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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(瓦の移入)
瓦の
移入
先にも触れたように、領内で使用された瓦には国瓦と
移入
瓦とがあった。,
移入
ルートは上方から海路日本海を北上して鰺ヶ沢に着岸、ここでいったん荷揚げのうえ、藩庫に収納され、小廻 / 瓦の
移入
通史編3(近世2)
((四)瓦)
によると、弘前城内並びに一部城外建造物に使用された屋根瓦は、国元で焼成された国瓦と、大坂(大阪)から海路
移入
,以下、本項では
移入
瓦と表記する)とがあった。 ,〝大坂瓦細工人〟や〝大塚理右衛門(おおつかりえもん)〟大坂瓦師)の印銘のある瓦片もみられ、大坂からの
移入
通史編3(近世2)
(藍)
藍の
移入
については、「国日記」延享三年(一七四六)二月二十八日条によると、国藍ではことのほか出費になり,御用染物ができかねるという染屋たちの申し立てがあり、願いのとおり役銭免除のうえ、上方藍の
移入
が認められた,そこで縮藍(ちぢみあい)の種子を
移入
して栽培させたところ格別藍の出来が良く、年々植え付けが増加し
移入
が
通史編5(近・現代2)
(女性・学童・朝鮮人の動員)
なお青年学校や中等学校以上に在学する人々や、陸海軍属のほかに、
移入
労務者で「
移入
労務者訓練及取扱要綱」,「
移入
労務者」とは、要するに日本へ労務動員された人々のことを意味する。
通史編2(近世1)
(漆以外の国産品)
前三者は近年生産が盛んになってきたので、他領からの
移入
を停止したとあり、残りの品々はすでに
移入
の禁止策,悪戸焼は松前、秋田方面にも移出され、藩は嘉永三年(一八五〇)に至り、他領からの陶器の
移入
を禁止している
資料編1(古代・中世編)
(はじめに)
場合、弘前の市街地に古くからあったと推定されるものは、和徳町周辺や城東地区に残る数基であり、他は後年の
移入
,他からの
移入
品も刀剣が残る程度である。
通史編5(近・現代2)
(昭和初期の恐慌と冷害凶作)
その効果は、植民地で顕著に現れ、昭和六年(一九三一)の
移入
米は一〇〇〇万石(一五〇万トン)を突破し、国内生産量,
移入
米の急増は、米価下落を招いた上に不作時の価格上昇をも抑制した。,農業恐慌と
移入
米の激増が「昭和農村恐慌」を現出し、特に東北では冷害凶作が追い打ちをかけた。
通史編3(近世2)
((三)陶磁器)
」によると、江戸中・後期を通じ津軽領における陶磁器の調達は、領内の製品と唐津(からつ)船などによって
移入
,「国日記」の陶磁器関係の記録によって、その他関係史・資料の記述も取り入れ、領内における陶磁器の製造と
移入
,以下、平清水三右衛門による作陶および悪戸村と下川原における製陶を中心に述べ、
移入
については記述の中で随時触
通史編3(近世2)
(織物の種類)
の織物の需要は自家用として織られた布(この場合は苧麻(ちょま)〈からむし〉)を除き、多くは他領からの
移入
,)のかかっていない軟らかい太い綱状の綿を、篠竹に巻き込んだのち、篠竹を抜き取った筒状に巻かれた綿)を
移入
通史編3(近世2)
(地織木綿(弘前手織))
さらに、藩では寛政三年(一七九一)に上方より篠巻綿(篠綿)を
移入
し、禄二〇〇石以下および御目見以上(俵子
通史編2(近世1)
(糧米確保)
糧米確保 こうした冷害による凶作の不安から、藩のとった対策は、米穀の確保・
移入
・移出・流通統制を基軸,秋田藩による津留が障害となり、国元間での交渉から江戸藩邸間での交渉に委ねられることとなったが、結局、米の
移入
,したがって、他藩からの米の
移入
は、その大名間に特別な関係でもない限りにおいては、大きな困難が伴うことになった,この後に、松前から米の移出を求められているが、自領も他領から米を
移入
しているような状況であり、移出は困難
通史編4(近・現代1)
(漆器の商況)
