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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (秋田家系図)

秋田家系図 次に『秋田家系図』(写真126)についてみると、前述したように、長髓彦の兄安日から貞任の,写真126 秋田家系図  堯恒の後は「此間五十余年、某名不レ詳故不レ記」とされ、次に貞秀を置き、,さらにその孫の鹿季が秋田湊を伐って秋田湊家の元祖となったと記す。  ,なお『秋田家系図』のなかに、南北朝初期の秋田安藤次郎まで触れた『安藤系図』の影響がみられないのは、『安藤系図,』が阿倍氏系図に付会された、成立の新しいものであるか、秋田氏嫡流とは無縁のところで成立したものであったためであろうが / 秋田家系図
通史編2(近世1) (秋田安東実季の名護屋参陣)

秋田(安東)氏がいつころに秋田を出立し名護屋に到着したのか不明であるが、文禄元年十二月晦日付の楢山剱帯,これら浅利氏の実季に対する軍役や太閤蔵入地からの物成(年貢)未進が、後に浅利氏と秋田氏との確執の原因になっていく,図34.秋田実季僧形像  翌文禄二年末に実季は秋田へ帰国したが、この年は「領知方算用年(りょうちかたさんようのとし,この紛争は、かつて奥羽仕置の際に秋田の検地奉行を勤めた豊臣秀次の家臣木村重茲が調停に入り、結局実季が浅利氏,において発言力を持つ人物と交渉を持ち、秋田氏からの独立化を企てていたのである。 / 秋田安東実季の名護屋参陣
通史編1(古代・中世) (湊安藤氏の誕生)

に謁見ののち秋田湊に移住し、秋田城介顕任を滅ぼしてこれに替わったことが伝えられる(史料七四二)。,また、「秋田家系図」(写真163)でも鹿季が秋田の湊を攻め、湊家の元祖となったことを伝え(史料一一五三,)、これは秋田湊をめぐる安藤氏一族の内訌(ないこう)であったといわれる。,写真163 秋田家系図  鎌倉期以来、蝦夷沙汰への支配機構は津軽と秋田との二つに拠点が置かれていた,そして、「秋田屋形」を公的な称号とし、秋田湊を本拠とし、秋田小鹿島の一帯を支配するようになった。   / 湊安藤氏の誕生
通史編2(近世1) (浅利騒動と津軽氏)

さらに翌文禄四年にも再び秋田方からの進出があり、秋田方と浅利方の合戦による放火・「なてきり」で六ヵ村が,ところがこの八月と決定した秋田氏と南部氏との祝言は、前年から起こっていた浅利騒動によって延期を重ね、翌文禄五年,同九月七日、実季数百騎の軍兵を引率して米代川の辺に出張せり」と記しており、秋田氏はこの時期浅利氏との戦闘,一方、浅利氏重臣片山氏・八木橋氏の実季方への寝返りや、浅利方から秋田領への侵入による稲の刈り取りが行われたと,すでに信直は秋田氏と名護屋参陣中に盟約を交わし、祝言の約束を取り交わしており、この為信の対応は、南部氏 / 浅利騒動と津軽氏
通史編1(古代・中世) (安部氏・清原氏の登場)

安部氏・清原氏の登場 このような鎮守府将軍の管郡的基盤となったのが奥六郡(岩手・志波・稗貫(ひえぬき,・和賀・江刺・胆沢)であり、出羽城介の管郡的基盤となったのが山北三郡(山本・平賀・雄勝(おかち))・秋田郡,・河辺郡である・のちに前者から安倍氏が、後者から清原氏が台頭するが、いずれも蝦夷系豪族から抜擢された、 / 安部氏・清原氏の登場
通史編1(古代・中世) (安藤氏の系譜認識)

安藤氏の系譜認識 地方豪族が通常そうであるように、津軽安藤氏の場合も、その出自の実態についてはまったく,この蝦夷に連なるという系譜認識は、中世を通じて維持され、その末裔である近世大名・明治華族秋田氏となっても,安藤氏に関する系図は多数あるが、内容から整理して『藤崎系図』『安藤系図』『秋田家系図』『下国伊駒安陪姓之家譜,また『下国伊駒安陪姓之家譜』をめぐっては、北海道に残った安藤氏の末裔である下国氏によって多数の関連系譜,しかしそこに込められた、系図作成者がもっていた系譜意識は、安藤氏一族の本質を示すものとして重要である。 / 安藤氏の系譜認識
通史編2(近世1) (中世の比内浅利氏)

