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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (乳井福王寺の伝承)

乳井福王寺の伝承 もちろん延久の蝦夷征討戦によって北奥の地に国府・鎮守府の大軍が初めて乱入し、各地で,とくに明治五年から九年にかけて編纂された『新撰陸奥国誌』に記されている、弘前市の乳井福王寺(明治初めの,写真73 乳井神社(弘前市)  それによれば、福王寺は坂上田村麻呂の創建になるが、いったん荒廃したものを,写真74『津軽一統志』福王寺  さらに興味深いのは、その福王寺の山号が「嘉承山」とされていることである,この山号もまた、すでに菅江真澄が『栖家の山』で推測しているごとく、乳井福王寺が嘉承年間=堀河天皇の代( / 乳井福王寺の伝承
通史編1(古代・中世) (三 中世寺社の存在形態)

一方、貞応二年(一二二三)十二月六日、僧栄秀が次のように平賀郡の福王寺・極楽寺へ敷地を寄進し、両寺別当職,父栄秀から福王寺と極楽寺の両別当職を譲り受けた僧栄秀は、嘉禎二年(一二三六)、北条泰時より平賀郡乳井郷,写真228 北条泰時書下状  このことは、逆からいえば、平賀郡乳井郷には、福王寺と極楽寺のほかに,前述の僧長秀以来連綿と継承されてきた平賀郡乳井郷の福王寺に関するもので、康永四年(一三四五)、乳井寺の,別当の僧季源が福王寺に田在家を寄進した「季源寄進状」(史料六九六)のなかに散見できる。 / 三 中世寺社の存在形態
資料編1(古代・中世編) (二 乳井茶臼館の歴史)

しかし、『津軽一統志』や『封内事実秘苑』によると、戦国時代にこの地を領していたのは、乳井福王寺の別当で,、猿賀深沙大権現(現在の猿賀神社)の別当も兼ねた乳井福王寺玄蕃であり、また、福王寺玄蕃ははじめ乳井古館,福王寺門前集落(寺内)のすぐ南にそびえる茶臼館の立地から考えて、館の築造者はこの福王寺別当乳井氏以外には,考えられず、福王寺玄蕃か、その父の代のころに、乳井を守る砦の一つとして建設されたものであろう。  ,乳井氏は、もともと独立の領主であったが、天正二年(一五七四)、福王寺玄蕃が大光寺城主瀧本重行に謀殺されたことから
資料編1(古代・中世編) (五 乳井地区の城館群と宗教的領域)

乳井地区の城館群と宗教的領域 二で述べたように乳井茶臼館を築いたのは、戦国時代に乳井を本拠とした乳井福王寺玄蕃,また玄蕃は、乳井福王寺の別当職にあり、猿賀深沙大権現の別当職も兼ねていた。,『津軽一統志』によると、乳井福王寺は、承暦二年(一〇七八)、白河天皇が「東夷調伏」のため毘沙門天を安置,を記した図51から分かるように、茶臼館・古館・乳井城は、いずれも聖地である乳井神社、つまりもとの乳井福王寺,そして、以上の宗教的・軍事的二つの意味において、これらの城館は、福王寺や「寺内」を中心とする乳井の地域
通史編3(近世2) (神宮寺)

神宮寺 神宮寺(現南津軽郡尾上町)は、深沙宮(じんじゃぐう)(現猿賀神社)の別当であった。,熊野系の修験である福王寺玄蕃が乳井(にゅうい)毘沙門宮と兼帯したが、のち大光寺城主瀧本重行によって滅ぼされた,元禄十四年(一七〇一)には神宮寺配下の尾上村獅子権現、三味原地、猿賀・大光寺村三味原地は除地になっており,明治四年(一八七一)、神仏分離によって神宮寺は取り壊されたが、同二十六年(一八九三)に子院東光院へ寺号,蓮乗院は存続したが、寺禄廃止に伴い明王院・正福院の二院は廃院となった。 / 神宮寺
資料編1(古代・中世編) (一 乳井茶臼館の立地と現状)

乳井通り」が平野の内部へと入るのを遮るようにそびえており、この地にある中世初期以来の歴史を持った有力寺院,・乳井福王寺(現在の乳井神社)と門前集落(「寺内」という)を、南方から守る障壁となっている。,また、この乳井茶臼館の北には、中世において福王寺・極楽寺・地蔵堂などの堂塔が並んでおり、堂塔を囲むように,、福王寺北方の丘陵に乳井古館(壬館(みずのえだて))が、その北の台地には乳井城(乳井新館・大隅館)が、
資料編1(古代・中世編) ([十三世紀])

