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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(箱館の攻防)
箱館
の攻防 十一日未明、有川・七重方面から三手に分かれて進軍をはじめた政府陸軍は旧幕府軍の必死の防御,さらに
箱館
方面へ探索の軍勢が出ると、弘前藩の旧陣屋から旧幕府軍の攻撃があり、弘前藩は長州藩の応援を得て,一方、海軍も陸上の政府軍の進攻に足並みをそろえ、朝陽と丁卯が七重浜沖へ向い、甲鉄・春日は輸送船
箱館
攻撃部隊,豊安・弁天台場(べんてんだいば)攻撃部隊(弘前藩兵を含む)を乗せた飛龍とともに弁天台場を目指し、陽春が
箱館
,また甲鉄とともに乗り込んだ奇襲部隊も
箱館
を占拠し、浮台場となって砲撃を続ける回天を陽春とともに攻撃したため /
箱館
の攻防
通史編2(近世1)
(開国と箱館警備)
すなわち、幕府・
箱館
奉行は、非常時の
箱館
警備の軍事力を松前・津軽弘前・盛岡三藩に依存しようとしたのである,すなわち、幕府は津軽弘前・盛岡両藩に対し、
箱館
表警衛はこれまでどおり松前家が担当するが、非常時には
箱館
奉行,一方、四月十四日、江戸詰の
箱館
奉行から、津軽弘前藩江戸留守居役に対して、
箱館
表並びに江差在乙部(おとべ,、実際には、
箱館
に二〇六人、スッツに一一〇人が派遣された(「
箱館
詰并スツヽ詰人数書上」国史津)。 ,江差在乙部村から西蝦夷地ヲカムイ岬まで
箱館
千代ヶ台 スッツ 盛岡藩
箱館
エサン岬から東蝦夷地 / 開国と
箱館
警備
通史編3(近世2)
(箱館戦争の開始)
箱館
戦争の開始 このとき、上陸を知った
箱館
府では、派遣されていた福山・大野藩兵と、松前・弘前藩兵、そして,
箱館
府知事の兵力を既に峠下・大野・川汲峠へと配備していた。 ,木村隊はこの日、
箱館
府より七重村への出張を命じられた。,二十四日、本道を
箱館
府の大野藩兵が、中道を
箱館
府の福山藩兵が、そして山道を弘前藩兵が進発し、七重村で銃撃戦,一方、沿岸沿いを進んでいた土方歳三率いる旧幕府軍勢も川汲峠で
箱館
府兵を破って峠を越えた。 /
箱館
戦争の開始
通史編3(近世2)
(箱館戦争の終結)
箱館
戦争の終結 五月十二日より、甲鉄から五稜郭に照準を合わせた激しい砲撃が行われ、政府軍は降伏勧告の,拒絶した旧浦賀奉行(うらがぶぎょう)組与力(よりき)中島三郎助隊への攻撃を開始し、敗走させたが、これが
箱館
戦争最後,青森口総督清水谷公考も
箱館
へ戻り、降伏した旧幕府軍のうち六一〇人は弘前藩へしばらく預けられることとなった,なお、
箱館
戦争後も弘前藩は、十月二十五日、
箱館
へ出航させるまで新撰組等の降伏人を預かっている。 /
箱館
戦争の終結
通史編3(近世2)
((一)箱館戦争の開始)
(一)
箱館
戦争の開始 しかし、現実は大方の予想どおりにはいかなかった。,十月十七日、政府から派遣され、
箱館
府知事に任じられていた清水谷公考(しみずだにきんなる)から、八月に品川,旧幕府海軍を引き連れ出帆していた榎本武揚(えのもとたけあき)等が突然松前地に現れ、今にも上陸して侵略しようと
箱館
,
箱館
詰の藩士はすでに八月二十二日に盛岡藩との対立の激化によって帰藩しており、そのこともあって、
箱館
警衛,しかし、圧倒的多数を誇る榎本軍の前にはなすすべもなく、十月十九日から二十四日にかけて
箱館
各地で戦闘はしたものの / (一)
箱館
戦争の開始
通史編2(近世1)
(津軽人のみた開港場箱館)
津軽人のみた開港場
箱館
これまでみてきたように、津軽弘前藩は対岸の蝦夷地へ渡来する異国船の動きにも敏感,人々は、どのような目で、