中世の比内浅利氏 比内浅利氏は、甲斐源氏(かいげんじ)の一族であり、浅利与市義遠(よいちよしとお)を,ほんかん)の地は甲斐国浅利郷であるが、文治五年(一一八九)の奥州合戦に頼朝につき従い参戦した恩賞として秋田,永禄五年(一五六二)八月、檜山(ひやま)安東愛季(ちかすえ)によって攻められ、扇田(おうぎだ)長岡城(現秋田県比内町扇田,また、かつての湊城主茂季(しげすえ)の子湊九郎通季(みちすえ)(高季)もこの機に南部氏・戸沢氏らの支援,を得て、天正十七年二月、秋田湊城の実季を急襲し、ここに湊合戦が始まった。 / 中世の比内浅利氏
通史編1(古代・中世) (得宗領・安藤氏との関わり)

得宗領・安藤氏との関わり 「空船(舩)」=「うつぼ舟」のモチーフは津軽地方の所伝ではみられないので、,秋田で付加されたものらしいが、土崎湊といい、外浜といい、藤崎湊といい、能代湊といい、いずれも唐糸伝説を,伝える寺院が津軽安藤氏・秋田安東氏の拠点とかかわっていることが注目される。,釈迦内も、安東氏の有力拠点である米代川河口を遡(さかのぼ)った檜山の上流に位置する。,こうしたことからすると、おそらくは得宗領を中心に渡り歩いた、幕府と密接にかかわる禅僧集団、あるいは後述の安藤氏と / 得宗領・安藤氏との関わり
通史編2(近世1) (伏見作事板の運上と太閤蔵入地)

具体的に慶長三年を例にとってみると、秋田氏の知行高五万二四四〇石に対し、同氏が代官として任命された太閤蔵入地,この秋田から敦賀までの廻漕は、表3のように秋田氏自身のほか、小野寺、戸沢、本堂、六郷、仁賀保、赤宇曽、,滝沢、内越、岩屋、そして津軽氏が担当しており、彼らは杉板を秋田山から山下げし、それを秋田領内の港から敦賀港,津軽為信は、再三にわたる秋田氏からの催促にもかかわらず、この三年間秋田山から杉板を受け取らず山出しをしていない,が庇護していた比内の浅利氏と秋田実季との間に浅利騒動が起こり、秋田氏との関係が悪化したためとも考えられている
通史編2(近世1) (浅利騒動の停戦命令)

また、前田利家については、天正十八年、利家が津軽の検地終了後に秋田を通過した際に秋田氏が一揆を仕掛けようとし,、それに対し自らは加担しなかったと浅利氏は報告しており(秋田家文書)、これによって利家は秋田氏に憤激し,秋田領からの伏見作事板徴収によって政権を強化するとともに、その軍役賦課によって大名秋田氏を中心とする「,秋田氏に対する擁護は、秋田氏を支えることによって杉板の円滑な徴収を実現するためであり、当時の取次とは政権,朱印状とは比内領を含む秋田山の領有権を保障するものであり、秋田氏はこの朱印状獲得に必死になっていたのである
通史編1(古代・中世) (藤崎系図)

もっとも、秋田実季によって万治元年(一六五八)に完成された『秋田家系図』(史料一一五三)は、冒頭から堯恒,までの部分が『藤崎系図』に酷似しており、また『藤崎系図』では「不分明」とされている部分が、『秋田家系図,しかし『秋田家系図』は実季苦心の作にして秘蔵のものとされていたにもかかわらず、それを一介の常陸国住人藤崎氏,は、全国各地の安藤氏ゆかりの地に散在していたわけで、『秋田家系図』の作者が『藤崎系図』を見た、あるいは,さらに、『藤崎系図』と『秋田家系図』では、その冒頭に気になる相違があるのである。
通史編2(近世1) (浅利頼平の怪死)

