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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(材木移出)
材木
移出
十七世紀後半、津軽からの有力な
移出
品の一つとして木材が挙げられる。,湊から
移出
されたものと思われる。,ほかに、「御船頭」某が材木の
移出
を願い出たケースもある。,⑥十三からの
移出
材木は、必ず現銀で決済する(第十条)。,このように、貯木場を設置して、価格変動に応じた材木の
移出
を可能にした十三湊は、同じように材木を
移出
する / 材木
移出
通史編2(近世1)
(糧米確保)
糧米確保 こうした冷害による凶作の不安から、藩のとった対策は、米穀の確保・移入・
移出
・流通統制を基軸,・深浦・野内に対して、米価が高騰しているために町人が持っている米を他領へ売り払っていることを理由に、
移出
,こうした津留(つどめ)政策(松前へは条件付きで対象外となった)は、すでに六月に鰺ヶ沢から米が
移出
された,凶作になると、どの藩でも他国への穀物の
移出
を禁止し、藩境・港での取り締まりを強化した。,この後に、松前から米の
移出
を求められているが、自領も他領から米を移入しているような状況であり、
移出
は困難
通史編3(近世2)
(紫)
「国日記」では自生の紫根の掘り取りや
移出
についての記述は認められるが、染めについては武具・馬具の一部などごく,
移出
については延宝五年(一六七七)、御用として領内自生の紫根を集荷して江戸に登らせた例があり、紫根買上役
通史編5(近・現代2)
(公労協ストの本県の情況)
〔リンゴ〕スト権スト五日目に入り、出荷の最盛期を迎えた北五地方のリンゴ
移出
業者は貨車積みは断たれ、頼みの,年間五十万箱の県外出荷をしている北郡板柳町の板柳林檎
移出
商業協組では、その半分を貨車積みに依存している,このところせいぜい一、二台、しかも運賃は二、三割高く、なかに二倍近くぶんだくるトラック業者も出る始末で、
移出
業者,(中略)「運賃コストのアップと仕入れ原価の高騰で
移出
業者は泣きっ面に「ハチ…」と憤まんやる方ない表情。
通史編4(近・現代1)
(菜種・水油の商況)
)ニシテ、其価格ハ九百七拾八円九拾銭ナリ、五月以降六月ノ間ハ商勢沈静セリ (同前) 弘前市から
移出
,また、水油については、東京、大阪、秋田等へ
移出
され、また、種粕の
移出
も行われた。
通史編4(近・現代1)
(弘前地方米穀商組合の活動)
弘前地方米穀商組合の活動 津軽地方は米の
移出
地であり、北海道、特に函館を中心とする地域に
移出
されていた,
移出
港としては青森や鰺ヶ沢があり、米取引の組織も
移出
の実態に合ったように形成されていた。,
移出
米の等級は玄米一升中または精米中に籾が何粒混入しているかが重視され、また、子粒の一斉であることや光沢
資料編2(近世編1)
(第二節 海運の発達)
(一)上方廻米 (二)江戸廻米 (三)江戸・上方廻米 (四)他国米買入 四 木材の
移出
通史編5(近・現代2)
(りんごの唄と空前のりんご景気)
中弘地区の多額納税者は、呉服商、地主、醸造業者が常連であったが、昭和二十年(一九四五)からは一転してりんご
移出
業者,空前のりんご景気に高い収益を上げていた
移出
業者は、数万円のプレミアをつけ、全国から貨車を調達することも,しいインフレの中で赤字を免れなかったが、空前のりんご景気に乗じ、昭和二十一年(一九四六)九月からりんご
移出
税
通史編4(近・現代1)
(大正期のりんご流通)
一方、産地では、いわゆる
移出
業界が形成された。,にかけて、法制に準拠せず公認を得ない出荷組合の結成が相次いだほか、産業組合のりんご取り扱いの整備、りんご
移出
業者,産業組合、出荷組合、
移出
業者の三者の間で、包装・荷造りの改善と規格の統一・簡素化に関する調整が行われたが
通史編2(近世1)
(天明三年に頻発した騒動)
津軽領でこのように凶作による騒動が短期間に集中したことは初めてで、「飢餓
移出
(きがいしゅつ)」を招いた
通史編2(近世1)
(樋口善兵衛の報告書)
六月末ころには「鰺ヶ沢米十万俵余御払相成候」(「平山日記」)と、鰺ヶ沢から一〇万俵もの米(前年度米)が
移出
,こうした大量の米の
移出
