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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (稲荷宮)

稲荷宮 稲荷宮(現和徳稲荷神社)は、「津軽一統志」によれば、創建を不詳とし、元和年間(一六一五~二三,稲荷宮と徳恩寺の関係は社領の宛行(あてがい)先が変わった時になくなったものとみられる。,「津軽俗説選」(弘図岩)は、稲荷宮の鍵は常源寺にあって、稲荷宮に留め置くと常源寺へ飛んで帰るという話を,神主毛内氏は紀伊国の出身で、慶長年間(一五九六~一六一四)に稲荷宮を預かり、四代の時に山辺と改姓した。,和徳稲荷と名のる老人の道案内で柳原中屋敷へ避難したところから、これを信仰し、津梁院(現東京都)境内に和徳稲荷宮 / 稲荷宮
通史編3(近世2) (稲荷宮)

稲荷宮 稲荷宮(現新寺町稲荷神社)は、江戸浅草にあった熊谷(くまがい)稲荷を祀ったものである。,図233.稲荷宮の額 / 稲荷宮
通史編3(近世2) (二の丸屋敷稲荷宮)

二の丸屋敷稲荷宮 二の丸稲荷宮は、「国日記」の二ヵ所に記録がある。,宝暦八年(一七五八)一月三十日条には、小姓組御錠口役が初午の供物を取り扱っているところから、この時に稲荷宮,このように小姓組御錠口役、御広敷御用達が供物の取り扱いをしていることから、この稲荷宮は二の丸屋敷の奥庭,この「神社微細社司由緒調書上帳」のみが、二の丸屋敷の稲荷宮を「御館神」としているが、その理由はわからない,明治になってこの稲荷宮がどうなったかは明らかでない。 / 二の丸屋敷稲荷宮
通史編3(近世2) (館神)

館神の神体は正八幡宮であり、後に稲荷宮が加えられたようである。,天保九年(一八三八)からは、和徳稲荷宮・白狐寺稲荷宮・革彦稲荷宮・築館稲荷宮・住吉宮とともに六ヵ所稲荷,明治三年(一八七〇)の「御藩内御崇敬神社調」(弘図岩)からは稲荷宮とあり、正八幡宮は消えている。,これは、秀吉像が東京へ移され、稲荷宮が残されたためではないかとみられる。,この稲荷宮は、廃藩の時、城外へ移され、高山開運稲荷神社へ合祀された。
通史編3(近世2) (白狐寺)

白狐寺 白狐寺(びゃっこじ)は、稲荷宮(現新寺町稲荷宮)の別当であった。,弟子の貞昌寺隠居入誉が貞昌寺内に勧請したが、信政が宝永五年(一七〇八)新寺町に稲荷宮を創建し、別当を白狐寺
通史編3(近世2) (常源寺)

創建には諸説があり、真言宗の寺院で熊野・稲荷宮を司っていたのを曹洞宗に改めたとか、和徳讃岐の建立とか、,和徳稲荷宮を鎮守としていたとの記載もみられる。
通史編3(近世2) (住吉宮)

しかし「神社微細社司由緒調書上帳」によれば、山村与兵衛が延宝年間(一六七三~八〇)、日影林の稲荷宮の神託,延享元年(一七四四)に稲荷宮、同二年に住吉宮が藩主の意向により建立され、二代山村伊勢が両社の社司を命じられた
通史編3(近世2) (藩政前期為信)

別に城内に祀った稲荷宮が、現在堀越にある稲荷宮であり、この地の熊野宮は為信の再興したものという(資料近世
通史編3(近世2) (信明)

信政の命日には高岡霊社に、初午には城内の館神である稲荷宮に参詣した。
通史編3(近世2) (信政)

信政はすぐに国元の和徳稲荷宮へ代参を遣わし、津梁院境内に和徳稲荷を祀らせた。
通史編3(近世2) (大社の神仏分離)

稲荷宮(現市内新寺町稲荷神社)は、白孤寺(びゃっこじ)が別当を免じられたが、神官になる者がいなかったため
通史編3(近世2) (居開帳)

図26.閻浮檀金阿弥陀如来  白狐寺(びゃっこじ)は、稲荷宮(現新寺町稲荷神社)の修復のため、享保十三年,宝永四年(一七〇七)創建の稲荷宮の別当であった白狐寺は、供米九石で経済的基盤が弱く、宝暦改革で寺社の修復
通史編3(近世2) (藩政中期四代信政)

宝永五年(一七〇八)に江戸浅草の熊谷(くまがい)稲荷宮を新寺町へ勧請(現新寺町稲荷神社)し、別当白狐寺
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