この二通の覚書は、浅利氏が秋田氏へ納めた軍役や物成、太閤蔵入地からの年貢米や伏見作事板の運上の決算報告書,であるが、浅利氏はこの覚書で、年貢徴収ができないのは秋田方よりの放火・「なてきり」が理由であると弁明している,この浅利氏の行動を秋田氏は、前田利家の調停を無視した不届きの行為であり、さらに自分に対して虚言を仕掛け,『浅利軍記』では、浅利・秋田両氏が大坂に上り何度も政権からの詮索があった後、やがて浅利方有利に傾いた時,の書状で、浅利氏が秋田氏家臣であることに相違なく、いかように処理してもかまわないこと、また比内地方への
通史編1(古代・中世) (清原氏の登場)

清原氏の登場 こうしたなか、安倍氏を制するだけの兵力がない頼義は、出羽山北(せんぼく)の清原氏に対して,清原氏の出自については不明な点が多いが、古代には吉彦(きみこ)(吉美侯)と称していた在地系の豪族で、元慶,の乱に際して赴任した秋田城司清原令望(よしもち)との姻戚関係を通じて清原真人(きよはらまひと)を名乗るようになった,在地性にこだわる安倍氏とは異なり、「真人」と中央の皇親系の姓を名乗ったのである。  ,頼義としても清原氏との交渉のさなかである。いまここで任を解かれてはたまらない。   / 清原氏の登場
通史編2(近世1) (太閤蔵入地の設定)

そして、津軽地方に太閤蔵入地が設定された時期は、秋田実季が秋田郡内の太閤蔵入地の代官に任命されたのと同,そして、その支配形態も、秋田氏と同じように、太閤蔵入地・津軽氏知行地の双方が各村に含まれ、代官として津軽氏,そして、このとき、舟賃は「秋田蔵米」を充てることになっていた(同前)。,また、七月には秋田実季をはじめとして、津軽氏は由利五人衆らとともに「隣郡之衆(りんぐんのしゅう)」として,領内にはいずれも太閤蔵入地が設定されており、後に、自領の蔵入地からの蔵米によって、作業にかかった費用は秋田氏
通史編2(近世1) (伏見滞在と派閥抗争)

奥羽の大名、つまり津軽氏をはじめ、南部氏、秋田氏、仙北・由利の小名らにとって文禄・慶長期における軍役とは,つまり、「御前之衆」は秀吉と大名との間に立ってその意向を伝える取次であり、その取次を行う相手は秋田氏と,秋田山からの杉板廻漕は、秋田実季を中心とし仙北・由利の小名衆や津軽氏をも含む「隣郡之衆」であったが、この,また長束正家は、この伏見作事板の朱印状の取次だけではなく、文禄三年以降の浅利氏と秋田氏との抗争である浅利騒動,、浅利騒動を秋田側に有利に展開させ、さらに伏見作事板の秀吉朱印状を取り次いで秋田氏に与えることで、秋田氏
通史編1(古代・中世) (下国伊駒安陪姓之家譜)

下国伊駒安陪姓之家譜 『下国伊駒安陪姓之家譜』(史料一一五五・写真127)は、安藤氏庶子系の子孫である,は『秋田家系図』に近いが、それぞれの人物の事跡についての記述は、『秋田家系図』とはかなり異なるところが,この家譜では、冒頭に、安藤氏の始祖として「安日(姓)長髄(名)」なる人物を置く。,これは『藤崎系図』『秋田家系図』では安日・長髄という兄弟、すなわち二人の人物であるとされているのとは大,またやはり他と異なり、安日長髄が下国氏を称したことも記述されている。  
通史編2(近世1) (豊臣政権の奉行衆)

豊臣政権の奉行衆 秋田氏へ杉板運上の朱印状を取り次いだ人物は、文禄元年は加賀の前田利家、文禄三年(一五九四,前田利家は、天正十八年(一五九〇)の奥羽仕置の際、秋田や津軽の検地奉行として派遣され、家康らと同様に分権派,しかし、翌文禄二年には秀吉の奉行として中央集権化を目指す集権派グループの長束正家や、浅利騒動において秋田氏,図32.越前国敦賀湊・若狭国小浜交通図  仙北の六郷氏・本堂氏・戸沢氏の太閤蔵入地は、「惣而川沿之地,実際、秋田領に設定された太閤蔵入地の年貢米の算用状(さんようじょう)は、秋田氏から集権化を目指す奉行衆徳善院
通史編2(近世1) (伏見築城と奥羽大名)

