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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (勤務の状況)

最初に部屋の警備については、玄関を入って左側の奧の御広間・上ノ間には、御手廻(おてまわり)・御馬廻組頭,年頭・節句・御礼日には組頭(くみがしら)より歩行(かち)まで城門番所へ詰め、御礼が終わったならば、目付,城代(じょうだい)(藩主が軍を出した場合に、留守して国城を守る武官)が出仕および御用あるときは、組頭は,さらに遠方へ一泊以上の留守の場合、午後二時より翌朝八時まで城代が、午前八時より午後二時までは留守居組頭,これらの場合に、城代・留守居組頭は梅ノ間御次ノ間西側で、用人は御用座敷で勤務する。
通史編2(近世1) (町方支配)

町年寄・町名主・月行事という呼称は、天和期ころから一般的に用いられていたが、延宝期ころまでは、町大組頭,(町名主に相当)・町小組頭(月行事に相当)といった呼称が通用していた。,一六四九)の「弘前古御絵図」にみえる「くみかしら」は、「いさばがしら」「かうやがしら」といった職種上の組頭,町名主は、藩政前期には大組頭と呼ばれ、その職掌は、町触れや申し渡しを徹底させ、人別改めや火の用心を担当,しかも、各小組には、月行事に相当する小組頭が置かれて町内を差配していた。
通史編3(近世2) (第二次藩政改革)

1000石) 大道寺繁禎(1000石) 津軽済(900石) 番 方 要 職 津軽平八郎(御手廻組頭,・500石) 山野茂樹(同上格用人兼・300石) 山田誠(御手廻組頭・500石) 佐藤源太左衛門(御馬廻組頭,・300石) 森岡金吾(御馬廻組頭用人兼・600石) 楠美太素(御馬廻組頭格・200石外100石) 山崎主計,(御留守居組頭・140石外160石) 加藤武彦(御留守居組頭格・200石外100石) 役 方 要,や旧御留守居組頭山崎清良(せいりょう)らとともに、この選挙が無効であるとの声を高めていった。  
通史編2(近世1) (支配機構の整備)

彼ら四人は「大頭」と呼ばれ、その下に二人宛ての組頭が置かれていた。,御本参・新参を改組し、手廻組五組・馬廻組七組を置き、また留守居組二組を創設し、それぞれにその組を支配する組頭,手廻組頭には津軽政朝・津軽為玄(ためもと)・梶川政順(まさより)という藩主信政の弟たちが命じられ、馬廻組頭,一方で、組頭の人事から、依然として一門・重臣層による軍事組織の掌握が図られていることや、また家老と組頭,、「組頭」とは呼ばれなかった。
通史編3(近世2) (礼服)

これは一般農民に対してではなく、庄屋・組頭(くみがしら)(庄屋の補佐役)・裕福な者だけに着用が認められている,羽織は庄屋・組頭・裕福な農民に対して着用が認められている(資料近世2No.二一六)。
通史編3(近世2) (御軍政局の発足と組織)

さて、三月十八日に任命された軍政局の軍事取調御用懸(かかり)(統括責任者)は御手廻組頭(おてまわりくみかしら,)津軽平八郎・留守居組頭格加藤善太夫であり、同時に類役として御軍制取調御用兼として御手廻組頭山田十郎兵衛,・御馬廻組頭木村繁四郎が、御軍制御用調方に諸手足軽頭館山善左衛門・長柄奉行格都谷森甚弥(とやもりじんや,    職 備    考  1 山田十郎兵衛 御軍政局御用掛 御手廻大番頭 500石 御手廻組頭,まず、御軍政局御用掛の職掌は局内事務の総轄であり、御手廻大番頭山田十郎兵衛・御馬廻組頭木村繁四郎が任命
通史編3(近世2) (礼服)

○正月四日(御用始め、掃除始め)  享保二年――熨斗目長袴(年男(としおとこ)・留守居組頭(るすいくみがしら,)……留守居組頭とは番方の役職の一つ。,留守中、城代(じょうだい)の命を受けて城中を守衛する)、常服半袴(御中小姓(おんちゅうこしょう)、御小姓組頭
通史編3(近世2) (出発)

、同東の方に城代、その後に用人が控え、さらに白砂東の方に大目付(おおめつけ)が、白砂塀重門の前に手廻組頭,(てまわりぐみがしら)・馬廻(うままわり)組頭・留守居(るすい)組頭が控えている。  ,藩主はここで休息をとるが、先乗りの組頭・その他、さらに掃除奉行(そうじぶぎょう)・使番(つかいばん)・
通史編2(近世1) (越後高田領検地の実施)

命を受けた直後から津軽家江戸屋敷では早速おもだった大名に対して事情を聞き合わせるとともに、幕府勘定組頭佐野正周,幕府勘定組頭佐野正周から内々に、老中は年内に検地を終了させたい所存であるとの意向が伝えられ、危機感を抱,検地終了の報告は、八月二日に江戸藩邸から老中・勘定頭・同組頭宛てに行われ(「江戸日記」天和二年八月二日条,それが国元にいる手廻組頭大道寺隼人に代わった理由は、検地役人に多く手廻組に属する藩士がいたことによると,役 職 氏  名 本来の役職 新規召抱 備  考 1 惣奉行 大道寺隼人 手廻組頭 国元から呼ぶ 2
通史編3(近世2) ((三)日常生活)

