• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 360件
辞書ファセット
/ 8ページ
通史編3(近世2) ((一)神社)

(一)神社 領内の神社の九〇パーセントは、「神社微細社司由緒調書上帳」(資料近世2No.四二一)に記載,ここでは、明治三年(一八七〇)、社寺署より新政府へ提出した「御藩内御崇敬神社調」(同前No.四二二)が,領内の主要な神社を挙げているので、これを中心にみていくことにする。 / (一)神社
資料編3(近世編2) (第三節 神社)

第三節 神社 [神社] / 第三節 神社
通史編3(近世2) (小社の神仏分離)

しかし、在村では専業神主のいない小さな堂社も多く、七四六の社堂の内、四一〇は神官のいない堂社であった。,①一村の産土神(うぶすながみ)(守護神)で仏体仏号の神社は仏体を上納し、従来祀っていた神号をつけた神社,なお、別社があり、それが神体神号の場合はその別社を産土神とすること。,⑥神明宮・八幡宮・熊野宮・天満宮のほかは何神社と社号を改名すること。,4 8 3 神体そのまま 28 119 4 神  社 社号改正 70 216 5 社号そのまま 16 / 小社の神仏分離
通史編3(近世2) (大社の神仏分離)

大社の神仏分離 弘前藩の神仏分離は、大社から行われた。,次に深沙宮(現南津軽郡尾上町)は神宮寺が別当を免じられ、本社の仏像は神宮寺に預けられ、社号を猿賀(さるか,)神社と改称することとなった。,また、下居宮神社安倍貞世が岩木山神社神主に任命され、広大な境内の林は岩木山神社・百沢寺・救聞持堂(ぐもんじどう,後に岩木山神社は国幣小社(こくへいしょうしゃ)に指定され、津軽惣鎮守として多くの信奉者を集めたが、この / 大社の神仏分離
通史編3(近世2) (猿賀神社より盗み)

猿賀神社より盗み 文政二年(一八一九)、三上清吉の次男の庄五郎は、猿賀(さるか)深沙宮(現南津軽郡尾上町猿賀神社,すなわち庄五郎は「国日記」文化八年十一月七日条にみえる四奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行・郡奉行)の命令 / 猿賀神社より盗み
資料編3(近世編2) (●高照神社 岩木町大字百沢字神馬野)

●高照神社 岩木町大字百沢字神馬野 (一)本殿--県重宝  津軽四代信政が神式で埋葬されたところであり,、五代信寿により、吉川神道の思想に基づいて配置されたもので、珍しく貴重な遺構である。  ,図31 高照神社本殿・拝殿・幣殿平面図 (二)中門--県重宝  一間一戸の平唐門で屋根は柿葺であり,(三)随神門--県重宝  県内では珍しい三間一戸の八脚門で、切妻造の鉄板葺である。 / ●高照神社 岩木町大字百沢字神馬野
通史編1(古代・中世) (二 津軽の修験道と神社)

二 津軽の修験道と神社 一般に修験道とは、宗教現象的には原始的な山岳信仰に真言密教的な信仰が合体した,古代の坂上田村麻呂に開基伝承を持つ津軽地域の神社の多くは、その当初、天台系密教(台密)を基調とし、鎌倉時代,神社の創立とその経営にも、よって力があったことは前に『津軽一統志』によって、神社造立の中に検証したところでもある,その岩木山神社に修験の世界にも君臨していた安藤氏の一族の阿部氏が祠官したことは、津軽地域における神社造営,安倍吉季がその岩木山神社祠官に任じられる経緯を語る次の「安倍社司由緒書」は、安倍氏の山伏修験の前歴を知 / 二 津軽の修験道と神社
通史編2(近世1) (高照神社「御告書付」の開始)