奥羽の大名の中で、この伏見指月城の普請にかかわったのは秋田実季だけであった。,の用材運上を命じられている(秋田家文書)。,また、翌文禄二年四月十日に秋田氏は、秀吉から下命された材木のほかに自分自身の材木の廻漕を敦賀の豪商道川,(どうのかわ)三郎右衛門に命じており、秋田氏は敦賀の道川氏と材木売却をめぐって関係を持っていた。,図28.安宅船復元模型  秋田氏は、すでに伏見城普請の材木を廻漕する以前の名護屋参陣中に材木の献上
通史編2(近世1) (北奥羽の大名の動向)

一方、北羽の安東(秋田)氏の場合、現在のところ、このころの統一政権とのかかわりを示すような史料は知られていないが,(のぶただ)を、「(秋田)城介殿」と記している。,秋田城介の官途は、中世の「蝦夷沙汰(えぞのさた)」に密接にかかわるものであるといわれ(遠藤巌「秋田城介,の復活」高橋富雄編『東北古代史の研究』一九八六年 吉川弘文館刊)、ここでの秋田城介という表記も、秀吉の,ここでみたように、南部・安東(秋田)氏のような北奥羽の大名は、中央の状況に対して敏感に反応していることがうかがわれる
通史編2(近世1) (浅利頼平の比内帰還)

天正十八年七月以後の奥羽仕置において、秋田の検地奉行として木村重茲、津軽の検地奉行として前田利家、仙北,秋田の検地奉行である木村重茲は、同年の八月ころから検地を実施し、十一月中旬に上洛している。,実季は出羽国檜山郡一職と秋田郡の内において合計五万二四三九石二斗七升三合を宛行(あてが)われるとともに,に必要な金や秋田杉運上の役が賦課されるのは当然であった。  ,浅利氏は、比内に帰還した直後から秋田方へ軍役・物成(ものなり)を務める家臣としての位置に置かれることになったのである
通史編1(古代・中世) (多様な系譜の在り方)

多様な系譜の在り方 このように、安藤氏の系図相互にさまざまな混乱やずれが生じたのは、上国と下国、のちには,これら四つの系図のなかではもっとも頻繁に使用される『秋田家系図』についてみると、藩祖秋田俊季の時期にも,していない代物(しろもの)であるばかりか、現存文書から再検討してみてもかなりの事実誤認を含むものであるし、秋田実季
通史編1(古代・中世) (安倍氏の登場)

安倍氏の登場 こうした豊かな北の世界で、現地の責任者として権力をふるったのが、鎮守府の筆頭在庁「奥六郡俘囚長,」安倍氏と、秋田城の筆頭在庁「出羽山北俘囚主」清原氏である。  ,(もののべのしわのむらじ)氏、磐井地方では陸奥磐井臣(むつのいわいのおみ)氏、和賀地方では和我君(わがのきみ,)(連)氏といった、その地の譜第の有力豪族ともいうべきものが史料にみえなくなる。  ,それらに代わって台頭してきた新興豪族の筆頭が安倍氏であったのである。 / 安倍氏の登場
通史編1(古代・中世) (南北朝の動乱と曽我氏)

南北朝の動乱と曽我氏 建武三年(延元元年、一三三六)正月、足利尊氏の御教書(みぎょうしょ)を受けた安藤家季,が合戦奉行となると、津軽曽我氏嫡流の貞光(さだみつ)もそれにしたがって、手始めに藤崎城・平内城を攻め、,この時には、秋田から浅利清連も合戦奉行として加わった。  ,破って、尊氏はいったん九州に走り、津軽の武士たちも再び動揺したようである。,しかし貞光は一貫して尊氏を支持して、津軽方面で戦い続けた。 / 南北朝の動乱と曽我氏
通史編2(近世1) (伏見木幡山城の築城)

伏見木幡山城の築城 秋田実季が伏見作事板の運上を命じられたのは文禄四年(一五九五)のことであったが、,なお、文禄四年には伏見指月城の杉板廻漕が秋田氏単独であったものが、翌慶長元年の伏見木幡山(こはたやま),またこの時、南部信直だけではなく、仙北の小名衆や秋田実季も伏見作事板運上の朱印状下付を待って伏見に詰めていた,結局、この朱印状は三月になってようやく発給され、秋田実季や仙北の小野寺義道(よしみち)には三月六日に出,に公認するものであり、秋田実季としてはこの朱印状が獲得できるかどうかは死活問題であった。
通史編1(古代・中世) (分裂した蝦夷沙汰)

