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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(古代・中世)
(乳井福王寺の伝承)
乳井
福王寺
の伝承 もちろん延久の蝦夷征討戦によって北奥の地に国府・鎮守府の大軍が初めて乱入し、各地で,とくに明治五年から九年にかけて編纂された『新撰陸奥国誌』に記されている、弘前市の乳井
福王寺
(明治初めの,写真73 乳井神社(弘前市) それによれば、
福王寺
は坂上田村麻呂の創建になるが、いったん荒廃したものを,写真74『津軽一統志』
福王寺
さらに興味深いのは、その
福王寺
の山号が「嘉承山」とされていることである,この山号もまた、すでに菅江真澄が『栖家の山』で推測しているごとく、乳井
福王寺
が嘉承年間=堀河天皇の代( / 乳井
福王寺
の伝承
資料編1(古代・中世編)
(二 乳井茶臼館の歴史)
しかし、『津軽一統志』や『封内事実秘苑』によると、戦国時代にこの地を領していたのは、乳井
福王寺
の別当で,、猿賀深沙大権現(現在の猿賀神社)の別当も兼ねた乳井
福王寺
玄蕃であり、また、
福王寺
玄蕃ははじめ乳井古館,
福王寺
門前集落(寺内)のすぐ南にそびえる茶臼館の立地から考えて、館の築造者はこの
福王寺
別当乳井氏以外には,考えられず、
福王寺
玄蕃か、その父の代のころに、乳井を守る砦の一つとして建設されたものであろう。 ,乳井氏は、もともと独立の領主であったが、天正二年(一五七四)、
福王寺
玄蕃が大光寺城主瀧本重行に謀殺されたことから
資料編1(古代・中世編)
(五 乳井地区の城館群と宗教的領域)
乳井地区の城館群と宗教的領域 二で述べたように乳井茶臼館を築いたのは、戦国時代に乳井を本拠とした乳井
福王寺
玄蕃,また玄蕃は、乳井
福王寺
の別当職にあり、猿賀深沙大権現の別当職も兼ねていた。,『津軽一統志』によると、乳井
福王寺
は、承暦二年(一〇七八)、白河天皇が「東夷調伏」のため毘沙門天を安置,を記した図51から分かるように、茶臼館・古館・乳井城は、いずれも聖地である乳井神社、つまりもとの乳井
福王寺
,そして、以上の宗教的・軍事的二つの意味において、これらの城館は、
福王寺
や「寺内」を中心とする乳井の地域
通史編1(古代・中世)
(三 中世寺社の存在形態)
一方、貞応二年(一二二三)十二月六日、僧栄秀が次のように平賀郡の
福王寺
・極楽寺へ敷地を寄進し、両寺別当職,、 貞応二年十二月六日 僧栄秀(花押) これより先、
福王寺
,父栄秀から
福王寺
と極楽寺の両別当職を譲り受けた僧栄秀は、嘉禎二年(一二三六)、北条泰時より平賀郡乳井郷,写真228 北条泰時書下状 このことは、逆からいえば、平賀郡乳井郷には、
福王寺
と極楽寺のほかに,別当の僧季源が
福王寺
に田在家を寄進した「季源寄進状」(史料六九六)のなかに散見できる。
資料編1(古代・中世編)
(一 乳井茶臼館の立地と現状)
が平野の内部へと入るのを遮るようにそびえており、この地にある中世初期以来の歴史を持った有力寺院・乳井
福王寺
,また、この乳井茶臼館の北には、中世において
福王寺
・極楽寺・地蔵堂などの堂塔が並んでおり、堂塔を囲むように,、
福王寺
北方の丘陵に乳井古館(壬館(みずのえだて))が、その北の台地には乳井城(乳井新館・大隅館)が、
資料編1(古代・中世編)
([十三世紀])
●貞応二年(一二二三)十二月六日、僧栄秀、平賀郡
福王寺
・極楽寺へ敷地を寄進し、両寺別当職をその子信濃公長秀,●延応元年(一二三九)十二月二十二日、平賀郡乳井郷
福王寺
別当職等の相続配分の協議。,●弘安七年(一二八四)十月三十日、僧幸秀、平賀郡乳井郷
福王寺
別当職を譲る。
通史編1(古代・中世)
(埋納銭の出現)
元来このあたり一帯は、昔乳井毘沙門堂(乳井神社の前身)の別当、乳井
福王寺
(ふくおうじ)址である。」,と報告し、乳井
福王寺
と関連があるとみている(写真87)。,写真87 乳井埋納銭 僧栄秀譲状から始まる
福王寺