高照神社「御告書付」の開始 次に、高照(たかてる)神社(中津軽郡岩木町)に所蔵されている「御告書付(,高照神社は、四代藩主信政を祀り、津軽弘前藩において岩木山神社とともに厚く信仰された神社である。,この高照神社には、次の史料(大正五年「神社創設ノ由来」高照神社蔵)に示された内容の「御告書付」が、享和元年,ところで、高照神社に残る最も古い「御告書付」は享和元年(一八〇一)のものであるが、「国日記」によれば高照神社創建時,を加えているが、それによって「神威発揚(しんいはつよう)」がなされたとされている(前掲「神社創設ノ由来 / 高照神社「御告書付」の開始
資料編3(近世編2) (●岩木山神社 岩木町大字百沢字寺沢)

図24 岩木山神社楼門立面図・平面図 (『重要文化財 岩木山神社本殿外四棟修理工事報告書』より転載),」によって百澤寺から岩木山神社へと移行し、密教寺院本堂から神社拝殿となった際に改造されたものである。,図25 岩木山神社拝殿立面図・平面図 (『重要文化財 岩木山神社本殿外四棟修理工事報告書』より転載),図26 岩木山神社本殿立面図・平面図 (『重要文化財 岩木山神社本殿外四棟修理工事報告書』より転載),図28 岩木山神社社務所 / ●岩木山神社 岩木町大字百沢字寺沢
通史編3(近世2) (神道)

神職組織は延宝六年(一六七八)に寺社奉行が設置されて、寺社行政が整備されていく中で形成されてきた。,神道の本末関係と神職組織は、安政二年(一八五五)の「神社微細社司由緒調書上帳」(同前No.四二一)から,図202.神職組織と神道本末関係図  神明宮(現弘前神明宮)神主斎藤長門のみは寺社奉行の直接支配,また、社家頭の下の神職は、最勝院の支配下にあって「両部神道」に属することになる。,この中に、「諸神社之家禰宜等専於日本国中則文武士也、宜学神国文武道奉守護国家候事」とあることから、神職 / 神道
資料編3(近世編2) (●猿賀神社 本殿 尾上町大字猿賀字石林--県重宝)

●猿賀神社 本殿 尾上町大字猿賀字石林--県重宝 この神社の創立については、古代にまで遡る伝承も伝えられており,中世を通して信仰され、近世においても、津軽家の祈願所となるなど、周辺の人々の篤い信仰に支えられてきた神社,素木造の簡素な社殿であるが、その規模は大きく、梁間三間の流造という形であり、形式的にも珍しいもので、文政九年,のような空間も含まれていたと考えられるが、一般的な形式である「前室付き流造」とはなっておらず、県内の近世神社建築,図32 猿賀神社本殿平面図 / ●猿賀神社 本殿 尾上町大字猿賀字石林--県重宝
資料編3(近世編2) (●厳鬼山神社 本殿 十腰内字猿沢--県重宝)

●厳鬼山神社 本殿 十腰内字猿沢--県重宝 棟札に「……十一面観世音精舎一宇……」と記されているように,、かつては観音堂であったものであり、近世津軽の三間仏堂が、神社本殿となる典型的なものである。,図29 厳鬼山神社本殿平面図 / ●厳鬼山神社 本殿 十腰内字猿沢--県重宝
資料編3(近世編2) (●熊野奥照神社 本殿 田町四丁目--重要文化財)

●熊野奥照神社 本殿 田町四丁目--重要文化財 慶長十八年(一六一三)に、津軽二代信枚らによって復興建立,三間社流造で素木造とし、屋根は柿葺である。,図21 熊野奥照神社立面図・平面図 (『重要文化財熊野奥照神社本殿修理工事報告書』より転載) / ●熊野奥照神社 本殿 田町四丁目--重要文化財
通史編2(近世1) (高照神社の造営と「名君」信政像の創出)

高照神社の造営と「名君」信政像の創出 生前、津軽信政は、幕府の神道方であった吉川惟足(よしかわこれたり,)に師事し、吉川流唯一神道(ゆいいつしんとう)の奥義を極め「高岡霊社(たかおかれいしゃ)」の神号を授けられたという,信政は、春日四神(津軽家がその流れをくむとされた藤原氏の氏神たち)を祀る小社のあった高岡(現中津軽郡岩木町百沢,をとった高岡霊社(現高照神社)を造営した。,図98.高照神社  「棺を蓋(おお)うて事定まる」という。 / 高照神社の造営と「名君」信政像の創出
通史編3(近世2) (大石明神)

