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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (総督軍の集結)

藩や本荘(ほんじょう)藩など周辺諸藩とともに秋田藩の勤皇方への帰順を要求した。,秋田藩にとって大きな懸念は、同盟脱退に伴う諸藩からの報復であった。,さらにこの時、仙台藩使者等も秋田城下へ訪れており、秋田藩の動向が注目されていた。  ,秋田藩は七月三日、重役会議の末に勤皇方に付くことと、同盟脱退を決定した。  ,七月四日、秋田藩主佐竹義尭(よしたか)は総督府に庄内征討の先鋒を願い出、秋田藩の態度を内外に明らかにした
通史編3(近世2) (白石同盟の動き)

その途中で山中は、秋田藩出役桜庭富蔵が帰藩するのに出会い、仙台藩と米沢藩の談合内容に接したのであった。,山中兵部は、今後の方向性を協議すべく、同道の佐藤英馬を先行させて秋田藩重役との会見を申し込み、閏四月八日,この山中がもたらした②の情報は、秋田藩にとっては初めて触れる情報であり、同日中に白石会議出席要請の廻状,が秋田藩へも到着したため、九日に秋田藩使者も仙台へ向けて出立した。,秋田藩は翌日、家老戸村十太夫と用人金大之進を使者として仙台へ派遣した。
通史編3(近世2) (庄内征討命令をめぐって)

反政府軍に対する奥羽諸藩の勢いが強くなる中で、閏四月六日討庄の厳命を受けた秋田藩は、七日、庄内藩征討に,対する庄内藩も受けては立つが、秋田藩に重ねて周旋を願いたいという返答をしたのであった(『秋田県史』第四巻,そこには、罪状の不透明さや曖昧(あいまい)さなどが秋田藩の行動を阻む大きな要因としてあったのである。,四月中旬、秋田藩は、本格的な出兵行動を起こすが、一方では総督府へ問罪のうえでの征討を嘆願していた。,つまり、秋田藩がとうとう庄内藩へ向けて軍事行動を起こす決定をしたのであった(『弘前藩記事』一)。
通史編3(近世2) (盛岡藩の参戦)

盛岡藩の参戦 こうして、秋田藩を目指して庄内・仙台・米沢藩ら同盟軍が北上を続ける中、今度は盛岡藩が不意,をつく形で秋田藩の北側に位置する十二所(じゅうにしょ)(現秋田県大館市)口を攻めてきた。,南で行われている庄内征討のための戦闘に力を注いでいた秋田藩は、北方の境には十二所所預(ところあずかり),こうした状況ではほとんど防御もできず、間もなく秋田藩は比内の扇田までの盛岡藩進攻を許す結果となった。,九月六日には盛岡藩勢は藩境まで後退して、秋田藩は大館・十二所を回復する。
通史編3(近世2) (庄内征討応援命令)

四月六日、秋田藩に庄内(鶴岡)藩征討命令が出されたが、弘前藩も決して無関係ではいられなかった。,そこで西館は、早速、仙台出張中の秋田藩士川井小六・岡内之丞と話し合いを持った。  ,翌七日には、討庄出兵について、秋田藩が総督府へ質問状を提出した。,会津征討ならわかるが、庄内征討の理由はこの時期、勤皇色の強い秋田藩でさえ理解していなかったのである。,新政府に積極的な態度を示していた秋田藩も、庄内藩の罪状の不透明さにためらいをみせたのであるから、弘前藩
通史編3(近世2) (鎮撫総督軍の領内通行問題)

閏四月二十三日に上山藩から知らせを受けて、仙台・米沢藩の動きを察知した沢副総督一行は、秋田藩への転陣を,秋田藩と弘前藩の藩境は目前である。  ,ところで、この白石での会議には、秋田藩代表の戸村十太夫も出席しており、この席で、戸村は沢副総督一行を決,佐藤英馬は、白石会議に秋田藩の副使として参加をした金(こん)大之進との話し合いの中で、同人から「弊藩固,弘前藩も秋田藩同様の理解で、鎮撫総督軍に疑念を抱かせる行動はとるべきではないと決論づけた。
通史編3(近世2) (藩論の紛糾)