の位置づけは、津軽のなかでも別格の扱いであり、,一四世紀中ごろまでの文献上での動きをみると、
福王寺
と関連したものと考えるのが普通である。
通史編1(古代・中世)
(延久蝦夷合戦と津軽)
大鰐にかけての南津軽地方は、中世前期において津軽全体の政治的・文化的中心をなしていたと推測されており、
福王寺
以外,そしてこの
福王寺
は、そのなかでも最古の伝承をもつ寺院であった。
通史編1(古代・中世)
(嘉元鐘銘文に登場する鎌倉武士)
小川氏は、鎌倉初期より乳井郷の
福王寺
・極楽寺別当職を受け継いだ一族で、小川宗直は弘安十年(一二八七)、,また
福王寺
は、承暦二年(一〇七八)草創と伝えられる熊野系の修験寺で、ここからは昭和三十二年(一九五七),であるが、第四区冒頭の「勧進 都寺僧 良秀(りょうしゅう)」も小川氏の法名との類似から、小川氏一族出身で
福王寺
所縁
通史編3(近世2)
(深沙宮)
永禄八年(一五六五)とも元亀二年(一五七一)ともいわれるが、別当を兼帯していた乳井毘沙門宮(現乳井神社)の
福王寺
玄蕃
通史編3(近世2)
(神宮寺)
熊野系の修験である
福王寺
玄蕃が乳井(にゅうい)毘沙門宮と兼帯したが、のち大光寺城主瀧本重行によって滅ぼされた
資料編1(古代・中世編)
(第二節 五輪塔)
これらの五輪塔の分布を視点を変えて見直すと、乳井
福王寺
の勢力や藤崎・十三の安藤氏、浪岡御所北畠氏、浅瀬石城,なお、乳井神社は
福王寺
の後身である。また、岩木川・平川の合流点に近い三世寺や中崎にも分布していた。
資料編1(古代・中世編)
(はじめに)
乳井の板碑における
福王寺
毘沙門堂、国吉における工藤氏の存在、中別所から高杉方面に残存する板碑は「高椙(
資料編1(古代・中世編)
(参考文献(第四章に関連する主要文献・論文-各節の文中で記述したものは除く))
東奥文化9・10合併号) (10)福田以久生「嘉元鐘について」(国史研究70号) (11)戸沢武「乳井
福王寺
圏内
資料編1(古代・中世編)
(一 銅鐘)
藤原宗直・宗氏は平賀郡乳井郷(弘前市乳井)の
福王寺
に関係した小川(河)氏と考えられている。
通史編1(古代・中世)
(中世の農民)
)中名字」にみられる当市域の地名一覧表 郡 郡中名字地名 現地名 平賀郡 大仏鼻 石川 乳井嘉承山
福王寺
資料編1(古代・中世編)
([十四世紀])
●建武二年(一三三五)二月十二日、権大僧都頼基、平賀郡乳井郷
福王寺
別当職。,●康永四年(一三四五南興国六)九月、僧季源、田在家を平賀郡乳井郷
福王寺
に寄進する。
資料編1(古代・中世編)
(四 城館の構造)
これは東麓にある
福王寺
門前集落との連絡通路であろうか。
資料編1(考古編)
(3.野脇遺跡)
江戸時代になると、「本藩通観録」巻六に、 「寛永十三(1636)丙子年乳井美作先祖は
福王寺
といふ、(
資料編1(古代・中世編)
([十六世紀])
●天正二年(一五七四)三月、大光寺城代瀧本重行、乳井
福王寺
玄蕃を謀殺するという。
通史編1(古代・中世)
(一 古代における北奥の宗教世界)
坂上田村麻呂 修験 常福院 「往古真言宗寺院退転シテ今号二新城館一」 (28) 乳井毘沙門堂 承暦二年
福王寺
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
………………………… 南部家文書 149 ●貞応二年(一二二三)十二月六日、僧栄秀、平賀郡
福王寺
・極楽寺,…………… 宮崎文書・南部家文書 152 ●延応元年(一二三九)十二月二十二日、平賀郡乳井郷
福王寺
別当職等,……………… 松平基則氏所蔵文書 160 ●弘安七年(一二八四)十月三十日、僧幸秀、平賀郡乳井郷
福王寺
別当職,…………… 岩大新渡戸文書 208 ●康永四年(一三四五南興国六)九月、僧季源、田在家を平賀郡乳井郷
福王寺
, 聞老遺事・石井三庵政満覚書・祐清私記 314 ●天正二年(一五七四)三月、大光寺城代瀧本重行、乳井
福王寺
玄蕃
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