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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(自然・原始)
(弥生文化の伝来と稲作農耕の開始)
弥生文化の伝来と
稲作農耕
の開始 約一万年の長きにわたって続いた縄文時代も、今を去る約二三〇〇年前のころになり,、南から伝播して来た新しい弥生文化が徐々に浸透し、やがてその文化の有する
稲作農耕
の技術を学び、次第に縄文文化,にもコメは伝来し、その終末のころにはすでに栽培を開始していた証拠が北九州で確認されているが、大規模な
稲作農耕
/ 弥生文化の伝来と
稲作農耕
の開始
資料編1(考古編)
(第3節 弥生時代)
第3節 弥生時代 縄文時代に続く弥生時代は、
稲作農耕
を主体とした土地を基盤とする経済社会であり、したがってこの,弥生時代は、一般的な理解として、前述の
稲作農耕
のほかに鉄器や青銅器など金属器使用の開始、織物の出現、ガラス
通史編1(自然・原始)
(弥生文化の内容)
弥生文化の内容 先述したごとく、弥生文化には
稲作農耕
のほかに金属器も加わっている。,西日本から
稲作農耕
を伴って到来した弥生文化は、縄文文化の強い東北北部の地に入ると、さまざまな変革をもたらしたであろう,まして約二〇〇〇年をさかのぼる弥生時代に、この寒冷な地で
稲作農耕
に挑戦した先人の労苦はいかばかりであったろう,やがて気候の寒冷化が激しくなって
稲作農耕
をあきらめ、狩猟・採集に戻るか、あるいは南方への移住がなされたのであろう
通史編1(古代・中世)
(弥生文化と続縄文文化)
弥生文化と続縄文文化
稲作農耕
を生産基盤とする本州の弥生文化に併行する時期に、北海道地方に展開した縄文文化以来,東北地方北部における弥生時代後期以降の遺跡数減少は、気候寒冷化によって
稲作農耕
が後退し、人口が減少したことを,日本列島の北に位置する津軽地方における
稲作農耕
の導入は、土器に施された文様の特徴などからもわかるように,したがって列島最北の
稲作農耕
民は、気候の寒冷化によって、稲作に代わる生計戦略を模索することなく在地を放棄,東北地方北部で
稲作農耕
が行われていたころ、北海道地方で続縄文文化を形成した人々は弥生文化の影響を享受(
通史編1(自然・原始)
(津軽への稲作の伝来)
弥生時代の始まりが西日本において今から約二四〇〇年前、東北北部などで約二三〇〇年前とすると、津軽地方へ
稲作農耕
,北九州などで大規模な
稲作農耕
の開始期と東北北部とは遅くみても一世紀の差であり、ことによるとその差は縮小
資料編1(考古編)
(1.古墳時代の概観)
弥生時代に東北地方北部地域を含めた広域に展開する文化と見られたが、今日では、砂沢遺跡や垂柳遺跡など、
稲作農耕
,この続縄文文化は、
稲作農耕
を主とする弥生文化と対峙(たいじ)する文化として弥生時代、北海道においてその,青森県では、弥生時代後期ころに始まった気候寒冷化に伴い、
稲作農耕
の衰退とともに、この北海道続縄文文化の
資料編1(考古編)
(3.砂沢遺跡)
恐らく
稲作農耕
の技術は、我々の想像を超えたスピードで伝わり、従来考えられていた紀元後1世紀以降との説を
通史編1(古代・中世)
(北東アジア人の渡来)
北東アジア人の渡来 ところが
稲作農耕
が日本列島に持ち込まれた弥生時代になって、人口が急増する。
資料編1(考古編)
(4.垂柳遺跡)
砂沢と垂柳の両遺跡では、
稲作農耕
に関する諸道具(例えば耕作具や石包丁など)は見られない。,したがって、当地方では
稲作農耕
を推進しつつあったにせよ、西日本に見られるような集落を単位とする組織的な
資料編1(考古編)
(2.弥生時代の初期稲作について)
縄文時代晩期後半期に北九州で開始された
稲作農耕
は、その後しだいに本州にも広まり、やがて東北地方北部にも
通史編1(古代・中世)
(東北地方の古墳時代)
した東北地方のこの時代のなかで、東北地方北部では三世紀末から四世紀前半代には、弥生時代の指標であった
稲作農耕
資料編1(考古編)
((2)9世紀~10世紀前半)
一部には沖積平野の微高地上や、山間部に進出するものも認められ、
稲作農耕
の発展による耕地の拡大化が指摘される
資料編1(考古編)
(5.青森県における弥生時代の終局)
恐らく彼らが
稲作農耕
を営むのは技術的に無理であり、かつての弥生時代前・中期に行われていた稲作は、後の平安時代
通史編1(自然・原始)
(砂沢遺跡)
弘前市・砂沢遺跡の完掘した2号水田跡 垂柳ならびに砂沢遺跡の水田跡発見により、東北北部の地でも
稲作農耕
通史編1(古代・中世)
(古墳文化及ばぬ北の世界)
伝統的生活を守り、稲作を好まない人々の住む地帯もあったであろうから、弥生時代の段階からそうした続縄文的な非
稲作農耕
地域社会
資料編1(考古編)
(4.中崎館遺跡)
このほか、初期
稲作農耕
と密接な関係を持つ遠賀川式系土器も出土しており、遺跡の立地を考慮すると、
稲作農耕
通史編1(自然・原始)
(新編 弘前市史 通史編1(自然・原始) 目次)
………… 350 一 遠賀川系土器の伝来 ………………………………………… 350 二
稲作農耕
資料編1(考古編)
(〈注一覧…第2章〉)
における弥生文化」(伊東信雄先生追悼 考古学古代史論攻) 1991年3月 *151 巌文明 「中国
稲作農耕
,の起源と展開 日本における
稲作農耕
の起源と展開」(日本考古学協会設立40周年記念シンポジューム-資料集
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