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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (藤崎系図)

藤崎系図 『藤崎系図』(史料一一五一)は、津軽から常陸に移住した藤崎氏(白鳥氏)に伝来したもので、安藤氏関係,までの部分が『藤崎系図』に酷似しており、また『藤崎系図』では「不分明」とされている部分が、『秋田家系図,』ではことごとく詳細に記述されていることから、じつは『藤崎系図』は『秋田家系図』を転写したもので、系図各所,は、全国各地の安藤氏ゆかりの地に散在していたわけで、『秋田家系図』の作者が『藤崎系図』を見た、あるいは,さらに、『藤崎系図』と『秋田家系図』では、その冒頭に気になる相違があるのである。 / 藤崎系図
通史編1(古代・中世) (安藤系図)

安藤系図 一方、『安藤系図』(史料一一五二)はその伝来過程、作成年代とも明らかではない。,『藤崎系図』でも大和の阿倍氏とのかかわりはみられるが、これほど明確ではない。,この書き方の方が『藤崎系図』よりは素直ということになる。,なお安藤氏関係の系図のなかでは、この系図にのみ、先に触れた阿津賀志山合戦の功労者「安藤次」の名(季信 ,またやはりこの系図のみにみえる「惟平」なる人物も、他の同時代史料からすると、奥州平泉の藤原清衡の長男で / 安藤系図
通史編1(古代・中世) (秋田家系図)

秋田家系図 次に『秋田家系図』(写真126)についてみると、前述したように、長髓彦の兄安日から貞任の,孫堯恒までは『藤崎系図』と同じ世系である。,写真126 秋田家系図  堯恒の後は「此間五十余年、某名不レ詳故不レ記」とされ、次に貞秀を置き、,なお『秋田家系図』のなかに、南北朝初期の秋田安藤次郎まで触れた『安藤系図』の影響がみられないのは、『安藤系図,』が阿倍氏系図に付会された、成立の新しいものであるか、秋田氏嫡流とは無縁のところで成立したものであったためであろうが / 秋田家系図
通史編1(古代・中世) (曽我氏系図の復原)

な文書が残されたことや、遠野南部家文書中の略系図(以下「曽我系図」と称する)の存在によって、その姻戚・,伝領順をも含めた詳細な系図の復原が可能である。  ,曽我系図初代時廣についてはすでに述べたが、その実在は文書では確認できない。,曽我系図(写真117)では時廣の子は「小五郎真光」とされる。,写真117 曽我系図 / 曽我氏系図の復原
通史編1(古代・中世) (安藤氏の系譜認識)

しかし他の中世豪族とは異なり、蝦夷と密接な関係を持つ系図が作成されていることには注目すべきであろう。,安藤氏に関する系図は多数あるが、内容から整理して『藤崎系図』『安藤系図』『秋田家系図』『下国伊駒安陪姓之家譜,そもそも系図自体、自家を賛美するという特定の意図をもって後世創作されるものであるから、事実とはかけ離れた,しかしそこに込められた、系図作成者がもっていた系譜意識は、安藤氏一族の本質を示すものとして重要である。
通史編1(古代・中世) (曽我泰光とその妻)

曽我系図では「童名犬二郎」とあるが現存の文書では確認できない。,慈照は「石黒系図」(宮崎文書・史料一一四八)に、弥四郎頼綱の「女子・讃岐局・法名慈照」と見え、高麗氏の,女系系図(史料一一五〇・遠野南部家文書)にも「女子・讃□ □・曽我余一(左衛)門尉妻」と見える女性で、,この高麗氏の系図では、その母を「女子・字土用弥・蓮阿・□□・石黒弥四郎之妻」とし、その蓮阿の父は高麗二郎左衛門尉景実
通史編1(古代・中世) (下国伊駒安陪姓之家譜)

松前藩の家老職にあった一族)に伝えられた伝承に基づき成立したものと推測され、貞季以降の世系は『秋田家系図,』に近いが、それぞれの人物の事跡についての記述は、『秋田家系図』とはかなり異なるところが多い。,これは『藤崎系図』『秋田家系図』では安日・長髄という兄弟、すなわち二人の人物であるとされているのとは大,欲界第六天主他化自在天の内臣天魔の次男とされ(松前藩の歴史書『新羅之記録』にも同様の記述がある)、他の系図
通史編1(古代・中世) (系譜伝承のキーワード)

系譜伝承のキーワード こうした安藤氏系図の古い部分は事実を伝えているわけではないが、しかしそうした特異,つまり、系図というものは、所詮は自家の顕彰のために作成されるものであるから、多かれ少なかれ、そこにはさまざまな,改めて強調するまでもないが、系図を歴史学的に利用する場合には、系図にどれだけ事実が書かれているかということよりは
資料編1(古代・中世編) (第2章 北方関係非編年史料)

熊野那智大社先達旦那史料   (四) 地誌   (五) 織豊期の宣教師の記録   (六) 系図類,  (七) 安藤氏系図参考史料
通史編1(古代・中世) (多様な系譜の在り方)

多様な系譜の在り方 このように、安藤氏の系図相互にさまざまな混乱やずれが生じたのは、上国と下国、のちには,これら四つの系図のなかではもっとも頻繁に使用される『秋田家系図』についてみると、藩祖秋田俊季の時期にも
通史編2(近世1) (津軽家の自己認識確立への試み)

また津軽信政の自筆による「津軽家譜草案」(弘図古)の系図では、始祖を金沢家光(かなざわいえみつ)とし、,しかし、十七世紀では、藩主自身が源氏から藤原氏への転換を自家の系図に記すとともに、南部家からの津軽伐(,この結果、津軽家は自家の先祖を近衛家とする根拠を得、幕府も津軽家が提出した系図を認めたので、津軽家は系図上,編纂した際にも、津軽家は近衛家から認証を受けたうえで、幕府に系図・系譜を提出した。,ところが、系図に疑義を挟まれた。
通史編1(古代・中世) (仲麻呂鬼伝説)

仲麻呂鬼伝説 仲麻呂と広庭は、実は親子ではなく(この点については、『安藤系図』の方が正確である)、広庭,四系統の安藤氏系図のなかでは、この『下国伊駒安陪姓之家譜』が、朝敵のイメージの強い人物をそのままストレート,に系譜のなかに取り入れる傾向が強くみられるが、この系図はまさに朝敵のオンパレードといった感がある。,こうしたもっとも異端的な系譜こそ、あるいは安藤氏系図の最も古い形を伝えるものかもしれない。
通史編2(近世1) (「津軽一統志」以降の修史事業)

)は、為信以前の津軽家の系譜・古記を集めて編んだものだが、それに掲載された津軽家の系譜は表題を「安倍系図,図118.本藩濫觴実記中の為信に至る系図  この多少無理な主張は、藩内にも精神的に動揺をもたらしたと,明治に入ってからこの系図を「考訂」した小山内建本(おさないたけもと)は、はなはだ不見識な内容であると断,結局、この「実記」編纂以後、安日を始祖とする津軽家の系図は公的なものとしてみることができなくなってしまう,との血縁関係が存在する以上、安日に行き着くことは当然で、結局津軽家は、最後まで平泉藤原氏を遠祖とする系図
通史編1(古代・中世) (日の本将軍と鎮守府将軍)

『尊卑分脉脱漏平氏系図』『山椒大夫』『清和源氏系図』などでは、安藤氏以外に日本将軍を称したという事例がみえる
資料編2(近世編1) (二 近衛家との政治的関係)

近衛家寄託文書(陽明文庫蔵) (一)津軽家よりの合力金等の拝借関係 (二)津軽家との縁組関係 (三)系図改
通史編1(古代・中世) (曽我光頼とその家族)

「さへもん(左衛門)太郎」とも号した(斎藤文書・正和二年〈一三一三〉、曽我系図)。  ,光頼に渡った所領は、のちに「沙弥光称」よりその子に譲られているので(史料六一四・六二三ほか)、曽我系図
通史編1(古代・中世) (系譜認識の変化)

中世以来のさまざまな伝承を統合し、それを北奥世界の自立意識に適合するように改変して成立したのが安藤氏の諸系図,たとえば『秋田家系図』では、中央への反抗伝承を和らげ、また敗戦の歴史などは切り捨てて、相当美化されたものとなっているのは
通史編2(近世1) (公家との関係)

近衛家は津軽家の「宗家」とされ、系図の上においても、「寛永諸家系図伝」編纂の際、幕府から系図の提出を求,められた津軽信義が近衛家に対して津軽家系図への認証を求め(資料近世1No.六二九)、当時の近衛家当主である,近衛信尋(のぶひろ)から、系図が「龍山」すなわち近衛前久(さきひさ)の筆跡であり、祖先の政信は近衛尚通,このような両家の関係をより端的に示すのが、「系図道中」と呼ばれる儀式である。,を持参した使者が京都に遣わされ、津軽家の系図へ藩主の名前を近衛家の当主が書き入れる儀式と、それに関連する
通史編1(古代・中世) (曽我貞光とその家族)

