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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (神仏分離とは)

神仏分離とは 慶応三年(一八六七)十二月九日に発せられた新政府の成立宣言が、王政復古の大号令であった,このように、新政府は神道国教化を推進したが、その過程で神社から仏教色を取り払おうとした政策が神仏分離であり,、明治元年(一八六八)三月十七日に神祇事務局より諸社に対して布達が出されたのを最初として、以後一連の神仏分離令,神仏分離と廃仏毀釈は本来まったく別個な政策・運動であったが、両者の進行過程や相関関係をみることは地域社会,では、弘前藩ではどのように神仏分離が行われたのだろうか。 / 神仏分離とは
通史編3(近世2) (神仏分離の準備)

神仏分離の準備 弘前藩に新政府から最初の神仏分離令がもたらされたのは、明治元年(一八六八)五月のことであったが,翌二年二月、藩は新政府からの神仏分離令を領内に触れたが、その内容は多分に具体性を欠いていたため、藩では,その他、明治三年九月からは神明宮神官斎藤長門が社家長代に任命され、藩は彼ら三人を通して神仏分離を進めていった,そこで藩は翌九月、神祇官より内々にうかがった回答をもとに、藩内の実情に合わせて神仏分離を実施する旨、発表,明治二年五月以降、弘前藩では新政府の指令する藩治職制への対応など、さまざまな課題に直面したが、宗教面でも神仏分離 / 神仏分離の準備
通史編3(近世2) (大社の神仏分離)

大社の神仏分離 弘前藩の神仏分離は、大社から行われた。,明治三年八月に社寺掛は伺いを出して神仏分離の方針を定めたが、それによると、まず、東照宮(とうしょうぐう,ほうおんじ)境内の無量院へ引き移ったが、藩ではこの事例を熊野宮だけが残り、鳥居を除去する必要もないことから、神仏分離,ところが、神職森下小伝はこれまであてがわれていた寺禄五〇石がなくなるのは困ると訴えており、神仏分離は従来寺社一体 / 大社の神仏分離
通史編3(近世2) (小社の神仏分離)

小社の神仏分離 弘前藩で領内の堂社数を把握したのは一七世紀末のことであり、その数は七四六ヵ所であった,そこで、藩は明治三年八月に在村小社の神仏分離に関して詳細な指令を発し、これらの整理に着手した。,以上から、弘前藩では小社の神仏分離については、地域社会に根ざした産土神をできるだけ残し、その他の小社はほとんどを / 小社の神仏分離
通史編3(近世2) (神仏分離政策の転換)

神仏分離政策の転換 ところが、このような藩の方針は神葬祭(しんそうさい)(神式の葬式)の一般人への広,新政府は神仏分離によって神道の国教化を意図したが、近代神社制度と近世の同制度とは断絶したものといえよう / 神仏分離政策の転換
通史編3(近世2) (修験道(しゅげんどう)の整理)

修験道(しゅげんどう)の整理 神仏分離令は神体・仏体を厳しく峻別(しゅんべつ)した宗教政策であったが,神仏分離は当然、彼ら修験にも及んだ。  ,このように、これまで述べた弘前藩の神仏分離政策は、在地の都合を第一に考慮し、不公平が生じないよう配慮したもので
通史編3(近世2) (袋宮権現宮)

神仏分離により袋宮寺は報恩寺境内の十一面観音堂無量院へ移り、社司森下氏がそのまま神事を行った。
通史編3(近世2) (山王宮)

神仏分離の際、仏体を廃し現社名に改称したようである。
通史編3(近世2) (寺院の動向)

寺院の動向 本項の冒頭でも述べたように、神仏分離といった場合、多分にそれは神道の隆盛の対極に仏教の衰退,このため神仏分離の過程で寺院の移転が広く行われた。,つまり、弘前藩の神仏分離を廃仏毀釈の観点から見通せば、宗教政策の中で廃仏・廃寺はみえてこない。,しかし、弘前藩の神仏分離を考察すると、そこにはまず幕末期からの宗教統制に関する危機意識があり、新政府からの
通史編3(近世2) (東照宮)

