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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (秋田家系図)

秋田家系図 次に『秋田家系図』(写真126)についてみると、前述したように、長髓彦の兄安日から貞任の,写真126 秋田家系図  堯恒の後は「此間五十余年、某名不レ詳故不レ記」とされ、次に貞秀を置き、,さらにその孫の鹿季が秋田湊を伐って秋田湊家の元祖となったと記す。  ,なお『秋田家系図』のなかに、南北朝初期の秋田安藤次郎まで触れた『安藤系図』の影響がみられないのは、『安藤系図,』が阿倍氏系図に付会された、成立の新しいものであるか、秋田氏嫡流とは無縁のところで成立したものであったためであろうが / 秋田家系図
通史編1(古代・中世) (秋田の唐糸伝説)

秋田の唐糸伝説 秋田方面では、時頼が鎌倉への帰途、初七日・二七日・三七日と、区切りごとに唐糸の菩提を,39にあるように、初七日(しょなぬか)山成就院(大館市釈迦内)・二七日(ふたなぬか)山釈迦堂光明寺(秋田市旭北寺町,写真107 三七日山阿弥陀堂 (秋田県西木村・現大国主神社)  先にも触れたとおり、それぞれの,『初七日山釈迦堂略縁起』『羽州秋田郡土崎湊納坂二七日山光明寺御本尊釈迦如来並寺之縁起』では、唐糸は「鎌倉金沢 / 秋田の唐糸伝説
通史編2(近世1) (秋田安東実季の名護屋参陣)

秋田安東実季の名護屋参陣 天正十九年から朝鮮出兵へ向けて準備が本格化していたが、翌文禄元年、奥羽・「,秋田(安東)氏がいつころに秋田を出立し名護屋に到着したのか不明であるが、文禄元年十二月晦日付の楢山剱帯,(ならやまたてわき)宛ての南部信直書状によれば、信直と秋田実季が名護屋の陣所において和睦し「入魂成衆(,図34.秋田実季僧形像  翌文禄二年末に実季は秋田へ帰国したが、この年は「領知方算用年(りょうちかたさんようのとし,この紛争は、かつて奥羽仕置の際に秋田の検地奉行を勤めた豊臣秀次の家臣木村重茲が調停に入り、結局実季が浅利氏 / 秋田安東実季の名護屋参陣
資料編1(古代・中世編) (協力者及び協力機関一覧(敬称略))

) 清水清一郎(秋田県鷹巣町) 戸沢武(青森県弘前市) 長岐喜代次(秋田県秋田市) 南部光徹(,(千葉県市川市) 山屋道朗(青森県弘前市) 青森県立郷土館(青森県青森市) 秋田県公文書館(秋田県秋田市,) 秋田市立中央図書館(秋田県秋田市) 鰺ヶ沢町教育委員会(青森県) 鰺ヶ沢町郷土文化保存伝習館,) 浄願寺(秋田県秋田市) 誓願寺(青森県弘前市) 大円寺(青森県大鰐町) 大日堂(秋田県鹿角市,岩手県盛岡市) 陽明文庫(京都府京都市) 遊行寺(神奈川県藤沢市) 龍泉寺(青森県弘前市) 林清寺(秋田県秋田市
通史編3(近世2) (総督軍の集結)

その後、六月二十四日に盛岡を出発、七月一日に秋田へ到着となる。  ,しかし、九条総督の秋田入領に時期を合わせ、同じく七月一日に秋田で合流した。,さらにこの時、仙台藩使者等も秋田城下へ訪れており、秋田藩の動向が注目されていた。  ,七月四日、秋田藩主佐竹義尭(よしたか)は総督府に庄内征討の先鋒を願い出、秋田藩の態度を内外に明らかにした,この秋田藩の藩論決定により、秋田城下に滞在していた仙台藩士のうち六人が斬首され、五丁目橋のたもとに並べられた
通史編2(近世1) (伏見作事板の運上と太閤蔵入地)

