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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編5(近・現代2)
(終戦)
終戦
終戦
時の佐藤正三の日記 八月十五日(水)晴、くもり 午前 中村さんの畑のいも掘り ねぎ土寄,あらゆる苦難を克服して最
終戦
争完勝の一途に一志前進せんのみ。 /
終戦
通史編5(近・現代2)
(終戦直後の教育)
終戦
直後の教育 二十年十月、連合軍総司令部は
終戦
に当たって、日本の教育処理の方策を明らかにして四項目 /
終戦
直後の教育
通史編5(近・現代2)
(終戦直後の弘前市会)
終戦
直後の弘前市会 昭和二十年十月二十五日の弘前市会は、新しい地方政治への意欲と深刻な経済問題がないませになっている,二十一番柏幸治郎君 議長ニ諒解ヲ得テ置キタイト思ヒマスガ本日ハ
終戦
後第一回ノ市会デアリ市民生活ニ重大関係,御願ヒシテオキマス 嚮(さき)ニ政府ハ官僚独善デ市会ノ権限ヲ抑圧シテ参事会ニ代行サセテ居リマスガ今ヤ
終戦
/
終戦
直後の弘前市会
通史編5(近・現代2)
(終戦の詔勅降る)
終戦
の詔勅降る 昭和二十年(一九四五)八月十五日正午、大東亜戦争終結の詔勅が降(くだ)った。 /
終戦
の詔勅降る
通史編5(近・現代2)
(終戦直後の食料事情)
終戦
直後の食料事情 昭和二十年八月十五日を、戦前の県内労働運動の指導者で歌人だった松岡辰雄(明治三七 /
終戦
直後の食料事情
通史編5(近・現代2)
(終戦直後のりんご景気)
終戦
直後のりんご景気 昭和二十年(一九四五)十月、戦後初めて製作された映画『そよ風』の主題歌であった,写真113 『りんごの唄』歌詞、並木・サトウの肖像
終戦
直後の物資不足とインフレーションによって,
終戦
後、統制制度は存続していたが実質的には無配給状態に陥っていたため、政府はこうした状況を考慮して、二十年十一月 /
終戦
直後のりんご景気
通史編5(近・現代2)
(終戦直後の国民学校)
終戦
直後の国民学校 二十年八月二十日前後、市内各国民学校では、市役所の指示に基づいて校内特設防護団を /
終戦
直後の国民学校
通史編5(近・現代2)
(終戦直後の東奥義塾)
終戦
直後の東奥義塾 昭和二十一年は義塾にとって多難な年であった。 /
終戦
直後の東奥義塾
通史編5(近・現代2)
(市立商業高校と市立女子高校)
倉庫を改造しただけの校舎は、冬は隙間風の吹き込む教室、体育館は道路を隔てた向かい側にあり、
終戦
直後の窮乏時代,一方、
終戦
時、元寺町にあった市立高女は、戦災に遭った青森師範学校を受け入れるために山道町の旧家政女学校校舎,しかし、
終戦
直後の乏しい自治体財政の中にあって、新制中学の義務化による出費に加えて、弘前市としても二つの
通史編5(近・現代2)
(戦争と弘前女学校)
陳情も画策していたのが、
終戦
で事なきを得た。
終戦
前日の八月十四日のことである。
通史編5(近・現代2)
(弘前工業高校の動向)
弘前工業高校の動向
終戦
による混乱は弘工も例外ではなかった。食糧難は生徒にも深刻な影響を与えた。,昭和二十年十二月、
終戦
によって不要となった航空機科が木材工芸科へ改組され、二十一年には工業化学科が新設,
終戦
の年の十月、弘工の四年生かストライキを行った。
通史編5(近・現代2)
(弘前女学校のキリスト教)
この日がまさに
終戦
の日である。,私共はこうして天皇の
終戦
のお言葉を聞いたのである。,笹森先生といえばこの
終戦
