• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 197件
辞書ファセット
/ 4ページ
通史編2(近世1) (元禄の大飢饉と家臣召し放ち)

元禄の大飢饉と家臣召し放ち 元禄八年(一六九五)の凶作は、従来貯蔵していた米穀を売り払ってしまうという,一〇一二人、江戸での者が四八人で、知行の総計は三万八七五七石五斗七升五合となり、実際に支給される米の高では,元禄八年段階の全藩士の知行高が一四万四一六五石四斗二升五合である(「元禄八乙亥十一月廿一日改弘前御家中分限帳覚,」『津軽史』八)から、減少人数の知行は全知行高の二六・五パーセントを占める。,暇を出された人数と知行高の割合を勘案してみると、知行高では平均三六・六石で、召し放ちの主要な対象が下級家臣 / 元禄の大飢饉と家臣召し放ち
通史編2(近世1) (俸禄の支給方法)

俸禄の支給方法 しかしながら蔵米化以後も財政状況に伴う俸禄の借り上げは続いた。,そのため相場によって引き替えの値段が違い、米価が安値の時で一俵当たり七~八匁、高値の時で一一~一二匁で / 俸禄の支給方法
通史編2(近世1) (越後高田領検地の実施)

すなわち新検高には人為的な操作が施され、越後高田領の石高は幕府と検地担当藩との間で、人為的に決定されたものと,元禄期の幕領検地については、幕府の旧大名領に対する検地は打出部分に期待するところが大きかったとの指摘がある,(所理喜夫「元禄期幕政における『元禄検地』と『元禄地方直し』の意義」『史潮』八七)。,これらの人材は、この後に控える「貞享検地」や元禄の大飢饉の際に再び活躍するのである(長谷川成一「北方辺境藩研究序説,津軽藩の基礎的研究』一九八四年 国書刊行会刊、福井敏隆「津軽藩における支配機構の一考察―天和・貞享・元禄期 / 越後高田領検地の実施
通史編2(近世1) (二度の高直り)

二度の高直り 文化二年(一八〇五)五月、九代藩主津軽寧親(やすちか)は、領知高四万六〇〇〇石が七万石,に上昇する高直(たかなお)りの栄誉を幕府から受けた。,七万石の時と同様、高直りの一〇万石には領地の拡大はなく、これまでどおり、津軽郡一円の領知であった。,藩主寧親は、一〇万石への高直りを機会に、弘前城天守の再興を企図した。,禄高一〇〇石につき一ヵ年に一〇人ずつの割合であった。そのほか下級藩士、町人、百姓がかり出された。 / 二度の高直り
通史編2(近世1) (高照神社の造営と「名君」信政像の創出)

(現高照神社)を造営した。,図98.高照神社  「棺を蓋(おお)うて事定まる」という。,『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』は、元禄時代初期の大名の「紳士録であり、評判記であり、また功課簿でもある,たとえば、元禄二年(一六八九)、信政の異母弟津軽信章が出奔する事件が起こっている。,したものの、結局佐竹家から津軽家に引き渡され、一家全員が城内二の丸東北隅の屋敷に幽閉された(信章は元禄十四年 / 高照神社の造営と「名君」信政像の創出
通史編2(近世1) (津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)

での津軽家の役高は本高としてほぼ見なしえよう。  ,元禄二年(一六八九)九月に黒石津軽家の分家で旗本の津軽信俗(のぶよ)が嗣子なく没すると、所領であった津軽郡,小屋敷村・下目内沢(しもめないさわ)村、現黒石市東馬場尻・飛内・小屋敷・下目内沢)を解消するために、元禄十一年,幕府は元禄七年(一六九四)、今後一万石以上の加増・所替の場合は、判物を下される大名(一〇万石以上ないし,に高直りするまでの期間に、弘前藩は、「津軽之高四万五千石」と飛地領を加えた高を本高として公役を賦課されたのであって / 津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動
通史編3(近世2) (戦場に駆り出された民衆)