この秋田から敦賀までの廻漕は、表3のように秋田氏自身のほか、小野寺、戸沢、本堂、六郷、仁賀保、赤宇曽、,滝沢、内越、岩屋、そして津軽氏が担当しており、彼らは杉板を秋田山から山下げし、それを秋田領内の港から敦賀港,「秋田家文書」所収の文禄五年分の「於秋田御材木入用之帳」によれば、杉板の運上について「右之板隣郡之衆へ,津軽為信は、再三にわたる秋田氏からの催促にもかかわらず、この三年間秋田山から杉板を受け取らず山出しをしていない,また、前年の慶長二年(一五九七)には秋田山で伐採したものが、この年は秋田・津軽・南部領のどの山でも伐採
通史編2(近世1) (浅利騒動の停戦命令)

秋田方が急に全軍をまとめて兵を引いた。,また、前田利家については、天正十八年、利家が津軽の検地終了後に秋田を通過した際に秋田氏が一揆を仕掛けようとし,、それに対し自らは加担しなかったと浅利氏は報告しており(秋田家文書)、これによって利家は秋田氏に憤激し,秋田領からの伏見作事板徴収によって政権を強化するとともに、その軍役賦課によって大名秋田氏を中心とする「,秋田氏に対する擁護は、秋田氏を支えることによって杉板の円滑な徴収を実現するためであり、当時の取次とは政権
通史編3(近世2) (白石同盟の動き)

その途中で山中は、秋田藩出役桜庭富蔵が帰藩するのに出会い、仙台藩と米沢藩の談合内容に接したのであった。,山中兵部は、今後の方向性を協議すべく、同道の佐藤英馬を先行させて秋田藩重役との会見を申し込み、閏四月八日,この山中がもたらした②の情報は、秋田藩にとっては初めて触れる情報であり、同日中に白石会議出席要請の廻状,が秋田藩へも到着したため、九日に秋田藩使者も仙台へ向けて出立した。,秋田藩は翌日、家老戸村十太夫と用人金大之進を使者として仙台へ派遣した。
通史編2(近世1) (浅利騒動と津軽氏)

浅利騒動と津軽氏 文禄三年、秋田方は比内の浅利領へ兵を進め、物成の差し押さえを行い、さらに岩脇村(いわわきむら,さらに翌文禄四年にも再び秋田方からの進出があり、秋田方と浅利方の合戦による放火・「なてきり」で六ヵ村が,図35.秋田氏の攻撃による浅利領の被害地図  この間、文禄三年末に上洛し、翌文禄四年六月ごろに帰国,した秋田実季は、弟忠次郎英季(ふさすえ)と南部信直の娘との祝言について八月と決定していた。,同九月七日、実季数百騎の軍兵を引率して米代川の辺に出張せり」と記しており、秋田氏はこの時期浅利氏との戦闘
通史編1(古代・中世) (湊安藤氏の誕生)

に移住し、秋田城介顕任を滅ぼしてこれに替わったことが伝えられる(史料七四二)。,また、「秋田家系図」(写真163)でも鹿季が秋田の湊を攻め、湊家の元祖となったことを伝え(史料一一五三,)、これは秋田湊をめぐる安藤氏一族の内訌(ないこう)であったといわれる。,写真163 秋田家系図  鎌倉期以来、蝦夷沙汰への支配機構は津軽と秋田との二つに拠点が置かれていた,そして、「秋田屋形」を公的な称号とし、秋田湊を本拠とし、秋田小鹿島の一帯を支配するようになった。  
通史編3(近世2) (庄内征討命令をめぐって)

反政府軍に対する奥羽諸藩の勢いが強くなる中で、閏四月六日討庄の厳命を受けた秋田藩は、七日、庄内藩征討に,対する庄内藩も受けては立つが、秋田藩に重ねて周旋を願いたいという返答をしたのであった(『秋田県史』第四巻,しかし、再三に及ぶ秋田藩の問罪・討入猶予願いも、聞き入れられない状況が続いた(『秋田県史』資料 明治編上,に苦しむ秋田藩の事情を報告した。,多くの情報が飛び交う中で、弘前藩は、閏四月五日、山中兵部らを秋田・仙台へ向けて出立させた。
通史編1(古代・中世) (藤崎系図)

