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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
((一)神社)
(一)
神社
領内の
神社
の九〇パーセントは、「
神社
微細社司由緒調書上帳」(資料近世2No.四二一)に記載,ここでは、明治三年(一八七〇)、社寺署より新政府へ提出した「御藩内御崇敬
神社
調」(同前No.四二二)が,領内の主要な
神社
を挙げているので、これを中心にみていくことにする。 / (一)
神社
資料編3(近世編2)
(第三節 神社)
第三節
神社
[
神社
] / 第三節
神社
通史編3(近世2)
(猿賀神社より盗み)
猿賀
神社
より盗み 文政二年(一八一九)、三上清吉の次男の庄五郎は、猿賀(さるか)深沙宮(現南津軽郡尾上町猿賀
神社
/ 猿賀
神社
より盗み
通史編2(近世1)
(高照神社「御告書付」の開始)
高照
神社
「御告書付」の開始 次に、高照(たかてる)
神社
(中津軽郡岩木町)に所蔵されている「御告書付(,高照
神社
は、四代藩主信政を祀り、津軽弘前藩において岩木山
神社
とともに厚く信仰された
神社
である。,この高照
神社
には、次の史料(大正五年「
神社
創設ノ由来」高照
神社
蔵)に示された内容の「御告書付」が、享和元年,ところで、高照
神社
に残る最も古い「御告書付」は享和元年(一八〇一)のものであるが、「国日記」によれば高照
神社
創建時,その意味で、高照
神社
蔵「御告書付」の残存状況は本来的なものとしてよい。 / 高照
神社
「御告書付」の開始
通史編1(古代・中世)
(二 津軽の修験道と神社)
二 津軽の修験道と
神社
一般に修験道とは、宗教現象的には原始的な山岳信仰に真言密教的な信仰が合体した,古代の坂上田村麻呂に開基伝承を持つ津軽地域の
神社
の多くは、その当初、天台系密教(台密)を基調とし、鎌倉時代,
神社
の創立とその経営にも、よって力があったことは前に『津軽一統志』によって、
神社
造立の中に検証したところでもある,岩木山
神社
が延暦年間(七八二~八〇六)、坂上田村麻呂を開基にして造立され、その別当寺院は百沢寺である。,その岩木山
神社
に修験の世界にも君臨していた安藤氏の一族の阿部氏が祠官したことは、津軽地域における
神社
造営 / 二 津軽の修験道と
神社
資料編3(近世編2)
(●岩木山神社 岩木町大字百沢字寺沢)
図24 岩木山
神社
楼門立面図・平面図 (『重要文化財 岩木山
神社
本殿外四棟修理工事報告書』より転載),図25 岩木山
神社
拝殿立面図・平面図 (『重要文化財 岩木山
神社
本殿外四棟修理工事報告書』より転載),図26 岩木山
神社
本殿立面図・平面図 (『重要文化財 岩木山
神社
本殿外四棟修理工事報告書』より転載),図27 岩木山
神社
奥門・瑞垣 立面図・平面図 (『重要文化財 岩木山
神社
本殿外四棟修理工事報告書』より,図28 岩木山
神社
社務所 / ●岩木山
神社
岩木町大字百沢字寺沢
資料編3(近世編2)
(●猿賀神社 本殿 尾上町大字猿賀字石林--県重宝)
●猿賀
神社
本殿 尾上町大字猿賀字石林--県重宝 この
神社
の創立については、古代にまで遡る伝承も伝えられており,中世を通して信仰され、近世においても、津軽家の祈願所となるなど、周辺の人々の篤い信仰に支えられてきた
神社
,のような空間も含まれていたと考えられるが、一般的な形式である「前室付き流造」とはなっておらず、県内の近世
神社
建築,図32 猿賀
神社
本殿平面図 / ●猿賀
神社
本殿 尾上町大字猿賀字石林--県重宝
資料編3(近世編2)
(●厳鬼山神社 本殿 十腰内字猿沢--県重宝)
●厳鬼山
神社
本殿 十腰内字猿沢--県重宝 棟札に「……十一面観世音精舎一宇……」と記されているように,、かつては観音堂であったものであり、近世津軽の三間仏堂が、
