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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(弘前八幡宮小野家)
弘前八幡宮小野家 同十九年小野権太夫が、追放された神宮太夫に代わって
神主
になると、社家頭も命じられた,また、八幡宮・熊野宮には、それぞれ六供と呼ばれる下社家一二人が所属し、両
神主
とともに禰宜(ねぎ)町を形成,社家頭は、宝永四年(一七〇七)までは小野氏一人であったが、この時から熊野宮
神主
長利弁太夫が相役として加,神社、神職の序列は、大社・小社の区別、社禄の有無、神職としては
神主
・社司号の名のりの別、御目見(おめみえ,神職に対するキリシタン改めの具体的な例は、神明宮(弘前)
神主
斎藤長門配下のものが残っている(資料近世2No
通史編3(近世2)
(八幡宮)
神主
小野氏は、別当最勝院の支配を受け、熊野宮(現熊野奥照(くまのおくてる)神社)
神主
長利氏とともに社家頭
通史編3(近世2)
(稲荷宮)
また、社領は後に
神主
毛内十太夫に与えたとある。,
神主
毛内氏は紀伊国の出身で、慶長年間(一五九六~一六一四)に稲荷宮を預かり、四代の時に山辺と改姓した。
通史編3(近世2)
(熊野宮)
神主
長利氏は、八幡宮別当最勝院の支配のもと、八幡宮
神主
小野氏とともに社家頭を務めた。
通史編3(近世2)
(胸肩宮)
現胸肩神社)は、大同二年(八〇七)、坂上田村麻呂が弁天宮を勧請、所持の琵琶を奉納し、随身の名川野部采女正を
神主
通史編3(近世2)
(神職の扱い)
正徳五年(一七一五)、古懸不動尊の出汗に当たり、八幡宮
神主
が、町馬一五匹を用意させ下社家と神子を含めた,八幡宮・熊野宮の下社家は「六供」とも呼ばれ、それぞれ六社家ずつ
神主
の支配を受けた。
通史編3(近世2)
(百沢寺)
寄進し塔頭宝積坊・西福坊・山本坊・福寿坊・南泉坊・円林坊・東林坊・万福坊・徳蔵坊を配し、各一六石を、
神主
安倍氏
通史編3(近世2)
(長利仲聴)
長利仲聴 長利仲聴(おさりなかあきら)は幼年より岩木山神社
神主
阿部常陸(名は仲昌)と学問所和学士斎藤熊蔵
通史編3(近世2)
(山王宮)
神職は熊野宮
神主
長利氏が務めた。神仏分離の際、仏体を廃し現社名に改称したようである。
通史編3(近世2)
(東照宮)
東照宮も被害を受けたらしく、同五年に現在地へ再建され、別当薬王院、塔頭六院が置かれ、桃井氏・山辺氏が
神主
通史編5(近・現代2)
(軍国主義・国家主義の払拭)
戦前・戦中、とくに戦時体制下で国家神道による精
神主
義をたたき込まれた人々にとって、敗戦の現実は裏切られた,それがよりいっそう精
神主
義的な思想や宗教に対する反発を助長したのであろう。,逆に、宗教界に携わる人々は、国民が精
神主
義を否定し、科学の振興を強調することに批判的だった。,敗戦の現実と悲惨な生活のため、国民の宗教や精
神主
義に対する考え方は大きく変わってしまったといえよう(詳細
通史編3(近世2)
(国上寺)
不動尊に出汗(しゅっかん)があれば領内異変の前兆として、藩命で八幡宮(現弘前八幡宮)
神主
が神子を引き連
通史編3(近世2)
(神道)
図202.神職組織と神道本末関係図 神明宮(現弘前神明宮)
神主
斎藤長門のみは寺社奉行の直接支配,山村伊勢・和泉の父子が、住吉宮の護国神を唯一神道で祀り、寺社奉行から直接の取り扱いを受けてきたので、神明宮
神主
斎藤長門,元禄十五年(一七〇二)の「神明宮社縁起」(資料近世2No.四一七)によれば、
神主
斎藤長門は初め伊勢神宮
通史編3(近世2)
(神明宮)
神職は
神主
号を用いることが許され、五人の神職を配下に置いた。
通史編3(近世2)
(高岡霊社)
神主
に当たる祭司役を置き、供料田三〇〇石が寄進された。
通史編3(近世2)
(深沙宮)
元和五年(一六一九)、信枚がもとの天台宗へ戻して神宮寺を別当とし、塔頭四院と
神主
四軒を置いた。
通史編3(近世2)
(伊勢参り)
伊勢参り 伊勢神宮は、慶長七年(一六〇二)、城内に「太神宮」として
神主
