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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (松森町紙漉)

松森町紙漉 安永元年(一七七二)ころ、楮町は畑作第一となり、一株の楮もみられなくなった。,文化二年(一八〇五)、楮も生育し、紙漉に着手すべき時期になったので、孫右衛門は紙漉技術者を呼び下した。,この紙漉の手付きなどをしていた人たちが、後に松森町の紙漉と呼ばれるようになった。  ,文化二年に呼び下した紙漉の弟子になった者たちである。,天保十年(一八三九)、国産方は廃止され、松森町紙漉は以前のとおり郡所支配になり、御用紙の漉き立てを下命 / 松森町紙漉
通史編3(近世2) (紙漉八右衛門)

紙漉八右衛門 史料に現れる最初の紙漉は八右衛門である。,慶安二年(一六四九)ころの「弘前古御絵図」(弘図津)の御徒(かち)町(現市内若党町)に紙漉八右衛門の屋敷,八右衛門は近所に住む御鷹師などとともに、藩の御用を勤める紙漉であった。,八右衛門が紙漉の原料に使ったものである。しかし、紙漉所がどこにあったかなどは、一切不明である。 / 紙漉八右衛門
通史編3(近世2) (西坂下御紙漉所)

西坂下御紙漉所 「国日記」の紙漉に関する最初の記事は、寛文四年(一六六四)六月十日、国吉(くによし),村鳥井野(とりいの)村に楮立野を開いたこと、同十二月八日に紙漉七右衛門の子が紙をよく漉き、楮仕立てに精,そのために、紙漉喜兵衛が新たに清水の豊かな富田に紙漉町を開き、御用を勤めることになった。,天和二年(一六八一)十月、城中で催された御能見物を許された諸職人の中に、御紙漉屋喜兵衛と御紙漉白川七右衛門,図131.七右衛門の西坂下紙漉所 / 西坂下御紙漉所
通史編3(近世2) (紺屋町末紙漉所)

仕事場として紺屋町末(現明の星幼稚園敷地)に紙漉所新設工事が行われ、四月末には完成し、翌五月から紙漉を,貞享四年(一六八七)、事業の本格化に伴い御国紙漉喜兵衛・七右衛門らが、新井・今泉の配下になり、紙漉一二人,図132.紺屋町織座(紙漉所跡)  元禄元年(一六八八)、紙漉所で不要になった生皮大判二五〇帖・,元禄四年(一六九一)、紺屋町末紙漉所は閉鎖され、紙漉頭新井・今泉は、同七年に職を解かれた。,紙漉所が閉鎖された理由について、紙漉町熊谷喜兵衛は享保四年(一七一九)次のように述べている。 / 紺屋町末紙漉所
通史編3(近世2) (紙漉町熊谷喜兵衛)

紙漉町熊谷喜兵衛 この喜兵衛が史料に初めてみえるのは、天和二年(一六八二)、次いで貞享四年(一六八七,)二月、北の丸久祥院御殿の唐紙(からかみ)二〇〇〇枚を漉き立て献上した記事である。  ,元禄四年(一六九一)に紺屋町末紙漉所、同八年に西坂下紙漉所が廃止され、御用紙漉は紙漉町の喜兵衛だけになった,享保十年(一七二五)十二月、七十三歳で病死するまで紙漉町名主と紙漉頭の御用を勤めた。,図133.紙漉町図 / 紙漉町熊谷喜兵衛
通史編3(近世2) (藩営紙漉座と蘭医星弘道)

紙漉座の用地として紙漉町熊谷喜兵衛の家屋敷(現市内紙漉町、文化幼稚園敷地)が接収された。,吉五郎は仕立方下取扱、秋田仙北の紙漉周吉が紙漉座頭取に任命され実務を担当、今井屋俊蔵は紙漉座下取扱として,翌文久元年(一八六一)春、家老・用人・大目付が二度にわたって楮町の楮畑と、紙漉町の紙漉座とを検分に訪れた,その後、紙漉座の諸道具と原料の楮および施設一切を貸与された今井屋俊蔵は、藩の御用紙漉として事業を引き継,(現文化幼稚園敷地)の紙漉座跡地で製紙業を続けた。 / 藩営紙漉座と蘭医星弘道
通史編3(近世2) (半紙の増産事業)