神社
本殿となる典型的なものである。,図29 厳鬼山
神社
本殿平面図 / ●厳鬼山
神社
本殿 十腰内字猿沢--県重宝
資料編3(近世編2)
(●熊野奥照神社 本殿 田町四丁目--重要文化財)
●熊野奥照
神社
本殿 田町四丁目--重要文化財 慶長十八年(一六一三)に、津軽二代信枚らによって復興建立,図21 熊野奥照
神社
立面図・平面図 (『重要文化財熊野奥照
神社
本殿修理工事報告書』より転載) / ●熊野奥照
神社
本殿 田町四丁目--重要文化財
資料編3(近世編2)
(●高照神社 岩木町大字百沢字神馬野)
●高照
神社
岩木町大字百沢字神馬野 (一)本殿--県重宝 津軽四代信政が神式で埋葬されたところであり,図31 高照
神社
本殿・拝殿・幣殿平面図 (二)中門--県重宝 一間一戸の平唐門で屋根は柿葺であり / ●高照
神社
岩木町大字百沢字神馬野
資料編3(近世編2)
(●乳井神社 拝殿 乳井字外ノ沢--市指定文化財)
●乳井
神社
拝殿 乳井字外ノ沢--市指定文化財 内外陣に分かれた五間堂であり、内陣に厨子が納められていたが,図30 乳井
神社
拝殿平面図 / ●乳井
神社
拝殿 乳井字外ノ沢--市指定文化財
通史編2(近世1)
(高照神社の造営と「名君」信政像の創出)
高照
神社
の造営と「名君」信政像の創出 生前、津軽信政は、幕府の神道方であった吉川惟足(よしかわこれたり,五代藩主津軽信重(のぶしげ)は翌正徳元年(一七一一)から同二年にかけて信政の神号をとった高岡霊社(現高照
神社
,図98.高照
神社
「棺を蓋(おお)うて事定まる」という。 / 高照
神社
の造営と「名君」信政像の創出
資料編1(古代・中世編)
(弘前1~133)
- 弘前11 弘前市乳井字乳井-乳井
神社
大鳥居前方- 弘前12 弘前市乳井字外ノ沢-乳井
神社
境内-,弘前13 弘前市乳井字外ノ沢-乳井
神社
境内- 弘前14 弘前市乳井字外ノ沢-乳井
神社
境内- 弘前,15 弘前市乳井字外ノ沢-乳井
神社
墓地- 弘前16 弘前市乳井字外ノ沢-乳井
神社
墓地- 弘前17 ,ノ沢-乳井
神社
墓地- 弘前20 弘前市乳井字外ノ沢-乳井
神社
墓地- 弘前21 弘前市乳井字外ノ沢-,乳井
神社
墓地- 弘前22 弘前市乳井字外ノ沢-乳井
神社
墓地- 弘前23 弘前市乳井字外ノ沢-乳井
神社
墓地
通史編3(近世2)
(高岡霊社)
高岡霊社 高岡霊社(たかおかれいしゃ)(現高照
神社
、中津軽郡岩木町)は四代藩主信政を祀る。,正徳二年(一七一二)、会津の保科正之(ほしなまさゆき)を祀る土津(はにつ)
神社
(現福島県耶麻郡猪苗代町,現在、高照
神社
には「御告書付(おつげかきつけ)」が保存されている。 ,明治初年に高照
神社
と改称して郷社となり、明治九年(一八七六)為信が合祀され、同十三年県社となった。,図231.高照
神社
通史編3(近世2)
(神仏分離政策の転換)
藩では葬式はこれまでどおり一般人は仏式で行うであろうから、
神社
による葬式にはほぼ無関心であった。,ところが、もし庶民に神葬祭が広まれば村の産土神や鎮守の
神社
で葬式が執り行われ、自然、仏教色が
神社
、特に,仏体を祀る
神社
・小社に及びかねない心配が出てきたのである。,こうして、仏号の産土社・鎮守堂の廃止により安政二年(一八五五)には少なくとも一一三三社確認された
神社
は,ところが、神職をそのまま任用するという従来の
神社
制度は廃藩置県以後まったく否定された。
通史編3(近世2)
(山王宮)
山王宮 山王宮(さんのうぐう)(現大杵根(おおきね)
神社
)は、「社堂縁起」によれば大同年間(八〇六~,八〇九)、坂上田村麻呂が創建したが、衰退して熊野宮(現熊野奥照
神社
)の相殿となっていたのを、元禄十年(,また「
神社
微細社司由緒調書上帳」には、古くから大杵根
神社