分裂した蝦夷沙汰 もっとも、北朝で征夷大将軍に任命され、幕府を開いた尊氏には、もはや鎮守府将軍に任命,観応元年(正平五年、一三五〇)、尊氏と対立した足利直義は、南朝によってその鎮守府将軍に任じられている(,延文二年(正平十二年、一三五七)、秋田小鹿島を安藤孫五郎入道が押領するという紛争が発生しているが(史料七一六,)、これは秋田の蝦夷沙汰のため、鎮守府将軍足利直義が安藤孫五郎を抜擢したのが原因だと推測されている。,尊氏は安藤師季らをその処理に当らせた。  
通史編2(近世1) (二 浅利騒動への加担)

二 浅利騒動への加担 浅利騒動(あさりそうどう)とは、大名秋田実季と、その領主権力から独立を果たそうとする,しかしそれは、偶然にもたらされたものではなく、秋田氏が置かれていた歴史的条件によって必然的に起こったものであった
通史編2(近世1) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

と手工業」田口勝一郎編『図説秋田県の歴史』112頁 1987年 河出書房新社刊 一部改変して掲載 8,と手工業」田口勝一郎編『図説秋田県の歴史』112頁 1987年 河出書房新社刊 33 塩谷順耳「秋田杉,と手工業」田口勝一郎編『図説秋田県の歴史』110頁 1987年 河出書房新社刊 34 小浜市 羽賀寺蔵, 文禄4年11月5日付 東北大学附属図書館蔵秋田家文書 能代市史編さん室写真提供 42 豊臣秀吉朱印状写, 秋田藤太郎宛 慶長2年2月2日付 東北大学附属図書館蔵秋田家文書 能代市史編さん室写真提供 43 『
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

また蠣崎季広、湊家をはじめ津軽・秋田の諸氏と姻戚を結ぶという。,●永禄五~十二年(一五六二~六九)の間、越後上杉氏、秋田方面へ船を派遣し、秋田沿海の通過と諸浦出入の保証,●天正十七年(一五八九)、大浦為信、秋田の安東実季と和睦、秋田勢の比内出兵に援軍を送るという(ただし、,秋田勢の比内攻撃は天正十八年、相手は浅利氏でなく南部氏で、従来誤り伝えられていたもの) ●大浦為信、,浅利頼平を十数年庇護せしこと、天正十八年、秋田家の比内回復後、比内の故地に復帰させしこと、秋田実季の申状
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●天正十八年(一五九〇)、この頃、大浦氏に扶養されていた浅利頼平、秋田氏の比内回復後、同地へ復帰する。,●文禄元年(一五九二)十二月晦日、津軽為信、肥前名護屋において、南部氏、秋田氏との和解を望み、徳川家康,●慶長三年(一五九八)八月二十六日、津軽信建、秋田実季へ書状を遣し、浅利頼平の身上につき、津軽氏の無関係,●元和五年(一六一九)八月六日、津軽信枚、秋田藩重臣梅津政景へ使者秋田金左衛門を遣わし、帷子を贈る。,●寛永四年(一六二七)七月十一日、津軽信枚の家臣戸沢勘兵衛、秋田久保田城下にて秋田藩陪臣と喧嘩に及ぶ。
通史編1(古代・中世) (系譜認識の変化)

こうした中世以来のさまざまな伝承を統合し、それを北奥世界の自立意識に適合するように改変して成立したのが安藤氏の,安日・高丸・安倍氏、いずれも、中央からの支配強化に対して激しく抵抗した強烈なイメージに包まれており、まさに,安藤氏系譜の特異性は際立っている。  ,たとえば『秋田家系図』では、中央への反抗伝承を和らげ、また敗戦の歴史などは切り捨てて、相当美化されたものとなっているのは,織豊政権の時代を経て、本州の北の果てまで中央政権に組み込まれるようになると、秋田氏のなかでも「勅免の論理
通史編1(古代・中世) (鎮守府将軍清原武則)

鎮守府将軍清原武則 前九年合戦で安倍氏が滅亡した後は、その論功行賞によって清原武則が俘囚出身者としてははじめて,鎮守府将軍になり、清原氏は秋田城在庁に加えて鎮守府在庁の指揮権をも握ることになった。,清原氏はこうして安倍氏が奥六郡内に有していた権限を受け継ぎ、本拠も奥六郡に移し、これから北の世界に勢力
通史編1(古代・中世) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

