吉川流唯一
神
道(ゆいいつしんとう)の奥義を極め「高岡霊
社
(たかおかれいしゃ)」の
神
号を授けられたという,信政は、春日四
神
(津軽家がその流れをくむとされた藤原氏の氏
神
たち)を祀る小
社
のあった高岡(現中津軽郡岩木町百沢,をとった高岡霊
社
(現高照
神
社
)を造営した。,図98.高照
神
社
「棺を蓋(おお)うて事定まる」という。 / 高照
神
社
の造営と「名君」信政像の創出
通史編3(近世2)
(館神)
「
社
堂縁起」(同前No.四一三)は、慶長十六年(一六一一)、信枚の創立で、信政が供米三石五斗を寄進したとする,宝暦十年(一七六〇)の「
社
堂惣調書上帳」(弘前八幡宮蔵)では、 八幡宮 御城内鎮守,城内に位置する特殊な事情のためか、毎年、正月四日の
神
事は
神
主小野筑前宅で、九月十五日の
神
楽は八幡宮
神
楽殿,明治三年(一八七〇)の「御藩内御崇敬
神
社
調」(弘図岩)からは稲荷宮とあり、正八幡宮は消えている。,この稲荷宮は、廃藩の時、城外へ移され、高山開運稲荷
神
社
へ合祀された。 / 館
神
通史編3(近世2)
(神明宮)
神
明宮
神
明宮(現弘前
神
明宮)は、慶長七年(一六〇二)、為信が鎮護国家のため堀越城内に創建し、信枚によって,寛永四年(一六二七)、天守閣が落雷により焼失した時、御
神
体を背負って城の東北へ避難させた者が、後に伊勢
神
宮,信枚はそこに伊勢堂を建てさせ、
社
領三〇石を寄進した。藩主は正月に
社
参するのを恒例とした。,寺
社
奉行が直接取り扱う領内で唯一の宮で、下
社
家二軒が配された。,
神
職は
神
主号を用いることが許され、五人の
神
職を配下に置いた。 /
神
明宮
通史編3(近世2)
(大石明神)
大石明
神
大石明
神
(現大石
神
社
)は、丈余(約三メートル)の併立する巨石を
神
体とし、雨乞い・子授け・安産,・相撲の
神
とされる。,「津軽一統志」は、本地垂迹説により十一面観音を祀り、別当を百沢寺、
神
職を長見筑後、正徳五年(一七一五),京都の吉田家より明
神
号が与えられた。明治二年(一八六九)に大石
神
社
と改称。,村
社
となり、鬼
神
社
へ合祀されたが、同四年に復
社
した。 / 大石明
神
通史編3(近世2)
(高岡霊社)
高岡霊
社
高岡霊
社
(たかおかれいしゃ)(現高照
神
社
、中津軽郡岩木町)は四代藩主信政を祀る。,信政は江戸幕府
神
道方吉川惟足(よしかわこれたり)に師事して、その奥義と「高岡霊
社
」の称号を授けられた。,現在、高照
神
社
には「御告書付(おつげかきつけ)」が保存されている。 ,明治初年に高照
神
社
と改称して郷
社
となり、明治九年(一八七六)為信が合祀され、同十三年県
社
となった。,図231.高照
神
社
/ 高岡霊
社
通史編3(近世2)
(神職の扱い)
社
家の中の女性で、
神
職のことを学び「
神
子(かみこ)」になるものもいた。,正徳五年(一七一五)、古懸不動尊の出汗に当たり、八幡宮
神
主が、町馬一五匹を用意させ下
社
家と
神
子を含めた,
社
家の中での
神
子は、
神
事を行う時に欠かせない存在であった。 ,八幡宮・熊野宮の下
社
家は「六供」とも呼ばれ、それぞれ六
社
家ずつ
神
主の支配を受けた。,その任務は所属する
神
社
の毎月の
神
事、臨時の
神
事、古懸不動尊出汗の
神