このほかに書状用の半切紙一二万枚なども注文しているから、紙買入れ代金は相当の金額であった(小紙一締めは,喜兵衛の答申に基づき奉行が作成した申し立てには、領内の紙漉の状況と半紙増産の方策が詳細に記されていた。,喜兵衛は、楮さえ多く確保できれば、いくらでも半紙を漉き出すことができるが、楮不足なので、一五人の弟子たちが,喜兵衛の親が紙漉をしていた時に、楮を仕立てさせた楮新田として次の地名を挙げているが、近年は入手できる楮,紙漉沢 薗(その)村 鳥井野 十河(とがわ) 大川 目屋野沢 竹鼻(たけはな) 追子野木(おこのき)  / 半紙の増産事業
通史編3(近世2) (楮町取り立て)

楮町取り立て 元禄八年の大凶作のため農民は楮仕立てどころでなく、楮畑は荒廃し御用紙を漉くのにも差し支,紙漉町名主喜兵衛が楮町名主を兼務した。畑作物の間に一反歩に付き楮三〇株を仕立てるよう命じられた。,作人の中で喜兵衛の弟子になり、松森町裏の清水を使って農閑期に紙漉をした者もいた。,それらの人々が住んでいた所が松森町裏の紙漉町と呼ばれるようになった。  ,奉書一束・色半切(はんきり)紙二束の漉き立てを命じられ、漉き上げた紙を六月、江戸藩邸に送った。
通史編3(近世2) (新楮町の取り立て)

同時に紙漉町も拡張されて、六人の弟子たちの屋敷が増え一六軒になった。  ,翌五年三月、去年秋から漉き出した二〇締め(四万枚)ばかりの半紙の中から一万枚を、各組代官、楮仕立て方世話役,事業開始から一〇年たった享保十三年、喜平次は、御用半紙五〇〇締めのほか粗皮紙・漉き直し紙など二〇〇〇締,めほどを町中で売買したので、半紙の値段が下落したと述べるほどになった。,しかし、元文四年(一七三九)には司取役が、楮仕立てや半紙漉き立ての御用が少なくなったと事業の停滞を嘆く
通史編3(近世2) (海底塗と唐塗を結ぶ磯草塗)

この漆を器物に塗り、その上を、漆を漉(こ)すのに使った吉野紙(吉野で漉されたこうぞ和紙)を丸めたもので,円盤や丸めた紙をひねって描かれる移動跡は、海底の図を模した若狭塗や津軽の法貴伝兵衛が塗った海底塗の技法,図154.芯棒が付いた円板の移動でできた磯草塗りの文様 図155.漆漉しに使った吉野紙や布を
通史編5(近・現代2) (文化幼稚園)

文化幼稚園 二十九年(一九五四)三月一日、紙漉町五番地三に私立文化幼稚園が設置された。
通史編3(近世2) (野本道玄)

道玄は茶人、数寄人としてのみではなく、養蚕、機織、製紙等の実業にも指導的役割を果たし、弘前の産業振興に,さらに弘前城南の富田村・土手町裏に紙漉町を取り立てて、楮を植えさせ、種々の紙を漉かせるなど産業振興に力
通史編4(近・現代1) (大区小区制の成立)

古堀新割丁 西茂森町 古堀丁 茂森町 在府丁 相良丁 覚仙丁 森丁 塩分町 土手町 住吉丁 山道丁 紙漉町,堀越村 清水森村 松木平村 大和沢村 一野渡村 小栗山村 四小区(二六ヵ村) 五所村 水木在家村 紙漉沢村
通史編5(近・現代2) (富田小学校の弘前移管と焼失)

富田小学校の弘前移管と焼失 富田小学校は当時中津軽郡清水村の所管になる小学校で、現在の紙漉町文化幼稚園
通史編4(近・現代1) (戸長の配置)

                              野澤宇一  品川町 山道町 住吉町 新品川町 富田新町 紙漉町
通史編4(近・現代1) (通信関係)

弘前郵便局の呼出区域は、弘前市、中津軽郡駒越村駒越、同郡清水村常盤坂・紙漉町・富田、同郡小沢村大原、同郡堀越村取上
通史編4(近・現代1) (組合町村制)