であったが、内、御目見以上の戦士は二二〇人にすぎず、あとは足軽・軽卒が二八七人、又者(またもの)という高級士分,氏 名 年齢 役 職 家 禄 戦死場所 賞典内容 備   考  1 (高橋)久之助 60歳,へ 44 高木孫一 22歳 三等銃隊 無足 南部野辺地 永世15俵 永世禄は息子定蔵へ 45 佐々木豹次郎,へ 55 高杉権六郎 27歳 三等銃隊 無足 箱館桔梗野 永世15俵 永世禄は兄治右衛門へ 56 三浦銀弥,息子貞雄へ 65 谷口永吉 48歳 表書院番 16石 南部野辺地 永世20俵 永世緑は息子忠太へ 66 高杉左膳
通史編3(近世2) (藩政改革がもたらしたもの)

藩治職制の顛末(てんまつ)については、先に詳しく述べたが、この改革で弘前藩士に最も直接的影響があったのは禄制,家禄削減は高禄の者ほどその割合は高かったが、低家禄の者にはそれほど影響がなかったとみるのは事実を誤ることになる,元来、家禄二〇俵、一五俵といった階層は家計基盤が弱く、たとえわずかな家禄削減であってもそれはより大きな,戦後、度重なる減禄の結果、樋口家は一五俵二斗八升とされたが、三年六月の改革の結果、規定により家禄は一五俵
通史編2(近世1) (大名の改易と幕領検地)

考える一二のアプローチ⑥ 大名」『アエラムック 元禄時代がわかる。』,大名の総石高は一一〇万石を越え、この間の加増石高は三三万石に過ぎず、差し引きで幕領石高が増加することとなり,、元禄五年の幕領石高は四〇一万三八四〇石余となって、初めて四〇〇万石の大台に乗っている。,さらに元禄十年の幕領石高は四三四万六五〇〇石余と享保時代以前の最大値を示すが、その理由の一つとして、美作,ってもなおこの時期通例の検地竿の長さとして用いられる一間=六尺一寸竿が使用されず、旧来の検地結果に基づく石高標示
通史編3(近世2) (寺院の動向)

大幅な家禄削減の結果、藩士たちの大多数は非常に苦しい生計を余儀なくされたが、禄の削減は聖域を設けず寺社禄,五分の一を修復費に当てること、神職は少禄なので石高をそのまま俵換算すること(弘前藩の禄制は基本的に四ツ,成(なり)であり、高一〇〇石の者が実際に受け取る禄は四〇石=一〇〇俵〈一俵は四斗入=〇・四石〉であるが,この際、神社の減禄がことさら強調されていないのは、寺社禄合計二七五九石余(明治二年当時)中、社禄は四五四石余,蔵館(くらだて)村(現南津軽郡大鰐(おおわに)町蔵館)の高伯寺(こうはくじ)が無住となり、その跡地に大円寺
通史編2(近世1) (農政の転換)

められ、郡奉行の詮議を経ることにはなるが、「抱地引取」が可能になったこと、②夫食についても、相対による高利,さて、再生産を保障する生産基盤の整備という点では、元禄八年(一六九五)以来の荒廃田畑は、「高無(たかなし,)」百姓による開発分については、その者の「抱高(かかえだか)」と土地保有を認めるという形で進められた(,つまり、新田開発の成果の一部を放棄して、新たな年貢収取の途を選択したことであり、「高無」の「成立」という,飢饉後の廃田畑の復興政策、なかでも廃畑における植林政策は、「高無」の「成立」とともに、このような農法の
通史編2(近世1) (野本道玄の招聘)

ほか 神道 北川新次郎,河原岡新右衛門ほか 諸礼 横山嘉右衛門,斉藤長兵衛 茶道 野本道玄,後藤兵司,高杉久伯,正阿弥儀右衛門 鋳物師 釜屋嘉兵衛,渡辺近江 蒔絵師 山野井四郎右衛門 塗師 大野山六郎左衛門,金兵衛 養蚕 高森太郎兵衛,(「江戸日記」元禄十二年十月十二日条)。,1701 元禄14 47 3月,紺屋町に織物会所を設置。,高森太郎兵衛,道玄に代わり,織物会所監督。
通史編2(近世1) (新施策の実施と知行制度の転換)