事のほか、夜間の当番、雪片付け、雪下 /
神
職の扱い
資料編3(近世編2)
(●乳井神社 拝殿 乳井字外ノ沢--市指定文化財)
●乳井
神
社
拝殿 乳井字外ノ沢--市指定文化財 内外陣に分かれた五間堂であり、内陣に厨子が納められていたが,図30 乳井
神
社
拝殿平面図 / ●乳井
神
社
拝殿 乳井字外ノ沢--市指定文化財
通史編3(近世2)
(神仏分離とは)
このように、新政府は
神
道国教化を推進したが、その過程で
神
社
から仏教色を取り払おうとした政策が
神
仏分離であり,、明治元年(一八六八)三月十七日に
神
祇事務局より諸
社
に対して布達が出されたのを最初として、以後一連の
神
仏分離令,除去、別当(
神
社
に付属していた寺院の長)・
社
僧といった寺院・
神
社
両属の者の還俗(げんぞく)(僧籍から離脱,し、髪をのばすこと)と
神
主(かんぬし)・
社
人(しゃじん)への転身などであった。 ,では僧侶全員が還俗して春日
神
社
の
神
官となったため、興福寺は無住の寺となり、荒廃して五重塔が売りに出されるまでに /
神
仏分離とは
通史編3(近世2)
(神仏分離の準備)
とりあえず、藩は寺
社
奉行を
社
寺(しゃじ)御用所、寺
社
役を
社
寺調方と改め、別当寺院の
神
職支配を停止させた,そのため藩内の全
神
社
は寺院の支配を離れ、
社
寺調方の直接扱いとなったが、一方で新たな
神
職組織の再編成を迫,その他、明治三年九月からは
神
明宮
神
官斎藤長門が
社
家長代に任命され、藩は彼ら三人を通して
神
仏分離を進めていった,12月) 明治二年(一八六九)八月当時、藩では図77のような組織を定め、
神
社
から別当・
社
僧を切,また、同三年六月には新政府より大小
社
の調査が求められたが、これに対して藩では「藩内御崇敬
神
社
調」を提出 /
神
仏分離の準備
通史編2(近世1)
(寺社政策)
「高岡霊験記(たかおかれいげんき)」は高照(たかてる)
神
社
の祭司役後藤兵司(ごとうへいじ)が、宝暦改革,それは、四代藩主信政(のぶまさ)を祀(まつ)り、領内で最高の権威を誇る高照
神
社
に対しても例外を認めず、,高照
神
社
においても知行地は蔵入りとなって標符渡しとなった。,宝物は没収され、
社
堂の修復は途中で止められ、
神
田は悪田に取り替えられ、諸経費は削減された(資料近世1No,図144.高照
神
社
この時期、藩の都市政策の一環としての弘前城下の屋敷改めのなかで、境内・寺
社
地 / 寺
社
政策
通史編3(近世2)
(神仏分離政策の転換)
ところが、もし庶民に
神
葬祭が広まれば村の産土
神
や鎮守の
神
社
で葬式が執り行われ、自然、仏教色が
神
社
、特に,仏体を祀る
神
社
・小
社
に及びかねない心配が出てきたのである。,こうして、仏号の産土
社
・鎮守堂の廃止により安政二年(一八五五)には少なくとも一一三三
社
確認された
神
社
は,明治四年五月に新政府は世襲
神
職を廃止して新たに
神
官を補任する旨の太政官布告を発し、
神
社
を官幣(かんぺい,)
社
・国幣(こくへい)
社
・府
社
(ふしゃ)・藩
社
(はんしゃ)・郷
社
(ごうしゃ)に編成する
神
社
改正を発表したが /
神
仏分離政策の転換
通史編3(近世2)
(四 寺社建築)
四 寺
社
建築 弘前市周辺に存在する寺
社