[十三世紀] ●建暦二年(一二一二)十二月廿四造立の滋賀県玉桂寺阿弥陀如来立像胎内文書中に蝦夷の交名,●貞応二年(一二二三)十二月六日、僧栄秀、平賀郡福王寺・極楽寺へ敷地を寄進し、両寺別当職をその子信濃公長秀,●延応元年(一二三九)十二月二十二日、平賀郡乳井郷福王寺別当職等の相続配分の協議。,●弘安七年(一二八四)十月三十日、僧幸秀、平賀郡乳井郷福王寺別当職を譲る。
通史編1(古代・中世) (延久蝦夷合戦と津軽)

大鰐にかけての南津軽地方は、中世前期において津軽全体の政治的・文化的中心をなしていたと推測されており、福王寺以外,にも、後白河上皇の創建と伝えられ「津軽国分寺」の伝承(史料五二二)をもつ大鰐町蔵館の高伯寺(現在の大円寺,、旧寺地の神岡山には今もなお礎石や基壇が残る・写真75)や、建長六年(一二五四)の北条時頼再興伝承をもつ,碇ヶ関村古懸(こがけ)の国上寺など、中世初期の創建伝承をもつ有力な寺院がいくつも存在している。,そしてこの福王寺は、そのなかでも最古の伝承をもつ寺院であった。
通史編1(古代・中世) (埋納銭の出現)

元来このあたり一帯は、昔乳井毘沙門堂(乳井神社の前身)の別当、乳井福王寺(ふくおうじ)址である。」,と報告し、乳井福王寺と関連があるとみている(写真87)。,写真87 乳井埋納銭  僧栄秀譲状から始まる福王寺の位置づけは、津軽のなかでも別格の扱いであり、,一四世紀中ごろまでの文献上での動きをみると、福王寺と関連したものと考えるのが普通である。,どうも埋められた場所は社寺境内の中核地域ではなく、供僧たちが居住する門前集落「寺内」とされる場所であったらしい
通史編3(近世2) (深沙宮)

永禄八年(一五六五)とも元亀二年(一五七一)ともいわれるが、別当を兼帯していた乳井毘沙門宮(現乳井神社)の福王寺玄蕃,は、大光寺城主瀧本重行によって滅ぼされた。,元和五年(一六一九)、信枚がもとの天台宗へ戻して神宮寺を別当とし、塔頭四院と神主四軒を置いた。
通史編1(古代・中世) (嘉元鐘銘文に登場する鎌倉武士)

小川氏は、鎌倉初期より乳井郷の福王寺・極楽寺別当職を受け継いだ一族で、小川宗直は弘安十年(一二八七)、,北条貞時より乳井郷の極楽寺阿弥陀堂別当職を安堵されている。  ,また福王寺は、承暦二年(一〇七八)草創と伝えられる熊野系の修験寺で、ここからは昭和三十二年(一九五七), 良秀(りょうしゅう)」も小川氏の法名との類似から、小川氏一族出身で福王寺所縁の僧である可能性がある。,この道曉なる人物は、常陸国行方郡の長勝寺の元徳二年銘の鏡の施主でもある。
資料編1(古代・中世編) (第二節 五輪塔)

五輪塔は日本において造られたが、最古の石造五輪塔は、中尊寺釈尊院墓地にある仁安四年(一一六九)の造立で,もう一つの分布ラインは、藤崎町の唐糸塚・昭伝寺墓地、中里町中里五林神社の御神体、市浦村十三及び磯松を結,これらの五輪塔の分布を視点を変えて見直すと、乳井福王寺の勢力や藤崎・十三の安藤氏、浪岡御所北畠氏、浅瀬石城,なお、乳井神社は福王寺の後身である。また、岩木川・平川の合流点に近い三世寺や中崎にも分布していた。,龍泉寺の五輪塔は、岩木町駒越から移されたもので、福島正則一族の墓と伝えられている。
資料編1(古代・中世編) (はじめに)

これらの地域には、中世の寺院や城館があり、関係した豪族もある程度推測できる。,乳井の板碑における福王寺毘沙門堂、国吉における工藤氏の存在、中別所から高杉方面に残存する板碑は「高椙(
資料編1(古代・中世編) (参考文献(第四章に関連する主要文献・論文-各節の文中で記述したものは除く))

青森県南津軽郡石川町郷土史』 (5)竹内運平「津軽大戸瀬村の古碑と箱舘所在貞治の碑」(むつ1輯) (6)竹内運平「長勝寺梵鐘,東奥文化9・10合併号) (10)福田以久生「嘉元鐘について」(国史研究70号) (11)戸沢武「乳井福王寺圏内
資料編1(古代・中世編) (一 銅鐘)