の詔を青森駅頭で聞いたという。私どもは喜んでこの日を迎え入れた。
通史編5(近・現代2)
(方言詩集『まるめろ』)
終戦
後に満州を引き揚げ、弘前市で眼科医院を開業、以後精力的に朗読会を開き、方言詩の魅力を全国に広げることになる
通史編5(近・現代2)
(新制高校の発足)
新制高校の発足
終戦
の翌日、文部省は、学徒の勤労動員を解き、数日後には戦時教育令を廃止して、学徒隊を,写真133
終戦
直後の弘前中学校復員組 二十一年には、GHQの指令による公職追放の嵐が吹き荒れた
通史編5(近・現代2)
(敗戦直後の弘前市民)
そこへ八月十五日、
終戦
の詔勅が発布され、県当局は建物疎開の中止を通達してきた。,写真102 敗戦直後の富田枡形界隈 しかし二度にわたって建物疎開を徹底しながら、突然
終戦
(敗戦
通史編5(近・現代2)
(新制弘前高校の誕生)
終戦
の解放感があった生き生きした時代。
通史編4(近・現代1)
(弘前カトリック教会(百石町小路))
弘前カトリック教会(百石町小路)
終戦
前は弘前天主公教会と称した。
通史編5(近・現代2)
(児童の船沢村農耕地開墾)
第一大成国民学校五・六年生は二十年八月十五日、開墾地に出かけ作業したが、その帰り
終戦
の詔勅を聞き、落胆
通史編5(近・現代2)
(第二回社会教育大会)
以上のごとく
終戦
直後の社会教育は、文部省と県が中心となり、青森軍政部の指導で行われた。
通史編5(近・現代2)
(部活動の推移)
部活動の推移
終戦
後の学校スポーツで華々しい活躍を見せた弘前高校運動部は、三十年代後期になると、高校総体
通史編5(近・現代2)
(東京からの集団疎開児童)
八月十五日の
終戦
をいちばん喜んだのは、東京から集団疎開の児童たちではないだろうか。
通史編5(近・現代2)
(禅林街・太平高等学校)
昭和二十一年四月、長勝寺専門僧堂の本堂を教室として開設された太平中学は、曹洞宗宗務庁が
終戦
の年の暮れ、
通史編5(近・現代2)
(本県初の鉄道電化)
本県初の鉄道電化
終戦
によって鉄道事業は極端な石炭不足に悩まされた。
通史編5(近・現代2)
(弘前へ帰る)
やがて小田桐も鳴海も召集となり、佐藤にも再度の召集がかかったが、身体検査で即日帰郷となり、二十年八月の
終戦
時
通史編5(近・現代2)
(インフレとヤミ経済)
内閣は、戦時経済の平時経済への切り替えを財政インフレによって行う政策をとり、二十一年度予算の三分の一を
終戦
処理費
通史編5(近・現代2)
(バス事業の復興・伸展)
しかし、
終戦
を挟んで起きた二度の五所川原大火によって、本社社屋をはじめ会社の諸施設の大半が焼失する被害
通史編5(近・現代2)
(男女共学と週五日制)
男女共学と週五日制 平成において特筆すべき学校環境の変化は、
終戦
後すぐGHQの指導により、一時は導入
通史編5(近・現代2)
(東亜連盟)
昭和十四年東亜連盟協会が発足、初め農民運動家も入り、南京政府の王兆銘もこの運動に協賛したが、やがて日中和平より世界最
終戦
争論
通史編5(近・現代2)
(弘前観光協会の設立)
事実、弘前観光協会設立の趣意書には「
終戦
後の我が観光界の今日に即し能(よ)くその目的達成を計り個々の関係機関
通史編5(近・現代2)
(敗戦と文書焼却問題)
だが引継書にはそれ自体の内容は明記されておらず、「
終戦
後青森県及連隊区地方人事部等の通牒により重要書類
通史編5(近・現代2)
(新生東奥義塾の躍進)
終戦
後二十数年を経て物資も豊富となったことから、再びかつての背広服を制服にすべしとの論議が起こり、制服制定委員会
