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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (第八師団の実状)

第八師団の実状 全国各師団の実状は時折天皇に上奏されることになっていた。,それを見ると、第八師団長立見尚文の名で、日露戦争を間近に控えた当時の第八師団管下の様子が、概略的ではあるが,立見師団長は、雪国を管下に控える第八師団では積雪のために新兵の訓練が十分でないことを上申している。,防寒対策、とくに雪対策が北方師団である第八師団に課せられた大きな課題となった。,時には両連隊が連合して対抗演習をするなど、雪中対策が第八師団の作戦を特徴づけるものとなっていた。 / 第八師団の実状
通史編4(近・現代1) (第八師団のシベリア派遣)

第八師団のシベリア派遣 シベリア出兵が弘前市民にとって最も身近な問題となったのは、やはり第八師団自体,大正十一年四月十九日、第一一師団と交代するため、第八師団がシベリアに派遣されることになった。,第八師団がロシア革命勢力と戦闘に入ると、『東奥日報』を中心に戦況報告が頻繁に伝えられた。,革命勢力といっても、第八師団と直接戦ったのは過激派であり、パルチザンの兵士たちだった。,第八師団が青森に上陸したのは十月十四日であり、二十八日には師団司令部も弘前に帰還した。 / 第八師団のシベリア派遣
通史編4(近・現代1) (日露開戦と第八師団の派遣)

日露開戦と第八師団の派遣 明治三十七年(一九〇五)二月十日、日本はロシアに宣戦布告した。,しかし郷土師団たる第八師団が大陸出征したり、津軽海峡にロシア艦隊が出没したり、樺太からロシア人捕虜が弘前,郷土師団たる第八師団が出征せず、留守師団として内地に留まっていたのが最大の理由であろう。  ,その第八師団も六月七日に動員されることになった。当時の日本は全部で一二の師団が常備していた。,第八師団は大阪に滞在した後、十月八日大陸に渡り、越年することになった。 / 日露開戦と第八師団の派遣
通史編5(近・現代2) (弘前市にとっての第八師団)

弘前市にとっての第八師団 昭和戦前・戦中期の政治・行政を見る場合、軍との関係を無視することはできない,第八師団を抱える弘前市については、とくにそうだった。,第八師団は青森、岩手、秋田、山形を管轄し、仙台に拠点をもつ第二師団とともに、東北師団として巨大な施設を,ところが第八師団のお膝元である弘前市は、まだ軍縮時代の名残が強い満州事変以前の時期でも、郷土軍を誇りに / 弘前市にとっての第八師団
通史編4(近・現代1) (ロシア戦への意識と第八師団の設置)

ロシア戦への意識と第八師団の設置 日清戦争は欧米諸国の予想と異なり、日本の勝利に終わった。,その結果、弘前市に第八師団が、大湊に水雷団がそれぞれ新設された。,県庁を青森に奪われたと感じる弘前市民にとって、第八師団の設置は新しい弘前市をめざす上で大きな意味をもったのである,第七師団から第一二師団まで六師団を新たに増設し、弘前に第八師団、金沢に第九師団、姫路に第一〇師団、善通寺,二年後に正規の師団長を発令し、弘前第八師団の初代師団長には、立見尚文が就任した。 / ロシア戦への意識と第八師団の設置
通史編4(近・現代1) (黒溝台の死闘)

郷土師団たる第八師団は、この戦闘に一万五七一九人が参加した。,第八師団と後備第八旅団の損耗率は八〇%に近い。,つまり黒溝台会戦の被害は、ほとんどが第八師団関係者だったといってよい。,第八師団にとって黒溝台の会戦は、軍事的には敗北だった。,第八師団は膨大な被害と引き換えに、大いなる名誉を手に入れたのである。  
通史編5(近・現代2) (戦後の世相と観光政策)

戦争の終結により、弘前市は軍都の象徴として、政治・産業の基盤だった第八師団を失った。,戦後は第八師団に代わる弘前市の象徴と産業基盤を見出すために、弘前大学を新設し、学都弘前をめざした。,だが学都弘前だけでは戦前・戦中の第八師団と比べ、産業的基盤に欠けるのは否めなかった。  ,しかし大学を設立し、大学生を集めるだけでは戦前・戦中期の弘前市の経済を支えた第八師団の威力に遙かに及ばない
通史編5(近・現代2) (郷土部隊の出征)

