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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(古代・中世)
(陸奥・出羽の在庁官人たち)
陸奥側では胆沢城(田村麻呂の時代に鎮守府が多賀城から移された)の鎮守府将軍が、出羽側では
秋田城
の出羽城介,そしてその鎮守府将軍・
秋田城
介には、次第に源氏・平氏といった軍事貴族が任命されるようになっていった。,一方の
秋田城
介には、藤原利方・源満生・平兼忠(かねただ)(繁盛(しげもり)の子)・源頼盛(よりもり)(
通史編3(近世2)
(総督軍の集結)
秋田城
下明徳館(めいとくかん)に陣を置いた総督府の中では、会津・庄内討伐に加え、仙台・米沢藩ら新たに朝敵,さらにこの時、仙台藩使者等も
秋田城
下へ訪れており、秋田藩の動向が注目されていた。 ,この秋田藩の藩論決定により、
秋田城
下に滞在していた仙台藩士のうち六人が斬首され、五丁目橋のたもとに並べられた
通史編2(近世1)
(北奥羽の大名の動向)
この返書の中で、秀吉は、当時すでに
秋田城
介(あきたじょうのすけ)から左中将となっていた織田信長の長子信忠,
秋田城
介の官途は、中世の「蝦夷沙汰(えぞのさた)」に密接にかかわるものであるといわれ(遠藤巌「
秋田城
介,の復活」高橋富雄編『東北古代史の研究』一九八六年 吉川弘文館刊)、ここでの
秋田城
介という表記も、秀吉の
通史編1(古代・中世)
(鎮守府将軍清原武則)
安倍氏が滅亡した後は、その論功行賞によって清原武則が俘囚出身者としてははじめて鎮守府将軍になり、清原氏は
秋田城
在庁
通史編1(古代・中世)
(乱の勃発)
乱の原因は、前年の不作にもかかわらず、出羽国司・
秋田城
司たちが農民から収奪を繰り返したことにある。,時の
秋田城
介は良岑近(よしみねのちかし)で、『藤原保則伝』の名文によれば、彼は「聚(あつ)め斂(おさ),(かせい)に抵抗して、多数の俘囚(ふしゅう)(蝦夷のうち律令国家に服属した者)が組織的に立ち上がり、
秋田城
通史編1(古代・中世)
(大光寺楯の合戦)
またこの光高は、北条方が小鹿島・
秋田城
に楯を築いて抵抗し、矢立峠あたりから津軽方面に侵入する動きを示したのに
通史編1(古代・中世)
(鎮守府将軍源頼義)
またこれを機会に、出羽では
秋田城
介が中世まで任命されることがなくなった。
通史編1(古代・中世)
(藤原保則の登用)
保則は、「蝦夷反乱の原因は
秋田城
司の苛政にある。
通史編1(古代・中世)
(湊安藤氏の誕生)
の動乱が起きていたというちょうどそのころ、下国安藤盛季の弟鹿季が足利義満に謁見ののち秋田湊に移住し、
秋田城
介顕任,しかしながら、
秋田城
介の一党が南朝方に加担したことにより、責任を問われて改替され、それへの抵抗として津軽側
通史編1(古代・中世)
(夷語を解する小野春風)
反乱を起こした蝦夷の根拠地は、「
秋田城
下賊地」の「上津野(かづの)(鹿角)・火内(ひない)(比内・大館
資料編1(古代・中世編)
([九世紀])
●延暦二十三年(八〇四)十一月二十二日、
秋田城
を廃止。,●元慶二年(八七八)四月四日、出羽守、
秋田城
の焼失を報告。,この日、
秋田城
にて再び大敗。,●元慶二年(八七八)六月八日、小野春風を鎮守将軍として、
秋田城
を救援。陸奥出羽按察使源多、辞意。
通史編1(古代・中世)
(異類の来襲)
二年(九三九)四月、出羽国の北方で俘囚の反乱が勃発し、反乱軍は五月にはさらに「異類(いるい)」を率いて
秋田城
下,六月には陸奥から援軍が送られたが(史料三七六)、なおも戦闘は続いていて、時の
秋田城
司介源嘉夫(よしお)
通史編3(近世2)
(政府軍の苦戦)
政府軍の苦戦 七月六日より
秋田城
下から薩摩・長州・佐賀藩など官軍諸隊が、庄内方面へ向け進軍を開始した
通史編1(古代・中世)
(三十八年戦争の時代)
七三三)に、出羽柵を秋田村の高清水岡(たかしみずのおか)に移すという記事があって(史料九二)、これが
秋田城
,写真45
秋田城