神仏分離により薬王院から分離し、明治十二年(一八七九)郷社、同十四年県社となった。
通史編3(近世2) (稲荷宮)

神仏分離によって白狐寺は廃寺となり、社名を変えた(篠村正雄「津軽信政の稲荷信仰」『市史ひろさき』八)。
通史編3(近世2) (山伏にあるまじき行為)

のち廃寺)支配の薬師堂で、明治初年の神仏分離により石戸(いしと)神社(現中津軽郡相馬村湯口)と改められている
通史編3(近世2) (白狐寺)

神仏分離の時、白狐寺は廃寺となり、胸肩宮(むなかたぐう)(現市内品川町)の神職山辺稲尾が祠掌となった(
通史編3(近世2) (大円寺)

明治五年(一八七二)、神仏分離により最勝院が大円寺の場所へ移り、大円寺は高伯寺(こうはくじ)(現南津軽郡大鰐町
通史編3(近世2) (心応院)

神仏分離の時に、心応院は神官となり、英縁と名のった(田中秀和『幕末維新期における宗教と地域社会』一九九七年
通史編3(近世2) (薬王院)

塔頭六院は明治の神仏分離の時に寺禄廃止で無住になり、廃絶した。,明治三年(一八七〇)、神仏分離により塔頭六子院は寺禄廃止により廃絶した。
通史編3(近世2) (大行院)

明治三年(一八七〇)、神仏分離により、修験は橋雲寺から移された天満宮の祠掌となった。
通史編3(近世2) (深沙宮)

神仏分離によって猿賀神社と改称、郷社となり、明治十三年(一八八〇)に県社となった。
通史編3(近世2) (神宮寺)

明治四年(一八七一)、神仏分離によって神宮寺は取り壊されたが、同二十六年(一八九三)に子院東光院へ寺号
通史編3(近世2) (最勝院)

明治の神仏分離により、八幡宮別当を免じられ、堂塔は破壊され、同五年(一八七二)に大円寺跡へ移った。
通史編3(近世2) (下居宮)

神仏分離で百沢寺は廃寺となり、本尊と厨子、棟札は長勝寺、山頂の聖観音は専称院(現南津軽郡大鰐町)へ移された
通史編3(近世2) (宗教と交通統制の低下)

ところが、後の明治初年の神仏分離以前は神社・仏閣といっても、在村の小堂・小庵まで含めるとその数は無数といってもよいくらいに,つまり、神仏分離の結果管内には廃社も多くなり、各所の庵寺(あんでら)には出所不明の旅僧が住み着き、その
通史編1(自然・原始) (明治時代)

翌明治元年(一八六八)明治維新を迎えると、新政府は三月二十八日に神仏分離の太政官布告を発したが、それによって
資料編3(近世編2) (●岩木山神社 岩木町大字百沢字寺沢)

内外陣境の結界、内陣の来迎壁、それに須弥壇や厨子が撤去されて開放的に使用されているが、これは、明治初期の「神仏分離令
通史編4(近・現代1) (肉食と牛乳)

さて、明治初年の神仏分離という宗教上の大改革が、まず食肉の禁忌を緩めることになった。
通史編3(近世2) (出開帳)

これが明治初年の神仏分離の際に長勝寺蒼龍窟に移されたとされる。
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

明治の神仏分離で高伯寺の旧地の大鰐町に移転。  
通史編3(近世2) (新編 弘前市史 通史編3(近世2) 目次)

  第四節 廃藩置県前後の動静 ……………………………………  333     一 弘前藩の解体と神仏分離
資料編3(近世編2) (【解説】)

同氏の専門は神仏分離令を中心とする宗教史であったが、本章では宗教政策はもとより、民衆が受けた諸規制を細
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