もっとも、秋田実季によって万治元年(一六五八)に完成された『秋田家系図』(史料一一五三)は、冒頭から堯恒,までの部分が『藤崎系図』に酷似しており、また『藤崎系図』では「不分明」とされている部分が、『秋田家系図,』ではことごとく詳細に記述されていることから、じつは『藤崎系図』は『秋田家系図』を転写したもので、系図各所,は、全国各地の安藤氏ゆかりの地に散在していたわけで、『秋田家系図』の作者が『藤崎系図』を見た、あるいは,さらに、『藤崎系図』と『秋田家系図』では、その冒頭に気になる相違があるのである。
通史編3(近世2) (盛岡藩の参戦)

盛岡藩の参戦 こうして、秋田藩を目指して庄内・仙台・米沢藩ら同盟軍が北上を続ける中、今度は盛岡藩が不意,をつく形で秋田藩の北側に位置する十二所(じゅうにしょ)(現秋田県大館市)口を攻めてきた。,南で行われている庄内征討のための戦闘に力を注いでいた秋田藩は、北方の境には十二所所預(ところあずかり),この時参加した弘前藩対馬官左衛門率いる銃隊は、対庄内戦へ出兵する途中で盛岡藩兵の襲来を知り、荷揚場(現秋田県北秋田郡二,九月六日には盛岡藩勢は藩境まで後退して、秋田藩は大館・十二所を回復する。
通史編2(近世1) (浅利頼平の怪死)

頼平は、慶長二年、上洛命令により京へ向かい、九月三日に「御検地之年秋田方へ仕軍役物成上申候覚」と「比内千町,この二通の覚書は、浅利氏が秋田氏へ納めた軍役や物成、太閤蔵入地からの年貢米や伏見作事板の運上の決算報告書,この浅利氏の行動を秋田氏は、前田利家の調停を無視した不届きの行為であり、さらに自分に対して虚言を仕掛け,『浅利軍記』では、浅利・秋田両氏が大坂に上り何度も政権からの詮索があった後、やがて浅利方有利に傾いた時,その後、比内は実季の弟であり南部信直の娘婿である秋田英季がその支配に当たることになった。
通史編3(近世2) (弘前藩の出兵)

弘前藩の出兵 さて、秋田に続きようやく藩論を勤皇に統一した弘前藩も、藩境を封鎖するなどの行動で受けた,七月十八日、一等銃隊頭館山善左衛門および二等銃隊頭田中小四郎が藩兵を率いて秋田へ向かい、二十二日に同地,彼らは七月二十八日に秋田の城下町へ到着(同前)。,八月二日、成田求馬らは平沢へ到達したところで、退却してきた秋田藩兵と出会い、戦況を知った。,銃撃戦の末、秋田・弘前藩兵は接近戦を試みたのである。
通史編3(近世2) (鎮撫総督軍の領内通行問題)

閏四月二十三日に上山藩から知らせを受けて、仙台・米沢藩の動きを察知した沢副総督一行は、秋田藩への転陣を,沢一行の目的は、秋田領から津軽領へと転陣し、最終的には箱館(はこだて)へ向けて渡海することにあった。,秋田藩と弘前藩の藩境は目前である。  ,このために、弘前藩は佐藤英馬を秋田へ派遣して、協議の場を持たせたのであった。  ,秋田藩は、この仙台藩の行動が、盟約の精神に沿ったものではないことを理由に挙げ、既に秋田へ入領している副総督一行
通史編4(近・現代1) (曲物(まげもの)の商況)

