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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編1(考古編)
((1)祭祀と仏教文化の波及)
竪穴住居
跡 床面 石玉1 土師器 10C前半
竪穴住居
跡 床面 石玉1 土師器 10C前半 5 李平下安原遺跡,
竪穴住居
跡 覆土 土製勾玉1 第50号住居跡
竪穴住居
跡 覆土 石製勾玉1 第139号住居跡,
竪穴住居
跡 床面 土製勾玉1 土師器 8C後半 第14号住居跡
竪穴住居
跡 覆土 土玉1 第,16号住居跡
竪穴住居
跡 覆土 土玉1 第24号住居跡
竪穴住居
跡 覆土 土玉1 第28号住居跡,これらの多くは、
竪穴住居
床面や堆積土中のものである。
資料編1(考古編)
((3)10世紀後半~11世紀)
だけを空堀や土塁で囲み、その後背地の平場に十軒~数十軒の
竪穴住居
を配置する「上北型防御性集落」がある。,
竪穴住居
跡は、柱の配置に前代とは大きな変化が認められる。,なお、11世紀をもって日常的な
竪穴住居
はなくなり、掘立柱建物の構造に変化するとされている。,図19 10世紀~11世紀の
竪穴住居
跡 図20
竪穴住居
跡と出土遺物(10世紀前半),図21
竪穴住居
跡と出土遺物(10世紀前半)
資料編1(考古編)
((1)7・8世紀)
すなわち、土地を基盤とする農耕が一定の土地への定住化を促した結果、
竪穴住居
群の集合体としての集落跡として,この時期の集落は、一般的に数軒から数十軒ほどの、かまどを持った
竪穴住居
と、数棟の掘立柱建物跡(倉庫)、,各竪穴間は10m~20mの間隔で配置され、その中央部周辺にはやや規模の大きな
竪穴住居
がある。,この
竪穴住居
は、集落の中心的役割を果たした「村長(むらおさ)」の住居であろう。,この時期の
竪穴住居
跡は、基本的には縄文時代に起源を持つものであるが、青森県の中では古墳時代の約3世紀間
通史編1(古代・中世)
(津軽地方の古代信仰)
なお、第一号
竪穴住居
跡覆土からは土玉が出土している。,また、八戸市岩ノ沢遺跡の九世紀前半とされる
竪穴住居
跡からも土馬が出土している。,ほかに、九世紀代の青森市三内遺跡では、第四四号
竪穴住居
跡カマド前床面から左上顎歯と推定される馬歯が出土,しており、一〇世紀代の大鰐町砂沢平遺跡でも第五号
竪穴住居
跡床面で検出された土壙から馬歯と考えられるものが,関東地方の例になるが、東京都港区伊皿子(いさらご)貝塚遺跡の九世紀中葉の
竪穴住居
跡でも、カマドの焚き口部
資料編1(考古編)
(5.大森勝山遺跡)
第1次調査により台地の南西部から13.77m×12.80m、面積150.4m2を測る円形大
竪穴住居
跡,が発掘され、発見当時は日本最大の
竪穴住居
跡といわれた(図5)。,第3次から第6次にかけては大
竪穴住居
跡と旧石器出土地区との間で発見された環状列石(第2章図26)に関する,出土遺物は、大
竪穴住居
跡付近から縄文時代前期末の円筒下層d2式土器(図7-1)、大
竪穴住居
跡内は縄文時代晩期,※参考文献 1)村越潔「岩木山麓の大森勝山遺跡で発見した大
竪穴住居
址」(弘前大学国史研究19・20合併号
通史編1(古代・中世)
(平安時代の大規模集落)
九世紀中葉には、
竪穴住居
跡の外周に馬蹄形状に溝をめぐらし、その開口側と同一の南東ないし東方向にカマドの,すなわち、九世紀中葉から一〇世紀前半にかけては、