通史編5(近・現代2)
([付図])
学徒出征〈昭和19年〉 18 金属供出のため為信公銅像出陣〈昭和19年〉 19
終戦
通史編5(近・現代2)
(相互銀行制度の創設)
相互銀行制度の創設 日本経済は
終戦
に伴い戦時経済からの転換を図られるが、金融面では大蔵省において金融制度
通史編5(近・現代2)
(家政女学校の創設)
写真71 弘前家政女学校校舎(紙漉町 昭和15年以降)
終戦
後の新学制が発足するとともに、家政女学校
通史編5(近・現代2)
(忠霊塔の建設)
八月十五日
終戦
となり、九月二十六日米軍は弘前へ進駐してきた。
通史編5(近・現代2)
(ソ連からの引揚げ督促)
大陸に渡った人々にとって
終戦
(敗戦)という現実は、国内に帰還できるか否かが決定的な意味をもっている。
通史編5(近・現代2)
(りんご加工業の推移)
だが、
終戦
後、日本酒生産が復興するとその代用品にすぎなかったことが明らかとなり、需要は減退した。
通史編5(近・現代2)
(市立弘前商業学校の成立)
弘商は、
終戦
後に原ヶ平字中野 (現中野一丁目)に移るまでここを教育の拠点としたのである。
通史編5(近・現代2)
(第一回小学校連合体育大会)
当時は
終戦
後まだ日が浅く、大方の教員は軍国主義的風潮に極めて敏感だった。
通史編5(近・現代2)
(子ども会の動向)
子ども会の動向
終戦
直後における弘前市の子ども会は、その結成の経緯からみて、三種類に分類できる。
通史編5(近・現代2)
(弘前実科高等女学校の変遷)
はますます不利になり、四月沖縄が陥落、本土決戦を覚悟したが、八月には広島・長崎に原爆が投下され、ついに十五日
終戦
通史編5(近・現代2)
(故郷(くに)を思う心)
棟方志功と親友で、志功は昭和十三年から毎夏、唐竹の「帰鳥山房」へ滞在、画筆をふるう生活を
終戦
時まで続けた
通史編1(古代・中世)
(古墳文化及ばぬ北の世界)
この遺跡では、
終戦
直後に五世紀後半のものと思われる須恵器(すえき)が出土していたが、近年の発掘調査によって
通史編5(近・現代2)
(戦後復興期の財政)
これは歳出項目の増加というよりも、
終戦
直前、巨額な軍事費を捻出するため日銀券が大量に発行されたことによる
通史編5(近・現代2)
(地場産業の諸相)
終戦
後の二ヵ月間は休業状態であったが、やがて業務を再開して進駐軍の衣服の洗濯・修理などを行い、その後、
通史編5(近・現代2)
(戦後美術界の復興)
その翌月の八月十五日、日本は敗戦国として
終戦
を迎える。
通史編5(近・現代2)
([口絵])
弘前女学校生 口絵25 官立弘高生の勤労奉仕 口絵26 官立弘高生の出征 †
終戦
通史編5(近・現代2)
(バス事業の本格化と戦時下統制)
終戦
間際の昭和二十年七月には車輛や物資を疎開するまでに追い込まれたのであった。
通史編5(近・現代2)
(インフレの進行と低物価運動)
弘前商工会議所設立趣意書
終戦
後の新事態に即応し、民主々義の理念に立脚して新商工会議所の設立を企画,蓋(けだ)し
終戦
後の困難なる事態を克服し、民主的に商工業の再建と発展とを実現するには業者が衆智を集め、,経済復興を常に懇切丁寧に指導し来れる当局は、過般来其の正しき指針の一端を表示し、吾等に対し警告を与へたり、
終戦
通史編5(近・現代2)
(東奥義塾の昭和)
終戦
のとき学校に残っていたのは、一、二年生のみであったが、英語などは敵性語として、授業から外す学校が多
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