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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (神宮寺)

神宮寺 神宮寺(現南津軽郡尾上町)は、深沙宮(じんじゃぐう)(現猿賀神社)の別当であった。,元和五年(一六一九)、信枚が再建、もとの天台宗へ戻し、別当を神宮寺とし一〇〇石を寄進した。,元禄十四年(一七〇一)には神宮寺配下の尾上村獅子権現、三味原地、猿賀・大光寺村三味原地は除地になっており,明治四年(一八七一)、神仏分離によって神宮寺は取り壊されたが、同二十六年(一八九三)に子院東光院へ寺号 / 神宮寺
通史編3(近世2) (一代本尊)

京徳寺・神宮寺(現南津軽郡尾上町)の十二支堂、袋宮寺の三夜堂(辰・巳・午)にも一代守本尊が祀られた。
通史編3(近世2) (深沙宮)

元和五年(一六一九)、信枚がもとの天台宗へ戻して神宮寺を別当とし、塔頭四院と神主四軒を置いた。
通史編3(近世2) (大社の神仏分離)

次に深沙宮(現南津軽郡尾上町)は神宮寺が別当を免じられ、本社の仏像は神宮寺に預けられ、社号を猿賀(さるか
通史編3(近世2) (最勝院)

最勝院 最勝院(さいしょういん)は、天文元年(一五三二)、弘信僧都が堀越村に創建し、為信が神宮寺別当
通史編1(古代・中世) (一 古代における北奥の宗教世界)

久渡寺(真言宗) 僧円智の創立とも伝える (6) 深沙大権現 大同二年 坂上田村麻呂 猿賀山長命院 神宮寺,東夷調伏のため (8) 神宮寺 同右 大同二年 天正十五年に真言宗に改宗、元和期旧に復す (9) 東福院,及び、そのうちの百沢寺、最勝院、国上寺、久渡寺、大円寺、高伯寺は古代・中世における真言宗寺院であり、神宮寺,次いで、天台寺院と伝える神宮寺と東福院および袋宮寺についてであるが、まず神宮寺についていえば、同寺は大同二年,写真140 『津軽一統志』神宮寺  したがって、北奥の古代仏教界はこの天台宗の名刹たる「猿賀山長命院神宮寺
通史編1(古代・中世) (乳井福王寺の伝承)

しかも彼は沢田古館に住み、その地の人々を指導して「長崎村より高畑まで」高二千石余を開発した上に、猿賀山神宮寺
通史編3(近世2) (藩政前期為信)

 天正十四年(一五八六)に為信は深沙宮(じんじゃぐう)(現猿賀神社、南津軽郡尾上町)へ参拝し、別当神宮寺
通史編3(近世2) (二代信枚)

とうしょういん)(現薬王院)の創建に当たっては本祐を開基に推し、真言宗に改宗させられていた深沙宮の別当神宮寺
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

天正年間(一五七三~九二)猿賀山神宮寺(尾上町)の別当。,猿賀神社 尾上町 (もと猿賀村) 坂上田村麻呂 延暦年中(七八二~八〇六) 猿賀神宮寺 尾上町
通史編3(近世2) (藩政中期四代信政)

信政が明暦二年(一六五六)、父信義のため天台宗報恩寺(ほうおんじ)を創建し、薬王院(やくおういん)・神宮寺
通史編3(近世2) (帰国の旅)

十七日、午前四時に大曲を出発、神宮寺(じんぐうじ)を経て境(さかい)で昼の休憩。
通史編3(近世2) (宗教と交通統制の低下)

藩は寺社奉行を頂点として、仏教は薬王院(やくおういん)・百沢寺(ひゃくたくじ)・神宮寺(じんぐうじ)・
通史編3(近世2) (江戸勤番と生活)

今日、神宮寺の僧侶が津軽へ出発した。  
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

●天正十四年(一五八六)正月、大浦為信、猿賀神宮寺を祈願所となすという。,●天正十五年(一五八八)、この年、大浦為信、猿賀神宮寺十二坊を改易し、天台宗より真言宗に改めるという。
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

……… 封内事実秘苑・津軽一統志 339 ●天正十四年(一五八六)正月、大浦為信、猿賀神宮寺を祈願所となすという,…………………… 盛岡南部家文書 342 ●天正十五年(一五八八)、この年、大浦為信、猿賀神宮寺十二坊
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