機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 29件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 1ページ
通史編4(近・現代1)
(弘前高等学校の開校)
初代校長には鹿児島県立第一鹿児島中学校長
秋田実
が任命された。,写真191 初代弘前高等学校校長
秋田実
志願者は文科甲類三四五人、文科乙類六八人、理科甲類一一五人
通史編2(近世1)
(伏見木幡山城の築城)
伏見木幡山城の築城
秋田実
季が伏見作事板の運上を命じられたのは文禄四年(一五九五)のことであったが、,またこの時、南部信直だけではなく、仙北の小名衆や
秋田実
季も伏見作事板運上の朱印状下付を待って伏見に詰めていた,結局、この朱印状は三月になってようやく発給され、
秋田実
季や仙北の小野寺義道(よしみち)には三月六日に出,にかけては、出羽国比内(ひない)郡の領有をめぐって紛争の最中であった比内の浅利頼平(あさりよしひら)と
秋田実
季,伏見作事板の伐採と廻漕を命じる朱印状は、事実上比内郡の領有権をその朱印状獲得者に公認するものであり、
秋田実
季
通史編2(近世1)
(秋田安東実季の名護屋参陣)
したのか不明であるが、文禄元年十二月晦日付の楢山剱帯(ならやまたてわき)宛ての南部信直書状によれば、信直と
秋田実
季,図34.
秋田実
季僧形像 翌文禄二年末に実季は秋田へ帰国したが、この年は「領知方算用年(りょうちかたさんようのとし
通史編2(近世1)
(二 浅利騒動への加担)
二 浅利騒動への加担 浅利騒動(あさりそうどう)とは、大名
秋田実
季と、その領主権力から独立を果たそうとする
通史編1(古代・中世)
(多様な系譜の在り方)
していない代物(しろもの)であるばかりか、現存文書から再検討してみてもかなりの事実誤認を含むものであるし、
秋田実
季
通史編2(近世1)
(太閤蔵入地の設定)
そして、津軽地方に太閤蔵入地が設定された時期は、
秋田実
季が秋田郡内の太閤蔵入地の代官に任命されたのと同,また、慶長元年(一五九六)三月、秀吉は仁賀保(にかほ)兵庫ら由利五人衆に、
秋田実
季より「伏見向嶋橋板」,また、七月には
秋田実
季をはじめとして、津軽氏は由利五人衆らとともに「隣郡之衆(りんぐんのしゅう)」として,これら「隣郡之衆」にも、三月に由利五人衆が指示されたように、やはり、
秋田実
季の領内の蔵入地からの蔵米を
通史編2(近世1)
(浅利騒動と津軽氏)
秋田氏の攻撃による浅利領の被害地図 この間、文禄三年末に上洛し、翌文禄四年六月ごろに帰国した
秋田実
季,為信は、天正十八年に南部信直から独立を果たす際に
秋田実
季と講和し、実季が比内から南部勢を排除する際に支援
通史編2(近世1)
(人質徴収)
同前)、出仕は最早避けられない状況にあった(『新羅之記録』下巻によると、蠣崎慶広(かきざきよしひろ)は
秋田実
季,出羽由利郡の小名衆は十二月末までに上洛し、このときに領知宛行(あてがい)の朱印状が発給され、北出羽の
秋田実
季
通史編2(近世1)
(伏見築城と奥羽大名)
奥羽の大名の中で、この伏見指月城の普請にかかわったのは
秋田実
季だけであった。,これより先、
秋田実
季は、文禄元年十一月八日に秀吉から、朝鮮出兵用の軍船である大安宅船(おおあたけぶね)
通史編2(近世1)
(伏見作事板の運上と太閤蔵入地)
隣郡之衆」による杉板運上は、以後慶長四年まで継続しているが、伏見作事板は、北奥羽の大名・小名の場合、
秋田実
季,賦課された伏見作事杉板 年代 大名 文禄4年 慶長元年 慶長2年 慶長3年 慶長4年 計
秋田実
季,たらんとして「隣郡之衆」として編成されることを拒否したとも、また、この時期津軽氏が庇護していた比内の浅利氏と
秋田実
季
通史編2(近世1)
(知行安堵と検地)
また、戸沢九郎、
秋田実
季(あきたさねすえ)・小野寺孫十郎のほか、由利十二頭などの北出羽の諸大小名は、天正十八年,たとえば、
秋田実
季は、天正十八年十二月に上洛し(『新羅之記録』下巻)、翌年一月に領知高五万二四〇〇石の
通史編2(近世1)
(九戸一揆の鎮圧)
井伊直政ら上方の軍勢が参陣したが、ほかに出羽国鹿角(かづの)郡浄法寺(じょうほうじ)より仙北の小野寺義道・
秋田実
季