大石明神 大石明神(現大石神社)は、丈余(約三メートル)の併立する巨石を神体とし、雨乞い・子授け・安産,・相撲の神とされる。,「津軽一統志」は、本地垂迹説により十一面観音を祀り、別当を百沢寺、神職を長見筑後、正徳五年(一七一五),京都の吉田家より明神号が与えられた。明治二年(一八六九)に大石神社と改称。,村社となり、鬼神社へ合祀されたが、同四年に復社した。 / 大石明神
通史編3(近世2) (神明宮)

神明宮 神明宮(現弘前神明宮)は、慶長七年(一六〇二)、為信が鎮護国家のため堀越城内に創建し、信枚によって,寛永四年(一六二七)、天守閣が落雷により焼失した時、御神体を背負って城の東北へ避難させた者が、後に伊勢神宮,信枚はそこに伊勢堂を建てさせ、社領三〇石を寄進した。藩主は正月に社参するのを恒例とした。,寺社奉行が直接取り扱う領内で唯一の宮で、下社家二軒が配された。,神職は神主号を用いることが許され、五人の神職を配下に置いた。 / 神明宮
通史編3(近世2) (館神)

「社堂縁起」(同前No.四一三)は、慶長十六年(一六一一)、信枚の創立で、信政が供米三石五斗を寄進したとする,宝暦十年(一七六〇)の「社堂惣調書上帳」(弘前八幡宮蔵)では、         八幡宮  御城内鎮守,城内に位置する特殊な事情のためか、毎年、正月四日の神事は神主小野筑前宅で、九月十五日の神楽は八幡宮神楽殿,明治三年(一八七〇)の「御藩内御崇敬神社調」(弘図岩)からは稲荷宮とあり、正八幡宮は消えている。,この稲荷宮は、廃藩の時、城外へ移され、高山開運稲荷神社へ合祀された。 / 館神
通史編3(近世2) (高岡霊社)

高岡霊社 高岡霊社(たかおかれいしゃ)(現高照神社、中津軽郡岩木町)は四代藩主信政を祀る。,信政は江戸幕府神道方吉川惟足(よしかわこれたり)に師事して、その奥義と「高岡霊社」の称号を授けられた。,現在、高照神社には「御告書付(おつげかきつけ)」が保存されている。  ,明治初年に高照神社と改称して郷社となり、明治九年(一八七六)為信が合祀され、同十三年県社となった。,図231.高照神社 / 高岡霊社
通史編3(近世2) (神職の扱い)

社家の中の女性で、神職のことを学び「神子(かみこ)」になるものもいた。,正徳五年(一七一五)、古懸不動尊の出汗に当たり、八幡宮神主が、町馬一五匹を用意させ下社家と神子を含めた,社家の中での神子は、神事を行う時に欠かせない存在であった。  ,八幡宮・熊野宮の下社家は「六供」とも呼ばれ、それぞれ六社家ずつ神主の支配を受けた。,その任務は所属する神社の毎月の神事、臨時の神事、古懸不動尊出汗の神事のほか、夜間の当番、雪片付け、雪下 / 神職の扱い
資料編3(近世編2) (●乳井神社 拝殿 乳井字外ノ沢--市指定文化財)

●乳井神社 拝殿 乳井字外ノ沢--市指定文化財 内外陣に分かれた五間堂であり、内陣に厨子が納められていたが,図30 乳井神社拝殿平面図 / ●乳井神社 拝殿 乳井字外ノ沢--市指定文化財
通史編3(近世2) (神仏分離とは)

このように、新政府は神道国教化を推進したが、その過程で神社から仏教色を取り払おうとした政策が神仏分離であり,、明治元年(一八六八)三月十七日に神祇事務局より諸社に対して布達が出されたのを最初として、以後一連の神仏分離令,除去、別当(神社に付属していた寺院の長)・社僧といった寺院・神社両属の者の還俗(げんぞく)(僧籍から離脱,し、髪をのばすこと)と神主(かんぬし)・社人(しゃじん)への転身などであった。  ,では僧侶全員が還俗して春日神社の神官となったため、興福寺は無住の寺となり、荒廃して五重塔が売りに出されるまでに / 神仏分離とは
通史編3(近世2) (神仏分離の準備)

