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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (陸上交通網の整備)

両帳に大道筋として記載されているのは、表現に若干違いはあるものの、①秋田領境之明神堂(さかいのみょうじんどう,あぶらかわ)~青森~浅虫~小湊(こみなと)~狩場沢(かりばさわ)~南部領、②弘前~堀越~大鰐~碇ヶ関~秋田領境杉峠,正保国絵図では、①の秋田領境は「秋田領八森村江出本道」、南部領への道には「南部江出本道」、②の秋田領への
通史編2(近世1) (天明六年以降の飢饉)

「年中日記」は、秋田藩では天保四年の津軽弘前藩による秋田領飢民への施行(せぎょう)の礼として、弘前藩を,もっとも、秋田領も仙北郡(せんぼくぐん)の作柄はよかったが、大館周辺は大変悪く、乞食も多く出たという。,翌八年八月に弘前藩主が参勤交代の帰路、秋田領を通過した際に、数百人の飢民が駕籠先に出て救済を求めたので
通史編2(近世1) (天保四年の飢饉)

八月になると、秋田領へ逃散する飢民が発生し、四〇〇〇人を越える飢民が碇ヶ関の関所を越えていった。,救小屋(すくいごや)は十一月の時点で在方にも一一ヵ所設置された、飢民は秋田領のみならず、松前・越後、さらには
通史編3(近世2) (時期・日数・通路)

江戸時代初期には弘前を出発し、西海岸の鰺ヶ沢を経て大間越(おおまごし)(現西津軽郡岩崎村)から隣藩の秋田領,帰路、秋田領から津軽領に入る際は矢立峠(やたてとうげ)を越え碇ヶ関(いかりがせき)(現南津軽郡碇ヶ関村
通史編2(近世1) (天保四年における藩の対応)

秋田領では天保四年の飢饉による死者は史料によって違いはあるが、三万人から五万人という。,よって、天明の飢饉にみられなかった秋田領から津軽領へ逃散する飢民の流れがみられる。,『天保凶耕雑報』によれば、秋田領の飢民のため、藩は新寺町白道院(びゃくどういん)と和徳町郷蔵脇に小屋を,「年中日記」(豊島勝蔵編『津軽新田記録』三 私家版 一九八七年)にも同様に、弘前で秋田領出身の袖乞(そでごい
通史編2(近世1) (耕作地の放棄と荒廃田)

耕作地の放棄と荒廃田 元禄八年(一六九五)八月から九月にかけて、津軽から一万人余の人々が秋田領に逃げ,このとき、津軽から藩境を越え秋田領へ向かった人々はそのような飢人たちであったということができよう。
通史編3(近世2) (子供を池に投げ殺害)

))の長之の妻せんは、新里(にさと)村(現市内新里)惣左衛門の子の常と密通した後に、夫を捨てて隣りの秋田領,せんは子供の万之を連れては秋田領で奉公もできかねるので、捨てようかと考えていると常に相談したところ、常
通史編2(近世1) (浅利騒動と津軽氏)

申習候村(もうしならいそうろうむら)」四八ヵ村の内、一〇ヵ村が放火・「なてきり」により消滅し、領内の一部が秋田領,一方、浅利氏重臣片山氏・八木橋氏の実季方への寝返りや、浅利方から秋田領への侵入による稲の刈り取りが行われたと
通史編3(近世2) (施行小屋の設置と犯罪防止)

翌年になると、秋田領から津軽領に飢えをしのぐため逃れてくる者がしだいに多くなってきた。,彼らには一人一日当たり混ぜものを加えた一合五勺の粥を炊き出し、秋田領の出身地・一族の名前・本人名などを
通史編2(近世1) (伏見作事板の運上と太閤蔵入地)

知行高五万二四四〇石に対し、同氏が代官として任命された太閤蔵入地の石高は二万六二四四石八斗三升であり、秋田領,場への材木の山下げ代、かすがい等の分として差し引かれ、残った四二二一石余から二三三三石八斗五升一合が秋田領,仁賀保、赤宇曽、滝沢、内越、岩屋、そして津軽氏が担当しており、彼らは杉板を秋田山から山下げし、それを秋田領内,前述のように、秋田領内に設定された太閤蔵入地は、まさにこの杉板廻漕のために設定されたものであって、朝鮮出兵
通史編3(近世2) (政府軍の苦戦)

にかけては、鳥海山(ちょうかいさん)を越えてきた同盟軍の奇襲によって矢島藩も陥落し、矢島藩主生駒氏は秋田領
資料編2(近世編1) (【解説】)

から藩政後期にかけての期間を取り扱い、地域的には津軽領及び江戸、大坂、日本海沿岸地域や近隣の南部領、秋田領,さらに海運のみならず、近隣の南部領や秋田領との陸上交通(街道)における商品流通の実態を示す史料なども掲載
通史編3(近世2) (野辺地戦争の開始)

総督府から秋田領へ侵攻してきた盛岡藩の征討を命じられたためであった。
通史編3(近世2) (討庄応援部隊の解兵)

そして、これ以降、弘前藩兵は続々と秋田領から撤退して、秋田藩との藩境に駐屯することになった。  
通史編2(近世1) (豊臣政権の奉行衆)

実際、秋田領に設定された太閤蔵入地の年貢米の算用状(さんようじょう)は、秋田氏から集権化を目指す奉行衆徳善院
通史編3(近世2) (弘前藩の出兵)