とも東山あるいは東嶽大明神とも称したという。
通史編3(近世2)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
青森県立郷土館 秋田市立佐竹史料館 悪戸町会(青森県弘前市) 出光美術館(東京都千代田区) 岩木山
神社
,求聞寺(青森県中津軽郡岩木町) 国文学研究資料館史料館 国立公文書館 国立国会図書館 護穀
神社
,市立函館図書館 市立函館博物館五稜郭分館 白石市総務部振興課 真教寺(青森県弘前市) 新寺町稲荷
神社
,仙台市博物館 宗徳寺(青森県弘前市) 袋宮寺(青森県弘前市) 大仏院(青森県弘前市) 高照
神社
,(青森県中津軽郡岩木町) 多賀
神社
(青森県弘前市) 財団法人致道博物館(山形県鶴岡市) 長勝寺(
通史編3(近世2)
(小社の神仏分離)
①一村の産土神(うぶすながみ)(守護神)で仏体仏号の
神社
は仏体を上納し、従来祀っていた神号をつけた
神社
,⑥神明宮・八幡宮・熊野宮・天満宮のほかは何
神社
と社号を改名すること。,表31.神仏混淆
神社
調帳の分析 No.,変え、多くの
神社
が名前も改称しようとしていた。,しかし、産土神以外の
神社
については、正反対ともいうべき結果を示している。
資料編1(古代・中世編)
([付図])
板碑番号 所在地 所在場所 弘前 1~9 弘前市乳井字古堂 古堂跡 10 弘前市乳井字岩ノ上 乳井
神社
大鳥居前方,11 弘前市乳井字乳井 乳井
神社
大鳥居前方 12~14 弘前市乳井字外ノ沢 乳井
神社
境内 15~24,弘前市乳井字外ノ沢 乳井
神社
墓地 25~29 弘前市薬師堂字熊本 愛宕
神社
境内 30 弘前市境関字富岳,弘前市八幡町1丁目 八幡宮境内 38 弘前市田町4丁目 八幡宮墓地 39 弘前市田町4丁目 熊野奥照
神社
境内,54・55 弘前市細越字竹原 愛宕
神社
鳥居横小祠内 56 弘前市宮舘字宮舘沢 稲荷
神社
境内 57 弘前市宮舘字房崎
通史編1(古代・中世)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
石巻文化センター 岩手大学附属図書館 円覚寺(西津軽郡深浦町) 円明寺(弘前市) 大国主
神社
,(秋田県仙北郡西木村) 大阪府立中之島図書館 大日霊貴
神社
(秋田県鹿角市) 大鰐町企画観光課,尾上町教育委員会 鹿島神宮(茨城県鹿嶋市) 鹿島
神社
(茨城県東茨城郡桂村) 金ヶ崎町教育委員会,京徳寺(弘前市) 宮内庁正倉院事務所 宮内庁書陵部 国見町教育委員会 熊野奥照
神社
(弘前市),能代市史編さん室 羽賀寺(福井県小浜市) 函館市教育委員会 八戸市博物館 八戸市立図書館 零羊崎
神社
通史編3(近世2)
(大石明神)
大石明神 大石明神(現大石
神社
)は、丈余(約三メートル)の併立する巨石を神体とし、雨乞い・子授け・安産,明治二年(一八六九)に大石
神社
と改称。村社となり、鬼
神社
へ合祀されたが、同四年に復社した。
通史編3(近世2)
(十一面観音堂)
十一面観音堂 十一面観音堂(現巖鬼山(がんきさん)
神社
)は、岩木三所大権現の左峰十一面観音を巖鬼山西方寺観音院,明治六年(一八七三)に巖鬼山
神社
と改称した。 図232.巖鬼山
神社
通史編1(自然・原始)
(南東麓)
たとえば、岩木山
神社
および高照
神社
は弥生面に、百沢小学校は百沢面に位置し、岩木山
神社
から弥生にかけては,なお、昭和五十年(一九七五)八月の百沢土石流は岩木山
神社
東縁の蔵助沢で発生し、青森県災害史上最大の被害
通史編3(近世2)
(住吉宮)
住吉宮 住吉宮は、「津軽一統志」に延宝五年(一六七七)に富田(とみた)村(現市内)に「住吉大明
神社
地,しかし「
神社
微細社司由緒調書上帳」によれば、山村与兵衛が延宝年間(一六七三~八〇)、日影林の稲荷宮の神託,寛延三年(一七五〇)に六代藩主夫人の願いから、寺社奉行の手で江戸から護穀大明神(現護穀
