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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (稽古館暦)

稽古館暦 稽古館では暦も作成された。,これが稽古館暦の初めである。,図166.稽古館暦 / 稽古館暦
通史編3(近世2) (稽古館の文化事業)

稽古館の文化事業 稽古館は文化活動として稽古館蔵版の奥付を有する書物を翻刻出版している。,世に稽古館本という。翻刻は稽古館内に「彫刻方」があって版下を刻んだ。,刊行年を欠くが「帝範」大本一冊、「唐詩選」半紙本二冊、「皇朝史略」半紙本六冊、「続皇朝史略」半紙本二冊も稽古館本,また教科書以外の稽古館本として、津軽家と深くかかわりのある山鹿素行の「中朝事実」(文政元年六月)、「聖教要録,図165.稽古館本 目録を見る 精細画像で見る / 稽古館の文化事業
通史編3(近世2) (幕末期の稽古館)

幕末期の稽古館 文化年間以降、稽古館は藩財政の逼迫から縮小を余儀なくされ、月に六度あった学問所での儒書 / 幕末期の稽古館
通史編3(近世2) (稽古館の儒学者たち)

稽古館の儒学者たち 稽古館を彩った歴代の儒学者には、津軽永孚、山崎蘭洲に加えて、伴才助、唐牛大六、葛西善太,に師事し、江戸に上って服部南郭(なんかく)の門人安達文仲に学び、その後昌平黌(こう)に入り、帰国して稽古館,当時古学派が隆盛であった稽古館の学風を朱子学に改革せんことを家老大道寺隼人に進言した。  ,山崎蘭洲の門人で、寛政三年(一七九一)に江戸に上り昌平坂学問所に学び、帰藩後、御用懸として寛政六年の稽古館,文政十一年(一八二八)、十四歳で稽古館に入学し、二十四歳で稽古館典句に挙げられたが、二十九歳の天保十四年 / 稽古館の儒学者たち
通史編3(近世2) (東奥義塾)

東奥義塾 明治五年五月、漢学校と英学校を合併する議が起こり、追手門外の旧藩軍事局の建物(寛政八年稽古館,かくして稽古館跡に私立東奥義塾が誕生するはこびとなった。
通史編3(近世2) (釈奠)

釈奠 稽古館では先聖先師(孔子とその門人)の霊を祀る釈奠(せきてん)(犠牲(いけにえ)を供えず蔬菜を,とりわけ稽古館開設後の最初に行われた寛政九年(一七九七)二月二十六日の釈奠は、礼式にのっとったリハーサル,が周到に行われ、藩主信寧自らが稽古館に臨み、祭酒として「初献」(祭典儀礼で最初に御霊に酒を献ずること)
通史編3(近世2) (寛政期の城下)

学校は稽古館と命名され、「稽古館創記」(同前No.二八一)によれば、開莚(かいえん)式(開校式)が行われたのは,稽古館では経学・兵学・天文暦学・紀伝学・法律学・数学・書学が教授された。,図5.追手門前に建設された学校―稽古館 目録を見る 精細画像で見る  稽古館の創立は、家中に好学
通史編3(近世2) (学風の変化)

のような藩内の知的状況に加えて、総司津軽永孚が荻生徂徠やその高弟太宰春台の学説を信奉していたことが、稽古館,永孚はこの春台の学説に共鳴し、孟子は稽古館では当初教科書に採用されることはなかった。,しかし稽古館では徂徠学一色だったというわけではなく、小司の竹内衛士が永孚に対して忌憚(きたん)なく反対,図167.荻生徂徠肖像  稽古館で中心的役割を果たしていた津軽永孚が、寛政十一年(一七九九)六月
通史編3(近世2) (教科目)

教科目 稽古館は藩の規模の割には広範囲にわたる教科目を用意した。,の要請に応じるべく、安政六年(一八五九)、蘭学堂が付設され蘭学が加えられるが、その時にはすでに学校が稽古館城内三,創設当初の稽古館におけるこうした徂徠学的痕跡は、徂徠学を信奉した津軽永孚の意向が反映されたことによる。
通史編3(近世2) (武芸奨励)

面試合稽古するよう、怠慢の者には処罰も辞さないといった旨の布告が出され、文久二年(一八六二)二月二十四日には稽古館,そして同年の末には稽古館跡に武芸修練所(翌年「修武堂」と命名)を新築し、流派にかかわらず「実用」に役立
通史編3(近世2) (学官の職掌)

学校名や、それぞれの学舎の名称もこのころには確定していた(稽古館本の「孝経」には「寛政七年乙卯六月、津軽稽古館蔵版,学校名「稽古館」は『尚書』「堯典」冒頭の「ここに古の帝堯を稽(かんが)ふるに」に典拠を有する(資料近世
通史編3(近世2) (文・武・医の総合教育施設)

文・武・医の総合教育施設 同年八月から稽古館での授業が本格的に開始された。,こうした形で藩は医者の養成を図るとともに、稽古館での資格試験を課し、及第者のみに開業免許を与えた。
資料編3(近世編2) ([口絵])