竪穴住居
跡と一体の施設としてカマド側に掘立柱建物跡、これらを,外周溝の機能については、
竪穴住居
への浸水防止・排水のための施設と考えられるほか、開口側が傾斜面に逆行する,図14 外周溝を伴う
竪穴住居
跡群(浪岡町松元遺跡) 平安時代中葉における弘前市内の遺跡としては,、九世紀後半から一〇世紀前半の
竪穴住居
跡六軒、堀跡二本、土壙五基が検出された下恋塚(しもこいづか)遺跡
通史編1(自然・原始)
(縄文集落)
中期後半)では、中央部に墓壙が円形をなして設けられ、それを数十棟の掘立柱建物群が取り巻き、さらにその外側に
竪穴住居
群,、環状列石を中心として外側を柱穴群がめぐり、その外側をフラスコ状ピットなどの土坑が囲み、さらに外周を
竪穴住居
,、中央部に広場が設けられ、それを取り巻いて墓壙、フラスコ状ピットなどの土坑、掘立柱建物に関連の柱穴、
竪穴住居
資料編1(考古編)
((1)明治時代から太平洋戦争まで)
この年、廣澤安任が東京人類学会に上北発見の
竪穴住居
について報告した*1。,特に佐藤伝蔵は、明治30年に西津軽郡森田村八重菊などの遺跡で、5軒の
竪穴住居
跡を発掘している。,これには古代の
竪穴住居
の構造が具体的に示され、しかも各遺跡の炉(かまど)の構造や素材上での分類、あるいは
資料編1(考古編)
(2.下恋塚遺跡)
(4)遺跡の概要
竪穴住居
跡6件・堀跡2本・土壙5基が検出された。,〔
竪穴住居
跡〕 竪穴の規模は、1号住居跡(5.40m四方)・2号住居跡(3.40m×3.34m,6軒の
竪穴住居
跡のうち、完掘できた5軒は、いずれも東竪辺あるいは西竪辺に作り付けのかまどが1基づつ設置,これらの
竪穴住居
跡からは、土師器甕及び坏のほか鉄製品・羽口片等の遺物が出土している。
資料編1(考古編)
(16.鬼沢猿沢遺跡)
(4)遺構・遺物の概要 遺跡としては、縄文時代後期の十腰内Ⅴ群(式)土器の
竪穴住居
跡1軒・土壙27,
竪穴住居
跡は、壁面が削平されたり、一部は調査区域外のために完掘されていない。,出土遺物が少ないため時期の不明なものも多いが、明瞭なものは
竪穴住居
跡と同様に十腰内Ⅴ群(式)土器期である
資料編1(考古編)
(3.縄文時代の集落)
中心部に200ほどの土壙群が放射状に配置されており、その外側を多数の柱穴群が取り巻き、さらにその外側を
竪穴住居
跡群,でも縄文時代中期における六ヶ所村富ノ沢(2)遺跡の例を見ると、柱穴群(掘立柱建物跡群)の外側を多数の
竪穴住居
跡,中心部に遺構はほとんど見られず、土壙群が中心部を取り巻き、その外側に掘立柱建物跡群、さらにその外側を
竪穴住居
跡群,また、縄文時代晩期には、三戸郡三戸町の泉山遺跡の例のように、土壙群を中心としてその外側に
竪穴住居
跡群が,御所野(ごしょの)遺跡でも、縄文時代中期後半期に中央部を整地して配石墓を造り、それよりも一段高い周囲に
竪穴住居
跡群
資料編1(考古編)
(11.牧野Ⅰ遺跡)
竪穴住居
跡の存在も想定されたため、前述の高校と弘前大学教育学部考古学研究室の合同調査として、昭和44年,(4)遺構・遺物の概要 調査は、柱穴状ピットの周辺を中心に実施したが、
竪穴住居
跡等の遺構は見られず
資料編1(考古編)
(15.尾上山(3)遺跡)
(4)遺構・遺物の概要 発見された遺構は、縄文時代前期(円筒下層b式土器期)の不整楕円形を呈する
竪穴住居
跡,2軒、円または楕円形を示し、断面がフラスコ状筒形を呈する土壙9基、平安時代(10世紀前葉)の