神社
(ごこくじんじゃ,図228.護穀
神社
通史編3(近世2)
(江戸時代初期の建築)
江戸時代初期の建築 慶長八年(一六〇二)の棟札(むなふだ)(長勝寺蔵)をもつ岩木山
神社
拝殿(はいでん,『重要文化財 岩木山
神社
本殿外(ほんでんほか)四棟修理工事報告書』(一九七八年)によると、社蔵(しゃぞう,市内の古い
神社
として弘前八幡宮の本殿がある。,門外(かどけ)の熊野
神社
とともに熊野三所権現(さんしょごんげん)として造られて、奥照
神社
を本宮(ほんぐう,奥照
神社
の本殿ではその構造形式によって古さが感じられ、樋の口の熊野
神社
の本殿は向拝を一間につくり、頭貫型虹梁
通史編1(古代・中世)
(二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)
また、『弘藩明治一統誌
神社
縁録』によりながら、祭神を検証しつつ表化したのが「弘前中世
神社
」である。,表4「弘前中世
神社
」(『弘藩明治一統誌
神社
縁録』) 名称 開山 開山年次 祭神 備考 岩木山
神社
坂上田村麻呂,和徳稲荷
神社
坂上田村麻呂 延暦年中 倉稲魂命・猿田彦大神・大宮能売神 胸肩
神社
坂上田村麻呂 延暦年中,市杵島比売命・田心比売命 鬼
神社
坂上田村麻呂 延暦年中 伊邪那岐命・伊邪那美命 巌鬼山
神社
坂上田村麻呂,表5「弘前近隣における古代・中世の
神社
」 名称 所在地 開山 開山年次 宗派 備考 岩木山
神社
岩木町
通史編3(近世2)
(神仏分離とは)
このように、新政府は神道国教化を推進したが、その過程で
神社
から仏教色を取り払おうとした政策が神仏分離であり,分離令のおおよその内容は、従来寺院に合祀(ごうし)されていた
神社
を寺院から切り離すことであり、具体的には,として祀ることの禁止、鰐口(わにぐち)(仏殿などの銅製の金鼓)・梵鐘(ぼんしょう)など仏具の除去、別当(
神社
,に付属していた寺院の長)・社僧といった寺院・
神社
両属の者の還俗(げんぞく)(僧籍から離脱し、髪をのばすこと,また、滋賀県の日吉
神社
ではおびただしい数の仏像・仏具・経典・什器(じゅうき)類が破棄され、奈良の興福寺
資料編1(古代・中世編)
(岩木1~19)
田中一雄氏宅地内- 岩木16 中岩木町一町田字村元-木村賢一氏地所内- 岩木17 中岩木町熊嶋字里見-熊野
神社
境内,- 岩木18 中岩木町鼻和字平岡-保食
神社
境内- 岩木19 中岩木町鼻和字平岡-保食
神社
境内-
通史編3(近世2)
(大社の神仏分離)
深沙宮(現南津軽郡尾上町)は神宮寺が別当を免じられ、本社の仏像は神宮寺に預けられ、社号を猿賀(さるか)
神社
,稲荷宮(現市内新寺町稲荷
神社
)は、白孤寺(びゃっこじ)が別当を免じられたが、神官になる者がいなかったため,また、下居宮
神社
安倍貞世が岩木山
神社
神主に任命され、広大な境内の林は岩木山
神社
・百沢寺・救聞持堂(ぐもんじどう,後に岩木山
神社
は国幣小社(こくへいしょうしゃ)に指定され、津軽惣鎮守として多くの信奉者を集めたが、この,くどじ)(現市内坂元)については、もともと仏教で神仏混淆はしていないので別当御免とはならなかったが、境内
神社
通史編3(近世2)
(三不動)
三不動 古懸(こがけ)(国上寺)・中野(中野
神社
)・長谷沢(ながいさわ)(長谷沢
神社
)の不動尊は、一本
通史編1(古代・中世)
([口絵])
2 蕨手刀(弘前市門外出土)青森県立郷土館 3 蕨手刀(県重宝)弘前市熊野奥照
神社
,正応碑〕 (重美)弘前市 5 延文の板碑〔唐糸碑〕(町指定)藤崎町 6 熊野奥照
神社
板碑,〔道光碑〕 (市指定)弘前市熊野奥照
神社
7 大般若経〔伝弁慶寄進〕弘前市円明寺
通史編1(自然・原始)
(第一期)
ちなみに、十腰内の貴船
神社