ナラス、緩ナラサルノ商況ナリ、其重ナル輸出先地方ハ、北海道庁ノ函館、岩内、小樽、札幌、根室各区町村、秋田県各町村管内,キモノナレハ、一層品質ヲ精撰シテ、永遠ニ活溌ナル取引ヲナサントノ目的ナレハナリ、而シテ其需用元料木材ノ産地ハ、秋田及,ヒ中津軽郡ナリ (同前)  曲物については、原料が秋田県、青森県中津軽郡産であり、北海道、秋田県、
通史編4(近・現代1) (金細工物の商況)

金細工物の商況 次に金細工物については、東京、大阪等から移入し、新潟、秋田、北海道へ移出していた。,七月廿日報) 同人  金細工物ノ輸出入 本市内ヘ輸入スル金細工物ノ重ナル仕入先ハ、東京、大坂、新潟、秋田,大坂市九百三十二〆目、其価格百弐拾四円参拾九銭、○新潟県五百二十八〆目、其価格参百九拾参円参拾壱銭、○秋田県弐百九十,、運搬甚タ便ナリシヲ以テ商勢活溌ナリシカ、四月以降ハ悪路ノ為取引渋滞セリ)輸出シタル地方ハ、羽後国北秋田郡
通史編2(近世1) (太閤蔵入地の設定)

天正十九年から慶長六年(一六〇一)にかけて秋田領に設定された蔵入地の年貢率平均は一七パーセントであったという,そして、津軽地方に太閤蔵入地が設定された時期は、秋田実季が秋田郡内の太閤蔵入地の代官に任命されたのと同,さて、津軽地方に設定された蔵入地の所在地であるが、秋田・常陸の佐竹領の場合、伝統的所領で、豊かな生産力,そして、このとき、舟賃は「秋田蔵米」を充てることになっていた(同前)。,、伏見城築城のための秋田の杉材の運搬と、敦賀への廻漕を行っている(資料近世1No.六三)。
通史編1(古代・中世) (多様な系譜の在り方)

これら四つの系図のなかではもっとも頻繁に使用される『秋田家系図』についてみると、藩祖秋田俊季の時期にも,していない代物(しろもの)であるばかりか、現存文書から再検討してみてもかなりの事実誤認を含むものであるし、秋田実季
通史編1(古代・中世) (乱の勃発)

乱の原因は、前年の不作にもかかわらず、出羽国司・秋田城司たちが農民から収奪を繰り返したことにある。,時の秋田城介は良岑近(よしみねのちかし)で、『藤原保則伝』の名文によれば、彼は「聚(あつ)め斂(おさ),(かせい)に抵抗して、多数の俘囚(ふしゅう)(蝦夷のうち律令国家に服属した者)が組織的に立ち上がり、秋田城,や秋田郡家、周辺の民家に火がかけられるまでに至った(史料三二五)。,が点在する、現在の能代から比内・鹿角(かづの)に至る、秋田県の北半分を含むものであろう(図13)。
通史編2(近世1) (伏見築城と奥羽大名)

奥羽の大名の中で、この伏見指月城の普請にかかわったのは秋田実季だけであった。,これより先、秋田実季は、文禄元年十一月八日に秀吉から、朝鮮出兵用の軍船である大安宅船(おおあたけぶね),の用材運上を命じられている(秋田家文書)。,(どうのかわ)三郎右衛門に命じており、秋田氏は敦賀の道川氏と材木売却をめぐって関係を持っていた。,、秋田の杉板は豊臣政権を支える一大要素として位置づけられていたのであった。
通史編2(近世1) (天明六年以降の飢饉)

『記類』下によると、十月の段階で他散の者が二〇〇〇人余に及び、翌天保八年一月には秋田へ逃散する者が一万人,「年中日記」は、秋田藩では天保四年の津軽弘前藩による秋田領飢民への施行(せぎょう)の礼として、弘前藩を,天保七年の飢饉は全体に太平洋側の被害がひどく、秋田へは仙台・南部領からも多く飢民が流入した。,もっとも、秋田領も仙北郡(せんぼくぐん)の作柄はよかったが、大館周辺は大変悪く、乞食も多く出たという。,翌八年八月に弘前藩主が参勤交代の帰路、秋田領を通過した際に、数百人の飢民が駕籠先に出て救済を求めたので
通史編3(近世2) (庄内戦争の結末)

