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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (秋田安東実季の名護屋参陣)

秋田安東実季の名護屋参陣 天正十九年から朝鮮出兵へ向けて準備が本格化していたが、翌文禄元年、奥羽・「,秋田(安東)氏がいつころに秋田を出立し名護屋に到着したのか不明であるが、文禄元年十二月晦日付の楢山剱帯,これら浅利氏の実季に対する軍役や太閤蔵入地からの物成(年貢)未進が、後に浅利氏と秋田氏との確執の原因になっていく,図34.秋田実季僧形像  翌文禄二年末に実季は秋田へ帰国したが、この年は「領知方算用年(りょうちかたさんようのとし,において発言力を持つ人物と交渉を持ち、秋田氏からの独立化を企てていたのである。 / 秋田安東実季の名護屋参陣
通史編1(古代・中世) (秋田家系図)

秋田家系図 次に『秋田家系図』(写真126)についてみると、前述したように、長髓彦の兄安日から貞任の,「従二貞秀一以来、以二安東太郎一、為二当家仮名一」とし、その子堯秀(安東五郎)について「為二平義時代官一,さらにその孫の鹿季が秋田湊を伐って秋田湊家の元祖となったと記す。  ,なお『秋田家系図』のなかに、南北朝初期の秋田安藤次郎まで触れた『安藤系図』の影響がみられないのは、『安藤系図,』が阿倍氏系図に付会された、成立の新しいものであるか、秋田氏嫡流とは無縁のところで成立したものであったためであろうが / 秋田家系図
通史編2(近世1) (中世の比内浅利氏)

ほんかん)の地は甲斐国浅利郷であるが、文治五年(一一八九)の奥州合戦に頼朝につき従い参戦した恩賞として秋田,)によって攻められ、扇田(おうぎだ)長岡城(現秋田県比内町扇田)で自害して果てた。,を繰り返したが、結局成功せず、比内は安東領に併合されてしまった。,この後、天正十五年(一五八七)、安東愛季が急死し、わずか十二歳の実季(さねすえ)が家督を継いだ。,を得て、天正十七年二月、秋田湊城の実季を急襲し、ここに湊合戦が始まった。 / 中世の比内浅利氏
通史編1(古代・中世) (得宗領・安藤氏との関わり)

得宗領・安藤氏との関わり 「空船(舩)」=「うつぼ舟」のモチーフは津軽地方の所伝ではみられないので、,秋田で付加されたものらしいが、土崎湊といい、外浜といい、藤崎湊といい、能代湊といい、いずれも唐糸伝説を,伝える寺院が津軽安藤氏・秋田安東氏の拠点とかかわっていることが注目される。,釈迦内も、安東氏の有力拠点である米代川河口を遡(さかのぼ)った檜山の上流に位置する。,こうしたことからすると、おそらくは得宗領を中心に渡り歩いた、幕府と密接にかかわる禅僧集団、あるいは後述の安藤氏と / 得宗領・安藤氏との関わり
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

細川高国、秋田湊安東左衛門佐入道(宣季)の鷹進上を謝する。 ●大永四年(一五二四)ころ? ,南部家、秋田湊安東家を「謹上書衆」と記す。,して、秋田領(安東愛季領)に進攻すべきことを書き送る。,●天正十七年(一五八九)二月、秋田豊島城主湊通季(湊安東茂季の子)、湊城主安東実季を急襲、北奥羽をまきこむ,●天正十七年(一五八九)、大浦為信、秋田の安東実季と和睦、秋田勢の比内出兵に援軍を送るという(ただし、
通史編2(近世1) (浅利頼平の比内帰還)

浅利氏は数代安東氏の家臣であったが、親の愛季に対し逆心を企てたため浅利勝頼を成敗した。,その間、浅利氏の知行は安東氏で支配していたが、その後、津軽氏からの度重なる申し出により浅利氏の旧領を頼平,図33.戦国末期の北羽の大名・小名  安東氏と津軽氏は、湊合戦により秀吉の惣無事令違反は明白であったが,奥羽諸大名の領地安堵はこの国家的戦略に添って決定されたのであり、安東氏や津軽氏に対してこれ以降朝鮮出兵,後の片山氏ら重臣の安東方への寝返りは、浅利氏帰還の時からすでにその伏線が存在したのである。  
通史編1(古代・中世) (藤崎系図)