惣宮太夫久長に祀らせ(資料近世,元禄二年(一六八九)、町年寄松井四郎兵衛と神明宮(現弘前神明宮)
神主
斎藤長門が町人と藩士の代参として伊勢神宮
通史編3(近世2)
(神宮寺)
神主
は四人を配したが、中には神子・山伏出身の者もいた。
通史編3(近世2)
(祈祷の地としての南溜池)
このたびの雨乞いは、領内の田畑のみならず、「弘前町中」の井戸が枯れ、町人たちが難渋しており「神明宮」の
神主
通史編3(近世2)
(下居宮)
したといわれ、為信が慶長六年(一六〇一)に下居宮、同八年に大堂を再建、寺領四〇〇石を寄進し塔頭一〇院と
神主
安倍
通史編4(近・現代1)
(郷田県令と保守派)
後年政友会代議士や青森市長として活躍した阿部政太郎は、浪岡八幡宮の
神主
阿部文助の長男である。
通史編3(近世2)
(小社の神仏分離)
しかし、在村では専業
神主
のいない小さな堂社も多く、七四六の社堂の内、四一〇は神官のいない堂社であった。,を持っており、自分の拠点とする産土神は存続させて、ある程度の廃社はやむをえないという方針を立てていた
神主
通史編3(近世2)
(修験道(しゅげんどう)の整理)
もし修験者が持宮を失うことで生活難に陥る場合は、修験者に戻ったうえで、
神主
となり神職となる願いを出すこと
通史編3(近世2)
(討庄応援部隊の解兵)
この間の動向はやがて国元にも広まったが、弘前八幡宮
神主
小野若狭(おのわかさ)は社務日記(弘前八幡宮神社文書
通史編3(近世2)
(神仏分離とは)
していた寺院の長)・社僧といった寺院・神社両属の者の還俗(げんぞく)(僧籍から離脱し、髪をのばすこと)と
神主
通史編3(近世2)
(神仏分離政策の転換)
修験者は、明治四年に入って二九名に増加し、修験者の頭であった大行院(だいぎょういん)も同年四月に復飾して
神主
通史編3(近世2)
(館神)
城内に位置する特殊な事情のためか、毎年、正月四日の神事は
神主
小野筑前宅で、九月十五日の神楽は八幡宮神楽殿
通史編3(近世2)
(神仏分離の準備)
同四年十二月の神職組織であるが、このふたつを比べると、薬王院(やくおういん)や最勝院などの別当寺院が配下
神主
通史編3(近世2)
(薬王院)
また、
神主
として桃井和泉・山辺兵部大夫を置いた。
通史編3(近世2)
(大社の神仏分離)
また、下居宮神社安倍貞世が岩木山神社
神主
に任命され、広大な境内の林は岩木山神社・百沢寺・救聞持堂(ぐもんじどう
通史編3(近世2)
(二代信枚)
参道の両側には塔頭一二院を配し、亀甲(かめのこう)町からは道路をかぎの手に曲げ、八幡・熊野宮の
神主
二人
通史編5(近・現代2)
(日中戦争の勃発)
天皇制イデオロギーや精
神主
義的な思想改造だけでは、国民は生命の危険を冒し家庭を犠牲にしてまで戦場に向かわないのではないか
通史編3(近世2)
((二)富籤興行)
興行主は黒石上ノ坂(かみのさか)宮・大円寺・大行院・茶臼館(大行院配下の修験)・本行寺・東照宮
神主
山辺丹後
通史編3(近世2)
(寺院の動向)
〉であるが、この場合は四ツ成にせず一〇〇石を二五〇俵とするという意味)、岩木山神社は特別な鎮守なので
神主
資料編3(近世編2)
(【解説】)
これは、弘前神明宮
神主
齋藤長門支配の神職のものであるが、弘前藩内の神職全員に行われたものであろうことが
通史編3(近世2)
(宗教と交通統制の低下)
となり、本山・末寺制度を通して、一方神職は神明宮(しんめいぐう)をはじめとして八幡宮神官小野若狭・熊野宮
神主
長利薩摩
通史編3(近世2)
(三 八幡宮の祭礼と山車の運行)
弘前八幡宮祭礼図②花籠を引く女子 目録を見る 精細画像で見る 図24.弘前八幡宮祭礼図③
神主
通史編3(近世2)
(居開帳)
後に五代藩主になる津軽信寿が、清水寺観音(現多賀神社、市内桜庭)に参詣する時、開帳を求めたのに対し、
神主
斎藤大和
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●承応元年(一六五二)二月五日、津軽信義、弘前八幡宮
神主
へ知行目録を下し、三十石を充行う。
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