口絵14 南津軽郡大鰐町 大円寺蔵 口絵15 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町 熊野那智大社蔵 口絵16 秋田系図, 秋田美篤氏蔵 口絵17 広島県豊田郡安芸津町 浄福寺蔵 広島県立文書館寄託 口絵18 市立函館図書館,28 日本紀標註巻6 弘前市蔵 写真29 日本書紀 斉明天皇4年4月条 弘前市立図書館蔵 写真30 秋田県秋田市広報課写真提供,写真125 東北大学附属図書館蔵秋田家文書 能代市史編さん室写真提供 写真126 秋田家系図 秋田美篤氏蔵,写真163 秋田系図 秋田美篤氏蔵 写真164 陸奥国宣 建武2年3月23日付 八戸市立図書館蔵南部家文書
通史編1(古代・中世) (平泉藤原氏)

平泉藤原氏 こうした清原氏同士のつぶしあいの末に生き残ったのは結局清衡のみであった。,にもつこの清衡ただ一人が二大豪族の継承者として残ったことが、鎮守府の実質的な軍政権を継承し、平泉藤原氏の,平泉藤原氏時代の基礎が築かれていくことになる。  ,後三年合戦後に、清原氏に代わって、すでに出羽城介の権限をも吸収していて巨大な軍政権を握る職となっていた,清衡の実質的な支配地域は、現在の青森県・岩手県・秋田県のほぼ全域にわたっていた。 / 平泉藤原氏
通史編3(近世2) (戦場に駆り出された民衆)

軍夫 秋田姥ヶ平 祭祀米 毎年5俵 金木村農民。,姓は後日のもの  7 榊田幸蔵 59歳 諸手足軽 5石2斗1升 秋田矢島領吉沢村 永世17俵,家督は息子彦蔵へ  8 岩崎彦蔵 54歳 諸手足軽 5石2斗 秋田矢島領吉沢村 永世17俵,家督は息子文吉へ  9 豊田音吉 53歳 諸手足軽 5石2斗1升 秋田矢島領吉沢村 永世15,俵 家督は息子音五郎へ 10 岩沼小兵衛 28歳 諸手足軽 不明 秋田矢島領吉沢村 永世15俵 家督は
通史編2(近世1) (北奥羽の領知確定)

を認める朱印状を改めて受け取り、秋田氏や仙北・由利の大名・小名衆も、天正十八年十二月から翌十九年正月にかけて,豊臣政権はこれら由利の小名や仙北衆・秋田氏、そして津軽氏を「隣郡之衆」に編成することにより、太閤蔵入地,戸沢九郎 出羽国仙北之内北浦郡 44,350石 天正19年1月17日 湊安東太郎 出羽国檜山郡一織・秋田郡之内,を獲得し、安東(秋田)氏の被官身分から脱し独立の大名となった。  ,この朱印状と同日付でほぼ同文の朱印状は、奥羽の地では秋田実季・南部信直・小野寺義道に発給されているが、
通史編1(古代・中世) (応永十八年の衝突)

応永十八年の衝突 応永十八年(一四一一)、南部師行は葛西持信(かさいもちのぶ)の支援を受けて、秋田湊,写真165 『聞老遺事』 目録を見る 精細画像で見る  室町期、安藤氏を除いて、国人相互間に奥州探題,つまり、奥州探題体制が及ぶのは、南奥羽から南部氏の本拠である糠部郡までで、夷島・津軽・秋田という地域は,安藤氏は、夷島・北奥羽の沿岸地域を中心として交易の主導権を握り、北方の産物を畿内へ送り、畿内・西国の産物,南部氏への葛西氏の支援は、奥州探題体制側からの支援であったということができよう。
通史編1(古代・中世) (陸奥・出羽の在庁官人たち)

陸奥側では胆沢城(田村麻呂の時代に鎮守府が多賀城から移された)の鎮守府将軍が、出羽側では秋田城の出羽城介,そしてその鎮守府将軍・秋田城介には、次第に源氏・平氏といった軍事貴族が任命されるようになっていった。,鎮守府将軍を挙げれば、平国香(くにか)・良持(よしもち)・良孫・良文(よしふみ)・貞盛(さだもり)といった平氏一族,一方の秋田城介には、藤原利方・源満生・平兼忠(かねただ)(繁盛(しげもり)の子)・源頼盛(よりもり)(
通史編3(近世2) (政府軍の苦戦)