箱館
へ来航する異人たちをみていたのであろうか。 ,この魯僊が安政二年(一八五五)蝦夷地に渡り松前・
箱館
を旅した。,彼は六月十一日に弘前をたち、同十六日十三湊から松前に渡航、松前城下に二日滞在したのち、二十日
箱館
に到着,「
箱館
紀行」では、松前藩に対する批判が随所にみえる。 / 津軽人のみた開港場
箱館
通史編3(近世2)
(箱館戦争期の兵員補充)
箱館
戦争期の兵員補充 春以来領内外の各地に転戦してきた弘前藩兵は、ようやく東北平定とともに弘前に帰陣,ところが、同日に
箱館
府知事清水谷公考(しみずだにきんなる)から飛報がもたらされた。,榎本武揚(たけあき)の旧幕府脱艦隊による
箱館
襲撃である。 /
箱館
戦争期の兵員補充
通史編2(近世1)
(箱館開港をめぐる全国的動向)
箱館
開港をめぐる全国的動向 嘉永六年(一八五三)六月、日本の歴史を大転換させる事件が勃発した。,第一条で両国の永世の和親を謳(うた)っているが、条約の中核は第二条で示されているように、下田(しもだ)と
箱館
,を開き(下田は即時、
箱館
は安政二年から)、薪炭(しんたん)・食料・欠乏品の給与を約束した部分であった。,その結果、安政五年(一八五八)に日米修好通商条約が締結され、
箱館
・神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸,)の開港(
箱館
・神奈川・長崎は安政六年から)と、江戸・大坂の開市が実現され、日本は本格的に世界経済の中 /
箱館
開港をめぐる全国的動向
通史編3(近世2)
(箱館戦争をみた農民)
箱館
戦争をみた農民 弘前市立図書館八木橋文庫所蔵の「晴雨日記」は別名を「万物変易誌(ばんぶつへんいし,家々にはすべて本陣および筑後・松前・
箱館
・水戸・徳山などの諸藩の名札が掲げられており、官軍の兵士が町中,また、郷夫や人足に駆り出された町民や農民らが、帰郷し青森の様子や
箱館
の戦況を伝えたことも自然な成り行きであったろう /
箱館
戦争をみた農民
通史編2(近世1)
(「分領」体制下の警衛と政策の実態)
「分領」体制下の警衛と政策の実態 この時期の津軽弘前藩の蝦夷地警衛は、安政期の警衛同様、
箱館
千代ヶ台,一八六八)二月八日付で、明治新政府に対して提出された書付では、蝦夷地の警衛体制について、スッツに一〇〇人、
箱館
,の定数を一八四人、同じくスッツ詰の定数を九〇人詰に削減し、さらに慶応二年(一八六六)には、
箱館
詰の定数,その際、幕府側から「御尋」などがあった場合は、
箱館
奉行所との折衝に当たる
箱館
詰の留守居役から病気を理由,とするなど、適当に取り繕うことにされていた(「
箱館
詰并スツヽ詰人数書上」国史津)。
通史編3(近世2)
(戦場に駆り出された民衆)
官軍が最も多く結集したのは
箱館
総攻撃に際してであったが、『津軽承昭公伝』では明治二年四月時点で各地に展開,姓は後日のもの 6 (本川)長之助 22歳 軍夫
箱館
峠下村 祭祀米 毎年5俵 植田村,斗4升
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桔梗野 永世15俵 家督は息子源蔵へ 28 竹中範平 30歳 大組足軽 5石2斗1升
箱館
千代,
箱館
桔梗野 永世15俵 永世禄は兄治右衛門へ 56 三浦銀弥 18歳 三等銃隊 無足
箱館
桔梗野 永世,歳 三等銃隊 無足
箱館
矢不来 永世15俵 永世禄は父筆弥へ 60 木村昇 23歳 三等銃隊 無足
箱館
矢不来
通史編2(近世1)
(対外交易の実態)
対外交易の実態 安政の
箱館
開港以降の交易実態については、少なくとも次の二点から考察されるべきであろう,善九郎という者が岩木山で硫黄を採取しており、年々一〇〇箇ほどを江戸に廻漕(かいそう)しているので、これを
箱館
,さらに藩は民間人に対して、
箱館
で購入した書籍類はキリシタン関係のものがないか、役所で裏印を受けるように,布達したり(同前安政六年八月二十一日条)、青森浦町村(うらまちむら)三郎次の孫娘が
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でアメリカ人医師,また、金木屋のほか、
箱館
と地理的に近接する青森でも異国を商売相手と考える商人がいた。
通史編2(近世1)
(東蝦夷地直轄下の勤番体制)
八月には松前藩の内願により、
箱館
地方およびウラカワまでがこれに加えられ、幕府は東蝦夷地全域を直轄地とした,これにより、両藩はそれまでの
箱館
勤番を免除され、ともに重役を二、三人、足軽を五〇〇人ずつ派遣し、元陣屋,を
箱館
に置くよう命じられた。,同年四月に渡海、
箱館
において勤番地と詰め人数は以下のように指示された。,八〇人・
箱館
五七人・サワラ五五人、シツカリ~レブンゲ間の新道普請六七人となっている。
通史編2(近世1)
(対蝦夷地政策と青森商人の商業活動)
安政三年(一八五六)四月、青森の廻船問屋滝屋善五郎は、同じく青森の廻船問屋である藤林源右衛門とともに、
箱館
奉行所,その後分領支配が開始されても、滝屋と藤林家は、
箱館
奉行所との間に物資の購入・輸送を通じて引き続き関係を,たとえば、仙台米を仙台と江戸で津軽家の都合どおりに渡す代わりに、青森と
箱館
で蝦夷地勤番に必要な津軽米を,受け取りたいという提案が仙台藩から津軽弘前藩にもたらされたり、会津藩が行っていた江戸廻米と
箱館
・蝦夷地,青森商人の大村屋庄蔵・西沢善兵衛らは、
箱館
の外国商人との間に材木の売買契約を結んだ。
通史編3(近世2)
(幕末の交易活動)
すなわち、安政二年(一八五五)三月に
箱館
開港に対処するため、幕府は蝦夷地を上知し、
箱館
奉行を設置するとともに,それと同時に青森の廻船問屋滝屋(伊東)善五郎や藤林源右衛門は
箱館
奉行所の御用達(ごようたし)に任命され,また、翌年には昆布を領内の三厩(みんまや)から買い付け、
箱館
を経由して売り出そうという計画が両名によって
通史編3(近世2)
(近隣諸藩の動向)
政府は、蝦夷地の警衛に関して、清水谷公考を総督とする
箱館
裁判所の設置を実行に移した。,かくして、明治元年閏四月二十六日、清水谷総督一行が蒸気船を使い
箱館
に到着する。,
箱館
裁判所は
箱館
府、総督は府知事と改称されて、五稜郭(ごりょうかく)で旧幕府
箱館
奉行からの引き継ぎを受,図58.
箱館
奉行所 松前藩では、五稜郭の警備を請け負うなど、朝廷に対して恭順の意を示していたが,また、六月には九条総督の秋田転陣に際し、
箱館
へ向かうことになった佐賀藩兵を領内へ受け入れた。
通史編2(近世1)
(幕末期の蝦夷地交易)
むしろ、彼らの期待は安政二年の
箱館
開港、同六年の東北諸藩による蝦夷地分領支配を契機として、大量にやってくる,たとえば、滝屋は藩の御用を勤める一方、大顧客として
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奉行所の注文をたびたび受けている。,慶応二年(一八六六)五月、
箱館
奉行の御用船健順丸(けんじゅんまる)が青森に入港し、兵粮(ひょうろう)八五俵,この他に滝屋が
箱館
奉行所に売却した物資は種籾・大豆・小豆など実に種類が多く、特に文久二年(一八六二)正月
通史編2(近世1)
(安政期の蝦夷地警備と交通問題)
~六〇)にかけ、最大の外交問題は南下政策をとるロシアに対するための蝦夷地警備と、修好通商条約締結後は
箱館
開港,蝦夷地警備に関して、幕府は安政元年(一八五四)に
箱館
奉行を設置し、翌二年には松前周辺のわずかな地域を除,津軽弘前藩は
箱館
に蝦夷地警備の本拠地ともいうべき千代ヶ台(ちよがだい)陣屋と、西蝦夷地スッツ(寿都(すっつ,日米和親条約が締結された安政元年(一八五四)に、ペリーは帰路
箱館
に立ち寄り、港内の詳細な測量を行って帰国,北洋で捕鯨が盛行していた当時のアメリカは、有望な薪水供給基地として
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に大きな期待をかけていた。
通史編3(近世2)
(清水谷公考の退去)
いは強く、一方の政府軍に兵力の限界を感じた清水谷公考は、十月二十四日、青森への撤退を決し、五稜郭を出て
箱館
,そして、二十五日から二十六日にかけて、清水谷公考とともに
箱館
府兵五二人・松前藩兵一一五人・雇兵隊四〇人,清水谷ら一行は青森の蓮心寺(れんしんじ)に宿陣したが、
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府員・兵士ら一一五人を率いて、十一月一日、浪岡
通史編3(近世2)
(戦局の推移と戦費負担の増加)
箱館
に旧幕府脱艦隊榎本武揚の軍が来襲し、同地を守る府知事清水谷公考(しみずだにきんなる)が弘前藩に対して,榎本軍の
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占領に応じて官軍も続々と兵員を青森に集結させたが、時節は厳寒に向かい、両軍とも本格的軍事行動,をとれなくなり、海峡を挟んで翌明治二年四月の
箱館
総攻撃まで、長い対峙が続いた。,しかし、これはあくまで
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総攻撃前の最大規模数であって、実際には諸藩の青森到着ほまちまちなので多少は割,表中No.1~15は
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に渡海した人数。それ以外は青森に残留した人数である。
通史編3(近世2)
(戊辰戦争直後の課題)
戊辰戦争直後の課題 明治二年(一八六九)五月に榎本武揚(えのもとたけあき)が降伏して
箱館
は陥落し、一年半,弘前藩兵も続々と凱旋を果たしたが、一部の部隊は戦後も
箱館
駐留を命じられたり、室蘭方面などに残存した敵兵,)についてみると、まず藩主承昭に対して東北戦争の戦功として同六月二日、一万石が永世禄として与えられ、
箱館
戦争
資料編3(近世編2)
(第二節 戊辰戦争と弘前)
戊辰戦争と弘前 一 戊辰戦争下の奥羽地方 二 軍制改革の展開 三 庄内出兵と野辺地戦争 四
箱館
戦争
通史編3(近世2)
(青森商社の設立)
箱館
戦争がいまだ終結していなかった明治二年(一八六九)三月、弘前藩は以下のような布令を発した。,三月二十五日に滝屋のもとへ伝達されたが、彦太郎は商社、商社といっているが、いまだその趣旨も詳しくわからないし、
箱館
,この時期は
箱館
戦争前後で、官軍諸藩の賄(まかな)い方に忙殺(ぼうさつ)されていたころである。,こうして
箱館
戦争が終結した後、青森商社は本格的に活動を開始したのである。
通史編3(近世2)
(松前方面の攻防と青森)
松前方面の攻防と青森 蝦夷地における旧幕府軍は、
箱館
府軍勢を退けた後、十月二十六日、無人の五稜郭を占拠,また、
箱館
港には、回天・蟠龍が入港し、
箱館
奉行を設置して永井玄蕃を仮任し、
箱館
を勢力下に置くようになった,また、十一月一日には軍艦開陽が
箱館
港に入港する一方で、蟠龍が松前湾において、松前城に砲撃を行い、同城に,図67.
箱館
・松前付近図 十一月十六日、清水谷公考一行は黒石に転陣。
通史編3(近世2)
(宮古湾海戦)
熊本藩等の兵が続々と送られ、その他軍夫などを合わせると、最終的には総勢一万二〇〇〇人にものぼる人員が、
箱館
戦争,
箱館
戦争は海軍力が勝敗を決する大きな要素であった、といっても過言ではないであろう。,旧幕府軍艦回天・蟠龍・高雄が海軍奉行荒井郁之助の指揮のもと、三月二十一日未明に
箱館
港を出航した。,同じく
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へは旧幕府艦隊が回天・蟠龍の二隻となって帰港した。
通史編3(近世2)
(矢不来の戦い)
そして、四月二十九日、
箱館
への進路を開くため、まず茂辺地への攻撃が始まった。,したがって、とうとう政府軍の標的は五稜郭・
箱館
付近のみとなったのである。,からの反撃が行われるが、大勢が動くまでには至らず、政府軍は青森からの物資補給を待ったうえで、五月十一日、
箱館
通史編2(近世1)
(「人寄せ」と人口流出の禁制)
文化二年(一八〇五)幕領化した
箱館
周辺の田畑開発を進めるため、幕府の役人が津軽・秋田・南部の各領を廻って,これに対応し、津軽領からも浦町村三郎次のように、積極的に
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への移住を仲介する者も現れた。,で他領からも人を呼び寄せている状態であり、他領に人が出ていくことは農事の妨げになるとして、在方の者の
箱館
移住
通史編3(近世2)
(旧幕府軍の軌跡)
こうして十月二十日、榎本武揚らは開港場であった
箱館
を避けて、鷲ノ木(わしのき)(現北海道茅部郡森町)へ,そして、直ちに
箱館
府知事清水谷公考へ上陸の趣意と蝦夷地下付嘆願を伝える使者とそれに付属する一小隊が出発
通史編3(近世2)
(藩治職制への対応)
また、同年三月二十日にも人材登用を進める旨の布達が発せられたが(同前明治二年三月二十日条)、
箱館
戦争の,よって、弘前藩が藩治職制の指令に応えて本格的に藩政改革を断行したのは、
箱館
戦争が終わった後の明治二年六月十二日
通史編4(近・現代1)
(弘前県から青森県へ)
野田と青森県の結びつきは
箱館
戦争以来である。,政府軍参謀として奥羽に派遣したが、太田は同門同郷の野田を周旋、野田は明治元年九月十四日清水谷公考(きんなる)
箱館
府知事,写真3 野田豁道 野田は、
箱館
戦争の始終から弘前藩の重臣や青森・弘前の富豪らと交渉が深く、県内
通史編2(近世1)
(「分領」はなぜ行われたのか)
一九八八年 松前町刊)、安政六年七月の対露交渉の場で、カラフトの全面的領有を主張するロシア側から、
箱館
奉行
通史編3(近世2)
(農兵の動員実態と要求)
農兵ではあったが、戦線の拡大と長期滞陣によって藩兵はしだいに不足し、特に明治元年十月の榎本艦隊による
箱館
奪取以降,そのため藩兵は西海岸一帯と、
箱館
と対峙する青森周辺に集中しがちで、他の重要拠点が一時的にせよ無防備になることがしばしばあった
通史編3(近世2)
(下川原における製陶)
によると、国産瀬戸(この場合磁器)の生産を高める目的で御目見以下留守居支配唐牛吉蔵(かろうじよしぞう)が
箱館
,(現北海道函館市)へ派遣されている(当時、
箱館
には磁器の瀬戸座があった)。,その後、
箱館
瀬戸座から多治見(たじみ)(現岐阜県多治見市)出身の細工人兼吉(かねきち)と絵師幾助(きすけ
資料編3(近世編2)
(【解説】)
時期は幕末の京都守衛に始まって、続く徳川慶喜の大政奉還、明治元年(一八六六)の東北戊辰戦争、翌二年の
箱館
戦争,これは明治元年三月より開始された弘前藩の軍制改革に関する史料を綴ったもので、
箱館
戦争の事後処理が完了する,同年は後述するように
箱館
戦争の終結と戦後の藩政改革にゆれた年であり、加えて夏季の冷涼により大凶作に陥った,この戦争で弘前藩が一番負担を強いられたのは、翌二年四月から始まる
箱館
総攻撃までの間、官軍諸藩の兵站を賄,
箱館
戦争が終結して、その戦後処理がいまだに完了していない六月十二日に、弘前藩は一回目の藩政改革を発表した
通史編3(近世2)
(幕末の政情と近衛警備)
つぐあきら)が襲封した安政六年(一八五九)当時から明治元年までの中央政局の流れであるが、神奈川・長崎・
箱館
,月) 年 号 西暦 月 日 出 来 事 安政6年 1859 5月28日 幕府,神奈川・長崎・
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,前年の文久三年(一八六二)に起きた八月十八日の政変以来、中央政局が一層混迷の度合いを深めると、開港地
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,弘前藩としては
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や蝦夷地警備に藩力を挙げねばならず、そのうえ、京都守衛に費用や人数を差し向ける余裕などなかったのである
通史編5(近・現代2)
(洋風建築の黎明)
一つは、幕末及び雄藩の産業的建築物であり、いま一つは、安政六年(一八五九)の開港に伴う
箱館
、横浜、長崎
通史編3(近世2)
(戦線の北上)
その行程は、三月十六日横浜より出港、
箱館
を経て四月八日柏崎に到着というものである。,松平定敬らは、やがて榎本武揚(えのもとたけあき)らと合流し、
箱館
戦争が終了するまで旧幕府軍として行動した
通史編3(近世2)
(鳥羽・伏見の戦い)
この日、京都南郊で始まった鳥羽・伏見の戦いは、やがて上野戦争・北越(ほくえつ)戦争・東北戦争・
箱館
戦争
通史編3(近世2)
(松前徳広の領内落去)
こうして
箱館
戦争が始まったが、相次ぐ出兵と官軍の滞陣、戦争の長期化で、既に弘前藩の国力は限界に近づいていた,ではないかという疑いをかけられた弘前藩にとっては、野辺地(のへじ)戦争の敗戦がいまだ尾を引いており、
箱館
戦争,それは、慶応二年一月十五日付けの神東太郎が出した
箱館
進軍渡海についての内状(同前No.五六三)にも表れている,明治二年一月二日、藩主津軽承昭は士気を高めるために、青森で木村繁四郎・都谷森甚彌両隊の操練を見分し、さらに、
箱館
通史編3(近世2)
(新しい指導者)
戊辰戦争が勃発した明治元年(一八六八)には二十四歳にして兵部少輔(しょう)となり、軍事参謀試補として
箱館
府総督清水谷公考,旧黒石藩は
箱館
のイギリス人ハウエルより借財をしたが、今年分の返済を滞らせていたことにより、訴訟にもなりかねない,であったため、十一月二日には官金の内から二〇八三両余を立て替え、黒石県大参事唐牛桃里(かろうじとうり)を
箱館
,三戸と五戸には
箱館
から耶蘇(やそ)教(キリスト教)が普及しているが、禁制を緩めて布教させた方が愚民の勉強心
通史編3(近世2)
(二等銃隊の補充と特質)
終結までを、(第3期)の明治元年十月十九日~明治二年六月十二日とは榎本武揚(えのもとたけあき)による
箱館
奪取,から翌年の
箱館
戦争終了期までを指す。
通史編3(近世2)
(維新期の弘前藩)
鳥羽・伏見の戦いをはじめとする一連の内戦は、翌年の
箱館
戦争(はこだてせんそう)終結まで続いたが、この内戦
通史編2(近世1)
(その後の漆栽培奨励策)
さらに幕府の直轄領となった
箱館
でも漆の試験的栽培が行われているほか、遠く網走(あばしり)の周辺でも栽培
通史編2(近世1)
(まえがき)
には、前述のように十六世紀末における大浦氏の豊臣政権との接触から、幕末期安政年間(一八五四~五九)の
箱館
開港
通史編5(近・現代2)
(伊東梅軒)
秋田藩と盛岡藩の戦端が開かれたので藩境碇ヶ関町奉行助(すけ)として赴任、盛岡藩降伏後、十月十一日改めて
箱館
戦争,の前線基地今別に着任、明治二年の
箱館
戦争に対拠した。
通史編3(近世2)
(新政府からの借財と藩札の発行)
箱館
戦争が終結した明治二年(一八六九)五月十八日、東京で渉外活動を行っていた公用人の神東太郎(じんとうたろう,東北・
箱館
戦争により国元では米金融通の途が尽き果ててしまった。
通史編3(近世2)
(商社の活動内容)
ただ、この年は諸物産は払底(ふってい)していたが、
箱館
戦争の影響で上方との流通が途絶(とぜつ)しており,また同月、青森と蝦夷地との連絡役として、
箱館
の商人秋田屋(芦野)喜左衛門(後に津軽屋三右衛門と改名)が
通史編2(近世1)
(蝦夷地への人口流出)
松前稼ぎには、鯡場(にしんば)稼ぎに代表される漁場労働のみならず、
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・松前など都市部における「飯炊并勤奉公
通史編2(近世1)
(東西蝦夷地直轄下の勤番体制)
当藩は二五〇人と、西蝦夷地上知に伴う新たな勤番人数を用意していたが、エトロフ襲撃事件への増援要請が
箱館
奉行
通史編3(近世2)
(鎮撫総督軍の領内通行問題)
沢一行の目的は、秋田領から津軽領へと転陣し、最終的には
箱館
(はこだて)へ向けて渡海することにあった。,五月十日になると、沢副総督付属の藤川能登ら三人の先触れが到着し、領内通過および
箱館
渡海の手配を求めるとともに
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