そのものを宛行(あてが)っていた地方知行制(じかたちぎょうせい)から、藩が一元的に取り立てた年貢米から知行高相当,の米を俸禄として与える蔵米(くらまい)知行制に切り替えた。  ,一般的にみて、十七世紀後半、元禄期(一六九一~一七〇四)までに大部分の大名家(大名家数で八五パーセント,、知行石高で五五パーセント)が藩庫から年貢米が支給される俸禄制へ変質していた。,石以上の者に対しては、知行高の三分の一を新田地帯や外浜の村々において、残り三分の二は、「岡在」、すなわち
通史編3(近世2) (第一次藩政改革と特色)

まいしん)せねばならないこと、および武備の拡充を今後も継続する必要から、軍費負担が続く中ではあるが、禄高一,また、禄高に応じて「段取(だんど)り」という控除の適用があったため、機械的に換算しにくいのである。,表では改正高の元高に対する比率が全体平均で約九二・八パーセントと、七・二パーセントの家禄削減が行われている,表21.明治2年6月12日改正禄高表(旧御手廻組=一等銃隊42名) No.,元高 元高の実 質高(A) 元高の換算方法 改正高 改正高 の実質 高(B) B/A (%)
通史編4(近・現代1) (帰田法の帰結)

これらの土地は、家禄一五俵以上の士族に、禄一〇〇俵につき、土地二四石の割合で分与された。,、弐百俵以下十五俵以上、壱俵ハ四斗入、弐千五百八名 旧知事公ヨリ田畑分与高、田弐千五百六町壱反壱畝五歩,、畑百七町六反四畝十六歩  但田畑分与高大ナル者ハ、高四十八石相当反別五町歩内外六町歩ニ止ル  其小,ナル者ハ、高三石八斗四升反別四反歩内外五反歩ニ至ルアリ 田畑分与弐千五百八名ノ内  田畑多少所有ノ,旧弘前藩に於て一昨秋以来、士族卒土着の議を起し、富豪の田園を買ひ、家禄高に応し、夫々分賦、追々移住、諸費等
通史編4(近・現代1) (弘前における国立銀行設立計画)

による国立銀行設立の奨励で、全国的に銀行設立ブームが起きるが(表14)、明治十一年(一八七八)九月に金禄公債,表14 国立銀行設立状況 年度 行数 資本金 発行紙幣高 明治 9 12 21,176,100,第三大区長大道寺繁禎へ国立銀行設立に関する内達がきたことで(資料近・現代1No.二〇九)、設立の気運が高まってくる,銀行設立について協議したが、賛同者が三百余名にもなったため、翌十年三月に大道寺繁禎、蒲田昌清、松野幹、芹川高正,以て其家産を固確ならしめんと欲するの考案は」と述べていることから、当初の銀行設立計画は、県下士族らの禄券
通史編3(近世2) (政争の激化と第三次改革)

改革の具体的施策としてまず菱田が藩に示唆したことは大幅な減禄であった。,これは表23のように高家禄の者ほど削減率が大きいが、低家禄の者への影響が少なかったというわけではない。,もともと家計が苦しい彼らにとって、わずかな減禄でもそれは生活の破綻(はたん)に直接つながった。,表23.明治3年6月家禄削減一覧 元の家禄 改正家禄 削減率 800俵以上 200俵 最低75% 500,その他」、および明治三年十二月時「正権大属」の欄からわかるように、先に落選した津軽済の他にも、番方の高級藩士
通史編1(古代・中世) (枝城・端城の城跡)

当市域内で枝城・端城と考えられる城館跡としては、宮館跡や、小沢(こざわ)館跡、東目屋地域に所在する高野,津軽一統志』『津軽名臣伝』『盛岡由緒書』には、津軽為信代の家老職を務め、独立統一のため戦陣の総師として、永禄十二年,~文禄二年(一五六九~一五九三)の間活躍した森岡金吾(もりおかきんご)(山城守)が三〇〇〇石の俸禄で小沢,東目屋盆地の入口には、割山から南に延びる尾根の先端を空堀で掘り切った遺構がみられ、高野館跡と伝えられている
通史編3(近世2) (帰田法(きでんほう)とは)