庄内戦争の結末 再び秋田藩の南境に目を転じると、新庄落城後、山道より秋田へ向けて進攻していた庄内藩は,同盟軍、総督軍の一進一退の攻防が続いたが、やがて総督軍に佐賀・長州・薩摩・平戸藩などから応援兵が続々と秋田,応援兵の参戦とともに、薩摩藩の軍艦春日丸が秋田藩の援護に導入されたことが大きかった。
通史編3(近世2) (東北戊辰戦争の終結)

盛岡藩は、野辺地戦争に勝利したものの、秋田藩を通じて嘆願交渉を続行し、九月二十五日、秋田水沢口において,城の受け取りには、秋田藩と弘前藩が赴いている。,盛岡藩は、秋田戦争・野辺地戦争の代価として、家老楢山佐渡の切腹と七万両の賠償を支払うことになった。
通史編2(近世1) (「分領」と津軽弘前藩)

蝦夷地の開発と守衛が時節柄重要になってきたとの認識を示したうえで、蝦夷地を分割して、仙台藩・会津藩・秋田藩,また、仙台・秋田・庄内・会津の各藩に対しては、同日、北蝦夷地の警衛を重視するよう達しが出されていて、これらの,①仙台・秋田・庄内・会津の各藩は、これまで仙台・秋田両藩が警衛を担当してきた「奥地」を分割して「不毛之地,この早川の回答から、仙台・秋田・庄内・会津の各藩には、従来仙台藩と秋田藩が警備していた地域を領地として,し、津軽弘前・盛岡藩に与えられるのは警衛の「持場」の中にある漁場にすぎないこと、さらに幕府は、仙台・秋田
通史編2(近世1) (伏見滞在と派閥抗争)

奥羽の大名、つまり津軽氏をはじめ、南部氏、秋田氏、仙北・由利の小名らにとって文禄・慶長期における軍役とは,つまり、「御前之衆」は秀吉と大名との間に立ってその意向を伝える取次であり、その取次を行う相手は秋田氏と,秋田山からの杉板廻漕は、秋田実季を中心とし仙北・由利の小名衆や津軽氏をも含む「隣郡之衆」であったが、この,の際、秋田方に立って必死にその弁護役を果たしていた。,、浅利騒動を秋田側に有利に展開させ、さらに伏見作事板の秀吉朱印状を取り次いで秋田氏に与えることで、秋田氏
通史編3(近世2) (軍事情勢の膠着)

奥羽列藩同盟への参加の是非をめぐる藩内の対立についてはすでに前節で述べたが、五月十一日に秋田藩に身を寄,これに対し、反対の声は秋田方面に先行出動していた番方指揮官から上がった。,結局沢為量通行問題は現地に戻った山崎と秋田出役中の家老杉山八兵衛(すぎやまはちべえ)の独断で処理された,通行を妨げられた沢一行はやむをえず秋田能代(のしろ)から船で箱館に転陣したが、弘前藩のこの処置は後々まで,ともかく目前の危機は回避されたが、七月上旬までは同盟か勤皇かの対立はくすぶり続け、秋田・盛岡・仙台藩等
通史編2(近世1) (陸上交通網の整備)

両帳に大道筋として記載されているのは、表現に若干違いはあるものの、①秋田領境之明神堂(さかいのみょうじんどう,あぶらかわ)~青森~浅虫~小湊(こみなと)~狩場沢(かりばさわ)~南部領、②弘前~堀越~大鰐~碇ヶ関~秋田領境杉峠,ともに津軽領と秋田藩領・盛岡藩領を結ぶ道路であり、弘前城下を中心として藩領外へ通じる道が大道筋として認識,正保国絵図では、①の秋田領境は「秋田領八森村江出本道」、南部領への道には「南部江出本道」、②の秋田領への,道には「秋田白澤江出本道」とあって、いずれも本道という記載がなされている。  
通史編2(近世1) (伏見木幡山城の築城)