は、「是ニ而万民力を落申候」(「平山日記」)と、一般民衆の意識とはおよそかけ離れたものであったといえよう
通史編2(近世1)
(漆の集荷・販売体制)
しかしながら十九世紀初頭の段階で、漆は津軽領では領内需要を満たすのがせいぜいで、他領への
移出
を禁止する,水漆)のうち、藩で使用するのが七割、残りの三割を藩士や町方の需要のため払い下げるという状況で、他領に
移出
通史編2(近世1)
(宝暦~天明期の弘前藩の財政状況)
一方、支出は二一万二四七石余、費目の中で最大なのが上方への
移出
米で、六万五〇〇〇石、全支出の三〇・九二,その後起こった天明の飢饉では、領内消費を無視したいわゆる「飢餓
移出
」が飢饉の要因として指摘されているが,表36 安永7年支出の部(米方) 費 目 石高(石) 比率(%) 上方への
移出
米 65,000 30.92,江戸への
移出
米 24,500 11.65 要用払米 28,747 13.67 三ヶ所一番値段払米 1,200
通史編5(近・現代2)
(りんご栽培の進展)
翌十一月からは県議会でも取り上げられ、生産者側の促進論と
移出
業者側の反対論が激しくぶつかったが、議論百出,以前の検査制度をめぐる対立同様、生産者を中心とする賛成派と
移出
業者を中心とする反対派がそれぞれ主張を繰,しかし、
移出
業者の反対は根強く、無検査りんごは日に日に増え、相次いで告発された。
通史編4(近・現代1)
(米作振興と米騒動)
明治・大正期、青森県産米(津軽米)の販売先の大半は北海道であり、特に大正期には県
移出
量の九八%以上の量,米の半数は地主米によって占められ、しかも北海道への
移出
と流通は米穀商人によって担われていたことから、品質,また、藁工品も県の重要
移出
品であったので、その検査制度は、大正元年(一九一二)から県営の抜き取り検査、
通史編4(近・現代1)
(漆器の商況)
スレトモ、津軽産ハ南部、秋田ノ産ヨリ品質優等ナルヲ以テ、多クハ該品ヲ需用セリ (同前) 漆器の
移出
先
通史編5(近・現代2)
(青森県りんご協会の発足)
まず、同年八月、農業会、県りんご施設組合(
移出
商)、県加工統制組合の三機関によって設立が準備され、その
通史編4(近・現代1)
(曲物(まげもの)の商況)
ナリ (同前) 曲物については、原料が秋田県、青森県中津軽郡産であり、北海道、秋田県、岩手県に
移出
通史編4(近・現代1)
(金細工物の商況)
金細工物の商況 次に金細工物については、東京、大阪等から移入し、新潟、秋田、北海道へ
移出
していた。
通史編5(近・現代2)
(戦時下のりんご統制)
形式的にはりんご出荷方針の決定権は帝国農会・県農会・郡出荷統制組合が握ることとなったが、出荷荷造の能力は
移出
業者,が圧倒的に勝っており、実際の集出荷業務の大半は
移出
業者の力に依存し、完全な統制が行われていたわけではなかった,さらに、出荷統制も厳しさを加え、
移出
業者も出荷施設の提供者という地位に置かれ、これを統制するのは農業会
通史編4(近・現代1)
(織物の商況)
これによれば、各種織物製品のうち、武田機業所が製造した黄八丈は県外に
移出
されたものの、地織木綿や各種木綿
通史編2(近世1)
(飢饉への対策)
飢饉への対策 宝暦の飢饉では、元禄の飢饉以来北奥諸藩で顕著になった、いわゆる「飢餓
移出
(きがいしゅつ,を目指した経済政策も挫折し、津軽弘前藩の経済政策も再び三都依存体制への回帰を余儀なくされ、再び「飢餓
移出
資料編2(近世編1)
(【解説】)
なかでも領内から蝦夷地や南部地方へ人や舟が出てゆく際の文書、諸物資が各地へ
移出
・移入される際の文書には,このような上方や江戸との商品流通において津軽領より
移出
したものは、領主の城米(じょうまい)、大豆、木材
通史編2(近世1)
(十三小廻しの成立と町の盛衰)
まれているが(『御定書』三五)、なかでも、岩木川舟運によって運搬されてきた御蔵米の規定と、それと並んで材木
移出
,しかも、十三山奉行は、単に材木
移出
に立ち会うのみならず、「御蔵入之御米」の出船に際しても立ち会うことが
通史編3(近世2)
(藍)
なお国藍の他領積み出しは固く禁じられていたが、他国より商人が入り込み、規制を犯して買い集め
移出
された結果
通史編3(近世2)
(青森商社の終末と意義)
通行人に旅の必要品や宿を提供し、米・味噌・醤油・油・藁(わら)製品といった蝦夷地が必須とする諸物資を
移出
