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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (神道)

神道 神道にあっては、弘前城下の形成に当たり、八幡宮(現弘前八幡宮)を大浦城下から移転させて、弘前総鎮守,神道の本末関係と神職組織は、安政二年(一八五五)の「神社微細社司由緒調書上帳」(同前No.四二一)から,図202.神職組織と神道本末関係図  神明宮(現弘前神明宮)神主斎藤長門のみは寺社奉行の直接支配,また、社家頭の下の神職は、最勝院の支配下にあって「両部神道」に属することになる。,が元禄七年(一六九四)、京都の吉田家へ官職受領に赴き、本末関係を結んで領内触頭になるに及んで、「唯一神道 / 神道
通史編3(近世2) (斎藤規房)

斎藤規房 信政が吉川惟足(よしかわこれたり)に師事したことから、本藩では吉川神道との関係が深い。,若年より吉川従門の門人後藤善佑について、神道と和学を学んだ。,翌十一年十一月学問所の和学方御用掛に任じられ、同十二年十月高岡神社の祭司手代、同十三年二月には祭司を命じられた(「吉川神道関係資料, 津軽藩斎藤家文書(抄)」『神道史研究』第四七巻第二号)。,彼の編著「神書講述習之心得」では自己意識を突破して、無心の内に神に帰一する「神人一致」の吉川神道の奥義
通史編5(近・現代2) (軍国主義・国家主義の払拭)

教育や宗教の民主化は国家神道に大きな打撃を与えた。,さらに十二月十五日に発令された「国家神道(神社神道)に対する政府の保証、支援・保全、監督、弘布の廃止に,「神道指令」は弘前市でも昭和二十一年一月十三日に通達されている。,「神道指令」は単に宗教の精神面に影響を与えただけではなかった。,そのため敗戦後、神道を中心に宗教へ対する反動が現れていた。
通史編3(近世2) (信政の教養)

)(一六一六~一六九四)の門人となり、神道も究めた。,信頼も厚く、天和二年(一六六七)には徳川綱吉から幕府神道方を命じられた。,惟足の神道説は吉田神道を基礎としつつも、その仏教的色彩を除き、朱子学との習合を推し進め、理学神道をもって,治国の道を説いたものであり、その主張は道徳的側面を強調し、社家中心の神道に対して批判的傾向にあった。,同七年(一七一〇)病没の時は、遺命によって岩木山麓百沢に吉川神道の法式をもって葬られた。
通史編3(近世2) (信政)

寛文十一年(一六七一)、信政は二十六歳の時神道家吉川惟足(よしかわこれたり)の門人になった。,惟足は上京して唯一神道吉田兼倶(かねとも)の一族、萩原兼従(かねより)に師事し、宗家の子弟にも授けられなかった,これにより、吉田の一字をとって吉川を姓とし、吉川神道の創始者となって、遂に幕府の神道方になり、徳川頼宣,〇)、遺命により岩木山麓の高岡霊社(たかおかれいしゃ)(現高照神社)に、北川新次郎が導師となり、吉川神道
通史編3(近世2) ((二)本末制と僧録制)

僧録制 江戸幕府は慶長年間(一五九六~一六一四)から、中世以来の特権を保持してきた仏教諸宗派・修験・神道,神道の場合は、神道長上を称した吉田神社の祠官吉田家が、寛文五年の「諸社禰宜法度」により、幕府の権力を背景
通史編3(近世2) (神仏分離とは)

このように、新政府は神道国教化を推進したが、その過程で神社から仏教色を取り払おうとした政策が神仏分離であり,つまり、新政府が当初意図したことはあくまでも仏教と神道の分離であり、必ずしも仏教を弾圧することではなかった,は長年にわたってなされてきた現象であり、広く庶民にも根付いた信仰形態であったため、何が仏教に属し何か神道,このような仏教に対する排撃を廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)というが、それは地域の宗教の在り方を濃厚に反映して、神道
通史編3(近世2) (高岡霊社)

信政は江戸幕府神道方吉川惟足(よしかわこれたり)に師事して、その奥義と「高岡霊社」の称号を授けられた。,宝永七年(一七一〇)、信政が弘前城で死去すると、遺言により吉川神道の法式にのっとって、北川新次郎が導師
通史編3(近世2) (住吉宮)

この時、寺社奉行直接の取り扱いで唯一神道をもって祀ったことから、両部(りょうぶ)神道に属する最勝院・社家頭
通史編3(近世2) ((二)神職組織)

(二)神職組織 各堂社には、それぞれ仏教系の修験と神道系の神職が存在してきたが、その実態は明らかでない
通史編3(近世2) (馬術)