らに残し、あとは強制的に藩が廉価(れんか)で買い上げるか、または献納(けんのう)させて、士族・卒の家禄高,ところが、それらの場合、いずれも耕地配賦と引き替えに、または自活のめどが立った段階での家禄支給の打ち切,しかし、弘前藩の場合は田地配賦とともに従来の家禄支給も約束されており、士族・卒にとって圧倒的に有利なもので
通史編4(近・現代1) (県政初期の混乱)

写真4 菱田重禧  着任してみると、野田権参事の地方人の人望の高いのに驚いた。,しかし、米価の低落などで順調に行われず、請願して明治七年九月残高一〇万九〇〇〇円の半分が免除となり、さらに,したがって禄制存続の根拠はなくなり、家禄廃止の方向へ向かった。,八年九月、家禄の現石支給をやめ、金禄支給として秩禄(ちつろく)処分政策を進め、九年八月金禄公債を発行し,明治四年八月十二日旧藩主は禄高一五俵以下の士族、卒、その他医師、絵師、諸工人、小者ら一七〇四人に頒与残田二
通史編3(近世2) (「概略手続」の発表と変更)

①分与地の面積は、その土地から得られる「作得米(さくとくまい)」(収穫高から年貢米を差し引いた分)が家禄,②分与地がどこになるかは、役職・家禄の高下によらず、抽籤(ちゅうせん)で決定すること。,また、この家禄とは明治三年六月の藩政改革によって定められた家禄と規定された。,さらに、分与地配賦の対象は、原則として家禄一五俵以上の士族・卒とするとされたが、家禄がそれ以下であっても,表26.分米高表  村位 田位 上 村 中 村 下 村 上々田 1石4斗 1石3斗 上 田 1石3
通史編2(近世1) (伏見指月城の普請)

伏見指月城の普請 文禄元年に普請が始まった伏見城は、伏見指月(しづき)の地に造営されたため伏見指月城,しかし、翌文禄二年八月三日、淀(よど)殿との間に第二子拾(ひろい)(後の秀頼(ひでより))が誕生したことによって,この間、秀吉と秀次との間の溝は埋めがたいほどに深まり、ついに文禄四年七月三日、秀次は聚楽第において、秀吉,増田長盛(ましたながもり)らから謀反(むほん)の疑いについて詰問を受けたうえ、八日に関白職を剥奪され、高野山,その後、十五日、秀次は高野山において切腹して果て、関白秀次の居城聚楽第はその年の八月中にあとかたもなく
通史編3(近世2) (二等銃隊の創出)

表12.二等銃隊13番隊人員一覧(明治元年5月16日付) 氏 名 隊中の 役割 禄 高 役 職 親,の役職・氏名(禄高) 続柄  1 石郷岡廉之助 隊頭 200石 御使番  2,〃 〃 作事吟味役格勝二郎(30俵2人扶持) 〃 19 木村初弥 〃 〃 作事吟味役格勝二郎(禄高不明,小寺清蔵 〃 〃 買物役格三郎(3両1歩2人扶持) 〃 29 八木沢文左郎 〃 〃 御馬廻組文之助(禄高不明,〃 〃 御手廻番頭富太郎(禄高不明) 〃 注) 「御軍政御用留」・「分限元帳(嘉永四年改)」(弘図津
通史編1(自然・原始) (冷害の歴史)

青森県は冷夏の頻度が高い。したがって稲作を中心に冷害を受けることがしばしばである。,津軽地方の近世における凶作群の代表年に、寛永十七年(一六四〇)、元禄八年(一六九五)、寛延二年(一七四九,そのうち、元禄、天明、天保の凶作群は、持続性や災害の深刻さから、弘前藩の三大飢饉に挙げられる。,1694 凶 作 低温・長雨  元禄飢饉始まる 元禄8 1695 大飢饉 低温・長雨  餓死者3万余人,その後元禄9年,12年,15年,16年,宝永2年(1705)と凶作が続き,元禄の凶作群となった 元文
通史編3(近世2) (平清水三右衛門による作陶)