)と永徳丸図(右) 岩木山参詣図 平尾魯仙原画(弘前市立博物館蔵) 文化13年の稽古館暦,(弘前市立博物館蔵) 稽古館本(弘前市立図書館蔵岩見文庫) 金木屋日記(弘前市立図書館蔵八木橋文庫
通史編5(近・現代2) (書の伝統)

九代藩主寧親のとき、星野素閑(ほしのそかん)が江戸三筆の一人と言われ、弟子の小山内西山(おさないせいざん)は稽古館,西山に学んだ甥の小山内暉山(きざん)は、稽古館副司から明治になって師範学校書道教師になり、著書三十余冊
通史編3(近世2) (山崎蘭洲)

山崎蘭洲 文教面における第一人者であり、藩校稽古館の創設に大きくかかわった人物に山崎蘭洲(一七三三~,門弟達の編集による詩文集「蘭洲先生遺稿」五巻五冊が文化二年(一八〇五)津軽稽古館蔵活版として刊行された
通史編3(近世2) (学校落成式)

この日をもって学校名を「稽古館(けいこかん)」と号することが公式に宣言されたと思われる。
通史編4(近・現代1) (東奥義塾開学)

東奥義塾一覧』に結社人筆頭で名前が挙げられた兼松成言は、弘前藩において和洋両学に通じた学者として藩校稽古館,の教育に当たっており、明治三年には現在の学校長に当たる稽古館督学となった人物である。
通史編3(近世2) (学校造営)

医学・和学を学ぶ部屋が配置され、学科単位の非常によく練り上げられた教室配置になっている(「旧弘前藩学校稽古館図,旧弘前藩学校稽古館図
通史編3(近世2) (英学寮)

藩知事津軽承昭は進取の知識を洋学に求め、稽古館の教育を刷新し、最勝院に敬応書院を設けて皇・漢・英の三教科
通史編5(近・現代2) (明治時代の柔術)

/津軽藩の柔術である「本覚克己流」は、添田家九代定吉が、「和(やわら)」といって、藩学校「稽古館」の後
通史編5(近・現代2) (一 古典邦楽)

雅楽は藩校の稽古館では教科ではなかったが、放課後に練習が許され、箏・笙・笛・太鼓の楽器も用いられた。
通史編3(近世2) (本行寺)

文化七年(一八一〇)、貞昌寺の出火によって類焼した際は、藩校の稽古館の講堂を移して書院とした。
資料編3(近世編2) (【解説】)

まず第一項は「藩校と学問」とし、藩校「稽古館」の関連史料を掲載した。  ,学校は「稽古館」と名付けられ、陣容を整え、釈奠(せきてん)(孔子を祭ること)・養老の祭事も執行されていた,本節では、こうした稽古館の歴史的経過をたどれるよう、「弘前藩庁日記」・「稽古館創記」・「封内事実秘苑」
通史編2(近世1) (預手形の性格)

から藩庁が責任を持って発行して欲しい旨の願書があり、さらに同所が巡見使の宿となるので、年末には旧藩校稽古館
通史編3(近世2) (幕末期の市域)

その後、安政五年(一八五八)には古学校(旧稽古館)構内に医学校が創立されたほか、文久二年(一八六二)には
通史編5(近・現代2) (新生東奥義塾の躍進)

と同時に、稽古館以来の下白銀町から郊外に移転するという画期的な構想が明らかにされた。
通史編3(近世2) (平尾魯僊)

他方、経学・史学を稽古館学頭の松田駒水(くすい)(一七五五~一八三〇)から、俳句を内海草坡から学んだ、
通史編2(近世1) (乳井貢と先行思想)

このような事実を考え合わせると、寛政八年(一七九六)の藩校稽古館(けいこかん)の創設に伴い、しばらくして
通史編3(近世2) (学びの光景)

学びの光景 稽古館での授業形態は学習段階に応じた方法がとられていた。
通史編3(近世2) ((三)主要人物)

藩校稽古館学士取扱。父は仲好(なかよし)で実は兄。国学者・歌人。
通史編5(近・現代2) (東奥義塾の昭和)

この年は、稽古館創立百四十周年と東奥義塾創立六十五周年の記念すべきめでたい年にも当たっており、各種記念事業
通史編4(近・現代1) (東奥義塾の再興なる)

藩校稽古館の流れをくみ、明治期の北方教育界において輝かしい光芒(こうぼう)を放った東奥義塾は、一時その
通史編2(近世1) (その他の諸政策)

幕府の寛政改革との対応で取り上げられるものに、人材の登用と藩校「稽古館(けいこかん)」の設立がある。
通史編3(近世2) (御軍政局の発足と組織)

人扶持 武芸取扱・砲書取扱 34 木村源吉 〃 御馬廻組 2人扶持勤料 学問所孫学典勺 明治1.5 稽古館司館取扱
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