建築は、そのほとんどが既に文化財に指定されており、これまでにもたくさんの,本文では、これまで寺院と
神
社
を分けて述べられた書籍が多い中で、寺
社
建築を一緒にして年代別にみてゆく。,当時の宮大工たちは、寺院建築も
神
社
建築も一緒にこなしていた。 / 四 寺
社
建築
通史編3(近世2)
(神宮寺)
神
宮寺
神
宮寺(現南津軽郡尾上町)は、深沙宮(じんじゃぐう)(現猿賀
神
社
)の別当であった。,元和五年(一六一九)、信枚が再建、もとの天台宗へ戻し、別当を
神
宮寺とし一〇〇石を寄進した。,
神
主は四人を配したが、中には
神
子・山伏出身の者もいた。,元禄十四年(一七〇一)には
神
宮寺配下の尾上村獅子権現、三味原地、猿賀・大光寺村三味原地は除地になっており,明治四年(一八七一)、
神
仏分離によって
神
宮寺は取り壊されたが、同二十六年(一八九三)に子院東光院へ寺号 /
神
宮寺
通史編3(近世2)
((二)神職組織)
(二)
神
職組織 各堂
社
には、それぞれ仏教系の修験と
神
道系の
神
職が存在してきたが、その実態は明らかでない,二代藩主信枚は弘前城の築城に当たって城下の縄張りを行わせ、城の鬼門に当たる北東の熊野宮(現熊野奥照
神
社
/ (二)
神
職組織
通史編3(近世2)
(神事能)
神
事能 天明七年(一七八七)四月二日から雨天を除いて七日間、住吉宮境内の護穀
神
において
神
事能が行われた,護穀
神
は、六代藩主夫人の願いから寛延三年(一七五〇)江戸から寺
社
奉行によって移され、領内五穀成就を祈る,また天明の大飢饉の時には能役者から五穀成就のための
神
事能を願い出た。,正徳元年(一七一一)の「町支配分限帳」(長谷川成一編『弘前城下史料』上 一九八六年 北方新
社
刊)には、,能役者が
神
事能を奉納して五穀成就を願うことは、藩より扶持米を与えられる者の役割の一部と考えていたものとみられる /
神
事能
通史編5(近・現代2)
(津軽神楽)
津軽
神
楽
神
職だけで演じる
神
楽であり、藩でも重んじ、人々も尊重してきた。 ,表64 津軽
神
楽の演目 曲名 現行
神
楽輯録 御遺鑑 奥富士物 語御
神
式 1
神
入舞 ○ ○ ○ ×,楽譜も
神
官たちによって何種類か編まれている。
神
歌は口承の形態で伝承されている。 ,津軽
神
楽は、正徳四年七月二十一日に行われた高照
神
社
の大祭に奉納されたのが初演である。,それが成立した年月、経緯、継承の歴史、伝承演目など、現代に至る変遷は津軽
神
楽保存会による小冊子『津軽
神
楽 / 津軽
神
楽
通史編3(近世2)
(民衆の精神世界)
されているが、変革期にはそれが増加するように思われる・明治近代
社
会の実現を直前にしたこの時期にも様々な,彼女らは盲目、遊歴といった常民(じょうみん)とは異なる特色のために身分制
社
会の周縁(しゅうえん)に置かれ,この瞽女が事寄せたとする「産
神
」が悪戸村のいわゆる産土(うぶすな)
神
(守護・鎮守
神
)なのか、文字どおり,これを受けて弘前八幡宮の
神
官小野若狭(わかさ)は「大平
神
」六体を預かり、藩の諮問(しもん)に答えて「大平
神
,弘前藩の正式宗教は仏教を別とすれば、岩木山を
神
体とする岩木三所大権現(現岩木山
神
社
)信仰であり、それ以外 / 民衆の精
神
世界
通史編2(近世1)
(僧侶・神官対象の司法制度)
僧侶・
神