、藤崎(ふじさき)村(現南津軽郡藤崎町)古館(ふるだて)(藤崎城跡)のうち畑地を借用のうえ窯を築き、高原焼,これは前回の元禄五年の焼成で家老中の評価が高かったことが幸いした。,御用の分としては多いと思われるが、これらは破損などのために消耗度が高かったうえ、土器投(かわらけなげ),(高所から土器を投げて、風にひるがえるさまを興じ楽しむ遊戯)にも使われたためであろう。  ,元の姓は〝阿保(あぼ)〟で、元禄三年(一六九〇)〝平清水〟と改姓している。
通史編3(近世2) (長徳寺)

長徳寺 長徳寺(ちょうとくじ)は、享禄年間(一五二八~三一)、高杉(たかすぎ)村(現市内)に創建され
通史編2(近世1) (天明期の借り上げと寛政期までの状況)

第四章第二節で触れたとおり、大凶作により諸年貢の免除を行うという緊急事態のもとで、藩は初めて藩士の俸禄を,禄高にかかわらず一定にするという「面扶持(めんぶち)」の制度を採用した。,ただし、禄高に応じて一定の銭を支給する調整は行われた。  ,藩士への禄米の確保は最優先として進められた。,以後は弘前藩の俸禄制度は再び蔵米制を基調にして、幕末に至った。
資料編1(古代・中世編) (二 大浦城の歴史)

このときの「狼倉館」は岩木町新法師(しんぼうし)の地といわれ、新法師南方の高館山頂上に残る高館城跡も、,盛信の後は娘婿の政信が、次いで政信の子為則が継承し、四代為則の跡は、永禄十年(一五六七)婿養子として入,目下の同盟者〟にとどまり、天文二年(一五三三)、津軽平定作戦の上、「津軽郡代」として石川城に入った南部高信,この過程において、大浦城は為信の津軽統一作戦の本拠地となり、その後も、文禄三年(一五九四)まで津軽氏の,しかし文禄三年(一五九四)、津軽為信は堀越城を修築して移り、大浦の寺院・町々も移転させたという(『永禄日記
通史編2(近世1) (中期農政と農村構造の変化)

中期農政と農村構造の変化 元禄の大飢饉を機に津軽弘前藩の前期農政が転換を迫られ、中期農政へと移っていく,飢饉の犠牲となって亡くなったり逃散してしまった中下層の農民は、検地帳に耕作者として名前の載らない「高無,その結果、飢饉の後には高持百姓(検地帳に名の記された百姓。,り立てる形をとらず、藩の蔵に納められた年貢米から受け取るという形がとられることになった(「国日記」元禄十年四月朔日条,さらに、元禄十六年(一七〇三)三月には、百姓が夫食を返済できない場合、金主による農地の取り上げを追認した
通史編2(近世1) (伏見築城と奥羽大名)

伏見築城と奥羽大名 豊臣秀吉は、文禄二年(一五九三)九月二十三日、奥羽の大名らが朝鮮半島に渡海することなく,また、翌文禄三年正月十六日付の島津義弘(しまづよしひろ)宛て朱印状では、「関東・北国・出羽・奥州果迄」,文禄三年正月三日、秀吉は伏見指月城の普請奉行衆六人を決定し、各大名の普請人数を決めた。,しかし、実際は、『当代記』所収の「伏見普請役之帳」によれば文禄三年に普請を課されたのは、大部分が東国の,実季は、文禄三年に敦賀(つるが)城主大谷吉継(おおたによしつぐ)の家臣と考えられる高橋次郎兵衛に「橋板
資料編1(古代・中世編) ((3) 津軽氏の政庁としての堀越城)