藩論の紛糾 さて、この奥羽列藩同盟参加、鎮撫総督軍の領内通行問題、そして、秋田藩境封鎖に至る過程の中,山中兵部が帰藩し、より詳しい事情を得た弘前藩は、十六日、碇ヶ関(いかりがせき)へ家老杉山上総を派遣して、秋田藩,一方で藤川能登や秋田藩の戸田十太夫へも、藩内で激徒が蜂起したため危険であるという藩境封鎖についての説明,が送られ、秋田藩でも大館(おおだて)付近の警備が強化されたのであった。,当然、総督軍も秋田藩も弘前藩の動向について不信の念を抱くことになる。
通史編3(近世2) (各藩使者の来弘)

三月初めには秋田藩使者に続いて仙台藩使者が、相次いで弘前へ到着した(同前)。,三月四日、仙台藩より一日早く到着した秋田藩使者の申し出は、勅命に従い国恩に報いるべく互いに尽力しようと,これに先立って秋田藩は、一月十六日、京都で岩倉具視(いわくらともみ)より奥羽諸藩をまとめて東征軍を応援,つまり、秋田藩の目的は、新政府のもとで自藩の位置を確立すべく、近隣諸藩の動向を探ることにあったといえよう,これに対して、弘前藩は秋田藩の提案を了承したことを返答している。  
通史編3(近世2) (戦闘の開始)

先に述べたとおり、既に秋田藩には、庄内征討命令が出され、十八日には鎮撫総督軍から軍事役長屋清左衛門・山本登雲助,が到着し、秋田藩の動きを統制していた。
通史編3(近世2) (庄内戦争の結末)

庄内戦争の結末 再び秋田藩の南境に目を転じると、新庄落城後、山道より秋田へ向けて進攻していた庄内藩は,応援兵の参戦とともに、薩摩藩の軍艦春日丸が秋田藩の援護に導入されたことが大きかった。
通史編3(近世2) (東北戊辰戦争の終結)

盛岡藩は、野辺地戦争に勝利したものの、秋田藩を通じて嘆願交渉を続行し、九月二十五日、秋田水沢口において,城の受け取りには、秋田藩と弘前藩が赴いている。
通史編2(近世1) (二代信枚の動向)

さて、信枚時代の次の大きな出来事となったのは、秋田藩との境目の決定であった。,秋田藩との境目交渉が急に問題化するのは、元和四年(一六一八)九月からであり、その裏には幕府の意向が働いている,この境目交渉の動きについては、残念ながら津軽側には資料がほとんどなく、秋田藩の境目交渉検使であった梅津政景,一方、秋田藩側は佐竹義宣は秋田実季の所領を幕府から拝領して昨今移ってきたばかりでよくわからないとしながら,弘前藩側は尻合石を境目として主張し、秋田藩側は矢立の杉を境目として主張し、ここでも両者に食い違いが出る
通史編3(近世2) (近隣諸藩の動向)

まず、秋田藩については、先述したように、弘前藩とは連絡が密であったが、京都から仙台藩等が朝敵の対象となった,庄内征討応援命令には従う姿勢を示したものの、奥羽列藩同盟に加わり、同盟諸藩の中で最後まで同盟を貫いて、秋田藩,仙台藩からは同盟遵守の圧力をかけられ、秋田藩・弘前藩が同盟離反を表明する中で、二月より京都に派遣されていた
通史編2(近世1) (「分領」はなぜ行われたのか)

幕藩制国家の軍事力を導入し、同地も国家内の一部だと宣言したことを意味するという考えもできる(金森正也『秋田藩
通史編2(近世1) (近世最後の大飢饉)

天保五年(一八三四)に野村軍記(のむらぐんき)の藩政改革に反発して久慈通(くじどおり)で大一揆が起こり、秋田藩
通史編3(近世2) (討庄応援部隊の解兵)

そして、五月一日、総大将山崎所左衛門は、用人工藤嘉左衛門から解兵報知と、秋田藩長瀬隼之助から同藩兵の「,そして、これ以降、弘前藩兵は続々と秋田領から撤退して、秋田藩との藩境に駐屯することになった。  
通史編3(近世2) (弘前藩の出兵)

八月二日、成田求馬らは平沢へ到達したところで、退却してきた秋田藩兵と出会い、戦況を知った。,そして八月四日、矢島藩奪回を目指すべく、弘前藩兵へも秋田藩応援として由利郡吉沢村への進攻を通知される。
通史編2(近世1) (領内海防と台場の構築)