とりあえず、藩は寺社奉行を社寺(しゃじ)御用所、寺社役を社寺調方と改め、別当寺院の神職支配を停止させた,そのため藩内の全神社は寺院の支配を離れ、社寺調方の直接扱いとなったが、一方で新たな神職組織の再編成を迫,その他、明治三年九月からは神明宮神官斎藤長門が社家長代に任命され、藩は彼ら三人を通して神仏分離を進めていった,12月)  明治二年(一八六九)八月当時、藩では図77のような組織を定め、神社から別当・社僧を切,また、同三年六月には新政府より大小社の調査が求められたが、これに対して藩では「藩内御崇敬神社調」を提出 / 神仏分離の準備
通史編3(近世2) (神仏分離政策の転換)

ところが、もし庶民に神葬祭が広まれば村の産土神や鎮守の神社で葬式が執り行われ、自然、仏教色が神社、特に,仏体を祀る神社・小社に及びかねない心配が出てきたのである。,こうして、仏号の産土社・鎮守堂の廃止により安政二年(一八五五)には少なくとも一一三三社確認された神社は,明治四年五月に新政府は世襲神職を廃止して新たに神官を補任する旨の太政官布告を発し、神社を官幣(かんぺい,)社・国幣(こくへい)社・府社(ふしゃ)・藩社(はんしゃ)・郷社(ごうしゃ)に編成する神社改正を発表したが / 神仏分離政策の転換
通史編2(近世1) (寺社政策)

「高岡霊験記(たかおかれいげんき)」は高照(たかてる)神社の祭司役後藤兵司(ごとうへいじ)が、宝暦改革,それは、四代藩主信政(のぶまさ)を祀(まつ)り、領内で最高の権威を誇る高照神社に対しても例外を認めず、,高照神社においても知行地は蔵入りとなって標符渡しとなった。,宝物は没収され、社堂の修復は途中で止められ、神田は悪田に取り替えられ、諸経費は削減された(資料近世1No,図144.高照神社  この時期、藩の都市政策の一環としての弘前城下の屋敷改めのなかで、境内・寺社地 / 寺社政策
通史編3(近世2) (四 寺社建築)

四 寺社建築 弘前市周辺に存在する寺社建築は、そのほとんどが既に文化財に指定されており、これまでにもたくさんの,本文では、これまで寺院と神社を分けて述べられた書籍が多い中で、寺社建築を一緒にして年代別にみてゆく。,当時の宮大工たちは、寺院建築も神社建築も一緒にこなしていた。 / 四 寺社建築
通史編3(近世2) (神宮寺)

神宮寺 神宮寺(現南津軽郡尾上町)は、深沙宮(じんじゃぐう)(現猿賀神社)の別当であった。,元和五年(一六一九)、信枚が再建、もとの天台宗へ戻し、別当を神宮寺とし一〇〇石を寄進した。,神主は四人を配したが、中には神子・山伏出身の者もいた。,元禄十四年(一七〇一)には神宮寺配下の尾上村獅子権現、三味原地、猿賀・大光寺村三味原地は除地になっており,明治四年(一八七一)、神仏分離によって神宮寺は取り壊されたが、同二十六年(一八九三)に子院東光院へ寺号 / 神宮寺
通史編3(近世2) ((二)神職組織)

(二)神職組織 各堂社には、それぞれ仏教系の修験と神道系の神職が存在してきたが、その実態は明らかでない,二代藩主信枚は弘前城の築城に当たって城下の縄張りを行わせ、城の鬼門に当たる北東の熊野宮(現熊野奥照神社 / (二)神職組織
通史編5(近・現代2) (津軽神楽)

