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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (白石会議)

白石会議 白石周辺ではこのころ、仙台藩と米沢藩が、会津藩と交渉して、同藩の謝罪降伏によって事態を収めようとさらなる,兵力を投入することで新政府の指揮に従う方向をとりつつあったのであるが、会津征討に動いたはずの仙台藩は米沢藩,また、仙台・米沢両藩家老連盟の白石会議招請状が奥羽諸藩へ発送された。,図49.白石城之図  この日の会議に出席したのは、仙台・米沢・二本松・湯長谷・棚倉・亀田・中村・,この結果、会津藩家老名による「嘆願書」と、仙台・米沢藩主連名の「会津藩寛典処分嘆願書」、そして、白石会議
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)

おのでらよしみち)・六郷政乗(ろくごうまさのり)・戸沢政盛(とざわまさもり)・本堂茂親を最上口に置いて米沢,また米沢から会津に侵入する先陣を最上義光が務め、これらの軍勢の兵糧は最上氏から借りることを命じた(資料近世,同年八月十六日、上杉景勝は家康から米沢三〇万石への減転封(げんてんぽう)を命じられた。,上杉氏が何事もなく米沢に移ったことから、奥羽における関ヶ原の戦いに連動した慶長五・六年の動乱は一応終結,205,800  〃  山形 最上義光 570,000  〃  米沢
通史編3(近世2) (白石同盟の動き)

その途中で山中は、秋田藩出役桜庭富蔵が帰藩するのに出会い、仙台藩と米沢藩の談合内容に接したのであった。,それは、①庄内征討の件、②会津藩の謹慎と助命嘆願が米沢藩と仙台藩でなされている件、③仙台に山中兵部を派遣
通史編5(近・現代2) (東中学校の創立)

創立時の生徒数五四五人、学級数一五、教員数二六人、初代校長は米沢實である。  
通史編1(古代・中世) (奥羽地方の戦国時代)

六年にわたる戦いののちに勝利を収めた晴宗は、居城を伊達郡西山(現福島県伊達郡桑折町)から米沢(現山形県米沢市
通史編3(近世2) (政府軍の苦戦)

その後も仙台藩などを中心とする同盟軍に対して総督軍の苦戦は続き、応援の米沢兵が同盟軍に合流したこともあって
通史編3(近世2) (藩論の統一)

さらに西舘平馬は、京都で会津・米沢・庄内・仙台藩等、同盟の中心藩が京都役宅を没収されたうえ、入京を禁止,それまで弘前には、仙台・会津・米沢・庄内藩など奥羽諸藩の使者がたびたび往来していた。
通史編3(近世2) (庄内征討命令をめぐって)

閏四月十九日には仙台・米沢藩主が攻口の解兵を九条総督に宣言していたのであった。,仙台・米沢を中心とする奥羽勢の勢いが奥羽鎮撫総督軍に大きく迫ってきていたのである。
通史編1(古代・中世) (東北地方の古墳文化)

四世紀後半になると、こうした大規模な前方後円墳は、仙台平野・米沢盆地あたりにまで北上する。,米沢盆地では南陽市の稲荷森(いなりもり)古墳が、全長九六メートル、後円部径六二メートルという規模をもつ
通史編2(近世1) (乏しい国産品)

ばれる役人が郡方あるいは勘定方に配置されていたことは「国日記」等で確認されるが、八戸藩の「御調役所」、米沢藩
通史編2(近世1) (その後の漆栽培奨励策)

新庄藩では安政二年(一八五五)に漆増殖の一五ヵ年計画を打ち出し、米沢藩では漆の一二〇〇万本増殖という過大
通史編3(近世2) (野辺地戦争の開始)

図62.藩境塚  この時、米沢藩と仙台藩はそれぞれ降伏しており、さらに、まさにこの日は会津藩鶴ヶ
資料編1(考古編) (「新編 弘前市史」編纂事業関係者名簿(平成6年4月1日現在辞令交付分))

県立郷土館主任学芸主査  高島成侑  八戸工業大学教授  須藤弘敏  弘前大学人文学部助教授  田中秀和  米沢女子短期大学講師
通史編1(古代・中世) (国造の分布)

 ここに見られる国造の分布域は、先に触れた前方後円墳の分布域すべてを覆うものではなく、仙台平野以北や米沢盆地以北
通史編3(近世2) (総督軍の集結)

秋田城下明徳館(めいとくかん)に陣を置いた総督府の中では、会津・庄内討伐に加え、仙台・米沢藩ら新たに朝敵
通史編5(近・現代2) (金賞に輝く合唱)