藤原宗直・宗氏は平賀郡乳井郷(弘前市乳井)の福王寺に関係した小川(河)氏と考えられている。  ,「嘉元鐘」が寄進された護国寺は、藤崎町藤崎の北西にあった。,護国寺は後に満蔵寺となり、慶長年間(一五九六~一六一五)、弘前藩の寺院政策により西茂森町の禅林街に移され,、現在護国山万蔵寺となっている。,なお、「嘉元鐘」は長勝寺を中心とする禅林街の形成に伴い同寺に移されたと推定される。  
通史編1(古代・中世) (中世の農民)

・袋宮(ふくろのみや)・津合流野(つがるの)・豊内(とよない)・青女子(あをなこ)・野端(のき)・遠寺(,)中名字」にみられる当市域の地名一覧表 郡 郡中名字地名 現地名 平賀郡 大仏鼻 石川 乳井嘉承山福王寺,蒔苗 豊内 藤内 町田 町田 独狐 独狐 篠森 独狐字笹元 船水 船水 尻引 中崎・三世寺周辺,三世寺 三世寺 名久井萢 中崎 鬼沢 鬼沢 高杉 高杉 宮館 宮館 斯土沢 四戸野沢,縫笠 折笠 望石 国吉 青女 青女子 小友 小友 中畑 通称中畑 野端 川村 遠寺内 十腰内
資料編1(古代・中世編) ([十四世紀])

●嘉元四年(一三〇六)八月十五日、長勝寺梵鐘に津軽武士。,●建武元年(一三三四)八月、中尊寺衆徒、津軽合戦祈禱の忠勤を言上する。,●建武二年(一三三五)二月十二日、権大僧都頼基、平賀郡乳井郷福王寺別当職。,●康永四年(一三四五南興国六)九月、僧季源、田在家を平賀郡乳井郷福王寺に寄進する。,●弘和二年(一三八二・北永徳二)二月二十一日、そへ、黒石郷新里の年貢一〇貫文を死後「唐糸前の御寺」(藤崎護国寺
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

これは東麓にある福王寺門前集落との連絡通路であろうか。  
資料編1(考古編) (3.野脇遺跡)

ただ貞和5年(1349)の熊野党先系譜(『米良文書』)には、 「津軽三郡内しりひきの三世寺の別當ハ ,安藤又太郎殿号下国殿 今安藤殿親父宗季と申候也 今安藤殿師季と申候也(以下略)」 とあり、中崎の隣接地三世寺には,江戸時代になると、「本藩通観録」巻六に、 「寛永十三(1636)丙子年乳井美作先祖は福王寺といふ、(
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

●天文二年(一五三三)、この年、京都本国寺僧日尋、鼻和郡賀田村(現岩木町賀田)に法華宗寺院法立寺を開山,●天文十五年(一五四六)七月二十三日、秋田の湊安東堯季、石山本願寺末寺「夷嶋浄願寺」からの錦(蝦夷錦か,●天文十六年(一五四七)十二月九日、石山本願寺証如上人の斎相伴衆に「ツカル真教寺」の名が見える。,寺役を免除する。,●天正二年(一五七四)三月、大光寺城代瀧本重行、乳井福王寺玄蕃を謀殺するという。
通史編1(古代・中世) (一 古代における北奥の宗教世界)

シテ今号二新城館一」 (28) 乳井毘沙門堂 承暦二年 福王寺 坂上田村麻呂の創建で承暦二年の再興とも,明応年中     寺院名 宗教名 本寺 創立年次 備考 (16) 清安寺 曹洞宗 長勝寺 清安寺の,、古代~中世に建立された寺院の総数は五八にも及び、そのうちの百沢寺、最勝院、国上寺、久渡寺、大円寺、高伯寺,写真139 『津軽一統志』百沢寺  変転を重ねたこれら真言寺院と伝えられる寺院も、国上寺および久渡寺,」を中心に、中世のある時期以後に、真言寺院と伝えられてきた百沢寺・最勝院・国上寺・久渡寺・大円寺・高伯寺
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

………………………… 南部家文書 149 ●貞応二年(一二二三)十二月六日、僧栄秀、平賀郡福王寺・極楽寺,…………… 宮崎文書・南部家文書 152 ●延応元年(一二三九)十二月二十二日、平賀郡乳井郷福王寺別当職等,……………… 松平基則氏所蔵文書 160 ●弘安七年(一二八四)十月三十日、僧幸秀、平賀郡乳井郷福王寺別当職,…………… 岩大新渡戸文書 208 ●康永四年(一三四五南興国六)九月、僧季源、田在家を平賀郡乳井郷福王寺,… 聞老遺事・石井三庵政満覚書・祐清私記 314 ●天正二年(一五七四)三月、大光寺城代瀧本重行、乳井福王寺玄蕃
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