多クハ該品ヲ需用セリ (同前) 漆器の移出先は、北海道、東京、仙台であること、漆汁は県外からも
移入
通史編2(近世1)
(一 青森開港と初期海運)
としては、津軽領から米や大豆等の穀類と材木・海産物が、上方からは、日用雑貨・茶・呉服・手工業品等が主な
移入
品
通史編2(近世1)
(由緒書から)
彼は、越前三国湊との交流があったこともさることながら、文化・宗教の
移入
者として、多くの情報をもたらした
通史編4(近・現代1)
(金細工物の商況)
金細工物の商況 次に金細工物については、東京、大阪等から
移入
し、新潟、秋田、北海道へ移出していた。
資料編1(古代・中世編)
(第三節 宝篋印塔)
龍泉寺には、福島正則一族にかかわる五輪塔があることを前項で述べたが、宝篋印塔も同じ経緯で
移入
され、古くから
通史編4(近・現代1)
(凶作の影響)
また、米の不作が不況発生の原因であるため、国内の他地域産米の
移入
や外国産米の輸入が増加し、米価は低落傾向
通史編3(近世2)
(悪戸村における製陶)
藩では国産品の保護育成のために、白焼(この場合は磁器)は別として、悪戸で焼成される雑焼の
移入
を禁じた。,禁止の一方、それまでの供給実績や、やむをえない場合には事情を考慮して瀬戸商人を指定、種類限定のうえで
移入
資料編2(近世編1)
(【解説】)
なかでも領内から蝦夷地や南部地方へ人や舟が出てゆく際の文書、諸物資が各地へ移出・
移入
される際の文書には,したものは、領主の城米(じょうまい)、大豆、木材などを主力に、銅、鉛、海産物などが中心であったのに対し、
移入
通史編3(近世2)
(下川原における製陶)
日用陶器)が主に焼かれていたが、「国日記」嘉永元年(一八四八)六月十一日条によるとこれらの陶磁器は、
移入
品,に押されて売れ行き不振の状態にあったので、瀬戸師金蔵は白焼・雑焼に類する製品の
移入
差し止めを願い出ている
通史編3(近世2)
(他領から技術を導入)
このように、近世初期の津軽の漆工芸は、秋田の鞘師、京都の塗師、江戸の具足師の
移入
によって興ったもので、
通史編5(近・現代2)
(進取の建築)
からの分離を意図し、わが国での最も早い作品は明治三十八年(一九〇五)に東京の住宅建築に現れるが、弘前への
移入
通史編3(近世2)
(瀬戸師林兵衛による製陶)
天保十五年三月十八日条(図145)では、瀬戸座の林兵衛が焼成した瀬戸物について、売れ行きに支障を来すので他領からの
移入
禁止,生産は窯場も変わり、いろいろの変遷を経て明治・大正と続けられたが、生活様式の変化や交通の発達につれて
移入
品
通史編3(近世2)
(津軽における漆工芸の起点)
津軽信政は、江戸をはじめ他藩の漆工技術の高さを知り、その技術
移入
と漆産業育成の必要から大野山六郎左衛門
通史編4(近・現代1)
(和服と呉服商)
和服と呉服商 この時代は、上方各地から
移入
の反物が呉服屋の店頭に並べられ、顧客は時の流行や好みに応じて,そして二十余台の機械を注文して製品をつくり、売り出したが、一反一円三〇銭で光沢も耐久力も上方
移入
品に勝
通史編5(近・現代2)
(全農青森県連合大会)
これは朝鮮・台湾からの
移入
米が一〇〇〇万石を突破し、内地の米配給量がかえって増えた一方、大衆の購買力がますます
通史編3(近世2)
(織物会所の施策)
また糸・繭・からむしおよび紅花その他織物類も会所に持参させ、他国商人への売り渡しを固く禁じる一方、
移入
通史編3(近世2)
(焼成について)
瓦は必要に応じて焼成されたが、瓦の耐用年数を考慮すると、毎年作る必要はなく、貯蔵分や
移入
瓦による需給調整
通史編4(近・現代1)
(食生活の変化)
場合は他の生活文化と同様に、外来者ことに軍人やその家族、また、軍隊に伴ってやってきた御用商人たちによる
移入
,弘前名代の羽二重(はぶたえ)餅は、元禄のころの上方菓子であったから、古い
移入
文化であろう。
通史編3(近世2)
(平清水三右衛門による作陶)