政府軍の苦戦 七月六日より秋田城下から薩摩・長州・佐賀藩など官軍諸隊が、庄内方面へ向け進軍を開始した,二十八日にかけては、鳥海山(ちょうかいさん)を越えてきた同盟軍の奇襲によって矢島藩も陥落し、矢島藩主生駒氏は,秋田領へ逃げ延びた。
通史編2(近世1) (知行安堵と検地)

佐竹氏が領有する二一万六七五八貫文の知行高が認められている。,また、戸沢九郎、秋田実季(あきたさねすえ)・小野寺孫十郎のほか、由利十二頭などの北出羽の諸大小名は、天正十八年,たとえば、秋田実季は、天正十八年十二月に上洛し(『新羅之記録』下巻)、翌年一月に領知高五万二四〇〇石の,安堵と(『秋田市史』第八巻中世 二七一号)、蔵入地二万六〇〇〇石余が設定される(同前二七〇号)。,また、さきに触れたように伊達氏は会津・安積・磐瀬を没収され、秋田・小野寺・戸沢氏などは太閤蔵入地が設定
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)

なかがわただしげ)・津金胤久(つがねたねひさ)は、家康の命を受ける形で北奥羽の諸大名に対して書状を発し、南部利直・秋田実季,日後、前田玄以(まえだげんい)・増田長盛(ましたながもり)・長束正家(なつかまさいえ)の三奉行連署で、秋田実季,さらに家康から、出陣をねぎらったうえで帰国を命じる書状が、南部・六郷・小野寺・秋田・仁賀保・赤尾津氏に,に乗りだし、北出羽の秋田・戸沢・由利郡内の各氏の協力も得て、翌慶長六年四月に酒田城を陥落させ、庄内は再, 中村 相馬利胤 60,000  〃  岩城平 鳥居忠政 120,000 出羽 秋田
資料編2(近世編1) (第一章 編年史料出典・典拠一覧)

あ 秋田家文書 …………………………………………東北大学 秋田藩家蔵文書………………………………秋田県公文書館,う 上杉家文書………………………東京大学史料編纂所影写本 梅津政景日記…………………………………秋田県公文書館,              東京大学史料編纂所写真帳    か 川嶋文書………………………………二戸市 川嶋亮太氏蔵,東照宮御実紀………国史大系本「徳川実紀」(吉川弘文館刊) 遠野南部家文書………………………府中市 南部光徹氏蔵,封内事実秘苑…………………弘前市立図書館一般郷土資料 本城家文書……………………………神戸市 本城善一氏蔵
通史編2(近世1) (二代信枚の動向)

さて、信枚時代の次の大きな出来事となったのは、秋田藩との境目の決定であった。,九月二十五日に、町奉行島田利正のあっせんにより、秋田領と津軽領との境界について、津軽弘前藩家老服部康成,・白取瀬兵衛から秋田藩家老梅津憲忠(政景の兄)のもとに、来月五日ころに「すこの山境目」(青森県岩崎村と,一方、秋田藩側は佐竹義宣は秋田実季の所領を幕府から拝領して昨今移ってきたばかりでよくわからないとしながら,弘前藩側は尻合石を境目として主張し、秋田藩側は矢立の杉を境目として主張し、ここでも両者に食い違いが出る
通史編1(古代・中世) (安藤愛季の津軽侵略)

津軽侵略 安藤愛季(写真199)は、天文八年(一五三九)に出羽国檜山城主下国舜季(しものくにきよすえ)と秋田城主湊堯季,みなとたかすえ)の娘の間に二男として生まれ、天文二十一年に檜山城主を嗣ぎ、元亀元年(一五七)に檜山・秋田湊両城,愛季の家臣であるにもかかわらず、「津軽之南部」を名乗って上洛させたのは、山科家と浪岡北畠氏との関係から,一方、安藤氏と浪岡北畠氏との関係では、たとえば、為信に攻められた顕村は愛季の娘を正室としていた。,愛季が為信による浪岡北畠氏の攻略後、津軽に侵攻したのは、愛季と浪岡北畠氏との間にこのような関係があったからである
資料編1(古代・中世編) ([十五世紀])