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)
なかがわただしげ)・津金胤久(つがねたねひさ)は、家康の命を受ける形で北奥羽の諸大名に対して書状を発し、南部利直・
秋田実
季,日後、前田玄以(まえだげんい)・増田長盛(ましたながもり)・長束正家(なつかまさいえ)の三奉行連署で、
秋田実
季
通史編1(古代・中世)
(藤崎系図)
もっとも、
秋田実
季によって万治元年(一六五八)に完成された『秋田家系図』(史料一一五三)は、冒頭から堯恒
通史編2(近世1)
(浅利騒動の停戦命令)
長束は、文禄三年・文禄四年・慶長元年の三年間、杉板運上にかかわる秀吉朱印状を
秋田実
季へ取り次いでおり、
通史編2(近世1)
(奥羽大名の名護屋参陣)
(おおさきよしたか)、大谷吉継(おおたによしつぐ)の配下には上杉景勝・由利五人衆、木村重茲の配下には
秋田実
季,津軽為信・南部信直らの署名と花押が認められ、蒲生氏郷(がもううじさと)・最上義光(もがみよしあき)・
秋田実
季
通史編2(近世1)
(浅利頼平の比内帰還)
なお天正十八年、浅利領からは帆柱(ほばしら)三本、金子(きんす)一枚、大鷹一羽等が、
秋田実
季家臣に渡され
通史編2(近世1)
(伏見滞在と派閥抗争)
秋田山からの杉板廻漕は、
秋田実
季を中心とし仙北・由利の小名衆や津軽氏をも含む「隣郡之衆」であったが、この,「隣郡之衆」の中心である
秋田実
季に対して伏見作事板にかかわる秀吉の朱印状の取次を果たしていたのは、主として
通史編2(近世1)
(名護屋における「日本之つき合」)
まで先代からの遺恨(いこん)がありなかなか和睦(わぼく)できなかったが、今度の名護屋参陣において当主
秋田実
季, 信直は、豊臣政権のもとでは戦国期以来抗争を続けた秋田氏とも関係を修復しなければならないと察知し、
秋田実
季
通史編2(近世1)
(中世の北国海運)
文禄四年(一五九五)からの伏見作事板の運送に、北陸の運送業者が
秋田実
季(さねすえ)領から敦賀への杉板の
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと津軽氏)
城とりまき候衆」、すなわち牧使城を攻囲する軍勢として、蒲生氏郷、最上義光、木村重茲に属する一手として
秋田実
季
通史編2(近世1)
(北奥羽の領知確定)
この朱印状と同日付でほぼ同文の朱印状は、奥羽の地では
秋田実
季・南部信直・小野寺義道に発給されているが、
通史編2(近世1)
(二代信枚の動向)
一方、秋田藩側は佐竹義宣は
秋田実
季の所領を幕府から拝領して昨今移ってきたばかりでよくわからないとしながら
通史編2(近世1)
(江戸時代初期の大名課役)
諸大名は江戸に参集した後、伊達政宗・上杉景勝らは独自編成、相馬利胤(そうまとしたね)・南部利直・
秋田実
季
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●慶長元年(一五九六)七月、この月、
秋田実
季、津軽為信へ伐採した伏見作事用杉板を渡し、為信受領して敦賀,●慶長二年(一五九七)二月、これより先、
秋田実
季、津軽為信へ伏見作事用杉板を渡す。,●慶長二年(一五九七)三月、この月、津軽信枚、
秋田実
季の婿になるという。,●慶長三年(一五九八)十二月、これより先、
秋田実
季、津軽為信へ伏見作事用杉板を渡す。,●慶長四年(一五九九)十二月十三日、これより先、
秋田実
季、津軽為信へ伏見作事用杉板を渡す。
通史編2(近世1)
(初代為信の動向)
藩境を接する
秋田実
季は常陸国宍戸(ししど)(現茨城県西茨城郡友部町)へ転封され、代わりに常陸国水戸(現茨城県水戸市
通史編2(近世1)
(豊臣再仕置軍の奥州下向)
この朱印状とほぼ同文の六月二十日付の秀吉朱印状は、確認できる限りで為信のほか、伊達政宗・
秋田実
季(さねすえ
資料編1(古代・中世編)
([十六世紀])
大浦為信、浅利頼平を十数年庇護せしこと、天正十八年、秋田家の比内回復後、比内の故地に復帰させしこと、
秋田実
季
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
大浦為信、浅利頼平を十数年庇護せしこと、天正十八年、秋田家の比内回復後、比内の故地に復帰させしこと、
秋田実
季
/ 1ページ