事変後、各地の師団から部隊が出征し、第八師団管下の各連隊にも出征が命じられた。,三月十二日、第八師団の主力部隊が出動することになった。このときの師団長は西義一中将である。,この戦闘で第八師団は兵力をつぎ込み、三日山海関を占領した。,第八師団主力の凱旋に当たって、市民は凱旋歌を歌って盛大に歓迎した。,第八師団将兵が常に青森県の師団であることが、ここでも強調されている。
通史編5(近・現代2) (市域の整備と町村合併)

両部落の合併は第八師団設置当時からの長い歴史があった。,第八師団自体が巨大な組織である以上、地域の統一整理が必然となったからである。,この合併の最大の特徴は、第八師団司令部と歩兵第五二連隊、弘前高等学校(現弘前大学文京キャンパス)が、合併,弘前市は軍都弘前として名をはせたが、実際に第八師団司令部が市域に編入されたのは、意外にも昭和期に入ってからなのである
通史編5(近・現代2) (敗戦時の郷土部隊)

第八師団自体は太平洋方面の戦局が絶望的となった昭和十九年(一九四四)七月、フィリピンへの転出を命じられている,他の師団と同様、第八師団管下の各部隊も中国や南方方面に派遣され、悲惨な状況下で敗戦を迎えている。,むろん第八師団管下の各部隊も同様である。
通史編4(近・現代1) (軍縮と歩兵第五二連隊の廃止)

宇垣軍縮による実質的な軍備の近代化は、第八師団管下にも確実に反映した。,大正十四年(一九二五)の第八師団連合演習では飛行機や戦車、軍用犬、携帯無線電話など、新しい武器、兵器が,市の財政をなげうち、市民総出で第八師団を誘致した弘前市民にとって、第五二連隊の廃止はたいへんな痛手だった
通史編4(近・現代1) (道路改修問題と佐和知事)

和徳村、弘前市元寺町、同親方町、同松森町、堀越村、石川村、大鰐村、蔵館村、碇ケ関村 秋田県界 兵営道 第八師団司令部,弘前市土手町 山道町、住吉町、清水村富田 第八師団司令部 歩兵第三十一聯隊兵営 弘前市親方町 本町、,新寺町 歩兵営 輜重兵第八大隊兵営 弘前市新寺町 清水村富田樹木派立 輜重営 騎兵第八聯隊兵営 第八師団司令部
通史編4(近・現代1) (特別大演習と天皇の弘前行幸)

一九一五)十月二十日から三日間にわたって、弘前市を中心に津軽平野一帯において特別大演習が行われ、弘前第八師団,大演習御統覧のために大正天皇は十九日に弘前に行幸、二十五日まで第八師団司令部に滞在された。  
通史編4(近・現代1) (歩兵第三一連隊の移転問題)

第八師団のある弘前市に一連隊を置き、岩手県にも同県出身者で構成される一連隊を配置することは、合理的な軍縮路線,第八師団設置の際もそうだったように、陸軍部隊の設置や移転は地元経済に甚大な影響を与える。
通史編5(近・現代2) (忠霊塔建設)

建設関係者が弘前第八師団の名が存在しているうちに完成させようと、突貫工事を行ったものである。,竣工式は二十年(一九四五)十一月五日に行われたが、参列した第八師団長は敗戦後のことなので武装解除され、
通史編4(近・現代1) (連隊区の廃止)

県庁を奪われ政治的位置づけを失い、さしたる生産的都市機能をもたない弘前市にとって、第八師団の設置は政治的,弘前市は第八師団管下の諸軍事施設から、相当な経済的恩恵を受けてきた。
通史編5(近・現代2) (満州事変勃発と小学校)

同年十一月十三日、弘前第八師団に動員令が下り、この日大部隊が弘前駅を出発した。,第八師団の渡満後、この郷土部隊への慰問が小学校児童の大きな仕事となった。
通史編4(近・現代1) ([付図])

青森県尋常中学校校舎落成〈明治27年〉 18 奥羽本線~青森―弘前間開通〈明治27年〉 19 第八師団司令部,駿馬之図屏風』 27 工藤行幹代議士急逝〈明治37年〉 28 日露戦争~黒溝台会戦で第八師団激闘,9年〉※特選受賞作と同名の作品 45 官立弘前高等学校開校〈大正10年〉 46 第八師団歩兵第五二連隊
通史編4(近・現代1) (遊廓と小学校)

二十九年九月、弘前市に第八師団が設置されることになり、第一陣として歩兵第三一聯隊が仙台から移営し、その,たまたま第八師団が設置されることになって、その移転が急がれ、今度の指定となったのである。
通史編5(近・現代2) (弘前城内の植物園造営)

弘前城内の植物園造営 敗戦で第八師団が解散させられるまで、弘前城三の丸一帯は兵器廠だった。
通史編4(近・現代1) (シベリア出兵と反戦デモ)

弘前の第八師団管下の第一六旅団に出動命令が下ったのは大正十年(一九二一)十二月十四日、翌十一年四月には,第八師団全部の派遣が決まり、司令部以下青森を出港、ウラジオストクに上陸、治安と交通路守護の任に服した。
通史編4(近・現代1) (日露戦争と小学校)

各校は軍資金を献納したいと弘前第八師団に願い出、献金をしたが、弘前教育会は臨時総会を開いて、教員は戦争終結,明治三十八年二月五日から九日までの五日間に弘前市内の小学校児童は、第八師団後備歩兵第五六連隊の出征兵士
通史編4(近・現代1) ([口絵])

宮川呉服店 口絵20 角み宮川呉服店内部 口絵21 川口染工場の染色場 †第八師団創設,† 口絵22 陸軍第八師団の開設を祝う住民(師団司令部前で) 口絵23 野砲兵第八連隊営門
通史編4(近・現代1) (弘前市処女会の設立)

弘前市処女会発会式の主催者は市当局であったが、来賓として市会議員や学校教育関係者のほか第八師団から蒲少将
通史編4(近・現代1) (不況からの脱却)

このような活況の背景としては、第一次世界大戦時とその後の景気動向の好転があるが、弘前市においては、陸軍第八師団
通史編5(近・現代2) (軍事色の払拭)

第八師団を抱えていた弘前市にとって、軍事色の払拭は単に建物施設の解体にとどまらなかった。,このうち第五七師団が、第八師団を母体として編成されたのである。  
通史編5(近・現代2) (歩兵第三一連隊移転問題)

第八師団管下には青森市に五連隊、弘前市に三一連隊と、二つの連隊があったが、師団司令部の地元弘前市には、,県庁を青森市にとられた弘前市にとっては、第八師団という軍都の繁栄こそが最大の利点だったからである。
通史編4(近・現代1) (師団誘致運動)

第八師団の所在地が弘前市に決定すると、弘前市をはじめ周辺の町村からも師団誘致のための運動が盛んに起こった,弘前市でも五月以降、第八師団の敷地献納を弘前市長と弘前市会議長の名で正式に陸軍当局へ提出している。
通史編4(近・現代1) (二つの雪中行軍)

雪対策は第八師団管下の部隊に課された課題でもあった。,第八師団には第五連隊と第三一連隊という二つの部隊があり、これまで双方の連隊は何らかの形で雪中行軍の作戦
通史編5(近・現代2) (日華事変勃発)

、七月二十七日北支事変に関する講堂訓話を行い、二十八日には鎮守宮に北支派遣皇軍の健勝祈願、国防献金を第八師団
通史編5(近・現代2) (本県スキーの父・油川貞策)

翌四十五年一月五日から三週間の講習会に参加し、レルヒ少佐からスキー技術を学んだ第八師団の四人の将校の中
通史編4(近・現代1) (供奉員の陣容)

この立見尚文は、後に第八師団が弘前に設置された際、初代の師団長として来任し、市民たちにも親しまれた人物
通史編4(近・現代1) (第二大成尋常小学校の創設)

新設の第二大成尋常小学校の特色は、在籍児童がすべて男子のみということと、在籍児童が第八師団将校の子弟をはじめ
通史編5(近・現代2) (争議の顛末)

昭和六年九月十八日満州事変が始まり、弘前の第八師団も大陸に出動、軍事色が濃厚となり、電灯争議を終結させようという
通史編4(近・現代1) (盗伐問題と師団の設置)

の根拠は、直前の六月十五日に襲来した三陸大津波への対策、年々四〇〇人余の犯罪を生む官有林盗伐の問題、第八師団,一方、同じ清水村で、明治三十一年から第八師団建設工事が始まったため大発展した大字富田のケースもある。
通史編5(近・現代2) (不況と失業問題)

また、満州事変の勃発に伴い、市内に所在した第八師団が出動し、市内が寂寥を感じさせる状態であることが指摘
通史編5(近・現代2) (書の伝統)

第八師団の軍人だったが、明治三十五年以来、書を群鵞会会長の岩田鶴皐(いわたかくこう)に学んだ。
通史編5(近・現代2) (戦時生活の諸側面)

それだけでなく軍都弘前の中心部は、なんといっても第八師団のお膝元であり、数多くの軍事施設を抱え、農業耕作地,しかし弘前市周辺では第八師団を抱える軍都でありながら、ラジオ中継地がなく放送の音声もよくなかった。
通史編4(近・現代1) (第一次世界大戦の衝撃)

第八師団を抱える軍都弘前市にとって、直接軍隊が出征しなくても、その影響は大きかった。
通史編4(近・現代1) (招魂祭)

三十九年四月二十一日、公園四の郭(今の護国神社の位置)に祭壇を設け、日露戦争当時の第二軍司令官・奥大将を迎えて、第八師団管下
通史編4(近・現代1) (ロシア人捕虜と弘前捕虜収容所)

黒溝台の会戦で多くの将兵を失った第八師団管下の弘前市民ないし青森県民にとって、敵国ロシアとロシア人に対
通史編5(近・現代2) (建築近代化への立ち後れ)

明治二十七年(一八九四)の弘前-青森間の鉄道開通が経済的な再起を促し、さらに明治二十九年(一八九六)に第八師団
通史編5(近・現代2) (棟梁・堀江佐吉)

写真293 東奥義塾校舎(明治23年)  この後、旧弘前市役所〔明治二十五年〔一八九二〕)、第八師団司令部,このうち、旧弘前市立図書館は、日露戦争にかかわる第八師団諸施設工事の大量請負で多くの利益を得た斎藤主(
通史編5(近・現代2) (弘前大学医学部との関係)

弘前大学医学部との関係 第八師団を失った弘前市は弘前大学を設立し、「学都」弘前をめざしてきた。
通史編5(近・現代2) ([付図])

〉 5 弘前中学生徒のストライキ~嶽温泉に籠城〈昭和6年〉 6 満州事変~凱旋の第八師団
通史編4(近・現代1) (弘前観桜会の幕開け)

また、この年は、第八師団設置二〇年に当たることから、祝賀将校招待会、六県酒造業大会、六県電気業大会、県商工協会大会
通史編5(近・現代2) (忠霊塔の建設)

このときも市長は活躍し、陸軍被服本廠の特別協力を得、迎えにいった市民の手で、青山石勝で彫った元第八師団長菱刈大将揮毫
通史編5(近・現代2) (大火と上水道設備の向上)

市の消防隊が鎮火に努めたが間に合わず、急を知った第八師団司令部は歩兵第三一連隊をはじめ、弘前市在住の部隊全員
通史編5(近・現代2) (弘前南高校の誕生)

校地に選ばれたのは、市内小沢大開(現大開四丁目)で、ここは旧藩時代は演習場であり、また、第八師団の練兵場
通史編4(近・現代1) (シベリア出兵と「尼港事件」)

十二月、この演習に第八師団管下の歩兵第一六旅団と工兵第八大隊の一部が派遣された。
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