の御神体も板状の安山岩であり、南麓にある森山の斜面にみられる崖錐物(がいすいぶつ,写真18 巌鬼山
神社
近くの砕石場。板状節理の発達した安山岩溶岩。 ,岩木町羽黒
神社
付近では、礫径が一〇〇センチメートル以上の風化礫も包含されている。,なお、羽黒
神社
南方の高館山では、ゲロパーミスの下位に暗灰色の新鮮な凝灰角礫岩が堆積している。,写真20 黒瀧
神社
近くにみられる凝灰角礫岩。下位に泥炭層をはさむ凝灰質粘土層が堆積する。
資料編1(古代・中世編)
(第一節 金属資料)
なお、隣接町村には、岩木山
神社
(岩木町)所蔵の「永正十四年(一五一七)作」の釣燈籠、広船
神社
(平賀町)
通史編2(近世1)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
安盛寺(青森県弘前市) 圓覚寺(青森県西津軽郡深浦町) 大阪城天守閣 大阪歴史博物館 尾山
神社
,(石川県金沢市) 海蔵寺(青森県弘前市) 巖鬼山
神社
(青森県弘前市) 国文学研究資料館史料館,静岡市立芹沢銈介美術館 松月院(東京都板橋区) 市立函館図書館 専修寺(青森県弘前市) 仙台市博物館 高照
神社
通史編3(近世2)
(深沙宮)
深沙宮 深沙宮(じんじゃぐう)(現猿賀
神社
、南津軽郡尾上町)は深沙大将を祀る。,永禄八年(一五六五)とも元亀二年(一五七一)ともいわれるが、別当を兼帯していた乳井毘沙門宮(現乳井
神社
,神仏分離によって猿賀
神社
と改称、郷社となり、明治十三年(一八八〇)に県社となった。
通史編1(古代・中世)
(青森県内の田村麻呂伝説)
田村麻呂伝説 東北地方には田村麻呂建立といわれる観音が多くあるが、青森県内にも、小金山(こがねやま)
神社
,また岩木山
神社
や猿賀(さるか)
神社
(深沙(じんじゃ)大権現)にも田村麻呂との関係が伝えられている。,たとえば『津軽一統志』首巻では岩木山三所大権現を延暦十五年創建とし、猿賀
神社
(深沙大権現)については、,県内では他にも藤崎町の鹿島
神社
など、十二年建立説をとるものはかなり存在する。
通史編3(近世2)
(熊野宮)
熊野宮 熊野宮(現熊野奥照
神社
)は、「陸奥国高岡熊野
神社
鎮座伝記」(資料近世2No.四一八)によれば,図226.熊野奥照
神社
通史編4(近・現代1)
(招魂祭)
招魂祭 これまで上白銀町の招魂社で行われていた招魂祭は、明治三十二年から公園本丸に祭壇を設け、靖国
神社
,三十九年四月二十一日、公園四の郭(今の護国
神社
の位置)に祭壇を設け、日露戦争当時の第二軍司令官・奥大将,この日北の櫓(やぐら)(今の護国
神社
の向かい南側にあった)が花火のために焼失した。,そしてこの年八月二十二日の夜に、今度は西の櫓(高山稲荷
神社
の向かい側西南隅)が炎上した。
資料編1(古代・中世編)
(協力者及び協力機関一覧(敬称略))
大鰐町教育委員会(青森県) 小浜市文化課(福井県小浜市) 鎌倉国宝館(神奈川県鎌倉市) 北野
神社
,鶴岡市郷土資料館(山形県鶴岡市) 東京国立博物館(東京都台東区) 那智大社(和歌山県那智勝浦町) 乳井
神社
,深浦町教育委員会(青森県) 深浦町歴史民俗資料館(青森県) 藤崎町教育委員会(青森県) 藤島
神社
,京都府京都市) 遊行寺(神奈川県藤沢市) 龍泉寺(青森県弘前市) 林清寺(秋田県秋田市) 和徳稲荷
神社
通史編3(近世2)
(四 寺社建築)
本文では、これまで寺院と
神社
を分けて述べられた書籍が多い中で、寺社建築を一緒にして年代別にみてゆく。,当時の宮大工たちは、寺院建築も
神社
建築も一緒にこなしていた。
資料編3(近世編2)
(●熊野宮 本殿 樋の口町--県重宝)
門外村(弘前市門外)の新宮と先に挙げた八幡村(弘前市田町)の本宮・熊野奥照
神社
とともに、熊野三所権現を,素朴な造りながら古い形式をよく止めており、県内の
神社
建築を見る上で、欠かすことのできない貴重な遺構である