(3) 津軽氏の政庁としての堀越城 『永禄日記』は、天正十五年(一五八七)、「正月より堀越御城所々築直,これに対し堀越は、津軽の西根と東根の接点にあり、かつての南部高信の本拠石川城にも近く、津軽の政治的中心,その七年後の文禄三年(一五九四)、為信は改めて堀越城を修築、その上で大浦からこの地に本拠を移し、津軽藩,このとき「在々住居之諸人並大浦御城下面々、堀越え御引越被仰付、其外寺社之分も引越被仰付候」(『永禄日記,為信は、早くも慶長八年(一六〇三)、高岡(弘前)の地に「町屋派立を仰付けられ」て地割を行い、同十一年にも
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

細川高国、秋田湊安東左衛門佐入道(宣季)の鷹進上を謝する。 ●大永四年(一五二四)ころ? ,●天文二年(一五三三)、この年、南部安信、藤崎城主安東教季・大光寺城主葛西頼清を討ち、弟高信を石川城に,●元亀二年(一五七一)五月、大浦為信、石川城に南部高信を攻め、これを滅ぼすという。,●元亀三年(一五七二)、南部側史料、この年、南部高信が津軽三郡を平定すると伝う(天文二年の事件を誤り伝,●天正十六年(一五八八)八月五日、南部信直、斯波御所を高水寺城に攻めて滅ぼし、葛西晴信、これを賀する。
通史編2(近世1) (林政の展開と漆木の栽培)

元禄10(1697).6 高杉組大森村(現大森)の大森・せうか森に松1万4000本植林。,元禄15(1702).5 城下近在の山々に雑木の植林を命じる。,宝永元(1704) 高杉組鬼沢村(現鬼沢)の野山に松・杉等の植林を命じる。,村々に残された数十町歩の荒畑を、高無(たかなし)百姓の成り立ちのために一町五反歩ずつ無年貢で分け、そこに,この政策は、高無百姓に対する飢饉後遺症からの救済措置と併せて、新たな形式をとった年貢の確保策と考えられている
通史編2(近世1) (北奥羽の領知確定)

出羽国仙北郡角館城主戸沢光盛や南部信直は秀吉の領知朱印状を得ることができたが、この時点の朱印状では石高が,朱印状を改めて受け取り、秋田氏や仙北・由利の大名・小名衆も、天正十八年十二月から翌十九年正月にかけて石高表記,表4 北奥羽の大名・小名の領知高 領 主 場 所 石 高 年 代 南部大膳大夫 南部内七郡 天正18,津軽氏が居城を大浦城から、文禄三年に堀越城、慶長十六年に高岡城へと移転させ、南部氏も居城を三戸城から、,このような中で、津軽・南部領境が文禄四年に確定していく(同前No.六二)。  
通史編3(近世2) (織)

しかし絹織物の生産が組織的、本格的に行われ、手工業としての形態をとりうるようになったのは、元禄六年(一六九三,「国日記」元禄七年一月六日条では御茶道野本道玄と記されているほか、茶道役としての誓詞を差し出しており(,元禄七年六月六日条)、これらの記述から茶道指南のために召し抱えられたことは明らかである。,なお道玄が京都へ持参した生糸について、和糸問屋の間では日本最上、高級品にも使えるとの評価を得ていた(「,国日記」元禄十四年二月二十五日条ほか)。
通史編3(近世2) (織座)

織座 「国日記」元禄十三年(一七〇〇)四月七日条によると、織座の取り立て場所には長内三益(おさないさんえき,「弘前惣御絵図」(元禄十五年ころ。,織物所の普請について、欲賀庄三郎は元禄十四年(一七〇一)春の建設を願い出ている。,織物所は元禄十四年(一七〇一)三月九日に普請に着手し、四月二十日には工事の後片付けも終了。,その上持参の織機を設置する場所もなく、藩主に高機織(たかばたお)りをみせる状態になかったため十一月には
通史編2(近世1) (豊臣政権の奉行衆)