官対象の司法制度 津軽領の僧侶・
神
官に対する刑罰は①喧嘩・博奕・窃盗などの犯罪を犯した場合、,②の場合、寺
社
奉行が寺
社
奉行宅で申し渡しているのが一般的傾向であった。 ,僧侶・
神
官が俗人と組んで犯罪を犯した場合、僧侶・
神
官は正犯・従犯ともに寺
社
奉行の管轄で、②と同様に寺
社
奉行,が寺
社
奉行宅で申し渡すのが一般的傾向であったといえよう。,したがって僧侶・
神
官と俗人とは異なる機関で処理された。 / 僧侶・
神
官対象の司法制度
通史編3(近世2)
(津軽国学社中)
津軽国学
社
中 幕末期の弘前では、
神
官層とはまた別に、比較的富裕な町人層を中心に平田派国学の積極的な受容,この津軽国学
社
中と称してもよいような知的サークルの中で、中心的役割を果たしたのが鶴舎有節(一八〇八~一八七一,編著に「磯の白玉」・「皇祖宮所考弁」・「顕幽楽論」・「岩木山
神
霊記」・「古道糸口」・「鶴舎文集」等々がある,死後の霊魂の行方を論じた「顕幽楽論」で、有節は「現(うつ)し世も、亦幽(かく)り世も楽しける我皇
神
の道 / 津軽国学
社
中
通史編1(古代・中世)
(二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)
また、『弘藩明治一統誌
神
社
縁録』によりながら、祭
神
を検証しつつ表化したのが「弘前中世
神
社
」である。,表4「弘前中世
神
社
」(『弘藩明治一統誌
神
社
縁録』) 名称 開山 開山年次 祭
神
備考 岩木山
神
社
坂上田村麻呂,和徳稲荷
神
社
坂上田村麻呂 延暦年中 倉稲魂命・猿田彦大
神
・大宮能売
神
胸肩
神
社
坂上田村麻呂 延暦年中,市杵島比売命・田心比売命 鬼
神
社
坂上田村麻呂 延暦年中 伊邪那岐命・伊邪那美命 巌鬼山
神
社
坂上田村麻呂,表5「弘前近隣における古代・中世の
神
社
」 名称 所在地 開山 開山年次 宗派 備考 岩木山
神
社
岩木町 / 二 北奥宗教界を彩る中世的寺
社
通史編3(近世2)
((一)寺社の開帳)
(一)寺
社
の開帳 開帳とは、寺
社
が厨子に入れて秘蔵する
神
仏や霊宝を公開して、人々に拝観させることで、,居開帳(いがいちょう)は自分の寺
社
において、出開帳(でがいちょう)は繁華地に出向いて行うものであった。,もともと結縁(けちえん)により加護を得るというのが本来の目的であったが、しだいに寺
社
の修復や経営の費用,それによって寺
社
は多額の臨時収入を得ることができたのである。,津軽における開帳は、「国日記」にみられ、その中から特色あるものを寺
社
ごとにまとめて摘記しよう。 / (一)寺
社
の開帳
通史編5(近・現代2)
(第二回社会教育大会)
第二回
社
会教育大会
社
会教育大会は翌二十三年にも弘前市と八戸市で開かれた。,司会は斎藤県教育部長、岩淵弘前市長、
神
山弘前市議会議長。研究内容は左のとおり。 ,公民館・民主団体・青年団・婦人会・PTA 第二日目 放送教育と視聴覚教育・新学制実施の報告・県の
社
会教育計画,以上のごとく終戦直後の
社
会教育は、文部省と県が中心となり、青森軍政部の指導で行われた。,したがって、前述の研究大会や協議会は、いわば
社
会教育の指導講習会というべきものであった。 / 第二回
社
会教育大会
通史編3(近世2)
(社家・修験隊の組織)
社
家・修験隊の組織 藩兵の払底が深刻化していた明治元年(一八六八)十二月五日に軍政局は、榎本艦隊がどこに,侵入するかもわからず、応援人数の配置も困難だとして、
社
家(しゃけ)(
神
官)および修験(しゅげん)(山伏,)の者で武芸に精通し盛壮な者を、防備が手薄な所へ応援を命ずるとして、
社
家隊諸事取締役を斎藤長門・小野若狭,「御軍政御用留」十二月五日条によると、組織された
社
家・修験隊はそれぞれ二小隊ずつで、
社
家隊は小隊長の他,朝から女郎屋に入り浸り、軍事調練に耐えられずに顔を青くし、戦いに負ければ錫杖(しゃくじょう)を振って
神
に /
社
家・修験隊の組織
通史編1(古代・中世)
(陶磁器と地域社会)
陶磁器と地域
社
会 津軽地域では、陶磁器の使用に関して興味ある事例が存在する。,すべての陶磁器がそのようにされたわけではないが、かわらけの稀少性とともに、陶磁器という「うつわ」に対する精
神
性,いみじくもこの区分は、中世から近世に至る和人
社
会とアイヌ
社
会との分断の歴史と連動するものであり、考古学資料,の分析が
社
会構造の動きに一定の発言をなし得ることを証明したものである。 / 陶磁器と地域
社
会
通史編4(近・現代1)
(笹森修一、修二兄弟と社会主義研究団体)
そのころ、儀助は、士族授産の「農牧
社
」の
社
長として活躍していた。,、明治三十九年九月二十五日) 笹森修一は、明治四十年三月二十七日東奥義塾を卒業、同年秋に青山学院
神
学部,そのため、翌年青山学院を追われ、
神
戸
神
学校(長老派所属)に入学する。,
神
戸では、同窓の賀川豊彦の
神
戸貧民窟伝道に協力、牧師仲間ではユニテリアン(キリストの
神
性を否定したキリスト,入
社
したが、明治四十三年秋ごろから新しい
社
会主義研究グループ「バザロフ会」の中心人物となった。 / 笹森修一、修二兄弟と
社
会主義研究団体
通史編1(古代・中世)
(三 中世寺社の存在形態)
三 中世寺
社
の存在形態 津軽地域における寺
社
の存在形態を最も基本的に規定したのは、何といっても、「蝦夷管領,、倶御祈禱忠節可致、仍住人等宜承用不可違背矣、(下略) このように、殺生禁断の地とされた中世の堂
社
は,乳井郷における僧栄秀と長秀の別当職をめぐる世襲には、ひとつの郷内における中世堂
社
の存在の在り方を伺い知,写真229 曽我貞光知行分
神
社
仏寺注文案 津軽平賀郡岩楯村地頭曾我太郎貞光知行分所々
神
社
仏寺注文事,中世堂
社
が日々の生活のなかで、どのように営まれていたかを知る上で、次の史料はとても有益である。 / 三 中世寺
社
の存在形態
通史編3(近世2)
(高岡霊社の宝蔵・弘前城の金蔵へ侵入)
高岡霊
社
の宝蔵・弘前城の金蔵へ侵入 真言宗久渡寺(くどじ)(現市内坂元)の役人の今庄太郎は、安政三年,(一八五六)十一月九日に、第四代藩主津軽信政(のぶまさ)を埋葬した高岡(たかおか)霊
社
(現中津軽郡岩木町百沢,、明治初年に高照
神
社
と改称)の御宝蔵の錠前を破って侵入し、太刀・小刀などを盗み、同十一日には弘前城の御金蔵,庄太郎は、信政を埋葬し祭
神
とする
神
社
の宝蔵と、藩政の中枢であり藩主の住まいでもある弘前城中の金蔵へ、盗 / 高岡霊
社
の宝蔵・弘前城の金蔵へ侵入
通史編3(近世2)
(青森商社と帰田法)
青森商
社
と帰田法 帰田法(きでんほう)については前項で詳述したので、ここでは青森商
社
との関連性について,長谷川伝兵衛 12町歩余 室家業 北津軽郡鶴田町中野 21 重兵衛 9町3反 醤油醸造 西津軽郡岩崎村松
神
,蝦夷地に酒を売るためには、結局は藩が経営を操作する青森商
社
の販路に乗らねばならず、その意味では在方地主,らを広範に商
社
に取り込める可能性を持っていたのである。,もちろん、青森商
社
・帰田法・大規模改修工事といった各施策は開始時期がそれぞれ異なっており、最初から藩が / 青森商
社
と帰田法
通史編5(近・現代2)
(県内の社会運動の状況)
県内の
社
会運動の状況 昭和九年の『東奥年鑑』(東奥日報
社
)では、青森県の国家主義運動を次のように記事,として著しい擡頭振りを示し、方向を共にする各種団体が生まれて来ているが、本県でもその代表的団体と云はれる
神
武会,本県特高は昭和三年七月、全国的にその必要に迫られた
社
会の機運に乗じて設置されたが、その第一矢は四・一六事件,(注、昭和四年四月十六日の全国一斎検挙)で六十人を検挙し、大沢、堀江等本県の
社
会運動の先駆者であり、当時 / 県内の
社
会運動の状況
通史編4(近・現代1)
(外崎嘉七と島善鄰-りんごの神様と恩人)
外崎嘉七と島善鄰-りんごの
神
様と恩人 外崎嘉七(安政六-大正一三 一八五九-一九二四)は、安政六年、,明治十五年(一八八二)、弘前本町にあった農牧
社
の事務所に懇願して、常盤野の農場で牧夫として働かせてもらうようになり,、その熱心な働きぶりに対して同
社
長大道寺繁禎、同副
社
長笹森儀助、中畑清八郎等から多くの薫陶を受けることができた,東京で牛乳店を営業するなど、農牧
社
での八年間は、嘉七の「難行苦行を積んだ奮闘時代」であった。,外崎嘉七経営の「向陽園」 (明治40年代 旧中津軽郡清水村樹木) 嘉七は、後年、「りんごの
神
様 / 外崎嘉七と島善鄰-りんごの
神
様と恩人
通史編3(近世2)
(修験道(しゅげんどう)の整理)
①修験者の持宮は村の鎮守であっても
神
社
は最寄りの
神
官に譲ること。仏体
神
号の
神
社
は仏体を上納すること。,②修験者の持宮で仏号の堂
社
は、
神
体・仏体に関わらず、別
社
・末
社
は
神
体上納のうえ、廃
社
または仏体の堂
社
は,④以上のことが済んだら、寺
社
領・廃
社
地を調査し、
神
職・寺院の持分を仕分けする。 ,最寄りの
神
職に堂
社
を譲り、生活が困難な場合は
神
職となるように指令された。,また、残り二三
社
は観音堂・大日堂など仏教色が強い堂
社
であり、
神
体を上納して
神
道色を抜いたうえで修験者による
通史編3(近世2)
(弘前八幡宮小野家)
弘前八幡宮小野家 同十九年小野権太夫が、追放された
神
宮太夫に代わって
神
主になると、
社
家頭も命じられた,
社
家頭は
社
人頭(しゃにんかしら)・注連頭(しめかしら)とも呼ばれ、
神
職組織ができたのはこの時であろう。,寺
社
奉行の設置によって寺
社
行政が整備されていく中で、
神
職組織も整えられていった。,八幡宮の別当最勝院は、寺
社
奉行のもとにあって、領内
神
職の約九〇パーセントを配下に置き、
社
家頭を通して
神
職,
神
社
、
神
職の序列は、大
社
・小
社
の区別、
社
禄の有無、
神
職としては
神
主・
社
司号の名のりの別、御目見(おめみえ
通史編3(近世2)
(山王宮)
山王宮 山王宮(さんのうぐう)(現大杵根(おおきね)
神
社
)は、「
社
堂縁起」によれば大同年間(八〇六~,八〇九)、坂上田村麻呂が創建したが、衰退して熊野宮(現熊野奥照
神
社
)の相殿となっていたのを、元禄十年(,また「
神
社
微細
社
司由緒調書上帳」には、古くから大杵根
神
社
とも東山あるいは東嶽大明
神
とも称したという。,
神
職は熊野宮
神
主長利氏が務めた。
神
仏分離の際、仏体を廃し現
社
名に改称したようである。
通史編3(近世2)
(住吉宮)
住吉宮 住吉宮は、「津軽一統志」に延宝五年(一六七七)に富田(とみた)村(現市内)に「住吉大明
神
社
地,しかし「
神
社
微細
社
司由緒調書上帳」によれば、山村与兵衛が延宝年間(一六七三~八〇)、日影林の稲荷宮の
神
託,寛延三年(一七五〇)に六代藩主夫人の願いから、寺
社
奉行の手で江戸から護穀大明
神
(現護穀
神
社
(ごこくじんじゃ,この時、寺
社
奉行直接の取り扱いで唯一
神
道をもって祀ったことから、両部(りょうぶ)
神
道に属する最勝院・
社
家頭,図228.護穀
神
社
資料編1(古代・中世編)
(弘前1~133)
- 弘前11 弘前市乳井字乳井-乳井
神
社
大鳥居前方- 弘前12 弘前市乳井字外ノ沢-乳井
神
社
境内-,弘前13 弘前市乳井字外ノ沢-乳井
神
社
境内- 弘前14 弘前市乳井字外ノ沢-乳井
神
社
境内- 弘前,15 弘前市乳井字外ノ沢-乳井
神
社
墓地- 弘前16 弘前市乳井字外ノ沢-乳井
神
社
墓地- 弘前17 ,ノ沢-乳井
神
社
墓地- 弘前20 弘前市乳井字外ノ沢-乳井
神
社
墓地- 弘前21 弘前市乳井字外ノ沢-,乳井
神
社
墓地- 弘前22 弘前市乳井字外ノ沢-乳井
神
社
墓地- 弘前23 弘前市乳井字外ノ沢-乳井
神
社
墓地
通史編3(近世2)
(熊野宮)
熊野宮 熊野宮(現熊野奥照
神
社
)は、「陸奥国高岡熊野
神
社
鎮座伝記」(資料近世2No.四一八)によれば,、崇
神
天皇の六十七年(紀元前三一)に熊野三所大権現の祭
神
伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冊(いざなみ)(冉)、,毎年六月十五日の
神
事には寺
社
奉行が出座して
神
楽を奏するほか、五穀成就・国家安穏の祈祷を行った(「国日記,
神
主長利氏は、八幡宮別当最勝院の支配のもと、八幡宮
神
主小野氏とともに
社
家頭を務めた。,図226.熊野奥照
神
社
資料編3(近世編2)
(【解説】)
享和のものは藩主や藩からの下賜品を細大漏らさず記載するほか、在村小
社
の堂
社
と管理者である
神
職・修験をも,第三節「
神
社
」の「
神
祇管領吉田家諸国
社
家執奏記」には、藩内で八幡宮(弘前八幡宮)・熊野宮(熊野奥照
神
社
,)・
神
明宮(弘前
神
明宮)・岩木山下居宮(岩木山
神
社
)・深沙宮(猿賀
神
社
)の五
社
のみが記されている。,「
神
社
微細
社
司由緒調書上帳」は、書上の雛形(和徳稲荷
神
社
蔵)によれば、吉田家への届の有無から、境内地の,このことは、末
社
・小祠までを登録し、
神
職の由緒・相続年代まで書き出させることにより、これ以外の流行
神
や
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