結局、追い込まれた総督軍は本荘からも退き、とうとう秋田領へと撤退せざるをえなくなった。
通史編2(近世1) (太閤蔵入地の設定)

天正十九年から慶長六年(一六〇一)にかけて秋田領に設定された蔵入地の年貢率平均は一七パーセントであったという,文禄四年(一五九五)十二月、若狭小浜の豪商組屋源四郎が津軽の蔵米二四〇〇石の販売を請け負っているが、この秋田領
通史編3(近世2) (鎮撫総督軍の領内通行問題)

沢一行の目的は、秋田領から津軽領へと転陣し、最終的には箱館(はこだて)へ向けて渡海することにあった。,津軽へ通さないと発言していたが(同前No.五三一)、総督軍が弘前藩領を目指すとすれば比較的勤皇色の強い秋田領
通史編2(近世1) (漆以外の国産品)

養蚕取扱方になったのは御用商人武田甚左衛門(後の金木屋)で、彼は文政六年(一八二三)から養蚕の盛んな秋田領
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

ついで、津軽の関を越え秋田領へ入る。,●寛永四年(一六二七)十一月五日、津軽信枚、江戸から帰国の途次、秋田領戸島より久保田に至る。,●寛永六年(一六二九)三月二十五日、秋田領八森の山師、津軽領金山に踏み迷い、成敗にあう。,●寛永七年(一六三〇)正月四日、津軽信枚、参勤の途次、秋田領の湊、次いで豊島に宿泊する。,●寛永八年(一六三一)三月二十七日、秋田領と津軽領の人返し交渉を開始する。
通史編2(近世1) (伏見築城と奥羽大名)

秀吉は奥羽仕置と同時に秋田領の杉に目をつけ、それを朝鮮出兵や政権の中枢である伏見城の普請・作事に利用しようとしており
通史編2(近世1) (参勤交代路と街道の状況)

しかし、四代藩主信政は寛文五年(一六六五)、碇ヶ関から矢立峠を越えて秋田領へ入る羽州街道を参勤交代路に
通史編2(近世1) (隠津出・抜け米の取り締まり)

秋田領に通じる早瀬野(はやせの)、箱館への不正な津出があった青森、ほかに他湊に通じる十三・小泊などで摘発
通史編2(近世1) (浅利騒動の停戦命令)

長束は、文禄三年・文禄四年・慶長元年の三年間、杉板運上にかかわる秀吉朱印状を秋田実季へ取り次いでおり、秋田領
通史編3(近世2) (悪戸村における製陶)

悪戸周辺地図  「御用格 寛政本」(弘図津)巻十八―作事―の文化六年(一八〇九)九月八日条によると、秋田領
通史編3(近世2) (戦局の展開と兵員の不足化)

をみると、動員された部隊は四一小隊で、うち三五小隊は三等銃隊であり、そのすべてが激しい戦闘が行われていた秋田領
通史編3(近世2) (醍醐忠敬の弘前転陣)

なかなか両者の勝敗が確定しない中で、盛岡藩は弘前口より秋田領へ一挙に討ち入る作戦を立て、弘前藩に同盟側
通史編2(近世1) (高照神社の造営と「名君」信政像の創出)

信章一家は藩境を越えて秋田領に脱出したものの、結局佐竹家から津軽家に引き渡され、一家全員が城内二の丸東北隅
通史編3(近世2) (藩論の紛糾)

れることを認めたのであったが、二十七日には沢副総督からの使者が来て、領内通行が延引になったこと、沢一行は秋田領
資料編2(近世編1) (【解説】)

を主たる対象とし、藩政確立期の動向を中心に、江戸、大坂、京都、日本海沿岸地域の各地及び近隣の南部領、秋田領
通史編3(近世2) (日雇と松前稼ぎ)

ほかにも、桶屋の通い弟子でいったん松前に出稼ぎに行ったが、当時は秋田領へ奉公に行っている者も一人いる。
通史編2(近世1) (旅行者のみた領内海防)

同領に入る直前、秋田領小綱木(小繋(こつなぎ)村、現秋田県山本郡二ツ井(ふたつい)町)に宿泊した時、青森
資料編2(近世編1) (【解説】)

全国政権との関係動向などを視野に入れて、江戸・大坂・京都、蝦夷地、日本海沿岸地域の各地、隣領の南部領、秋田領
通史編2(近世1) (二代信枚の動向)

九月二十五日に、町奉行島田利正のあっせんにより、秋田領と津軽領との境界について、津軽弘前藩家老服部康成
通史編2(近世1) (伏見滞在と派閥抗争)

それは伏見作事板の朱印状が、すなわち比内の浅利領を含む秋田領の領有権を保障するものであり、長束正家としては
通史編3(近世2) ((二)相撲興行)

同十一年御旗の者早川四賀右衛門は、草履の売買で細々と生活していたが、とうとう妻子を養うことができなくなり、秋田領
通史編2(近世1) (津軽信枚の越後転封)

六月十八日付けの義宣書状は、信枚の越後転封に伴う秋田領内比内筋と日本海側の八森筋の荷物運搬の許可を伝えたもので
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

天正十年(一五八二)七月五日、大宝寺義氏、由利郡の領主戸蒔中務少輔にあてて、津軽勢(大浦為信)と呼応して、秋田領
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

天正十年(一五八二)七月五日、大宝寺義氏、由利郡の領主戸蒔中務少輔にあてて、津軽勢(大浦為信)と呼応して、秋田領
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