現西津軽郡鰺ヶ沢町)や青森(あおもり)(現青森市)に着岸しては唐津物などをもたらし(「国日記」における
移入
,三右衛門一手の製品だけでは不十分なうえ、唐津物は種類が多く、需用にかなっていたために
移入
が続けられていた
資料編1(古代・中世編)
(一 銅鐘)
鎌倉時代末期に鋳造され
移入
されたこの鐘は、得宗専制体制の維持や、津軽地方の御家人・御内人の動揺を押さえる
通史編5(近・現代2)
(在日朝鮮人問題)
とくに当時「朝鮮人集団
移入
労務者」(強制連行された朝鮮人)に対しては、彼らの反動を恐れて優先的に帰国させる
通史編4(近・現代1)
(勧業費支出についての意見)
フルモ其発達ノ程度頗ル遅々タルハ既往ノ経験ニ徴シテ明ナリ、況ンヤ本県ノ貧弱ナルハ工業振ハス日常ノ諸品尽ク
移入
通史編5(近・現代2)
(米穀の統制と自作農創設)
しかし、全国的には「内地」米の不足分は、次第に朝鮮・台湾などの「外地」米の
移入
で対応するようになった。
通史編3(近世2)
(繭)
きんこ繭の種(蚕卵紙)を上方から
移入
して飼養者に広く配布し、将来はこの繭に限るとの方針を立てている。
通史編4(近・現代1)
(理髪床・銭湯)
江戸ではさすがに古く、安永・天明のころからあったという女髪結の稼業を、国元に
移入
して開業したわけである
資料編1(考古編)
((1)7世紀~8世紀)
土器生産においては、須恵器は北陸や東北地方南部以南地域からの
移入
品で需要を満しているものの、土師器は全
通史編3(近世2)
(織)
については、藩御用の必需品であったこともあり、古くから先進地の江戸や福島から絹織物職人を招き、蚕種も
移入
通史編2(近世1)
(騒動の背景)
また、各町へ「通手形」(米留番所を通過できる手形)を発行して、
移入
できる総量を一ヵ月当たり二〇〇〇俵に
通史編1(古代・中世)
(平安時代の律令祭祀)
また、道教系の技能者である呪禁師(じゅごんし)の制度も令に伴って
移入
されている。
通史編2(近世1)
(家中払米の展開)
第四巻』一九七九年 三一書房刊)には、寛文期(一六六一~七三)に毎年一万俵の米が津軽領から松前藩に
移入
資料編1(古代・中世編)
(二 青森県の板碑分布)
もっとも三沢市の玉泉寺、七戸町字町の青岩寺などにも板碑が保存されているが、他の地域からの
移入
であり、古
通史編2(近世1)
(飢饉に至るまでの経緯)
できないことはもちろんであるが、さらに諸藩の割拠性が米の津留(つどめ)などの措置を招き、比較的余裕があった藩からの米の購入・
移入
通史編2(近世1)
(毛内宜応の「秘書 全」)
に学校を建てること、(2)戸籍や新規商売に関する制度を立てること、(3)商品の相場を立て、領外からの
移入
品,(3)は、領外から
移入
するものは、藩が五穀をもって買い上げたうえで領内に融通し、また領内産物を移出する
通史編2(近世1)
(信義の襲封)
)から十九年まで続いた大凶作により、領内は飢饉(ききん)となり、十九年には越後(現新潟県)から米穀を
移入
通史編3(近世2)
(瓦の利用)
百沢寺(ひゃくたくじ)(現岩木山神社、中津軽郡岩木町)の宝蔵その他、および報恩寺(ほうおんじ)等に国瓦や
移入
瓦
資料編1(考古編)
((2)石器)
津軽半島突端に近い三厩村中ノ平遺跡で出土した黒曜石製の石槍は北海道産であり、必要不可欠のものは他の地域から
移入
資料編1(考古編)
((2)文字資料と文字文化)
〃 14 「□」 山元(3)遺跡 南津軽郡浪岡町杉沢字山元 集落跡(9H) 須恵器坏 9世紀後半
移入
品
資料編1(考古編)
(〈注一覧…第4章〉)
津軽十三湊採集の古瀬戸陶片」(北奥古代文化第4号) 1972年 *6-c 平山久夫 「青森県内への中世陶磁の
移入
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
越後より米穀を
移入
し、弘前にて救米一人四升五合を給付する。
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