以上の説明をわかりやすく系図化しておく(図40)。 図40 復原・曽我氏系図
通史編1(古代・中世) (一 「日の本将軍」安藤氏)

一 「日の本将軍」安藤氏 安藤氏に関する系図をひもといてみると、安藤氏が早くから「日下将軍」を称していたと
通史編3(近世2) (幕末期近衛家との関係)

弘化四年(一八四七)十月、幕府は各大名家から系図の提出を求めたが、その際、津軽家では先祖の藤原政信の出自,庶子であると改めて回答し、後日近衛家にも届け出ていたが、嘉永二年(一八四九)閏四月には近衛家より今後の系図改,庶子と認めたのは、文化年間の一〇万石への高直りに伴って官位と家格が上昇したことに原因があり、津軽家は系図改
通史編1(古代・中世) (曽我光弘とその妻)

曽我系図の宝治元年(一二四七)「北条時頼袖判下文」(遠野南部家文書)では「光広」と見え、またのちの建武元年頃
通史編1(古代・中世) ([口絵])

14 大日如来坐像(重文)大鰐町大円寺 15 安東師季願文 16 秋田家系図
通史編1(古代・中世) (北の認識)

たとえば『秋田家系図』(史料一一五三)冒頭の、著名な安藤氏の始祖説話のなかで、安日王が流されたのは津軽
資料編2(近世編1) ([口絵])

延宝三年十二月二十一日の津軽家初見記事(右) 宝永五年の雑事日記表紙(左) 年未詳八月十一日 系図,につき津軽信政書状 (本文史料一〇〇〇号) 年未詳正月九日 系図加筆につき津軽越中守書状
通史編1(古代・中世) (湊安藤氏の誕生)

また、「秋田家系図」(写真163)でも鹿季が秋田の湊を攻め、湊家の元祖となったことを伝え(史料一一五三,写真163 秋田家系図  鎌倉期以来、蝦夷沙汰への支配機構は津軽と秋田との二つに拠点が置かれていた
通史編1(古代・中世) (曽我惟重とその妻)

(一二八四)の「平祐行請文案」(岩手大学新渡戸文書)に、伊豆国安富郷国吉名内田所免田が曽我泰光(曽我系図
通史編2(近世1) ([口絵])

川原岱村古風之図 口絵17 岩木山之図 近衛忠熈讃 三上仙年筆 口絵18 近衛忠熈筆 津軽家系図添状
資料編1(古代・中世編) ([口絵])

[口絵] 秋田家系図(本文史料一一五三号) 応仁二年二月二十八日 安東師季願文(本文史料八四三号
通史編2(近世1) (信義の襲封)

.浪岡八幡宮鳥居棟札  幕府との関係では、寛永十八年(一六四一)に津軽家にとっての重大事である系図,「寛永諸家系図伝」の編纂に当たって幕府から出された近衛家と津軽家の関係に対する疑惑を、前関白近衛信尋(,のぶひろ)の書状によって、津軽系図の筆跡は近衛前久(さきひさ)の手であること、政信は近衛尚通(ひさみち
通史編1(古代・中世) (安藤氏の特殊な氏族結合)

八戸是川の安藤三郎の妻である「きぬをんな」を基準とした、当時としてはあまり例をみない女系による一族の系図
通史編1(古代・中世) (嫡流と庶流)

嫡流と庶流 曽我系図では「小五郎真光」の子として「太郎兵衛尉助光」と「小二郎雅(惟)重」とを挙げている
資料編1(古代・中世編) ((2) 戦国時代の堀越城)

異母弟弥四郎が兄と不和になって津軽に逃れ、大浦氏を頼って、のち為則の養子になったとしているが(「南部久慈氏系図
通史編1(古代・中世) (安倍氏の柵)

図29 安倍・清原・奥州藤原氏略系図(誉田慶信作図)  ちなみに安倍頼良のもう一人の娘婿であった
通史編1(古代・中世) (三戸南部氏による領国支配の強化)