しかし『秋田家系図』は実季苦心の作にして秘蔵のものとされていたにもかかわらず、それを一介の常陸国住人藤崎氏,は、全国各地の安藤氏ゆかりの地に散在していたわけで、『秋田家系図』の作者が『藤崎系図』を見た、あるいは,しかし『藤崎系図』では「孝元天皇」から「安東」まで線引きがなされているのに対し、『秋田家系図』では線引,)が乳母に抱かれて津軽藤崎に逃れ、藤崎城主となり、さらにその子堯恒が藤崎の領守(主)として跡を継ぎ、安東太郎,ここに初めて安東姓がみえ、高星が津軽安藤氏の祖であるという説の根拠となっている。
通史編2(近世1) (北奥羽の大名の動向)

一方、北羽の安東(秋田)氏の場合、現在のところ、このころの統一政権とのかかわりを示すような史料は知られていないが,(のぶただ)を、「(秋田)城介殿」と記している。,秋田城介の官途は、中世の「蝦夷沙汰(えぞのさた)」に密接にかかわるものであるといわれ(遠藤巌「秋田城介,宇都宮・結城(ゆうき)―蘆名(あしな)の系列が形成され、これをもとに推進されており、これに近い南部・安東氏,ここでみたように、南部・安東(秋田)氏のような北奥羽の大名は、中央の状況に対して敏感に反応していることがうかがわれる
資料編1(古代・中世編) ([十五世紀])

●応永十八年(一四一一)、南部守行、秋田湊の安藤鹿季と戦う。葛西持信これを援助するという。,●康正二年(一四五六)、秋田の湊安東堯季、蝦夷島の下国安東政季(師季)を小鹿島に迎え、さらに河北郡に入部,●康正二年(一四五六)、この年、秋田湊氏と南部氏が抗争し、北奥羽の動乱におよぶという。,円福(幕府使節僧か)、八戸政経に秋田・比内・河北・津軽の情勢を書き送る。,巻頭の「日本本国之図」に、夷島・夷地・津軽大里・秋田城が記載。
通史編1(古代・中世) (下国伊駒安陪姓之家譜)

は『秋田家系図』に近いが、それぞれの人物の事跡についての記述は、『秋田家系図』とはかなり異なるところが,これは『藤崎系図』『秋田家系図』では安日・長髄という兄弟、すなわち二人の人物であるとされているのとは大,またやはり他と異なり、安日長髄が下国氏を称したことも記述されている。  ,またその子孫「長国安東太」の項に、安陪仲丸(阿倍仲麻呂)の子である広庭が、父の仇討ちのために奥州に走り,、下国氏と同族であると称して出羽国仙北の金洗沢之館に立て籠ったと記述し、その子孫が奥州安倍氏であると続
通史編1(古代・中世) (津軽奪還を目指して)

このことから、師季の保護は、南部氏が十三湊安藤氏にかわる安東(この時期に「安藤」から「安東」に氏の表記,さらに同年、秋田にいる安東氏の一族、湊安東(みなとあんどう)氏の当主安東堯季(たかすえ)は、安東師季を,これがのちの檜山安東(ひやまあんどう)氏の始まりとなる。,さらに文明二年(一四七〇)には、安東政季(師季)が津軽に侵攻し、かつて安藤氏の根拠地の一つであった藤崎館,を攻撃したが(史料八四七)、これが津軽への下国安東氏の最後の侵攻であった。
通史編1(古代・中世) (文献史料から見た戦国動乱の激化)

同じような時期に、檜山(ひやま)の安東愛季(あんどうちかすえ)の家臣奥村惣右衛門(おくむらそうえもん),へ宛てた愛季の弟湊茂季(みなとしげすえ)の書状(「秋田藩家蔵文書」)(史料一〇〇九)に見える、「右京亮,内容は檜山安東氏が比内(ひない)の浅利氏や為信との間で書信による交誼のあることを示すものである。  ,しかし南部氏が安東氏を滅ぼし津軽領内に侵攻してくることから始まることには変わりはないようである。,そして永禄九年から十一年(一五六六~六八)にかけて、三戸城主南部晴政軍と秋田檜山城主安東愛季軍の間で領界
資料編1(古代・中世編) (二 乳井茶臼館の歴史)

福王寺門前集落(寺内)のすぐ南にそびえる茶臼館の立地から考えて、館の築造者はこの福王寺別当乳井氏以外には,同年、これを怒った顕村の岳父・出羽脇本・檜山城主の下国安東愛季は津軽に侵攻。,され、六羽川で行われた合戦では、為信は一時窮地に追い込まれる(蠣崎季広書状写、蠣崎慶広書状写、いずれも秋田藩採集文書,『津軽一統志』『封内事実秘苑』『永禄日記』など近世の記録は、いずれも、このとき「秋田の比山勢」が侵入して,津軽側記録では、「比山勢」を「大光寺左衛門の二子六郎・七郎兄弟」とするが、「比山」とは檜山のことであり、下国安東愛季勢
通史編1(古代・中世) (合戦の方法)