旧五部制は、昭和三年の清水村富田及び紙漉町の編入で第六部が新設された。  
通史編5(近・現代2) (第三大成小学校の創設)

一方、第一大成から品川町の一部、山道町、住吉町、紙漉町、桶屋町、銅屋町、南川端町が第二大成学区に移った
通史編4(近・現代1) (戸籍法と戸籍区)

三上虎平太 同小三区 土手町 松森町 富田町 足軽町 富田新町 品川町 山道丁 住吉丁 元普光寺門前 紙漉町, 門前 菖蒲川 宮地 新岡 葛原 新法師 常盤野 松代 岳 第二二区(駒越) 桜庭 村市 国吉 紙漉沢
通史編3(近世2) (諸家業と職人)

御役職人(藩に営業税を納める職人)は二八職種に分類され、この内、研屋・鞘師・塗師・経師(きょうじ)・筆師・紙漉,御用筆師1軒 篩嚢師 2 小細工師 2 瓦師 2 土細工師 1 炭団師 1 蝋燭掛 5 紙漉,15 内 御用紙漉1軒 鏡磨・鍋鋳懸・薬鑵直 8 𨫤張 3 葛籠細工 2 籠組
通史編3(近世2) (焼成について)

南溜池南方(現市内清水富田)の堤や猫右衛門町(ねこえもんまち)(現市内松森町(まつもりまち))にある紙漉喜兵衛預
通史編4(近・現代1) (城西小学校創立)

 亀甲学区 下町学区以上五学区内ニ高等小学科ヲ教授スル一校ヲ置ク 第一学聯区 富田学区 二 ○富田、紙漉町
通史編5(近・現代2) (市域の整備と町村合併)

昭和三年(一九二八)四月一日、清水村の富田・紙漉両部落の弘前市への合併が実現した。
通史編5(近・現代2) (家政女学校の創設)

写真71 弘前家政女学校校舎(紙漉町 昭和15年以降)  終戦後の新学制が発足するとともに、家政女学校
通史編3(近世2) (信政の文治)

改む 小鼓)、杉野市郎兵衛、奥田荘左衛門(太鼓)、西岡三四郎、砂川伝八(以上、笛)  このほかにも紙漉
通史編4(近・現代1) (町村合併と弘前市制施行)

清水村(大字富田)-富田村 紙漉町 坂本村 常盤坂村 悪戸村 下湯口村 小沢村 和徳村(大字堅田)-
通史編3(近世2) (町役負担と御用金)

大組頭支配七組分御町役人足出帳」(前掲『弘前城下史料』上)には天和三年(一六八三)のものと思われる点羽(てんぱ)(貼紙),その際の人足役の割り付けは、貞享三年(一六八六)の規定で行うことになったが、町端の北横町・南横町・紙漉町,人扶持(2人) 20俵2人扶持 5人 御油屋 3両2人扶持 1人 御庭木作 20俵5人扶持 1人 御紙漉
通史編3(近世2) (江戸後期の漆工芸)

図156.天保の『塗物伝書』に「漆を漉すのに使った紙を丸めたもので,唐模様を描く」と描かれている技法の
通史編3(近世2) (消防制度)

まつもりまち))、富田町(とみたまち)(富田町・品川町(しながわまち))、楮町(こうじまち)(楮町・紙漉町
通史編2(近世1) (町役)

また、町端の北・南横町や、紙漉町・楮町などは、元禄十四年(一七〇一)の時点とはかかわりなく地子銀を上納
通史編2(近世1) (家中屋敷の郭外移転)

西外の郭は三五区画の屋敷割のうち、空き屋敷二軒、馬屋・御紙漉所やそれらの附属施設を除けば侍屋敷で占められている,城内の家中屋敷跡には、二の郭に御屋敷・土蔵・宝蔵など、三の郭には御館・評定所・山方払方・籾蔵・板蔵・紙蔵
資料編1(古代・中世編) ([付図])

高館城〕 56 山下館〔兼平館〕 122 三ッ目内城(2) 57 里見館 123 居土観音館 58 紙漉沢館,124 折紙館 59 五所野沢館 125 蔵館 60 湯口茶臼館 126 羽黒館 61 水木館 127
通史編2(近世1) (野本道玄の招聘)

