機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 16件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 1ページ
通史編3(近世2)
(神宮寺)
神宮寺
神宮寺
(現南津軽郡尾上町)は、深沙宮(じんじゃぐう)(現猿賀神社)の別当であった。,元和五年(一六一九)、信枚が再建、もとの天台宗へ戻し、別当を
神宮寺
とし一〇〇石を寄進した。,元禄十四年(一七〇一)には
神宮寺
配下の尾上村獅子権現、三味原地、猿賀・大光寺村三味原地は除地になっており,明治四年(一八七一)、神仏分離によって
神宮寺
は取り壊されたが、同二十六年(一八九三)に子院東光院へ寺号 /
神宮寺
通史編3(近世2)
(一代本尊)
京徳寺・
神宮寺
(現南津軽郡尾上町)の十二支堂、袋宮寺の三夜堂(辰・巳・午)にも一代守本尊が祀られた。
通史編3(近世2)
(深沙宮)
元和五年(一六一九)、信枚がもとの天台宗へ戻して
神宮寺
を別当とし、塔頭四院と神主四軒を置いた。
通史編3(近世2)
(大社の神仏分離)
次に深沙宮(現南津軽郡尾上町)は
神宮寺
が別当を免じられ、本社の仏像は
神宮寺
に預けられ、社号を猿賀(さるか
通史編3(近世2)
(最勝院)
最勝院 最勝院(さいしょういん)は、天文元年(一五三二)、弘信僧都が堀越村に創建し、為信が
神宮寺
別当
通史編1(古代・中世)
(一 古代における北奥の宗教世界)
久渡寺(真言宗) 僧円智の創立とも伝える (6) 深沙大権現 大同二年 坂上田村麻呂 猿賀山長命院
神宮寺
,東夷調伏のため (8)
神宮寺
同右 大同二年 天正十五年に真言宗に改宗、元和期旧に復す (9) 東福院,及び、そのうちの百沢寺、最勝院、国上寺、久渡寺、大円寺、高伯寺は古代・中世における真言宗寺院であり、
神宮寺
,次いで、天台寺院と伝える
神宮寺
と東福院および袋宮寺についてであるが、まず
神宮寺
についていえば、同寺は大同二年,写真140 『津軽一統志』
神宮寺
したがって、北奥の古代仏教界はこの天台宗の名刹たる「猿賀山長命院
神宮寺
通史編1(古代・中世)
(乳井福王寺の伝承)
しかも彼は沢田古館に住み、その地の人々を指導して「長崎村より高畑まで」高二千石余を開発した上に、猿賀山
神宮寺
通史編3(近世2)
(藩政前期為信)
天正十四年(一五八六)に為信は深沙宮(じんじゃぐう)(現猿賀神社、南津軽郡尾上町)へ参拝し、別当
神宮寺
通史編3(近世2)
(二代信枚)
とうしょういん)(現薬王院)の創建に当たっては本祐を開基に推し、真言宗に改宗させられていた深沙宮の別当
神宮寺
通史編1(古代・中世)
(二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)
天正年間(一五七三~九二)猿賀山
神宮寺
(尾上町)の別当。,猿賀神社 尾上町 (もと猿賀村) 坂上田村麻呂 延暦年中(七八二~八〇六) 猿賀
神宮寺
尾上町
通史編3(近世2)
(藩政中期四代信政)
信政が明暦二年(一六五六)、父信義のため天台宗報恩寺(ほうおんじ)を創建し、薬王院(やくおういん)・
神宮寺
通史編3(近世2)
(帰国の旅)
十七日、午前四時に大曲を出発、
神宮寺
(じんぐうじ)を経て境(さかい)で昼の休憩。
通史編3(近世2)
(宗教と交通統制の低下)
藩は寺社奉行を頂点として、仏教は薬王院(やくおういん)・百沢寺(ひゃくたくじ)・
神宮寺
(じんぐうじ)・
通史編3(近世2)
(江戸勤番と生活)
今日、
神宮寺
の僧侶が津軽へ出発した。
資料編1(古代・中世編)
([十六世紀])
●天正十四年(一五八六)正月、大浦為信、猿賀
神宮寺
を祈願所となすという。,●天正十五年(一五八八)、この年、大浦為信、猿賀
神宮寺
十二坊を改易し、天台宗より真言宗に改めるという。
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
……… 封内事実秘苑・津軽一統志 339 ●天正十四年(一五八六)正月、大浦為信、猿賀
神宮寺
を祈願所となすという,…………………… 盛岡南部家文書 342 ●天正十五年(一五八八)、この年、大浦為信、猿賀
神宮寺
十二坊
/ 1ページ