通史編2(近世1)
(近世初期海運)
また、この書状には、弘前藩から
移出
する御蔵米の荷物、あるいは京都からの下り荷物について、太郎左衛門らが
通史編5(近・現代2)
(りんご振興策)
〇〇〇万円としたが、ドッジ・ラインのデフレーションにより、二十四年産のりんごは大暴落して、一五〇〇人の
移出
業者
通史編4(近・現代1)
(殖産興業の展開)
縄、莚の生産は特産品の主なものであり、北海道へ
移出
されたが、県は、品質維持のために諭達を発し、粗悪品の
通史編5(近・現代2)
(工業都市弘前)
木製品は、桐だんすが仕上げ方法の向上により名声が高まり、北海道に
移出
されるようになったため、生産価格が
通史編5(近・現代2)
(女性・学童・朝鮮人の動員)
当時、朝鮮は日本の植民地とされていたため、朝鮮と日本の流通に関しては、輸出入といわず
移出
入と呼んだ。
通史編2(近世1)
(漆以外の国産品)
悪戸焼は松前、秋田方面にも
移出
され、藩は嘉永三年(一八五〇)に至り、他領からの陶器の移入を禁止している
通史編4(近・現代1)
(りんご生産の展開と農業振興)
また県外への
移出
もこのころから始まっている。,写真96 旧清水村樹木にあった清水林檎生産購買販売組合 なお、明治期の主な
移出
業者(屋号、営業場所
通史編4(近・現代1)
(米取引の商況)
青森県勧業要報』三七号) これにより、弘前市の米商人が津軽各地の米を取り扱い、秋田県の鉱山や北海道へ
移出
通史編2(近世1)
(隠津出・抜け米の取り締まり)
抜け荷の監視は当然領内だけでなく、領外への
移出
にも向けられた。
通史編5(近・現代2)
(青森県工業試験場)
醤油醸造業においては、タンクを設置して保温設備をすることで熟成期の短縮を図り、造石高は年々増加して、県外
移出
通史編2(近世1)
(対外交易の実態)
(一八六〇)二月に、箱館の異国船が昆布を高値で買い取っているので、津軽でも三厩(みんまや)産の昆布を
移出
通史編2(近世1)
(飢饉への対応)
牛馬の他領
移出
の許可も同様の趣旨である(同前No.一〇・一一)。
通史編5(近・現代2)
([口絵])
りんご色のまちHIROSAKI† 口絵49 〝さおもち〟による薬剤散布 口絵50 林檎
移出
問屋
通史編5(近・現代2)
(りんご加工業と輸出)
しかし、苹果株式会社がまもなく解散したため、実現はせず、その後、青森市の
移出
業者によって細々と続けられた
通史編4(近・現代1)
(町並みの推移)
殊に和徳町は年々荒物の
移出
が盛んになって、三十五、六年頃には荷馬車の通行も困難なほどのにぎわいを見せたこともあった
通史編3(近世2)
(瀬戸師林兵衛による製陶)
窯場の名称や陶業者の石岡が使われ、津軽をとり入れたものは、
移出
の際に産地を特定するために用いられたのであろう
通史編2(近世1)
(対蝦夷地政策と青森商人の商業活動)
三厩産の昆布の
移出
もこのような中国貿易の情勢を念頭に計画されたもので、以後弘前藩内産の昆布は品薄の時を
通史編3(近世2)
(青森商社と帰田法)
たに改修されるであろう十三や、蝦夷地への渡航地である三厩(みんまや)・青森などに集荷され、藩の統制下に
移出
通史編5(近・現代2)
(敗戦直後の市政事務)
現段階で味噌・醤油の
移出
を禁じて中弘地区だけで消費したとしても、味噌は約一〇ヵ月、醤油は一ヵ年半の保有量
通史編5(近・現代2)
(終戦直後のりんご景気)
5,251,873,200 9,060,177,028 1箱当り生産額 (円) 110 583 658 県外
移出
数量
通史編5(近・現代2)
(国土総合開発計画の進展と青森県の位置)
北海道総合開発計画の進展に伴う内地、北海道間の輸送量の増加 ロ 県自体の総合開発計画の進展に依る原材料及び製品の
移出
入
通史編5(近・現代2)
(小売業の動向)
街区には、リンゴ
移出
商店、農業生産材卸、小売が散在している。
通史編3(近世2)
(瓦の利用)
天保十二年(一八四一)には瓦について松前と商談をとり付け、瓦焼成のうえ前金六〇両を受け取り、鰺ヶ沢より無税で
移出
通史編2(近世1)
(農政の転換)
不足のみから起こったのではなく、上方への廻米を余儀なくされた藩経済の在り方そのものが、飢饉時には「飢餓
移出
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