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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (沈黙交易)

沈黙交易 さて右の比羅夫と粛慎との接触の在り方は、早く新井白石以来、言葉が通じない未知の種族どうしのあいだでの,ただこの比羅夫と粛慎との接触の場合については、比羅夫が一方的に物資を提示しているだけであって、比羅夫が,あるいはこの岩木川河口付近は、中世の十三湊がそうであったように北方と南方との交易の拠点で、渡嶋蝦夷と粛慎,しかもここでは粛慎(あしはせ)は鉄ではなくて布を選んでいることも興味深い。,このことはのちに触れる粛慎の正体を考える上で重要な点である。
通史編1(古代・中世) (斉明天皇六年の「北征」)

すると対岸の海辺に、渡嶋蝦夷千人あまりが軍営を構えており、比羅夫軍を見つけると、大声で、「粛慎(あしはせ,そこで比羅夫が船を対岸に出して、粛慎の居場所とその船の数を聞き出し、使者を粛慎のところにやって呼び出したのであるが,さらに綵帛・兵器・鉄などを海辺に積んで粛慎をおびき寄せたところ、彼らは軍船を連ね、木に鳥の羽をかけて旗印,比羅夫は再度、何艘かの船を出して粛慎を呼び寄せたが、彼らは応じず、宿営地にしていた弊賂辨嶋(へろべのしま,まもなく比羅夫軍と粛慎との間で戦闘が開始されたのであるが、比羅夫軍は粛慎を打ち破り、粛慎は柵にいた妻子
通史編1(古代・中世) (靺鞨とは)

これも諸説分かれるが、大別して、大陸沿海州の渤海(ぼっかい)国を指すとみるか、サハリン・道北・道東の粛慎,多賀城碑拓本 北日本世界における多賀城の地理的位置を明記している。  一方、靺鞨を北海道以北の粛慎,の住む地とみる説は、粛慎も靺鞨もともにその訓は「あしはせ」であり、日本側の史料の「靺鞨」とはあくまで「,粛慎」の観念を引きずったものであること、また日本では渤海はもっぱら高句麗との関係で認識されており、渤海,ただ七世紀後半にもなると粛慎の来朝が相次いでおり、交易が行われていたので、そうしたことを背景に北方世界
通史編1(古代・中世) (比羅夫は何回遠征したか)

・斉明天皇六年三月(史料二七)  阿倍臣が軍船二〇〇艘を率いて粛慎(あしはせ)国を伐(う)った。,は、船を出してその二人を呼び寄せ、粛慎の隠れ場所と船の数を問いただすと、二人は隠れ場所を指差しながら、,しばらくして粛慎は和を乞うたが、阿倍臣はこれを許さず、粛慎は自分たちの柵によって戦った。,このとき能登臣馬身龍(のとのおみまむたつ)が粛慎のために殺された。,なお盛んに戦ううちに粛慎が敗れると、彼らは自分の妻子を殺してしまった。    
通史編1(古代・中世) (津軽、「日本史」の舞台へ)

なお一説には、このころの北からの粛慎(あしはせ)の南下に押されて、津軽蝦夷の朝貢がなされたのだともいわれているが,(粛慎については後述)、これではなぜ津軽蝦夷が他に先駆けて朝貢したのかは説明できない。
通史編1(古代・中世) (「蝦夷・蝦狄」表記の創造)

たとえば斉明天皇の時代には、蝦夷や粛慎(あしはせ)といった北(東)方の異民族たちを、飛鳥寺に設けられた
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