○神道(しんとう)(当ヵ)流―流祖は柴崎十郎右衛門正勝(しばさきじゅうろうえもんまさかつ)。
通史編3(近世2) (修験道(しゅげんどう)の整理)

しゅげんどう)の整理 神仏分離令は神体・仏体を厳しく峻別(しゅんべつ)した宗教政策であったが、従来仏教と神道,また、残り二三社は観音堂・大日堂など仏教色が強い堂社であり、神体を上納して神道色を抜いたうえで修験者による
通史編5(近・現代2) (山車行事)

山車行事 神道の儀礼に付随し、民間の行事ともなっているのが、山車行事であり、屋台(ヤマ)と練(ね)り
通史編2(近世1) (高照神社の造営と「名君」信政像の創出)

高照神社の造営と「名君」信政像の創出 生前、津軽信政は、幕府の神道方であった吉川惟足(よしかわこれたり,)に師事し、吉川流唯一神道(ゆいいつしんとう)の奥義を極め「高岡霊社(たかおかれいしゃ)」の神号を授けられたという,信政の葬儀は菩提寺の天台宗報恩寺で営まれ、神道による祭儀によって高岡に葬送された。
資料編3(近世編2) (●高照神社 岩木町大字百沢字神馬野)

岩木町大字百沢字神馬野 (一)本殿--県重宝  津軽四代信政が神式で埋葬されたところであり、五代信寿により、吉川神道
通史編3(近世2) (庚申信仰)

これに、仏教の帝釈天(たいしゃくてん)の使者青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)や、神道では猿田彦
通史編5(近・現代2) (終戦直後の教育)

その第一では戦時教育体制の停止とその切り替えが指示され、第二に教職員の追放、第三に神道の処理が指令され
通史編3(近世2) (民衆の精神世界)

それによると、「大平神」とは神道の様式で祀っているようだが、神道関係の書物には該当するものがなく、もちろん
通史編3(近世2) (毛内宜応)

み」として、三河国の遊士白井秀雄(菅江真澄(すがえますみ))、越後国の歌人橘由之等を食客とし、和学や神道,を講究し、神道の奥義を神官にも伝授した、という(「棟方貞敬抄録」『伝類』)。
通史編3(近世2) (藩士の信仰)

日ごろ、藩士は神道・儒教・仏教・兵学を学んでいるが、寺請(てらうけ)・檀家(だんか)制度が整備されてくると
通史編3(近世2) (神仏分離政策の転換)

新政府は神仏分離によって神道の国教化を意図したが、近代神社制度と近世の同制度とは断絶したものといえよう
通史編3(近世2) (信政の文治)

、小泉由己(ゆき)、砂川惣左衛門、五井藤九郎(ごいとうくろう)(蘭洲)、桐山正哲(しょうてつ)   神道
通史編3(近世2) ((三)主要人物)

、慶安二年(一六四九)馬役として召し出され、大坪(おおつぼ)流を梅田理右衛門(うめたりえもん)から、神道
通史編4(近・現代1) (日清戦争終了後の民情)

その一方で政府は、藩の意識など、地縁・血縁中心だった戦死者との関係から、国家神道や公葬などを通じて、国家
通史編2(近世1) (野本道玄の招聘)

表21 信政代に招聘された主な人物 項目名 人  名 儒者 小見山玄益,小泉由己,桐山正哲ほか 神道
通史編3(近世2) (藩政中期四代信政)

⑬神道、仏教によらない奇怪、非常の話をして、領民を集めることを禁止する。
通史編3(近世2) (寺院の動向)

寺院の動向 本項の冒頭でも述べたように、神仏分離といった場合、多分にそれは神道の隆盛の対極に仏教の衰退
資料編3(近世編2) (二 思想)

鬼神や霊界に関する儒学の様々な言説を厳しく批判しているが、基本的には平田神道の顕幽論を補強する形で立論
通史編2(近世1) (高照神社「御告書付」の開始)

信政は、吉川神道(よしかわしんとう)創始者の吉川惟足(よしかわこれたり)(従時(よりとき)、一六一六~
通史編3(近世2) (江戸時代中期の建築)

幣殿(へいでん)・随神門(ずいしんもん)は、四代信政が神式で埋葬された宮であり、五代信寿によって、吉川神道
資料編1(古代・中世編) (出典・典拠一覧(第一章・第二章))

延喜式 …………………………………………………………………………………………………………………… 神道体系,江家次第 ………………………………………………………………………………………… 新訂増補故実叢書・神道大系,西宮記 …………………………………………………………………………………………… 新訂増補故実叢書・神道大系,北山抄 …………………………………………………………………………………………… 新訂増補故実叢書・神道大系
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