●応永十八年(一四一一)、南部守行、秋田湊の安藤鹿季と戦う。葛西持信これを援助するという。,●応永十九年(一四一二)、秋田南部合戦。その最中に「奥東之夷」「釜石浦之夷」が蜂起するという。,●康正二年(一四五六)、この年、秋田湊氏と南部氏が抗争し、北奥羽の動乱におよぶという。,円福(幕府使節僧か)、八戸政経に秋田・比内・河北・津軽の情勢を書き送る。,巻頭の「日本本国之図」に、夷島・夷地・津軽大里・秋田城が記載。
通史編2(近世1) (湊合戦と惣無事令違反)

さらに、このとき、当面の措置として、秋田を豊臣直轄領としたうえで、南部・上杉氏にゆだねることを決めたとも,しかし、秋田の直轄化はすぐには実施されなかった(次節参照)。,外交を担当していた湊右近(北畠季慶)・湊宮内大輔(南部季賢(すえかた))らを上洛させ(遠藤巌「安藤・秋田氏,このとき、南部氏の内紛についても「津軽」が謀略に及んでいることを指摘している。
通史編2(近世1) (人質徴収)

じられ(資料近世1No.一六 なお、以下の記述は長谷川前掲書による)、八月二十七日には出羽仙北の戸沢氏にも,最上氏も、八月に最上義光が妻子を伴って上洛を果たしているが(「伊達家文書」五六六号)、これは、大名自身,軍事動員が可能となり、最終的には、文禄元年(一五九二)の肥前名護屋への出陣、慶長元年(一五九六)からの秋田,同前)、出仕は最早避けられない状況にあった(『新羅之記録』下巻によると、蠣崎慶広(かきざきよしひろ)は秋田実季,出羽由利郡の小名衆は十二月末までに上洛し、このときに領知宛行(あてがい)の朱印状が発給され、北出羽の秋田実季
通史編2(近世1) (鷹献上による豊臣政権との折衝)

同氏の鷹献上の実態と、豊臣政権から下命された鷹保護の状況について記述することにする。,出羽国の秋田安東氏をはじめとする大名・小名が領知安堵を石高表示でなされるのは、天正十八年末から天正十九年,(一五九一)正月にかけてであるが、秋田安東氏が当知行を認められたのは、天正十八年二月のことであった(「,秋田家文書」)。,したがって津軽氏の当知行安堵は、秋田安東氏とほぼ同じ時期になされた可能性もある。  
通史編2(近世1) (九戸一揆の鎮圧)

鎮圧 九月一日、家康より派遣された井伊直政(いいなおまさ)を含む仕置奉行の堀尾吉晴・浅野長吉・蒲生氏郷,この籠城戦には信直自身のほか、浅野長吉・蒲生氏郷・堀尾吉晴・井伊直政ら上方の軍勢が参陣したが、ほかに出羽国鹿角,(かづの)郡浄法寺(じょうほうじ)より仙北の小野寺義道・秋田実季・仁賀保勝利らが、そして津軽為信と蠣崎慶広,この九戸城の包囲軍は、仕置奉行の蒲生氏郷が村松に、浅野長吉は城の本丸より北の八幡社に、堀尾吉晴はその隣,津軽為信を含む秋田氏・小野寺氏・仁賀保氏らの軍勢は若狭館の向かいの穴手(あなて)に陣を構え、信直らとともに
通史編1(古代・中世) (北の認識)

この点から見て興味深いのが、津軽安藤氏関係の史料群である。,たとえば『秋田家系図』(史料一一五三)冒頭の、著名な安藤氏の始祖説話のなかで、安日王が流されたのは津軽,こうした津軽ないし出羽方面を北と意識するものは、やはり安藤氏関係の貴重な史料群である、千葉湊家の文書・
資料編1(古代・中世編) (二 乳井茶臼館の歴史)

福王寺門前集落(寺内)のすぐ南にそびえる茶臼館の立地から考えて、館の築造者はこの福王寺別当乳井氏以外には,乳井氏は、もともと独立の領主であったが、天正二年(一五七四)、福王寺玄蕃が大光寺城主瀧本重行に謀殺されたことから,され、六羽川で行われた合戦では、為信は一時窮地に追い込まれる(蠣崎季広書状写、蠣崎慶広書状写、いずれも秋田藩採集文書,『津軽一統志』『封内事実秘苑』『永禄日記』など近世の記録は、いずれも、このとき「秋田の比山勢」が侵入して
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