このような野戦の状況を文献史料から知ることができるものとしては、天正七年(一五七九)七月に下国安東愛季,この合戦は、下国安東愛季の軍が三百余りの勢力で襲ってきたというもので、安東(秋田)勢は玉薬(鉄砲の玉),塗部新七(ぬるべしんしち)ら兵隊を整え、さらに五人の供を連れて敵側の動向を調査に行ったところ、六羽川に安東氏側,絶体絶命の危機に追い込まれることとなったが、家臣の田中太郎五郎が身代わりとなり討ち死にしたため、敵方の安東勢,攻城戦の中でも正攻戦として挙げられるものに、天文二年(一五三三)に南部安信が藤崎城主安東教季を城中で討
通史編1(古代・中世) (北の認識)

この点から見て興味深いのが、津軽安藤氏関係の史料群である。,たとえば『秋田家系図』(史料一一五三)冒頭の、著名な安藤氏の始祖説話のなかで、安日王が流されたのは津軽,・外浜・安東浦を包括する「北海浜」であった。,こうした津軽ないし出羽方面を北と意識するものは、やはり安藤氏関係の貴重な史料群である、千葉湊家の文書・
通史編2(近世1) (鷹献上による豊臣政権との折衝)

同氏の鷹献上の実態と、豊臣政権から下命された鷹保護の状況について記述することにする。,出羽国の秋田安東氏をはじめとする大名・小名が領知安堵を石高表示でなされるのは、天正十八年末から天正十九年,(一五九一)正月にかけてであるが、秋田安東氏が当知行を認められたのは、天正十八年二月のことであった(「,秋田家文書」)。,したがって津軽氏の当知行安堵は、秋田安東氏とほぼ同じ時期になされた可能性もある。  
通史編2(近世1) (北奥羽の領知確定)

を認める朱印状を改めて受け取り、秋田氏や仙北・由利の大名・小名衆も、天正十八年十二月から翌十九年正月にかけて,豊臣政権はこれら由利の小名や仙北衆・秋田氏、そして津軽氏を「隣郡之衆」に編成することにより、太閤蔵入地,升 天正18年12月19日 戸沢九郎 出羽国仙北之内北浦郡 44,350石 天正19年1月17日 湊安東太郎,を獲得し、安東(秋田)氏の被官身分から脱し独立の大名となった。  ,この朱印状と同日付でほぼ同文の朱印状は、奥羽の地では秋田実季・南部信直・小野寺義道に発給されているが、
通史編1(古代・中世) (奥羽地方の戦国時代)

図59 奥羽の群雄  南奥羽の戦国時代は伊達氏を中心として展開していく。,一方、北奥羽は陸奥北部の南部氏と北出羽の安東氏の二大勢力がそれぞれ勢力を拡張していく。,しかし、一族の八戸南部氏・九戸氏などは三戸南部氏に準じた勢力を保持しており、戦国大名としての支配は不安定,津軽を追われた安藤(東)氏は、そののち出羽檜山(ひやま)(現秋田県能代市)に落ち着いた。,蝦夷支配権を依然掌握していた安東氏は、代官である蠣崎(かきざき)氏によって徴収され上納される夷島の関税
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

………………………… 南部家文書 251 ●康正二年(一四五六)、秋田の湊安東堯季、蝦夷島の下国安東政季,細川高国、秋田湊安東左衛門佐入道(宣季)の鷹進上を謝する。,の要請により書札礼を著し、その中で、南部家、秋田湊安東家を「謹上書衆」と記す。,へ船を派遣し、秋田沿海の通過と諸浦出入の保証を下国安東愛季に求める。,………………………… 南部家記録 354 ●天正十七年(一五八九)、大浦為信、秋田の安東実季と和睦、秋田勢
通史編1(古代・中世) (三戸南部氏による領国支配の強化)

三戸南部氏による領国支配の強化 三戸南部氏の動きについては、一五世紀半ば以降、不明な点も多い。,これについて、種里は当時の海上交通の要衝で、ここに一族を配置して光信を檜山安東氏への押さえとし、海域の,写真189 南部(大浦)光信倚像  津軽氏の系譜である『前代歴譜』に光信が九戸郡下久慈から南部氏,同郡田子町石亀)に、さらに五男秀範(信次)(ひでのり(のぶつぐ))を鹿角に置いて毛馬内(けまない)城(秋田県鹿角市毛馬内,反乱の中心勢力は大光寺城主葛西頼清(かさいよりきよ)や藤崎城主安東教季(あんどうのりすえ)で(史料九九一 / 三戸南部氏による領国支配の強化
資料編2(近世編1) (【解説】)