彼の優れた指導を受けた生徒には福士洋子(夕湖)、三上由枝(米澤小蘭)などがおり、佐藤の創設した「弘玄書道会
通史編3(近世2) (答礼使の出発)

弘前藩が返答をした二十五日には、仙台・米沢両藩代表が会津若松で会津藩救済について相談の場を設けていたが
通史編2(近世1) (飢餓対策における殖産政策)

たとえば、阿波(あわ)の六兵衛は藍の栽培、米沢の武助は苧(カラムシ)の糸取り法、加賀の清三郎は綿の栽培
通史編5(近・現代2) (スポーツ王国弘前実業)

東奥義塾とは常によきライバルとして、県下はもちろん、全国的にその勇名を馳せることになったのは、四十六年に米沢市
通史編2(近世1) (開国と箱館警備)

堀利煕の蝦夷地警衛構想(安政元年) 警衛担当大名 佐竹義睦(秋田藩) 伊達慶邦(仙台藩) 上杉斉憲(米沢藩,うことになった諸藩の警衛担当区域をみてみると、前年末の堀利煕の上申と大きく異なり、箱館表警衛担当が想定された米沢藩
通史編3(近世2) (大政奉還時の状況)

到着直後の十一月に赤石が世話した藩として仙台・肥後・秋田・米沢・柳川・前橋・会津・二本松・庄内(鶴岡)
通史編2(近世1) (漆栽培奨励策の行き詰まり)

西国では漆に代わって安価な櫨蝋(はぜろう)の需要が増しており、会津藩・米沢藩といった古くから漆を特産としていた
通史編3(近世2) (盛岡藩の参戦)

盛岡藩の参戦 こうして、秋田藩を目指して庄内・仙台・米沢藩ら同盟軍が北上を続ける中、今度は盛岡藩が不意
通史編2(近世1) (豊臣再仕置軍の奥州下向)

軍事動員は同日付の秀吉朱印状「奥州奥郡為御仕置被差遣御人数道行之次第」(前田育徳会尊経閣文庫蔵)によれば、米沢城主伊達政宗,そうま)勢とともに海道の相馬通をとり、景勝と出羽衆は出羽最上通を進み、それぞれが白河・岩城(いわき)・米沢
通史編2(近世1) (初代為信の動向)

三人全員が在京しており、この年八月二十四日に上杉景勝が会津若松(あいづわかまつ)(現福島県会津若松市)から米沢,(現山形県米沢市)へ国替えを命じられるが、為信らは依然在京しており、他の東北諸大名とは違い警備のための
通史編2(近世1) (慶安二年の「弘前古御絵図」)

表30 屋号の地域分布 地方 屋号 軒数 東 北 秋田屋 米沢屋 仙台屋 南部屋 黒石屋
通史編3(近世2) (戦局の展開と兵員の不足化)

奥羽列藩同盟形成を強く主張していた仙台藩や米沢藩、朝敵とされた会津藩や鶴岡藩等は周辺の勤皇諸藩に進攻を
通史編2(近世1) (関東・奥惣無事令)

使者として派遣された金山宗洗の活動も、相馬・白河・山形・庄内・米沢といった地域であったようである。
通史編5(近・現代2) (伊東梅軒)

そして、明治元年(一八六八)の戊辰の役では、梅軒は五十三歳の老齢ながら東奔西走、米沢藩、秋田藩への外交交渉
資料編3(近世編2) (【解説】)

当初より勤皇色が強かった秋田藩と、反対に戊辰戦争は薩摩・長州藩の私怨から出たもので、朝敵とされた会津・米沢藩,この戦いで弘前藩は死傷四九名を出して惨敗したが、時に会津・庄内・仙台・米沢藩ら朝敵側は降伏しており、盛岡藩
通史編4(近・現代1) (町の様子)

遠く秋田や山形や、米沢やまでお迎をした人々もあった。
通史編3(近世2) (鎮撫総督軍の領内通行問題)

閏四月二十三日に上山藩から知らせを受けて、仙台・米沢藩の動きを察知した沢副総督一行は、秋田藩への転陣を
通史編2(近世1) (中世の北国海運)

元和八年(一六二二)の最上氏の改易後は、最上川流域の米沢・山形などの諸藩、および天領の米が一層酒田に集積
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●慶長六年(一六〇一)八月二十四日、徳川家康、上杉景勝の米沢移封について、近隣大名を動員する。
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