資料編3(近世編2)
(【解説】)
「切支丹改証文」は、高照
神社
の屏風の下張りであったもので、藩内三六ヵ村のものが残っている。,第三節「
神社
」の「神祇管領吉田家諸国社家執奏記」には、藩内で八幡宮(弘前八幡宮)・熊野宮(熊野奥照
神社
,)・神明宮(弘前神明宮)・岩木山下居宮(岩木山
神社
)・深沙宮(猿賀
神社
)の五社のみが記されている。,「
神社
微細社司由緒調書上帳」は、書上の雛形(和徳稲荷
神社
蔵)によれば、吉田家への届の有無から、境内地の,江戸後期には御国三十三観音や愛宕宮(中津軽郡岩木町植田)など
神社
・仏閣への参詣が物見遊山を兼ねたものになってきていることがわかる
通史編1(古代・中世)
(海の民・山の民としての安藤氏)
中世末期の史料ではあるが、安藤氏が、海の民の守護神たるところの陸奥国一の宮、塩竃(しおがま)
神社
(写真,130)の社人となっていたこと、その塩竃
神社
の神領が安藤氏と関係の深い外浜に存在していたことなども明らかになってきており,写真130 塩竃
神社
(宮城県塩竈市) しかしそれにもまして注目されるのは、山の民としての安藤氏
通史編3(近世2)
(江戸時代末期の建築)
図240.栄螺堂 乳井
神社
(にゅういじんじゃ)の拝殿は、元来は本殿と拝殿とを兼ねた空間をもっていたが,岩木山
神社
の社務所(しゃむしょ)は、百沢寺の本坊あるいは客殿とされていたもので、寛永六年(一六二九)に,図241.岩木山
神社
社務所 以上にみてきたように、慶長から寛永期にかけては、越前(福井県)・丹波,その後、袋宮寺の本堂や久祥院殿の位牌堂の建立の際にもその技法は使われ、高照
神社
の各建築へと伝えられていった
資料編3(近世編2)
(●弘前八幡宮 八幡町一丁目)
二代信枚が、弘前城の鬼門を押さえるとした
神社
であり、青森県で最古の
神社
建築である。
通史編1(古代・中世)
(田道伝説)
田道伝説 尾上町の猿賀
神社
(写真23)の縁起には、さらに古く『日本書紀』仁徳五十五年条に見える、蝦夷,写真23 猿賀
神社
(尾上町) 写真24『日本書紀通證』巻之十六
通史編3(近世2)
(二の丸屋敷稲荷宮)
「
神社
微細社司由緒調書上帳」(資料近世2No.四二一)は、 御城内二ノ御丸 一、御館神 一宇 と,この「
神社
微細社司由緒調書上帳」のみが、二の丸屋敷の稲荷宮を「御館神」としているが、その理由はわからない
資料編2(近世編1)
(協力機関及び協力者一覧(各機関・個人ごとに五十音順、敬称略))
岩手県立図書館(岩手県盛岡市) 岩手県立博物館(岩手県盛岡市) 革秀寺(青森県弘前市) 巌鬼山
神社
,(青森県弘前市) 京都府立丹後郷土資料館(京都府宮津市) 熊野奥照
神社
(青森県弘前市) 国立国文学研究資料館史料館,東京国立博物館(東京都台東区) 市立函館図書館(北海道函館市) 大東急記念文庫(東京都世田谷区) 高照
神社
通史編3(近世2)
(江戸時代前期の建築)
岩木山
神社
の楼門(ろうもん)が同じく寛永五年の完成であり、同年には長勝寺の三門も起工され、翌年の寛永六年,岩木山
神社
の楼門は、もともと百沢寺の山門として建てられたものであり、五間三戸の大規模な建築であり、量感豊,図235.岩木山
神社
楼門 長勝寺の三門は、先に挙げた百沢寺の山門ができたすぐ後の寛永六年(一六二九,岩木山
神社
の拝殿は、先にも述べたように、百沢寺大堂(本堂)として慶長八年(一六〇二)に為信が建てたものを,中世的な雰囲気をもつ密教本堂であったが、厨子などが取り除かれて、現在はかなり開放的な空間を示しており、
神社
拝殿
通史編3(近世2)
(橋雲寺)
村民は高原(現市内細越)に愛宕
神社
をつくり、植田・細越両村の鎮守としたが、橋雲寺は愛宕山頂の奥院を愛宕
神社
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