竪穴住居
跡,また、平安時代の
竪穴住居
跡は、形状が方形を呈し、460×460cm、面積19.25m2を有する
通史編1(古代・中世)
(本州の擦文文化の実態)
本州の擦文文化の実態 カマドをもつ
竪穴住居
跡から出土する本州の擦文土器が土師器を伴うことは、東通村稲崎遺跡,弘前市でも一〇世紀後半から一一世紀代を盛期とする早稲田遺跡の
竪穴住居
跡、焼土遺構、溝跡、一一世紀代を主体,とする荼毘館(だびだて)遺跡第一〇一号
竪穴住居
跡や境関館遺跡、あるいは後に触れる中崎館遺跡でもこの類の
資料編1(考古編)
((4)12世紀)
このうち、竪穴建物は明らかに前代までの
竪穴住居
の系譜を引くものであるが、かまどは設置されておらず倉庫や
資料編1(考古編)
(資料編1「考古編」掲載図・表・写真一覧)
碇ヶ関村古館遺跡) 図15 津軽型防御性集落(11世紀,大鰐町砂沢平遺跡) 図16 7~8世紀の
竪穴住居
跡,図17 9世紀の
竪穴住居
跡 図18 9世紀~10世紀の
竪穴住居
跡 図19 10世紀~11世紀の,
竪穴住居
跡 図20
竪穴住居
跡と出土遺物(10世紀前半) 図21
竪穴住居
跡と出土遺物(10世紀前半,における遺物出土状態 図5 大森勝山遺跡大
竪穴住居
跡実測図 図6 大森勝山遺跡出土遺物(旧石器)、,弘前市大沢出土遺物 図7 大森勝山遺跡出土遺物 図8 大森勝山遺跡大
竪穴住居
跡内出土遺物 図9
資料編1(考古編)
((2)9世紀~10世紀前半)
図17 9世紀の
竪穴住居
跡 図18 9世紀~10世紀の
竪穴住居
跡
資料編1(考古編)
(8.砂沢遺跡)
けられ、第1・第2次調査は高台地区を中心に行い、多数の小柱穴・溝跡・Tピット(落し穴)・縄文時代後期の
竪穴住居
跡,(1号住居跡)を発見、第3次から順次低地帯へ移り、前述と同期の
竪穴住居
跡(2・3号住居跡)・水路状溝跡等,出土遺物は、
竪穴住居
跡より出土の縄文時代後期後葉の十腰内Ⅳ群(式)と同Ⅴ群(式)土器(図20)をはじめ
資料編1(考古編)
(3.石川長者森遺跡)
丘陵頂部平坦面に配置した
竪穴住居
群を主体とした集落全体を、保塞する性格を有する施設である。,〔
竪穴住居
跡〕 空堀に囲まれた丘陵頂部のトレンチで3軒の
竪穴住居
跡が検出された。 ,石川長者森遺跡空堀跡推定図(網部分) 図42 石川長者森遺跡 堀跡断面図 図43 石川長者森遺跡
竪穴住居
跡
通史編1(自然・原始)
(大森勝山遺跡)
開拓事業に伴う事前の埋蔵文化財緊急発掘調査の一環として、翌年には岩木山東麓の大森勝山遺跡が調査され、大型の
竪穴住居
跡
通史編1(古代・中世)
(古墳文化と続縄文文化の交流)
続縄文文化の前半期には、多くの墳墓のほか、道東部では舌状の張り出し部をもつ隅丸方形ないし小判形の
竪穴住居
,が、また道西南部では円形ないし楕円形の
竪穴住居
が知られている。
資料編1(考古編)
((6)漁業)
三内遺跡の場合は、3軒の
竪穴住居
跡から、大きさが5~6cmのものが合計13本出土している。
資料編1(考古編)
((1)7世紀~8世紀)
においては狩猟・採集を生活の基盤とした移動生活のため、集落としての痕跡が未形成であったものが、この時期には
竪穴住居
,特に
竪穴住居
においては、方形の住居プランを持ち、作りつけのかまどが各戸に設置され、しかも集落毎にいくつかの
資料編1(考古編)
(〈時期的な変遷〉)
建物様式(鎌倉で発見される方形竪穴建築跡や近年は関西・九州地方まで類例が増加している)であり、平安時代の
竪穴住居
跡
資料編1(考古編)
(5.荼毘館遺跡)
検出された遺構は、
竪穴住居
跡30軒、掘立柱建物跡15棟、井戸跡6基、土壙94基、焼土遺構19基、溝状遺構,①
竪穴住居
跡 竪穴内に作りつけのカマドを持つ住居跡や、カマドのない竪穴遺構の2つの形態がある。,荼毘館遺跡第27号竪穴遺構(鍛冶遺構)出土遺物(土師器・須恵器・羽口) 図78 荼毘館遺跡第101号
竪穴住居
跡出土遺物
資料編1(考古編)
(6.独狐遺跡)
(4)遺構・遺物の概要 2次にわたる発掘調査の結果、平安時代では
竪穴住居
跡・土壙・溝状遺構、中世では,平安時代の遺構は、
竪穴住居
跡が1軒検出されているが、これは一辺が5m前後のもので、全体の3分の1しか精査
資料編1(考古編)
(2.縄文時代の住居跡)
いずれも
竪穴住居
跡であり、1軒は3.15m×3.05mの円形、もう1軒は長軸3.22m、短軸,不整円形・長楕円形などであり、大きさは最小が5.08m2、最大は48.09m2を計測したが、特に105号
竪穴住居
跡,、昭和31年(1956)の夏、江坂輝彌と音喜多富寿が中心となって発掘し、2.30mの円形プランを持つ
竪穴住居
跡,縄文時代早期の住居跡は上記のようであり、まとめるとすべて
竪穴住居
で、柱穴は壁際に作られる例が日計式土器期
通史編1(古代・中世)
(鍛冶・鋳物師の道具)
(ふいご)の羽口(はぐち)や作業滓としての鉄滓(てっさい)・鍛造剥片(はくへん)であり、古代遺跡では
竪穴住居
跡
資料編1(考古編)
((9)蕨手刀)
出土状態の明らかなものでは、「蝦夷の族長」の墓とされる終末期古墳群や規模の大きい
竪穴住居
跡からの出土例,遺跡 平成5年 町道整備事業の発掘 上北郡百石町根岸 (欠) - (欠) 土師器・桂甲 第8号
竪穴住居
跡内
資料編1(考古編)
(7.小友遺跡)
〔縄文時代〕 前期円筒下層a式期と推定される
竪穴住居
跡が1軒と、前期・後期の土器・石器がある。,
竪穴住居
跡は直径4mほどの円形で、中央部に地床炉を持つ。
通史編1(古代・中世)
(擦文文化圏との交易)
たてがたろ)三四基、鍛冶場跡三基、炭窯三基、井戸跡三基、焼土遺構四基、溝跡六条などのほか、鍛冶集団の
竪穴住居
跡二一軒
通史編1(古代・中世)
(地方色を顕す古代の津軽地方)
図20 10世紀後半~11世紀代の土器 一〇世紀末から一一世紀末は、カマドを有する
竪穴住居
跡としては
通史編1(自然・原始)
(草創期)
なおこの土器は円形の
竪穴住居
内から出土しており、草創期の住居の形状と生活の様相が理解できる可能性も高い
資料編1(考古編)
(9.高長根山遺跡)
B地点は方形(第1号)と円形(第2号)を呈する
竪穴住居
跡のほか、石棺墓1基・土壙2基・集石遺構が発見されている
通史編1(自然・原始)
(住居)
富山県小矢部市・桜町遺跡) 近年の開発に伴う緊急調査は広大な面積を発掘することも多く、しばしば大型
竪穴住居
,弘前市・大森勝山遺跡で検出された大
竪穴住居
跡(晩期)
通史編1(自然・原始)
(まえがき)
なかでも大森勝山遺跡における大型
竪穴住居
跡・環状列石ならびに本県最初の旧石器の発見をはじめ、十腰内遺跡出土
通史編1(古代・中世)
(七・八世紀代の津軽地方)
五穀無く、深山の樹の下を住としている」(史料二六)と記されたこの時期には、造りつけのカマドを設けた方形の
竪穴住居
資料編1(考古編)
(-古代後期Ⅳ期(10世紀末~11世紀末)-)
いずれも、かまどを有する
竪穴住居
としては最終段階のものである。
通史編1(自然・原始)
(太平洋戦争終結後)
を同年十一月に発掘し、翌年の十月には慶応大学の江坂輝彌も参加して、縄文時代中期末の最花式土器をはじめ
竪穴住居
跡一棟,なりたすえごろう)(一八九五~一九七九)と戸沢武(とざわたけし)が鯵ヶ沢町長平(ながだい)町の谷口平安時代
竪穴住居
跡,特に鰊崎では、平安時代の
竪穴住居
跡二棟と井戸跡を発見している(91)。 ,なお同遺跡は後の昭和三十三年(一九五八)にも調査され、隅丸方形(すみまるほうけい)の
竪穴住居
跡が一棟発見
資料編1(考古編)
((2)太平洋戦争後から現代まで)
には明治大学の後藤守一・岩月康典らによる東通村将木館(しょうぎだて)遺跡の調査が行われ、環濠内と外の
竪穴住居
跡,これまでは東北地方北部で円形の窪地として確認されている多くの
竪穴住居
跡の構造は、すべて円形プランをなすものと,見られていたが、この段階で初めて関東地方の古代
竪穴住居
と同様に、方形プランで壁際に作りつけのかまどを持,森田村八重菊遺跡*13*14、また、昭和26年には弘前市の成田末五郎・戸沢武による鰺ヶ沢谷口遺跡で、平安時代の
竪穴住居
跡
通史編1(古代・中世)
(弥生文化と続縄文文化)
墳墓以外の遺構形態がはっきりしなかったが、恵庭市カリンバ3遺跡ではカマドをもつ隅丸(すみまる)方形の
竪穴住居
跡,カマドをもつ方形の
竪穴住居
は擦文文化を特徴づける重要な文化要素であり、先の特徴をもつ土器群は擦文文化初頭型式
通史編1(自然・原始)
([口絵])
十腰内Ⅰ遺跡3号住居跡 (縄文時代晩期、青森県埋蔵文化財調査センター提供) 十腰内Ⅰ遺跡1号
竪穴住居
跡
資料編1(考古編)
(10.弘前城内遺跡)
なお当該出土土器を前提に考察すると、
竪穴住居
跡に遭遇していた可能性もある。
資料編1(考古編)
(-鉄生産遺構と製鉄炉の性格-)
平成4年(1992)の調査で、半地下式竪形炉1基と鍛冶場跡1基、更に9世紀から11世紀にかけての多数の
竪穴住居
群,半地下式竪形炉34基・鍛冶場跡3基・炭窯3基・井戸跡3基・焼土遺構4基・溝跡6条等のほかに、鍛冶集団の
竪穴住居
跡
通史編1(古代・中世)
(竪穴から掘立柱へ)
竪穴から掘立柱へ 中崎館においてはカマド付きの
竪穴住居
はまったく認められず、かわりに掘立柱建物跡を中心
通史編1(古代・中世)
(中国製品の出土)
また、大仏遺跡の陶磁器も白磁皿であり、
竪穴住居
跡から出土し、一一世紀代まで上る可能性もある。
資料編1(考古編)
((4)漆器・木器生産)
このころの青森県では、9世紀初頭の八戸市和野前山遺跡第2号
竪穴住居
跡から皿が4例出土しているにすぎない,また、大鰐町大平遺跡H-21号
竪穴住居
跡においては、身部と台部の荒型(全国的にも荒型の出土例はまれである
資料編1(考古編)
(4.弥生時代の住居跡)
青森県における弥生時代の住居跡は、現在のところ当該時代の前期(Ⅰ期)と後期(Ⅳ期)に属するもので、すべて
竪穴住居
跡
資料編1(考古編)
(6.十腰内遺跡)
また未報告であるが、円形の
竪穴住居
跡が2軒発見されている。
資料編1(考古編)
((5)縄文時代後期)
を用いた石棺墓、葬法と深い関連を持つと思われる環状列石(ストーン・サークル)や、墓壙・掘立柱建物跡・
竪穴住居
跡
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