豊臣政権の奉行衆 秋田氏へ杉板運上の朱印状を取り次いだ人物は、文禄元年は加賀の前田利家、文禄三年(一五九四,きのしたよしたか)・木村重茲(きむらしげます)・長束正家(なつかまさいえ)・佐々正孝(さっさまさたか)、文禄四年,しかし、翌文禄二年には秀吉の奉行として中央集権化を目指す集権派グループの長束正家や、浅利騒動において秋田氏,召出れ候は、治部様(石田三成)御意向之由也」とあるように、太閤蔵入地として設定されたのは、農業生産力が高く
通史編3(近世2) (伊勢参り)

元禄二年(一六八九)、町年寄松井四郎兵衛と神明宮(現弘前神明宮)神主斎藤長門が町人と藩士の代参として伊勢神宮,各地で伊勢講・代々講が組織されたが(『永禄日記』)、享保六年(一七二一)、庄屋宅に宿をとった伊勢の御師,元禄十四年(一七〇一)、伊勢・高野へ参詣の帰り、葛野村(現南津軽郡藤崎町)の農民仁左衛門(六十五歳)が,また、正徳五年(一七一五)荒町の善兵衛(六十一歳)が、伊勢・高山へ参詣の帰り、桑名宿で病死し、海蔵寺(,生類憐みの令は、対象が捨子・旅人・病人も含まれ、その影響が全国に及び、諸藩の取り扱いも丁寧であった(元禄元辰年
通史編3(近世2) (王族利益の実態と帰田法の意義)

表27は帰田法の対象とされた士族・卒の家禄・人員数・分米高・田地面積などの分布表である。,表27.禄高別士族卒数および分与地面積 No.,二〇人の士族は禄高に応じてそれぞれ作徳米が配給されているが、その全部が家計に入るのではない。,士族氏名 家禄 (俵) 分与地面積 分与村 作徳米高 (石) 扱い料 諸郷役 士族純益 (石) %,純益一〇・二石余は家禄の約二五パーセント増になるが、この程度では藩政改革の結果、削減された家禄を補填する
通史編3(近世2) (歌舞伎)

元禄年間(一六八八~一七〇三)には、京・大坂の坂田藤十郎を代表とする上方(かみがた)歌舞伎と、市川団十郎,興行としては、藤八太夫が元禄四年(一六九一)、町奉行に対して、役者不足で小芝居になり見物人もないところから,富札は一枚二文で売り出したが、寺院の場合はそれより高く一枚三文であった。
通史編2(近世1) (三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ)

移転~西根から東根へ 津軽為信は、戦国期以来、津軽(大浦)氏の居城であった大浦(おおうら)城から、文禄三年,(一五九四)に堀越(ほりこし)城へ、さらに慶長十六年(一六一一)には高岡(たかおか)城(弘前城)へとその
通史編3(近世2) (藩政中期四代信政)

ここには領内の全寺社名・藩主からの寄進の石高・堂社の管理者が記されており、藩は寺社の経済的把握のみならず,配下に寺社役二人、寺社方物書三人、寺社方小使三人が属した(黒瀧十二郎『日本近世の法と民衆』一九九四年 高科書店刊,また、僧侶が禁足などの処罰を申し渡される時は、寺社奉行宅で行われた(同前元禄十四年五月二十六日条)。,寺社の縁起は、真言宗最勝院を除いて、寺社の手で元禄十四年(一七〇一)・十五年に成立したものが残っている,これは幕府が元禄五年にきわめて厳しい新寺建立禁止を発令したことを踏まえ、藩が領内寺社の由緒を把握して以後
通史編2(近世1) (本村と新田)

ちなみに「津軽知行高之帳」では、深浦村は鼻和郡に高三九一・九八石の村としてある。  ,ちなみに「津軽知行高之帳」では、柏木町村は平賀郡の新田として高四八九・二八石とある。  ,「津軽知行高之帳」では、松神村も大間越村も鼻和郡の新田として村名がみえ、高はそれぞれ三・一六石と一〇・,大湯町村は現西津軽郡木造町大湯町のことであるが、実際の開村は元禄九年(一六九六)であるという(『永禄日記,である木造新田(きづくりしんでん)・俵元(たわらもと)新田・金木(かなぎ)新田が成立するのは、それぞれ元禄二
通史編3(近世2) (瓦の製造)