津軽神楽 神職だけで演じる神楽であり、藩でも重んじ、人々も尊重してきた。  ,表64 津軽神楽の演目 曲名 現行 神楽輯録 御遺鑑 奥富士物 語御神式 1 神入舞 ○ ○ ○ ×,楽譜も神官たちによって何種類か編まれている。神歌は口承の形態で伝承されている。  ,津軽神楽は、正徳四年七月二十一日に行われた高照神社の大祭に奉納されたのが初演である。,それが成立した年月、経緯、継承の歴史、伝承演目など、現代に至る変遷は津軽神楽保存会による小冊子『津軽神楽 / 津軽神楽
通史編3(近世2) (神事能)

神事能 天明七年(一七八七)四月二日から雨天を除いて七日間、住吉宮境内の護穀神において神事能が行われた,護穀神は、六代藩主夫人の願いから寛延三年(一七五〇)江戸から寺社奉行によって移され、領内五穀成就を祈る,また天明の大飢饉の時には能役者から五穀成就のための神事能を願い出た。,正徳元年(一七一一)の「町支配分限帳」(長谷川成一編『弘前城下史料』上 一九八六年 北方新社刊)には、,能役者が神事能を奉納して五穀成就を願うことは、藩より扶持米を与えられる者の役割の一部と考えていたものとみられる / 神事能
通史編3(近世2) (民衆の精神世界)

されているが、変革期にはそれが増加するように思われる・明治近代社会の実現を直前にしたこの時期にも様々な,彼女らは盲目、遊歴といった常民(じょうみん)とは異なる特色のために身分制社会の周縁(しゅうえん)に置かれ,この瞽女が事寄せたとする「産神」が悪戸村のいわゆる産土(うぶすな)神(守護・鎮守神)なのか、文字どおり,これを受けて弘前八幡宮の神官小野若狭(わかさ)は「大平神」六体を預かり、藩の諮問(しもん)に答えて「大平神,弘前藩の正式宗教は仏教を別とすれば、岩木山を神体とする岩木三所大権現(現岩木山神社)信仰であり、それ以外 / 民衆の精神世界
通史編2(近世1) (僧侶・神官対象の司法制度)

僧侶・神官対象の司法制度 津軽領の僧侶・神官に対する刑罰は①喧嘩・博奕・窃盗などの犯罪を犯した場合、,②の場合、寺社奉行が寺社奉行宅で申し渡しているのが一般的傾向であった。  ,僧侶・神官が俗人と組んで犯罪を犯した場合、僧侶・神官は正犯・従犯ともに寺社奉行の管轄で、②と同様に寺社奉行,が寺社奉行宅で申し渡すのが一般的傾向であったといえよう。,したがって僧侶・神官と俗人とは異なる機関で処理された。 / 僧侶・神官対象の司法制度
通史編3(近世2) (津軽国学社中)

津軽国学社中 幕末期の弘前では、神官層とはまた別に、比較的富裕な町人層を中心に平田派国学の積極的な受容,この津軽国学社中と称してもよいような知的サークルの中で、中心的役割を果たしたのが鶴舎有節(一八〇八~一八七一,編著に「磯の白玉」・「皇祖宮所考弁」・「顕幽楽論」・「岩木山神霊記」・「古道糸口」・「鶴舎文集」等々がある,死後の霊魂の行方を論じた「顕幽楽論」で、有節は「現(うつ)し世も、亦幽(かく)り世も楽しける我皇神の道 / 津軽国学社中
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

また、『弘藩明治一統誌 神社縁録』によりながら、祭神を検証しつつ表化したのが「弘前中世神社」である。,表4「弘前中世神社」(『弘藩明治一統誌 神社縁録』) 名称 開山 開山年次 祭神 備考 岩木山神社 坂上田村麻呂,和徳稲荷神社 坂上田村麻呂 延暦年中 倉稲魂命・猿田彦大神・大宮能売神 胸肩神社 坂上田村麻呂 延暦年中,市杵島比売命・田心比売命 鬼神社 坂上田村麻呂 延暦年中 伊邪那岐命・伊邪那美命 巌鬼山神社 坂上田村麻呂,表5「弘前近隣における古代・中世の神社」 名称 所在地 開山 開山年次 宗派 備考 岩木山神社 岩木町 / 二 北奥宗教界を彩る中世的寺社
通史編3(近世2) ((一)寺社の開帳)

(一)寺社の開帳 開帳とは、寺社が厨子に入れて秘蔵する神仏や霊宝を公開して、人々に拝観させることで、,居開帳(いがいちょう)は自分の寺社において、出開帳(でがいちょう)は繁華地に出向いて行うものであった。,もともと結縁(けちえん)により加護を得るというのが本来の目的であったが、しだいに寺社の修復や経営の費用,それによって寺社は多額の臨時収入を得ることができたのである。,津軽における開帳は、「国日記」にみられ、その中から特色あるものを寺社ごとにまとめて摘記しよう。 / (一)寺社の開帳
通史編5(近・現代2) (第二回社会教育大会)

第二回社会教育大会 社会教育大会は翌二十三年にも弘前市と八戸市で開かれた。,司会は斎藤県教育部長、岩淵弘前市長、神山弘前市議会議長。研究内容は左のとおり。  ,公民館・民主団体・青年団・婦人会・PTA  第二日目 放送教育と視聴覚教育・新学制実施の報告・県の社会教育計画,以上のごとく終戦直後の社会教育は、文部省と県が中心となり、青森軍政部の指導で行われた。,したがって、前述の研究大会や協議会は、いわば社会教育の指導講習会というべきものであった。 / 第二回社会教育大会
通史編3(近世2) (社家・修験隊の組織)

社家・修験隊の組織 藩兵の払底が深刻化していた明治元年(一八六八)十二月五日に軍政局は、榎本艦隊がどこに,侵入するかもわからず、応援人数の配置も困難だとして、社家(しゃけ)(神官)および修験(しゅげん)(山伏,)の者で武芸に精通し盛壮な者を、防備が手薄な所へ応援を命ずるとして、社家隊諸事取締役を斎藤長門・小野若狭,「御軍政御用留」十二月五日条によると、組織された社家・修験隊はそれぞれ二小隊ずつで、社家隊は小隊長の他,朝から女郎屋に入り浸り、軍事調練に耐えられずに顔を青くし、戦いに負ければ錫杖(しゃくじょう)を振って神に / 社家・修験隊の組織
通史編1(古代・中世) (陶磁器と地域社会)

陶磁器と地域社会 津軽地域では、陶磁器の使用に関して興味ある事例が存在する。,すべての陶磁器がそのようにされたわけではないが、かわらけの稀少性とともに、陶磁器という「うつわ」に対する精神性,いみじくもこの区分は、中世から近世に至る和人社会とアイヌ社会との分断の歴史と連動するものであり、考古学資料,の分析が社会構造の動きに一定の発言をなし得ることを証明したものである。 / 陶磁器と地域社会
通史編4(近・現代1) (笹森修一、修二兄弟と社会主義研究団体)

そのころ、儀助は、士族授産の「農牧社」の社長として活躍していた。,、明治三十九年九月二十五日)  笹森修一は、明治四十年三月二十七日東奥義塾を卒業、同年秋に青山学院神学部,そのため、翌年青山学院を追われ、神戸神学校(長老派所属)に入学する。,神戸では、同窓の賀川豊彦の神戸貧民窟伝道に協力、牧師仲間ではユニテリアン(キリストの神性を否定したキリスト,入社したが、明治四十三年秋ごろから新しい社会主義研究グループ「バザロフ会」の中心人物となった。 / 笹森修一、修二兄弟と社会主義研究団体
通史編1(古代・中世) (三 中世寺社の存在形態)

三 中世寺社の存在形態 津軽地域における寺社の存在形態を最も基本的に規定したのは、何といっても、「蝦夷管領,、倶御祈禱忠節可致、仍住人等宜承用不可違背矣、(下略)  このように、殺生禁断の地とされた中世の堂社は,乳井郷における僧栄秀と長秀の別当職をめぐる世襲には、ひとつの郷内における中世堂社の存在の在り方を伺い知,写真229 曽我貞光知行分神社仏寺注文案 津軽平賀郡岩楯村地頭曾我太郎貞光知行分所々神社仏寺注文事,中世堂社が日々の生活のなかで、どのように営まれていたかを知る上で、次の史料はとても有益である。 / 三 中世寺社の存在形態
通史編3(近世2) (高岡霊社の宝蔵・弘前城の金蔵へ侵入)

高岡霊社の宝蔵・弘前城の金蔵へ侵入 真言宗久渡寺(くどじ)(現市内坂元)の役人の今庄太郎は、安政三年,(一八五六)十一月九日に、第四代藩主津軽信政(のぶまさ)を埋葬した高岡(たかおか)霊社(現中津軽郡岩木町百沢,、明治初年に高照神社と改称)の御宝蔵の錠前を破って侵入し、太刀・小刀などを盗み、同十一日には弘前城の御金蔵,庄太郎は、信政を埋葬し祭神とする神社の宝蔵と、藩政の中枢であり藩主の住まいでもある弘前城中の金蔵へ、盗 / 高岡霊社の宝蔵・弘前城の金蔵へ侵入
通史編3(近世2) (青森商社と帰田法)

青森商社と帰田法 帰田法(きでんほう)については前項で詳述したので、ここでは青森商社との関連性について,長谷川伝兵衛 12町歩余 室家業 北津軽郡鶴田町中野 21 重兵衛 9町3反 醤油醸造 西津軽郡岩崎村松神,蝦夷地に酒を売るためには、結局は藩が経営を操作する青森商社の販路に乗らねばならず、その意味では在方地主,らを広範に商社に取り込める可能性を持っていたのである。,もちろん、青森商社・帰田法・大規模改修工事といった各施策は開始時期がそれぞれ異なっており、最初から藩が / 青森商社と帰田法
通史編5(近・現代2) (県内の社会運動の状況)

県内の社会運動の状況 昭和九年の『東奥年鑑』(東奥日報社)では、青森県の国家主義運動を次のように記事,として著しい擡頭振りを示し、方向を共にする各種団体が生まれて来ているが、本県でもその代表的団体と云はれる神武会,本県特高は昭和三年七月、全国的にその必要に迫られた社会の機運に乗じて設置されたが、その第一矢は四・一六事件,(注、昭和四年四月十六日の全国一斎検挙)で六十人を検挙し、大沢、堀江等本県の社会運動の先駆者であり、当時 / 県内の社会運動の状況
通史編4(近・現代1) (外崎嘉七と島善鄰-りんごの神様と恩人)

外崎嘉七と島善鄰-りんごの神様と恩人 外崎嘉七(安政六-大正一三 一八五九-一九二四)は、安政六年、,明治十五年(一八八二)、弘前本町にあった農牧社の事務所に懇願して、常盤野の農場で牧夫として働かせてもらうようになり,、その熱心な働きぶりに対して同社長大道寺繁禎、同副社長笹森儀助、中畑清八郎等から多くの薫陶を受けることができた,東京で牛乳店を営業するなど、農牧社での八年間は、嘉七の「難行苦行を積んだ奮闘時代」であった。,外崎嘉七経営の「向陽園」 (明治40年代 旧中津軽郡清水村樹木)  嘉七は、後年、「りんごの神様 / 外崎嘉七と島善鄰-りんごの神様と恩人
通史編3(近世2) (修験道(しゅげんどう)の整理)

①修験者の持宮は村の鎮守であっても神社は最寄りの神官に譲ること。仏体神号の神社は仏体を上納すること。,②修験者の持宮で仏号の堂社は、神体・仏体に関わらず、別社・末社は神体上納のうえ、廃社または仏体の堂社は,④以上のことが済んだら、寺社領・廃社地を調査し、神職・寺院の持分を仕分けする。  ,最寄りの神職に堂社を譲り、生活が困難な場合は神職となるように指令された。,また、残り二三社は観音堂・大日堂など仏教色が強い堂社であり、神体を上納して神道色を抜いたうえで修験者による
通史編3(近世2) (弘前八幡宮小野家)

弘前八幡宮小野家 同十九年小野権太夫が、追放された神宮太夫に代わって神主になると、社家頭も命じられた,社家頭は社人頭(しゃにんかしら)・注連頭(しめかしら)とも呼ばれ、神職組織ができたのはこの時であろう。,寺社奉行の設置によって寺社行政が整備されていく中で、神職組織も整えられていった。,八幡宮の別当最勝院は、寺社奉行のもとにあって、領内神職の約九〇パーセントを配下に置き、社家頭を通して神職,神社、神職の序列は、大社・小社の区別、社禄の有無、神職としては神主・社司号の名のりの別、御目見(おめみえ
通史編3(近世2) (山王宮)

山王宮 山王宮(さんのうぐう)(現大杵根(おおきね)神社)は、「社堂縁起」によれば大同年間(八〇六~,八〇九)、坂上田村麻呂が創建したが、衰退して熊野宮(現熊野奥照神社)の相殿となっていたのを、元禄十年(,また「神社微細社司由緒調書上帳」には、古くから大杵根神社とも東山あるいは東嶽大明神とも称したという。,神職は熊野宮神主長利氏が務めた。神仏分離の際、仏体を廃し現社名に改称したようである。
通史編3(近世2) (住吉宮)

住吉宮 住吉宮は、「津軽一統志」に延宝五年(一六七七)に富田(とみた)村(現市内)に「住吉大明神社地,しかし「神社微細社司由緒調書上帳」によれば、山村与兵衛が延宝年間(一六七三~八〇)、日影林の稲荷宮の神託,寛延三年(一七五〇)に六代藩主夫人の願いから、寺社奉行の手で江戸から護穀大明神(現護穀神社(ごこくじんじゃ,この時、寺社奉行直接の取り扱いで唯一神道をもって祀ったことから、両部(りょうぶ)神道に属する最勝院・社家頭,図228.護穀神社
資料編1(古代・中世編) (弘前1~133)

- 弘前11 弘前市乳井字乳井-乳井神社大鳥居前方- 弘前12 弘前市乳井字外ノ沢-乳井神社境内-,弘前13 弘前市乳井字外ノ沢-乳井神社境内- 弘前14 弘前市乳井字外ノ沢-乳井神社境内- 弘前,15 弘前市乳井字外ノ沢-乳井神社墓地- 弘前16 弘前市乳井字外ノ沢-乳井神社墓地- 弘前17 ,ノ沢-乳井神社墓地- 弘前20 弘前市乳井字外ノ沢-乳井神社墓地- 弘前21 弘前市乳井字外ノ沢-,乳井神社墓地- 弘前22 弘前市乳井字外ノ沢-乳井神社墓地- 弘前23 弘前市乳井字外ノ沢-乳井神社墓地
通史編3(近世2) (熊野宮)

熊野宮 熊野宮(現熊野奥照神社)は、「陸奥国高岡熊野神社鎮座伝記」(資料近世2No.四一八)によれば,、崇神天皇の六十七年(紀元前三一)に熊野三所大権現の祭神伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冊(いざなみ)(冉)、,毎年六月十五日の神事には寺社奉行が出座して神楽を奏するほか、五穀成就・国家安穏の祈祷を行った(「国日記,神主長利氏は、八幡宮別当最勝院の支配のもと、八幡宮神主小野氏とともに社家頭を務めた。,図226.熊野奥照神社
資料編3(近世編2) (【解説】)

享和のものは藩主や藩からの下賜品を細大漏らさず記載するほか、在村小社の堂社と管理者である神職・修験をも,第三節「神社」の「神祇管領吉田家諸国社家執奏記」には、藩内で八幡宮(弘前八幡宮)・熊野宮(熊野奥照神社,)・神明宮(弘前神明宮)・岩木山下居宮(岩木山神社)・深沙宮(猿賀神社)の五社のみが記されている。,「神社微細社司由緒調書上帳」は、書上の雛形(和徳稲荷神社蔵)によれば、吉田家への届の有無から、境内地の,このことは、末社・小祠までを登録し、神職の由緒・相続年代まで書き出させることにより、これ以外の流行神や
/ 8ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました