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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (若き日の笹森儀助)

若き日の笹森儀助 笹森は小姓組(こしょうぐみ)時代、師山田登の藩政改革封書を藩主に提出して永禁錮、禄一 / 若き日の笹森儀助
通史編4(近・現代1) (『曠野の花』に描かれた笹森儀助)

『曠野の花』に描かれた笹森儀助 明治三十二年(一八九九)、東亜同文会の嘱託(しょくたく)として朝鮮へ,「わしは青森の者でナ、笹森儀助と申しますじゃ。 / 『曠野の花』に描かれた笹森儀助
通史編4(近・現代1) (在府町の偉人たち)

維新の後、八〇戸の在府町から、明治キリスト教の指導者本多庸一、『南島探験』の笹森儀助、大倉喜八郎と組んで,その代表的な人物として笹森儀助(弘化二-大正四 一八四五-一九一五)を見よう。
通史編4(近・現代1) (士族授産事業の成立と展開)

同社は明治十四年(一八八一)二月に笹森儀助が中心になり、創立したものである。,農牧社の組織は、社長大道寺繁禎、副社長笹森儀助、牧佃掛中畑清八郎、会計掛芹川高正、監督長尾介一郎、菊池九郎
通史編4(近・現代1) (弘前の紛紜の裏面)

共同会批判の情報を送りながら館山漸之進に郡長就任を強要する郷田大書記官や、帝政党の立党に積極的だった笹森儀助,実は、笹森儀助は、団結運動を起こすための集会が行われた十月二十八日から三週間前の十月六日、元老院議員の,笹森儀助の研究者斎藤康司は、十四年十一月十二日付の郷田兼徳書簡でも新事実を教示した。
通史編4(近・現代1) (陸羯南の手紙)

品川は笹森儀助らが農牧社を始めるとき、時勢に遅れがちな弘前の士族授産事業を親身に物心両面にわたって世話,最近笹森儀助が上京して来て県下の情況をいろいろ伺った。弘前に紛紜が起きている。
通史編4(近・現代1) (探検時代)

写真137 沖縄諸島探険に旅装を整えた笹森儀助とその著『南島探験』  笹森儀助は、明治二十七年九月
通史編4(近・現代1) (弘前の紛紜の始まり)

弘前の紛紜の始まり 明治十四年八月十一日、中津軽郡長笹森儀助は、青森県令に自由民権の結社共同会に官吏,結局、臨時県会終了から六日目の十一月十四日、合同問題の要(かなめ)にいた中津軽郡長笹森儀助の辞任という,東津軽郡長館山漸之進君が中津軽郡長に任ぜられ、東津軽郡三浦清一君は当分同郡長心得申付けられ、中津軽郡長笹森儀助
通史編4(近・現代1) ([付図])

7 弘前事件~本多庸一の弁明書〈明治15年〉 8 士族授産の農牧社設立~大道寺繁禎、笹森儀助,第一回衆議院選挙〈明治23年〉 15 伊藤重 養生哲学発表〈明治25年〉 16 笹森儀助
通史編4(近・現代1) (帰田法の帰結)

土地を与えられた士族のその後については、明治十三年(一八八〇)一月の中津軽郡長笹森儀助の松方正義宛上申書,右者些少之公債証書ヲ疾ク売却シ困難ニ及フ者、況哉廃卒之者ニ於ヲヤ  明治十二年四月廿九日調 (笹森儀助
通史編4(近・現代1) (陸奥立憲帝政党の結成)

此度津軽弘前の有志山崎清良・津軽平八郎・同尚志・同八十五郎・小林忠右衛門・菊池幸八・川越石太郎・七戸仲行・笹森儀助等
通史編4(近・現代1) (郡区町村編制法への移行)

写真6 中津軽郡初代郡長 笹森儀助  この郡区町村編制法によって、第三大区一小区から六小区は中津軽郡
通史編4(近・現代1) (保守派との合同団結)

集まった顔ぶれは、県会議長大道寺繁禎、郡長は東郡館山漸之進、中郡笹森儀助、北郡工藤行幹(ゆきもと)、下北郡一町田大江
通史編5(近・現代2) (完結に寄せて)

りんごに生涯を捧げた菊池楯衛、お城を桜で満たした内山覚弥、また、弘前に生まれ、国内外で活躍した陸羯南、笹森儀助
通史編4(近・現代1) (郡制の施行)

また、郡長の任用が府県知事に委されていたものが試験制度になり、従来の工藤行幹、笹森儀助、杉山龍江らの有力者郡長
通史編4(近・現代1) (行在所の奉迎ぶり)

平尾魯仙や工藤他山、その他地元の画家や文人はそれぞれ絵画や著書などを献上して旅情を慰め、また、中津軽郡長笹森儀助
通史編4(近・現代1) (騒動の発端)

士族授産事業の農牧社を笹森儀助らと創立、監督となった長尾介一郎はこのとき四十二歳、谷量舎で牛乳販売も行
通史編4(近・現代1) (外崎嘉七と島善鄰-りんごの神様と恩人)

常盤野の農場で牧夫として働かせてもらうようになり、その熱心な働きぶりに対して同社長大道寺繁禎、同副社長笹森儀助,同十九年(一八八六)、笹森儀助が牛一頭と五〇銭を嘉七に授け、嘉七はそれを元に牛乳屋を営んだ。
通史編4(近・現代1) (菊池武徳と中央政治)

また、青森市は、前年十二月まで弘前士族で国士肌の笹森儀助が市長であり、その後任の芹川得一も弘前士族で東奥義塾
通史編4(近・現代1) (不平の源流)

又従前重役勤たるにもあらず小給者也、又常に言行宜しく人望あるにもあらず、却て非望の姦人也」  また、笹森儀助
通史編5(近・現代2) (在府町に生まれる)

奇しき縁ではあるが、この在府町には、後に親交を結ぶことになる探検家・笹森儀助(ささもりぎすけ)と、東奥義塾時代
通史編4(近・現代1) (笹森修一、修二兄弟と社会主義研究団体)

笹森修一、修二兄弟と社会主義研究団体 笹森修一は、明治時代の有名な先覚者笹森儀助の子で、明治十九年六月岩木山麓
通史編4(近・現代1) (戸籍法と戸籍区)

大区の代わりに郡を置き、小区には旧来の町村の名称を復活 ・弘前は中津軽郡となる   初代中郡郡長は笹森儀助
通史編3(近世2) (弘前の民衆)

それでも明治十年代の政界を主導していったのは大道寺繁禎(しげよし)・本多庸一(よういち)・菊池九郎・笹森儀助
通史編4(近・現代1) (新編 弘前市史 通史編4(近・現代1) 目次)

505   五 貞昌寺の山田良政碑 …………………………………………  508   六 憂国の探検家 笹森儀助
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