しかし、一五世紀末の信時(のぶとき)(系図上では第二〇代)、その子政康(まさやす)(同二二代)の代から,再び発展に転じ、安信(やすのぶ)(同二三代)を経て、系図では晴政(はるまさ)(同二四代 一五一七~一五八二,また、江戸中期に盛岡藩主南部氏が編纂を行った家臣の系図集である『系胤譜考』などによれば、久慈氏の流れをくむ
通史編2(近世1) (弘前藩の副藩主)

弘前津軽・黒石津軽両家の藩主系図をみて明らかなように、弘前津軽家から黒石津軽家へは、信政の五男が黒石四代寿世
資料編1(古代・中世編) (-例言-)

し(年次不詳のものについては、推定年次の箇所に掲げた)、非編年史料については説話・物語・和歌・縁起・系図類
通史編1(古代・中世) (津軽平賀郡への入部)

遠野南部家文書中に伝えられた、正慶(しょうけい)年間(一三三二~一三三三)以前の作成ともいわれている「曽我系図
通史編2(近世1) (本村と新田)

三世寺(さんぜじ)村は貞和五年(一三四九)十二月二十九日の陸奥国先達旦那系図注文案(同前No.七〇二),元亨四年(一三二四)・文和五年(一三五六)の三種類で、この五基は貞和五年(一三四九)の陸奥国先達旦那系図注文案
通史編1(古代・中世) (秀衡と義経の死)

後述するが、東北地方では、女系の系図が残されるなど、女系が大きな意味を持つ存在であった。  
通史編1(古代・中世) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

14 南津軽郡大鰐町 大円寺蔵 口絵15 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町 熊野那智大社蔵 口絵16 秋田系図,弘前市立図書館蔵 写真125 東北大学附属図書館蔵秋田家文書 能代市史編さん室写真提供 写真126 秋田家系図,161 国立国会図書館蔵 写真162 長野県茅野市神長官守矢史料館寄託 守矢早苗氏蔵 写真163 秋田系図
通史編1(古代・中世) (平泉藤原氏)

とくに藤原基頼は、『尊卑分脉』という系図に「出羽・常陸・北国凶賊を討つ」とあって(史料五〇二)、八年間
通史編1(古代・中世) (蝦夷管領)

津軽ニ置タリケルカ末也」とある「代官」(史料五五二)、『鎌倉年代記』の「代官職」(史料六一九)、『安藤系図
資料編1(古代・中世編) (新編 弘前市史 資料編1-2 古代・中世編 目次)

……  三七八  (五) 織豊期の宣教師の記録…………………………………………  三八三  (六) 系図類,……………………………………………………………  三八七  (七) 安藤氏系図参考史料……………………
資料編1(古代・中世編) (出典・典拠一覧(第一章・第二章))

………………………………………………………………………………………………… 増補続史料大成 寛永諸家系図伝,……………………………………………………………………………………………… 日本古典文学大系 参考諸家系図,…………………………………………………………………………………………………… 日本古典文学大系 諸家系図纂,……………………………………………………………………………………………… 権祝本影印本 せ 清和源氏系図,……………………………………………………………………………………………………… 原本写真版 浪岡御所系図
通史編1(古代・中世) (二 津軽の修験道と神社)

次の貞和五年(一三四九)の「陸奥国先達旦那系図注文案」は、それを如実に物語る貴重な史料である(史料七〇
資料編1(古代・中世編) ([十五世紀])

●嘉吉元年(一四四一)、紀伊国熊野那智社で、下国安藤氏系図を作成する。
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

… 足利家将軍系図・清和源氏系図 214 ●観応二年(一三五一・南正平六)正月六日、幕府分裂(観応の擾乱,…………………………… 南部系図 246 ●嘉吉元年(一四四一)、紀伊国熊野那智社で、下国安藤氏系図を,… 八戸系図・八戸家系・内史略・八戸家伝記・新撰陸奥国誌 255 ●南部側の所伝に、蠣崎氏を南部守行の,… 津軽一統志・封内事実秘苑・津軽家系譜・寛永諸家系図伝・参考諸家系図・石井三庵政満覚書 306 ●永禄十年,… 坊沢村長崎氏文書・源姓浅利氏系図并由緒書 336 ●天正十三年(一五八五)三月、大浦為信、外が浜油川城
資料編2(近世編1) (【解説】)

津軽家と近衛家との関係は、津軽氏の出自の源泉を藤原氏とする自家の系図を近衛家に保証してもらうという浅からぬ
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

●天正十八年(一五九〇)正月、大浦為信、家中および町・在ともに系図改めの触れを出すという。
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