跡 復元された外郭東門と築地塀(秋田県秋田市) そしてこの多賀城と秋田の出羽柵
通史編1(古代・中世)
(清原氏の登場)
不明な点が多いが、古代には吉彦(きみこ)(吉美侯)と称していた在地系の豪族で、元慶の乱に際して赴任した
秋田城
司清原令望
通史編1(古代・中世)
(延久蝦夷合戦の実相)
しかも、前九年合戦を契機に出羽城介が任命されなくなり、陸奥国胆沢城に置かれた鎮守府が出羽国
秋田城
をも管轄,の率いる国司直属軍を中心とした国府軍、②鎮守府将軍清原武則の孫真衡を主将とする清原一族および鎮守府・
秋田城
,津軽海峡~北海道方面を目指したのに対し(その経路には異説もある)、清原真衡率いる鎮守府軍が別働隊として
秋田城
通史編1(古代・中世)
(前九年合戦の勃発)
前九年合戦の勃発 永承六年(一〇五一)、陸奥守藤原登任が、安倍氏の勢力伸張を制するために、
秋田城
介平重
通史編1(古代・中世)
(安藤愛季の津軽侵略)
津軽侵略 安藤愛季(写真199)は、天文八年(一五三九)に出羽国檜山城主下国舜季(しものくにきよすえ)と
秋田城
主湊堯季
通史編1(古代・中世)
(北の富の搾取)
蝦夷の内部でも、その時々の情勢によって、ある蝦夷の村は国司(鎮守府将軍・
秋田城
介)についたり、また別の
通史編1(古代・中世)
(安倍氏の登場)
こうした豊かな北の世界で、現地の責任者として権力をふるったのが、鎮守府の筆頭在庁「奥六郡俘囚長」安倍氏と、
秋田城
通史編1(古代・中世)
(北奥における建郡)
図30 北奥の郡郷制 ここで注目されるのは、
秋田城
と関係の深い河北郡を除いて、他のすべての新郡,一方またⅢの立場からは、①古代において津軽やその北の渡島の蝦夷は
秋田城
の管轄下にあり、津軽・渡島は出羽国
通史編1(古代・中世)
(渡嶋津軽津司)
こうしたことから考えて、役所そのものは、おそらくのちに
秋田城
の置かれたあたりか、あるいは比羅夫も軍船を
資料編1(古代・中世編)
([十一世紀])
●長和四年(一〇一五)十一月四日、
秋田城
介奉好、藤原道長に貢馬。
資料編1(考古編)
((4)漆器・木器生産)
東北地方においても供給・使用されている遺跡は、
秋田城
・胆沢城などの古代の城柵や官衙遺跡、あるいはそれと
資料編1(古代・中世編)
([十六世紀])
所載の「日本行基図」に、
秋田城
・津軽・竹浜(外浜か)・守曽利(宇曽利か)・夷地などの地名が記される。,●天正三年(一五七五)十一月、織田信長、嫡子信忠を
秋田城
介に任官させ、さらに家督を譲る。
資料編1(古代・中世編)
([十五世紀])
巻頭の「日本本国之図」に、夷島・夷地・津軽大里・
秋田城
が記載。
通史編1(古代・中世)
(新編 弘前市史 通史編1(古代・中世) 目次)
131 第五節 謎の一〇・一一世紀 ………………………………………… 138 一 鎮守府・
秋田城
体制
資料編1(古代・中世編)
([十四世紀])
●応永元年(一三九四)、安藤庶季(鹿季の誤りか)、将軍義満の命を受けて
秋田城
介顕任を滅ぼし、これに替わるという
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
……………………………… 続日本紀 38 ●宝亀十一年(七八〇)八月二十三日、
秋田城
・由利柵の防御を命,……………………………… 日本後紀 58 ●延暦二十三年(八〇四)十一月二十二日、
秋田城
を廃止。,………………………… 日本三代実録 74 ●元慶二年(八七八)四月四日、出羽守、
秋田城
の焼失を報告。,この日、
秋田城
にて再び大敗。,巻頭の「日本本国之図」に、夷島・夷地・津軽大里・
秋田城
が記載。
資料編1(古代・中世編)
([八世紀])
●宝亀十一年(七八〇)八月二十三日、
秋田城
・由利柵の防御を命ずる。
資料編1(古代・中世編)
(出典・典拠一覧(第一章・第二章))
秋田家文書 …………………… 原本〔宮城県仙台市-東北大学〕・『文化』九-九・『秋田家蔵品展観目録並解説』
秋田城
介御一代荒増記
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