伏見木幡山城の築城 秋田実季が伏見作事板の運上を命じられたのは文禄四年(一五九五)のことであったが、,なお、文禄四年には伏見指月城の杉板廻漕が秋田氏単独であったものが、翌慶長元年の伏見木幡山(こはたやま),またこの時、南部信直だけではなく、仙北の小名衆や秋田実季も伏見作事板運上の朱印状下付を待って伏見に詰めていた,結局、この朱印状は三月になってようやく発給され、秋田実季や仙北の小野寺義道(よしみち)には三月六日に出,に公認するものであり、秋田実季としてはこの朱印状が獲得できるかどうかは死活問題であった。
通史編3(近世2) (金木屋による養蚕と製織)

入れ、品質吟味、正価販売で知られていた(「国日記」享和元年七月十二日条)が、文政十年(一八二七)には秋田久保田,また金木屋武田甚左衛門(二代目)は以前から格別養蚕に意を用いていたが、文政十二年(一八二九)には秋田同様,の生産を心がけ、秋田や伊達梁川(だてやながわ)(現福島県伊達郡梁川町)あたりから養蚕の指南を招き、廻郷,糸取り約二〇〇人を雇い入れ、また家中の次、三男も来て種々の絹布を織り出していたが、織りについては最初、秋田
通史編3(近世2) (討庄応援部隊の解兵)

討庄応援部隊の解兵 同盟には参加したものの、征討出兵をめぐる緊張を身をもって体験していた秋田詰め藩士,佐藤英馬は閏四月二十一日に白石を出立し、二十五日に横手へ到着して、秋田詰めの桜庭富蔵へ討庄応援兵の解散,そして、五月一日、総大将山崎所左衛門は、用人工藤嘉左衛門から解兵報知と、秋田藩長瀬隼之助から同藩兵の「,そして、これ以降、弘前藩兵は続々と秋田領から撤退して、秋田藩との藩境に駐屯することになった。  
通史編2(近世1) (豊臣政権の奉行衆)

豊臣政権の奉行衆 秋田氏へ杉板運上の朱印状を取り次いだ人物は、文禄元年は加賀の前田利家、文禄三年(一五九四,前田利家は、天正十八年(一五九〇)の奥羽仕置の際、秋田や津軽の検地奉行として派遣され、家康らと同様に分権派,しかし、翌文禄二年には秀吉の奉行として中央集権化を目指す集権派グループの長束正家や、浅利騒動において秋田氏,実際、秋田領に設定された太閤蔵入地の年貢米の算用状(さんようじょう)は、秋田氏から集権化を目指す奉行衆徳善院
通史編2(近世1) (協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))

協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順) 青森県立郷土館 秋田市立佐竹史料館 安盛寺(,青森県中津軽郡岩木町) 種里八幡宮(青森県西津軽郡鰺ヶ沢町) 長勝寺(青森県弘前市) 天徳寺(秋田県秋田市
通史編3(近世2) (藩論の紛糾)

藩論の紛糾 さて、この奥羽列藩同盟参加、鎮撫総督軍の領内通行問題、そして、秋田藩境封鎖に至る過程の中,一方で藤川能登や秋田藩の戸田十太夫へも、藩内で激徒が蜂起したため危険であるという藩境封鎖についての説明,が送られ、秋田藩でも大館(おおだて)付近の警備が強化されたのであった。,当然、総督軍も秋田藩も弘前藩の動向について不信の念を抱くことになる。,かくして奥羽鎮撫使一行の九条・沢・醍醐は、そろって秋田に滞在することとなった。
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