このため津軽弘前藩では、秋田藩佐竹家に対して加勢を依頼した。,秋田藩は、当初この依頼を自領の海防と蝦夷地警衛に人数を派遣していることを理由に断るつもりであったが、結局,さらに翌年、津軽弘前藩は秋田藩に対して領内海防の「永々加勢」を仰ぐことになった(『御亀鑑』四・江府四 
通史編3(近世2) (答礼使の出発)

また、秋田藩からの打診に対しては、同日に「言うまでもなく『皇国』のためになるよう尽力したい」と、具体的,したがって、この段階では、弘前藩は秋田藩よりも仙台藩の申し出に対して積極的な姿勢を示していることがうかがえよう
通史編3(近世2) (清水谷公考の退去)

さて、このころには政府援軍が到着しはじめるようになっており、十一月四日、まず秋田藩領船越村から長州藩兵四六
通史編3(近世2) (藩論の統一)

さらに藩内には、六月初旬、庄内藩と和親をし、同藩から西洋砲や蒸気船を借り出し、秋田藩を挟み撃ちにする手,そして、七月十七日に奥羽鎮撫総督府より再び庄内藩討伐応援命令が出ると、これまでの態度を挽回するように秋田藩
通史編3(近世2) (軍事情勢の膠着)

奥羽列藩同盟への参加の是非をめぐる藩内の対立についてはすでに前節で述べたが、五月十一日に秋田藩に身を寄,道路封鎖そのものは五月下旬に解除され、秋田藩に対しては山崎と杉山を蟄居(ちっきょ)(謹慎の一種)に処することで
通史編2(近世1) (「分領」と津軽弘前藩)

蝦夷地の開発と守衛が時節柄重要になってきたとの認識を示したうえで、蝦夷地を分割して、仙台藩・会津藩・秋田藩,津軽家と同内容の達しがあり、仙台藩主伊達慶邦(だてよしくに)、会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)、秋田藩主佐竹義堯,この早川の回答から、仙台・秋田・庄内・会津の各藩には、従来仙台藩と秋田藩が警備していた地域を領地として
通史編2(近世1) (津軽信枚の越後転封)

信枚も上洛供奉を命じられたが、四月二十日手元不如意のため、境界決定をしたばかりの隣藩秋田藩に大判一〇〇,このため、六月二十一日秋田藩では島田・堀の領内通行に際して、両名にごちそうすることはもとより、付き従う,その前日秋田藩では、信枚の国替につき、馬一五〇匹・舟三艘を貸与することを決定し、政景が国元の憲忠に指示,津軽弘前藩の国替がなくなったため、秋田藩が領内で津軽家の越後国替に使用させるために準備した馬と舟は、帰京,このような秋田藩の好意に対する返礼として、八月六日に信枚は使者秋田金左衛門を遣わして、政景に帷子(かたびら
通史編3(近世2) (醍醐忠敬の弘前転陣)

秋田藩はいち早く勤皇を表明し、奥羽鎮撫総督府を迎え入れたが、盛岡藩は弘前藩と同様に同盟に参加し、藩の行,その盛岡藩から八月八日、弘前藩へ使者がやってきて秋田藩攻撃のための領内通行を求めてきた。
通史編2(近世1) (天保四年における藩の対応)

天保四年については、津軽弘前藩より秋田藩のほうが飢饉の被害が深刻であった。,秋田藩の役人が引き取りに来たが、大半は再び津軽に逃げ帰ったという。
通史編5(近・現代2) (伊東梅軒)

そして、明治元年(一八六八)の戊辰の役では、梅軒は五十三歳の老齢ながら東奔西走、米沢藩、秋田藩への外交交渉,に当たり、さらに藩内では軍政調方副役として活躍、八月十二日に今別町奉行に任命されながら、翌日は秋田藩と
通史編3(近世2) (民衆の動揺)

碇ヶ関や大間越(おおまごし)には盛岡藩兵に追い立てられた秋田藩士らが妻子を連れて大挙逃れて来たが、その
通史編2(近世1) (一里塚)

同年二月に奥州街道の分について一里塚築造に着手したと思われ(「篤焉家訓(とくえんかくん)」)、一方、秋田藩
通史編2(近世1) (騒動のその後)

は七月二十八日には、責任をとって家財を処分し、自宅は「空屋」になっているが、実際はその後も藩の命令で秋田藩
資料編1(古代・中世編) (二 乳井茶臼館の歴史)

され、六羽川で行われた合戦では、為信は一時窮地に追い込まれる(蠣崎季広書状写、蠣崎慶広書状写、いずれも秋田藩採集文書
通史編2(近世1) (情報収集活動)

帰国後の両人の報告をまとめると、蜂起の詳しい事情、松前藩の江戸への注進の状況と盛岡・秋田藩の動向、シャクシャイン
通史編2(近世1) (天明六年以降の飢饉)

「年中日記」は、秋田藩では天保四年の津軽弘前藩による秋田領飢民への施行(せぎょう)の礼として、弘前藩を
通史編3(近世2) ((一)東北諸藩と弘前藩)

その間、弘前藩が、戊辰戦争の勃発から奥羽列藩同盟結成に至る過程の中で、仙台藩や秋田藩などの周囲の動向にどのように
通史編3(近世2) (白石会議)

国元への白石会議参加要請の廻状は、秋田藩には八日に届いているから、弘前藩にもそのあたりに国元へ届いているはずであり
通史編3(近世2) ((三)住居)

次いで亀甲町(西浜方面へ)・和徳町(わとくまち)(青森方面へ)・土手町(秋田藩領方面へ)であった。
通史編2(近世1) (開国と箱館警備)

表64 堀利煕の蝦夷地警衛構想(安政元年) 警衛担当大名 佐竹義睦(秋田藩) 伊達慶邦(仙台藩) 上杉斉憲,東蝦夷地シラヲイからシレトコまで エトロフ・クナシリ両島 ユウフツ ネモロ エトロフ クナシリ 秋田藩
通史編3(近世2) (戦線の北上)

にあった九条道孝(くじょうみちたか)と醍醐忠敬(だいごただゆき)は、五月十八日、仙台を出発し盛岡藩を経て秋田藩
通史編2(近世1) (西廻海運による大坂廻米)

弘前藩は、藩財政を支えるためには、北国諸藩のなかでも加賀藩に次ぎ秋田藩と並ぶほど、より多くの蔵米を大坂廻米
通史編3(近世2) (討庄応援兵の派遣)

四月二日、庄内征討の嚮導を出羽矢島藩に命令し、六日に秋田藩には庄内征討命令を、弘前藩にはその応援命令を
通史編2(近世1) (陸上交通網の整備)

ともに津軽領と秋田藩領・盛岡藩領を結ぶ道路であり、弘前城下を中心として藩領外へ通じる道が大道筋として認識
通史編2(近世1) (相馬大作事件)

秀之進は文政四年、江戸から帰国途中の寧親を秋田藩領白沢(しらさわ)駅(現秋田県大館市)付近で狙撃しようとしたが
通史編2(近世1) (対外交易の実態)

契約の内容は津軽産の材木二〇〇〇本のほか、仙台・秋田藩の商人も取り込んで、相当数にのぼる材木を輸出するというものであったが
通史編2(近世1) (飢饉への対応)

種籾がないと翌年の植え付けもできないので、藩は九月二十三日の時点で種籾一万三〇〇〇石を秋田藩から購入することを
通史編3(近世2) (野辺地戦争の動機)

さらに、仙台をはじめとする列藩同盟中心藩の降伏を受け、九月二十一日には、秋田藩へ総督府との調停を申し込
通史編2(近世1) (家臣団の成立)

これは、隣藩の秋田藩の勘定奉行で、のち家老に昇進する梅津政景(うめづまさかげ)の日記で、元和三年(一六一七
通史編2(近世1) (金木屋日記にみる対外危機)

さらに、金木屋には秋田藩の郷士日影(ごうしひかげ)八右衛門が陣羽織七枚を買いに訪れ、津軽家の重臣大道寺家
資料編2(近世編1) (第一章 編年史料出典・典拠一覧)

あ 秋田家文書 …………………………………………東北大学 秋田藩家蔵文書………………………………秋田県公文書館
通史編2(近世1) (寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)

津軽弘前藩のみならず、盛岡藩・秋田藩でも出兵の準備が進められ、盛岡藩から分かれた八戸藩も、寛文四年(一六六四,また、松前藩からの要請に応じて、津軽弘前藩、秋田藩、盛岡藩、仙台藩が兵器・兵糧の貸与という具体的な形での
通史編3(近世2) (弘前藩の画事と絵師)

二代信枚の「松鶴図」(図183)にいくぶんの雅趣がうかがえる程度で、同じように狩野派に学んだ仙台藩、秋田藩
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