地域は、本市並びに藩政時代の津軽領全域を主たる対象とし、領主津軽氏と全国政権との関係動向などを視野に入,れて、江戸・大坂・京都、蝦夷地、日本海沿岸地域の各地、隣領の南部領、秋田領などの地域をも対象に組み入れて,本章における編年体史料の開始は、天正十七年八月二日、北奥三戸の領主南部信直が、秋田檜山(ひやま)の安東氏,もちろん当時の檜山安東氏は南部氏の下知に従うような勢力関係にはなかったが、同政権と南部氏を取り持つ奏者,弘前)をはじめとする領内各都市の建設、農村支配の形成、知行充行に基づく家臣団の形成、寺社支配の形成、秋田佐竹家
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

明暦二年) ●天正十七年(一五八九)八月二日、豊臣秀吉、南部信直へ朱印状を下し、信直の親類並びに檜山安東氏,●天正十八年(一五九〇)三月、大浦為信、秋田の湊安東実季と盟約を結び、波岡城を攻略し、津軽一円を領有するという,●天正十八年(一五九〇)、この頃、大浦氏に扶養されていた浅利頼平、秋田氏の比内回復後、同地へ復帰する。,●文禄元年(一五九二)十二月晦日、津軽為信、肥前名護屋において、南部氏、秋田氏との和解を望み、徳川家康,●慶長三年(一五九八)八月二十六日、津軽信建、秋田実季へ書状を遣し、浅利頼平の身上につき、津軽氏の無関係
通史編1(古代・中世) (南部晴政の登場と一族間の対立)

三戸南部氏の場合も、安藤氏を十三湊から追放した南部義政の「義」字は、将軍足利義教(または義持)の偏諱を,)(雫石)城(岩手県岩手郡雫石町)を攻略し、城主の戸沢(とざわ)氏は出羽国仙北郡角館(かくのだて)(秋田県仙北郡角館町,また永禄年間以降は、これも領国拡大を目指す出羽の下国安東氏と鹿角地方をめぐり抗争が繰り広げられ、永禄十年,、鹿角郡は安東氏に、同十二年には南部氏にというように、相互に争奪しあうことになる。  ,九戸氏は周辺の浄法寺(じょうぼうじ)氏・久慈氏、さらに七戸氏、岩手郡の福士(ふくし)氏、八戸南部家の支族新田
通史編1(古代・中世) (二 津軽の修験道と神社)

南部氏との政争の末、一旦、蝦夷島への敗走を余儀なくされた安藤氏は、離島後の応仁二年(一四六八)においても,子孫繁昌、殿中安穏、心中所願皆令満足、奉祈申所之願書之状如件、   応仁弐年つちのへね二月廿八日 安東下野守師季,(花押)  これまで政教一如の態を示し続けてきた「日ノ本将軍」安東氏も、康正二年(一四五六)、湊安東惟季,に秋田小鹿島に迎えられてからは、宗教的側面は消失しはじめ、武将としての性格が顕現化していく。  ,その岩木山神社に修験の世界にも君臨していた安藤氏の一族の阿部氏が祠官したことは、津軽地域における神社造営
資料編1(古代・中世編) ([十四世紀])

●延元元年(一三三六南建武三)正月、曾我氏等と南部氏の戦闘。,●延文二年(一三五七・南正平十二)六月八日、幕府、安東太(安藤師季=高季)と曾我周防守を両使に任じ、出羽国小鹿島,●康安元年(一三六一・南正平十六)九月、奥州管領府、糠部の南部氏攻撃の軍を起こし、岩城の岡本氏も高清水,親能は波岡北畠氏系という。,●応永元年(一三九四)、安藤庶季(鹿季の誤りか)、将軍義満の命を受けて秋田城介顕任を滅ぼし、これに替わるという
通史編1(自然・原始) (第一節 注および引用・参考文献)

  C 村越潔 「永禄日記」『考古学ジャーナル』四三 一九七〇年四月 (2)菅江真澄 「栖家の山」『秋田叢書別集, 菅江真澄集六』 一九三三年八月 (3)菅江真澄 「外浜奇勝」『秋田叢書別集 菅江真澄集六』 一九三三年八月,桜井清彦・菊池徹夫編 『蓬田大館遺跡』 蓬田村教育委員会 一九八七年十月 (148)加藤孝 「津軽安東氏,青森市教育委員会 『小牧野遺跡発掘調査概報』(青森市埋蔵文化財調査報告書二〇) 一九九三年三月 (178)秋田県鹿角市教育委員会
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