為信、これを受領せず、杉板は秋田山中に放置される。,●元和五年(一六一九)八月六日、津軽信枚、秋田藩重臣梅津政景へ使者秋田金左衛門を遣わし、帷子を贈る。,ついで、津軽の関を越え秋田領へ入る。,●寛永四年(一六二七)七月十一日、津軽信枚の家臣戸沢勘兵衛、秋田久保田城下にて秋田藩陪臣と喧嘩に及ぶ。,●寛永七年(一六三〇)十一月二十六日、秋田久保田城主佐竹義宣、津軽信枚の賜暇と、秋田領内通行に支障なきを
通史編2(近世1) (北奥羽の大名の動向)

一方、北羽の安東(秋田)氏の場合、現在のところ、このころの統一政権とのかかわりを示すような史料は知られていないが,この返書の中で、秀吉は、当時すでに秋田城介(あきたじょうのすけ)から左中将となっていた織田信長の長子信忠,(のぶただ)を、「(秋田)城介殿」と記している。,秋田城介の官途は、中世の「蝦夷沙汰(えぞのさた)」に密接にかかわるものであるといわれ(遠藤巌「秋田城介,の復活」高橋富雄編『東北古代史の研究』一九八六年 吉川弘文館刊)、ここでの秋田城介という表記も、秀吉の
通史編3(近世2) (庄内征討応援命令)

四月六日、秋田藩に庄内(鶴岡)藩征討命令が出されたが、弘前藩も決して無関係ではいられなかった。,そこで西館は、早速、仙台出張中の秋田藩士川井小六・岡内之丞と話し合いを持った。  ,翌七日には、討庄出兵について、秋田藩が総督府へ質問状を提出した。,会津征討ならわかるが、庄内征討の理由はこの時期、勤皇色の強い秋田藩でさえ理解していなかったのである。,新政府に積極的な態度を示していた秋田藩も、庄内藩の罪状の不透明さにためらいをみせたのであるから、弘前藩
通史編1(古代・中世) (協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))

五十音順) 青森県教育委員会 青森県史編さん室 青森県埋蔵文化財調査センター 青森県立郷土館 秋田市広報課,石巻文化センター 岩手大学附属図書館 円覚寺(西津軽郡深浦町) 円明寺(弘前市) 大国主神社(秋田県仙北郡西木村,) 大阪府立中之島図書館 大日霊貴神社(秋田県鹿角市) 大鰐町企画観光課 尾上町教育委員会,矢巾町教育委員会 余市町教育委員会 財団法人 陽明文庫(京都府京都市) 和島村教育委員会   秋田美篤
通史編5(近・現代2) (青秋林道建設計画)

昭和五十三年(一九七八)十二月六日、秋田県選出国会議員野呂田芳成を会長とする青秋県境奥地開発林道開設促進期成同盟会,が秋田県八森町で結成された。,これに八森町を含む四町村長は副会長となり、本県の田沢吉郎代議士と秋田県の石田博英代議士は顧問となった。,昭和五十七年四月五日、林野庁が青秋林道-広域基幹道路・青秋線(総延長二六・七キロ)の実施計画を承認し、八月、秋田工区
通史編1(古代・中世) (下国伊駒安陪姓之家譜)

松前下国氏(松前藩の家老職にあった一族)に伝えられた伝承に基づき成立したものと推測され、貞季以降の世系は『秋田家系図,』に近いが、それぞれの人物の事跡についての記述は、『秋田家系図』とはかなり異なるところが多い。,これは『藤崎系図』『秋田家系図』では安日・長髄という兄弟、すなわち二人の人物であるとされているのとは大
通史編2(近世1) (二 浅利騒動への加担)

二 浅利騒動への加担 浅利騒動(あさりそうどう)とは、大名秋田実季と、その領主権力から独立を果たそうとする,しかしそれは、偶然にもたらされたものではなく、秋田氏が置かれていた歴史的条件によって必然的に起こったものであった
通史編3(近世2) (戦場に駆り出された民衆)