金沢勘右衛門,清水貞徳ほか 医者 樋口道与,中丸昌益,渡辺昌庵ほか 板行 渡辺久左衛門,村上七兵衛ほか 紙漉
通史編4(近・現代1) (開化思潮の影響)

また、明治十四年九月九日の明治天皇御来弘の際、下沢保躬は、紙漉沢の長慶天皇御陵墓と伝えるものに関して言上
通史編5(近・現代2) (農業会の解体と農協の乱立)

月10日 藤代村 石渡 昭和23年4月15日 西目屋村 西目屋村更正 昭和23年4月28日 相馬村 紙漉沢
通史編4(近・現代1) (肉食と牛乳)

弘前の牛乳業者の始まりであった舘山の店は、紙漉町から最勝院に向かってきた突き当たりであった。
通史編5(近・現代2) (見直したい弘前市の記録)

土手町、鍛冶町をはじめ、代官町、桶屋町、百石町、親方町、紙漉町、紺屋町、若党町、五十石町、元大工町、元寺町
通史編4(近・現代1) (試験法と地方集合試験)

一九 一五 四 、九五 一、五〇 七八・九四 相馬 一七 一一 六 、八五 一、一〇 六四・七〇 紙漉沢
通史編4(近・現代1) (地主制の確立と在村地主の役割)

青森県農会が明治四十年(一九〇七)から同四十一年にかけて清水村(大字富田、紙漉町、小沢、坂元、悪戸、下湯口
通史編1(自然・原始) (人類学会創設~昭和三十三年(一九五八))

佐藤は、青森市在住の角田猛彦による案内で、同市の細越(ほそごえ)遺跡を調査し(28)、このほか相馬村の紙漉沢
通史編2(近世1) (知行宛行状の発給)

同年九月三日には廣田太右衛門に高一〇〇石の知行宛行状が発給されているが(同前No.四四六)、七〇石は紙すき,沢村(現相馬村紙漉沢)、九石が真土(まつち)村(現岩木町真土)、一〇石が五代村(現岩木町五代)、六石がたゝ,翌十年四月二十一日には竹内又兵衛に高二〇〇石の知行宛行状が発給されたが(同前No.五四〇)、「所付は別紙に,有り」とあって、実際に宛がわれた村名は別紙が不明なため判明しない。,知行地の村名を別紙記載にする初期の例として注目される。
通史編4(近・現代1) (市制の施行)

このときに、紙漉町は学区の関係上弘前から割いて中津軽郡清水村に編入し、また、中津軽郡和徳村飛地字野田及
通史編1(古代・中世) ([付図])

宅地 包蔵地 縄文 76 緑町遺跡 緑町 〃 〃 〃 77 茶畑町遺跡 茶畑町 〃 〃 〃 78 紙漉町遺跡,紙漉町 〃 〃 〃 79 新寺町遺跡 新寺町 境内 〃 〃 80 西茂森遺跡 西茂森 〃 〃 平安
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

八一〇) 大山祇神 龍田神社 坂上田村麻呂 延暦年中(七八二~八〇六) 天御柱命・国御柱命 相馬村紙漉沢
通史編3(近世2) ((二)相撲興行)

同十年(一八一三)、青森町の孫助が弘前紙漉町喜平次屋敷で催した江戸相撲の札銭は一人五分、上桟敷一間四匁
通史編1(自然・原始) (第一節 注および引用・参考文献)

東京地理学協会報告』一八-一六九 一八九六年十二月 (28)(26)Bに前掲 (29)佐藤傳蔵 「陸奥国中津軽郡紙漉村遺跡発掘報告,」『考古学雑誌』四三-二 一九五七年十二月 (87)今井冨士雄・成田末五郎 『青森県中津軽郡相馬村紙漉沢白山堂遺跡発掘
資料編1(考古編) ([付図])

02077 茶畑町遺跡 弘前市大字茶畑町 台地緩斜面 包含地 縄文(中期) 縄文土器 63 02078 紙漉町遺跡,弘前市大字紙漉町 河岸段丘上 包含地 縄文(晩期) 縄文土器,石棒 64 02079 新寺町遺跡 弘前市大字新寺町
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