細工所は先に触れた慶安二年の「弘前古御絵図」の二ヵ所、および元禄十五年(一七〇二)の「弘前惣御絵図」(,場所は聖愛高校の跡地付近である。  細工所の規模について二、三例を挙げよう。,時代はさかのぼるが、惣御絵図とほぼ同年代の元禄十七年(一七〇四)には、水流をはさんで北隣りにある森山彦七
通史編3(近世2) (藩政後期)

宝暦三年(一七五三)から始められたこの改革は、藩士の禄高の提出に続いて、寺社の禄高を各宗ごとに僧録所を,翌四年には藩士・寺社の享保年間(一七一六~一七三五)からの拝借金の返納が滞っているので、拝借金の停止と禄高,これに対し、高岡霊社(現高照神社)祭司役後藤兵司(ごとうへいじ)は藩主から寄進された寺社禄を取り上げたことを
通史編3(近世2) (慶応期の学問所)

寛政期の入学規則と比べて特徴的な点は、「別会生」という形で五〇〇石以上の高禄者の嫡子に対する個別の教育
通史編2(近世1) (下級藩士への開発奨励(I期))

(3)家中勝手次第の申し出により、禄高に応じて土地を割り当て、在宅を申し付ける。,②「御給禄之高ニ応し地面割渡」とあることから、切米取・金給取藩士=下級藩士がこの触れの対象となっていること,では、それを「在宅」によって、そして藩の認可によって行おうとしたのであり、したがってそこに、勤仕や給禄に,藩が小給の下級藩士たちに対し、自ら鋤・鍬をもっての開発を、その申し出によって、しかも禄高に応じて土地を
通史編2(近世1) (奥羽大名の名護屋参陣)

そして、翌文禄元年(一五九二)三月十三日、名護屋に集結させた一六万の兵を九軍に編成して朝鮮に渡海することを,文禄二年三月十日、秀吉は朱印状によって名護屋参陣の諸大名に新たに朝鮮出兵の軍編成を公表した。,)・中野新之丞(なかのしんのじょう)・三河兵部(みかわひょうぶ)・高屋信久(たかやのぶひさ)のうち、三河兵部,文禄二年五月十五日、朝鮮奉行の小西行長らに伴われて、明側が仕立てた偽の明使節が名護屋に到着した。,渡海中止の直後に、各武将に誓紙へ花押を据えさせることで綱紀の引き締めと士気の高揚を企図したのではなかろうか
通史編2(近世1) (樋口善兵衛の報告書)

樋口善兵衛の報告書 元禄八年六月ころ、領内に害虫が発生し、虫除(むしよけ)の祈祷札一万七〇〇〇枚が求,残りの一万五〇〇〇枚を、弘前の最勝院へ求めるように藩士樋口善兵衛が申し入れを行っている(「国日記」元禄八年六月二十四日条,、六月十二日には一俵一七匁八分であった鰺ヶ沢の米価が、七月はじめには二一匁、七月九日には二三匁にまで高騰,冷害による凶作が予測されたにもかかわらず、しかも、米価が高騰する端境期に米を売り払ってしまった藩の判断
通史編2(近世1) (糧米確保)

確保・移入・移出・流通統制を基軸としたものであった(以下は、主に浪川健治「津軽藩政の展開と飢饉―特に元禄八年飢饉,また、「国日記」によると、七月十三日に、青森・鰺ヶ沢・十三・今別・蟹田・深浦・野内に対して、米価が高騰,米価については、六月にはすでに例年よりも高値で、八月には約一・六倍に達しており、翌年三月には三・五倍となり,市価は、一石当たり、七月は五〇匁、八月は六〇匁前後で、元禄九年に八〇匁とピークを迎える。,『永禄日記』による,町米価格。 △は,1匁あたりより逆算。
/ 4ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました