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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(糧米確保)
また、「国日記」によると、七月十三日に、青森・鰺ヶ沢・十三・今別・蟹田・深浦・野内に対して、
米価
が高騰,、このころに
米価
のピークを迎えたようである。,また、
米価
は、大豆などの価格にも影響し、領内の穀物の在庫も底をついたのであろうか、元禄九年(一六九六),たり一五匁ほどの隔たりがあり、極端に低い
米価
となっている。,『永禄日記』による,町
米価
格。 △は,1匁あたりより逆算。
通史編4(近・現代1)
(米取引の商況)
(七月二十一日 八月十二日 報)同人 客月初旬ヨリ本月四日ニ至ルノ間、市場
米価
遽(ニワカ)カニ変動,セリ、即客月初旬ヨリ二十五日マテノ
米価
ヲ平均スレハ、上等玄米壱俵(四斗入)ニ付弐円五拾三銭八厘、中等玄米壱俵,中等七銭七厘、下等七銭五厘ナリ、仝月五日ヨリハ気候稍々適順ニ帰シ、且越後米ハ青森ヘ輸入セシヨリ、日増
米価
低落,ノ傾向アリ (同前) この報告から、天候不順や稲虫による被害の発生が、
米価
を上昇させ、気候の回復,に伴い
米価
が低落傾向になったことがわかる。
通史編4(近・現代1)
(米作振興と米騒動)
この時期、米の増産が進んだ背景のもう一つの理由は、第一次大戦後の好景気による
米価
の高騰があった。 ,えて、大正七年のシベリア出兵を見越して米商人による軍用米の買いだめが行われたことなどを理由に、短期間に
米価
,青森県・弘前市においては、大きな騒動は見られなかったが、
米価
は全国と同様に高騰した。,弘前市では、八月十四日、石郷岡市長が市内の米穀商一同を市役所に招集、「暴利取締令」の趣旨を諭告し、
米価
変動,県内では、豪商や地主の篤志家が米の提供や廉売を行うなど、
米価
高騰の対策を行い、人心の平静に努めた(『新聞記事
通史編4(近・現代1)
(村の実情)
民生無視の財政政策で、増税は十三年に比べて十六年には二五%増という過酷さで、逆に
米価
は半値になった。,さらに、地租の納期が三回から二回となって販売
米価
を下落させ、明治十五年から十八年にかけて滞納者が激増、
通史編2(近世1)
(樋口善兵衛の報告書)
そのため、六月十二日には一俵一七匁八分であった鰺ヶ沢の
米価
が、七月はじめには二一匁、七月九日には二三匁,冷害による凶作が予測されたにもかかわらず、しかも、
米価
が高騰する端境期に米を売り払ってしまった藩の判断
通史編4(近・現代1)
(シベリア出兵と反戦デモ)
シベリア出兵と反戦デモ 大正七年(一九一八)、
米価
が前年の一石当たり一九円八四銭に対し、三二円七五銭,七年の状況を第五十九銀行の報告書は「
米価
ノ騰勢殆ト底止スルナク(中略)藁工品ハ(中略)輸出敢テ好況ナラスト
通史編4(近・現代1)
(地租増徴問題と青森県)
これは、運動の主体が十年代の自作農・小規模手作(てづくり)地主層から、小作米販売者として
米価
に関心を持,戦後の
米価
騰貴の中で、地主はもはや地租の軽減を求めなかったが、増税には反対した。
通史編2(近世1)
(賃銭・物価の統制)
米価
の下落にもかかわらず他の諸品の高騰は直接、生活に影響を与えるものであった。,
米価
については全国流通の中で価格が決められてくることから、藩独自での価格引き下げは難しいが、領内を流通
通史編2(近世1)
(寛延の飢饉)
七、八月には
米価
も高騰して乞食が出て空き屋敷が目立つようになり、特に青森や海辺・下在新田通(現五所川原市
通史編4(近・現代1)
(地租改正の経過)
地価調査に用いる穀価は、津軽郡については
米価
と大豆価を用い、青森町、黒石町、弘前町、鰺ヶ沢町、五所川原村,二戸、三戸、北の各郡については、
米価
、大豆価、稗価を用い、福岡町、一戸町、浄法寺町、五戸町、三戸町、八戸町
通史編2(近世1)
(騒動の背景)
安永年間は
米価
も高く、買米制のもとで一俵=一六~一七匁で安価に買い取った米を、江戸では一石=一両(一両,たり二八匁強)の公定価格を定めていたが、御用商人の米の買い占めと天候不順による凶作の予兆もあいまって、
米価
高騰
通史編4(近・現代1)
(凶作の影響)
また、米の不作が不況発生の原因であるため、国内の他地域産米の移入や外国産米の輸入が増加し、
米価
は低落傾向
通史編2(近世1)
(江戸市場への傾斜)
要因は寛政改革による幕府の江戸への米穀流入政策と、文化初年以降、とりわけ大坂における廻米量を制限して
米価
通史編4(近・現代1)
(家禄制度改革)
このため、換算に用いる
米価
と実際の
米価
では差異がある場合があった。
通史編2(近世1)
(穀物の流通統制)
領内の豪商農は「銘々勝手」に売買の値段を定める状態で、
米価
の値段は上がり下層民は難渋した。 ,その一方で、藩は十二月二十八日には御蔵米の値段を安値に放出して
米価
を下げようとしたり、翌二十九日には青森町
通史編4(近・現代1)
(農民組合の結成)
県下の
米価
は、大正八年石当たり四四円が、十年には二八円と下がって、農家に大打撃を与えた。
通史編2(近世1)
(俸禄の支給方法)
そのため相場によって引き替えの値段が違い、
米価
が安値の時で一俵当たり七~八匁、高値の時で一一~一二匁で
通史編4(近・現代1)
(弘前士族の反発)
この騒ぎの直接の原因は、
米価
の値上がりによる士族の生活難であった。
通史編2(近世1)
(消極的な藩の救済策)
しかし、八月になっても、一部には登穂がなくて「大さわぎ」となり、
米価
も上昇したことから、他散する者が続出
通史編5(近・現代2)
(全農青森県連合大会)
昭和五年の産米は六六八七万石で、神武以来の大豊作といわれたが、
米価
の暴落で米作収入は前年の七〇%、「豊作飢饉
通史編2(近世1)
(天保飢饉と一揆・騒動)
さらに、凶作が起こらなかった西国でも、江戸での
米価
高騰に影響された商人による米の買い占めが行われ、困窮
通史編2(近世1)
(騒動のその後)
しかし、奥州一帯の農民の犠牲のもとに米を集めることのできた江戸の町では、
米価
は多少高騰したものの、特に
通史編2(近世1)
(騒動の要求と結果)
もっとも、その後の凶作の被害の悪化とともに、
米価
も公定価格による販売の割り当ては八月二十一日には一人当
通史編2(近世1)
(宝暦―天明期の借財)
しは将来回送される蔵物を担保に行うものであるが、実際は凶作などにより年貢米の回送はしばしば滞り、さらに
米価
通史編2(近世1)
(宝暦改革の課題)
さらに、十八世紀の初頭には、貨幣経済の浸透によって
米価
の低落とは逆に、諸物価が高騰する経済状況が顕著となり
通史編3(近世2)
(人家の火災)
注) 『津軽史事典』(6)豊凶・
米価
,(8)災害の項による。
通史編4(近・現代1)
(日露戦後の商業)
一清酒 本季に入り
米価
昂騰の為めか売渋りの状態にして前記に比すれば稍不況なり 一織物 前期末に引続き
通史編4(近・現代1)
(県政初期の混乱)
しかし、
米価
の低落などで順調に行われず、請願して明治七年九月残高一〇万九〇〇〇円の半分が免除となり、さらに,
米価
は騰貴し始めた。青森県では正米不足を理由に士族の家禄を現金支給とした。しかも四期分割支給だった。
通史編3(近世2)
(農民意識の変化)
上層農民であった常治家が天保十五年(一八四四)から明治五年(一八七二)まで、村に起きた出来事や近隣の風評、
米価
通史編5(近・現代2)
(昭和初期の恐慌と冷害凶作)
移入米の急増は、
米価
下落を招いた上に不作時の価格上昇をも抑制した。
通史編5(近・現代2)
(米市場開放と平成の大凶作)
などが挙げられたが、兼業化、高齢化などによる米づくり農家の脆弱性やコメをめぐる生産条件の悪化(生産者
米価
通史編5(近・現代2)
(農村社会の変貌と減反政策)
高度経済成長の時期は、農業生産の面では生産者
米価
の上昇と米の増収が進み、米の自給体制が整備されたが、一方
通史編4(近・現代1)
(青森県における普通運動)
これに対し、同年十二月十二日の政友会支部総会の決議の第一は
米価
の暴落による農民救済、第二は青森港改築の
通史編3(近世2)
(箱館戦争をみた農民)
天保十五年(弘化元・一八四四)から明治五年(一八七二)まで書き綴った日記であり、その時々の村の出来事や世情、
米価
通史編4(近・現代1)
(弘前市経済改善への提言)
当弘前町追々衰微ニ赴キ、目今ニ至、
米価
及諸物価沸騰ニテ、市街人民ニ於テ必至困却セリ、然リト雖トモ物価ニ,昂低ハ天下自然ノ形勢、人力ノ不及処ナリ、就中
米価
意外ノ騰貴ニテ困難トハ雖トモ、米ハ津軽郡第一ノ産物ニシテ
通史編2(近世1)
(津軽人のみた開港場箱館)
れいしょ)大に仰服し、風説最(もっとも)可なり」と、高く評価し、具体的には、政務が穏当で、課役を省き、
米価
通史編2(近世1)
(対蝦夷地政策と青森商人の商業活動)
これに対抗するには、松前における夏の
米価
が、諸国の米相場と上方から米を載せてくる下り船の状況によって左右
通史編3(近世2)
(新政府からの借財と藩札の発行)
たちまち
米価
は急騰(きゅうとう)し、多くの飢餓民が都市部に押し寄せたため治安が悪化し、生活難と相まって
通史編2(近世1)
(宝暦~天明期の弘前藩の財政状況)
したがって、金銀方においても凶・不作および
米価
の低迷によって容易に収入が左右されうるものであった。
通史編4(近・現代1)
((一)北洋の出稼ぎ農民たち)
米価
一石五円のころである。
通史編4(近・現代1)
(りんご生産の展開と農業振興)
なお、この間の
米価
は、一石当たり六・五五円(明治二十四年)から一五・七六円(明治四十四年)へと上昇しており
通史編3(近世2)
(新しい指導者)
このころ、士族の家禄はすでに公債渡し(現金での配給)となっていたが、同年は気候が不順で凶作が見込まれ、
米価
資料編2(近世編1)
(【解説】)
さらに、十八世紀の初頭には、貨幣経済の浸透によって
米価
の低落とは逆に、諸物価が高騰する経済状況が顕著となり
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