姓は後日のもの  7 榊田幸蔵 59歳 諸手足軽 5石2斗1升 秋田矢島領吉沢村 永世17俵,家督は息子彦蔵へ  8 岩崎彦蔵 54歳 諸手足軽 5石2斗 秋田矢島領吉沢村 永世17俵,家督は息子文吉へ  9 豊田音吉 53歳 諸手足軽 5石2斗1升 秋田矢島領吉沢村 永世15,俵 家督は息子音五郎へ 10 岩沼小兵衛 28歳 諸手足軽 不明 秋田矢島領吉沢村 永世15俵 家督は,永世35俵 永世禄は兄岩太郎へ 30 浪岡三蔵 21歳 三等銃隊 無足 秋田矢島領吉沢村 永世15俵
通史編3(近世2) (戦闘の開始)

庄内藩でも十九日に全藩動員令を出し、総督軍の進路と予想される最上川沿いと秋田方面に当たる北方海岸沿いを,先に述べたとおり、既に秋田藩には、庄内征討命令が出され、十八日には鎮撫総督軍から軍事役長屋清左衛門・山本登雲助,が到着し、秋田藩の動きを統制していた。
通史編2(近世1) (「分領」はなぜ行われたのか)

はなぜ行われたのか 安政六年(一八五九)、幕府は従来蝦夷地の警衛に当たっていた津軽弘前・盛岡・仙台・秋田,幕藩制国家の軍事力を導入し、同地も国家内の一部だと宣言したことを意味するという考えもできる(金森正也『秋田藩
通史編2(近世1) (浅利頼平の比内帰還)

天正十八年七月以後の奥羽仕置において、秋田の検地奉行として木村重茲、津軽の検地奉行として前田利家、仙北,秋田の検地奉行である木村重茲は、同年の八月ころから検地を実施し、十一月中旬に上洛している。,実季は出羽国檜山郡一職と秋田郡の内において合計五万二四三九石二斗七升三合を宛行(あてが)われるとともに,それは、すでに文禄元年(一五九二)からの朝鮮出兵へ向けて日程が具体化しており、それに必要な金(きん)や秋田杉,なお天正十八年、浅利領からは帆柱(ほばしら)三本、金子(きんす)一枚、大鷹一羽等が、秋田実季家臣に渡され
通史編1(古代・中世) (三十八年戦争の時代)

写真44 多賀城跡(宮城県多賀城市)  一方、日本海側では、天平五年(七三三)に、出羽柵を秋田村,の高清水岡(たかしみずのおか)に移すという記事があって(史料九二)、これが秋田城(写真45)の創建であるとされている,写真45 秋田城跡 復元された外郭東門と築地塀(秋田県秋田市)  そしてこの多賀城と秋田の出羽柵
通史編4(近・現代1) (弘前高等学校の開校)

初代校長には鹿児島県立第一鹿児島中学校長秋田実が任命された。,写真191 初代弘前高等学校校長秋田実  志願者は文科甲類三四五人、文科乙類六八人、理科甲類一一五人
通史編1(自然・原始) (第六節 引用・参考文献)

気象庁 『日本気候表』 一九九三年 (5)気象庁 『青森県六十年間の異常気象』  一九七〇年 (6)秋田地方気象台, 『秋田県気象百年史』  一九八二年 (7)国立天文台 『理科年表』 丸善 一九八九年 (8)浅井富雄
通史編2(近世1) (二代信枚の動向)

さて、信枚時代の次の大きな出来事となったのは、秋田藩との境目の決定であった。,九月二十五日に、町奉行島田利正のあっせんにより、秋田領と津軽領との境界について、津軽弘前藩家老服部康成,・白取瀬兵衛から秋田藩家老梅津憲忠(政景の兄)のもとに、来月五日ころに「すこの山境目」(青森県岩崎村と,一方、秋田藩側は佐竹義宣は秋田実季の所領を幕府から拝領して昨今移ってきたばかりでよくわからないとしながら,弘前藩側は尻合石を境目として主張し、秋田藩側は矢立の杉を境目として主張し、ここでも両者に食い違いが出る
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