添田は、延宝二年に大組足軽頭(おおくみあしがるがしら)、天和二年には馬廻三番組頭となり、元禄十年(一六九七
通史編3(近世2) (薬王院)

貞享四年(一六八七)、客殿から出火して焼失し、再建されたが、翌五年に藩は手廻組頭・馬廻組頭に廟所の火消番
通史編3(近世2) (養老礼)

この時は「三老」が堀蓮水(御家老隠居 八十余歳 病欠)、「五更」は山野十右衛門(御馬廻組頭 七十余歳)
通史編3(近世2) (軍制への戸惑いと浸透)

弘前藩軍事力動員としては第一級規模のものであったが、閏四月上旬に出撃予定とされたこの派兵は、実行段階で御留守居組頭山崎所左衛門,弘前藩もその世論を無視できなくなってきたこと、および二十二日に発表された陣触では大隊長の一人に御馬廻組頭山本三郎左衛門,が予定されていたが、彼の言説は過激で、「御馬廻組頭山本三郎左衛門脱藩、三位様(奥羽鎮撫総督府沢為量(さわためかず
通史編4(近・現代1) (町村合併と弘前市制施行)

堀越村-大村堀越村と古城堀越城、旧藩堀越組頭村に由来。,和徳村-大村和徳村と古城和徳城、旧藩和徳組頭村に由来。
通史編2(近世1) (情報収集活動)

さらに、足軽目付・小知行組頭のうち、一月に二、三度、二人ずつ松前に派遣するように、また青森・鰺ヶ沢の両浜
通史編3(近世2) (森内繁富)

仰せつけられたが、「無調法」があったとして退役させられ、書院番に戻り、享和二年(一八〇二)に表書院番組頭
通史編4(近・現代1) (神官僧侶会議での県の方針の伝達)

七小区 三浦能定  八小区 久保田唯男  このほか、各村落の道路掃除が義務づけられ、各小区戸長、組頭
通史編3(近世2) (キリシタン改め)

藩士の場合は、御目見以上は寺社奉行へ直接提出し、組支配の者は番頭に判鑑を置き、組頭より寺社奉行へ提出した
通史編3(近世2) (切支丹類族)

類族改めは春秋二回行い、組頭を通して寺社奉行へ提出させた。
通史編4(近・現代1) (大区小区制の成立)

郡を大区に、戸籍区をそのまま小区に変えて、大区に区長を、小区に戸長・副戸長を置き、「大凡百戸に一人の組頭
通史編2(近世1) (林政の展開と漆木の栽培)

漆奉行は用人支配であり、定員は八人前後で、足軽隊の古参組頭クラスが命じられていたようである。,さらに漆掻きが行われるときには、漆奉行の他に足軽目付や足軽組頭から命じられた漆掻き立ち会い目付が領内を,一方漆の実の採取は最初は足軽組頭などが農民を使役して採取していたとみられるが、その後漆実取奉行には手廻組
通史編3(近世2) (軍事情勢の膠着)

たとえば御留守居組頭山崎所左衛門(ところざえもん)は西館らのいう勤皇は画餅(がべい)であり、薩長兵と彼
通史編3(近世2) (町役負担と御用金)

しかし、この負担は町人にとって過重であったらしく、延宝七年(一六七九)「大組頭支配七組分御町役人足出帳,延宝7年(1679)の「大組頭支配七組分御町役人足出帳」より。  
通史編2(近世1) (寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)

   考 奉行 1* 2* 20 *組士からまわったもの 足軽大将 1 1 30   組頭,2 24   旗差組頭 2   警固 5 5 6 警固とは小頭のことで
通史編2(近世1) (茨木屋の苦悩)

、今年限りで地方知行制に戻るので、少しでも寸志を送って銀主達の機嫌を損わないようにしたらどうか、と三組頭
通史編2(近世1) (領内海防と台場の構築)

島事件・エトロフ島事件を契機に、津軽弘前藩は蝦夷地に兵を増派するとともに、五月二十四日には、青森へ馬廻組頭
通史編3(近世2) ((三)キリシタンの流罪とキリシタン改め)

一六一五)に宣教師ジェロニモ・アンジェリスが、津軽の流刑者を訪問したところ「団」に分けられ、団ごとに組頭
通史編5(近・現代2) (伊東梅軒)

嘉永四年四月、組頭に宇和野練兵場における陣立(じんだて)の案を出し認められた。
通史編2(近世1) ((二)蝦夷地出兵の諸段階)

津軽弘前藩は軍勢を三番手に分け、各番手の人数を侍大将・大番組頭以下八五三人とし、結果として一六五〇人の
通史編2(近世1) (高照神社「御告書付」の開始)

つまり、「御告書付」とは、藩が、改元や藩内の吉凶事、重要な政策遂行の折りに使者(原則的には組頭)を立てて
通史編2(近世1) (元禄の大飢饉と家臣召し放ち)

さらに、手廻組、馬廻組、留守居組の中には、組頭のいない組もあった。  
通史編3(近世2) (一〇代信順の治世)

かわりに家老には大道寺玄蕃繁元(げんばしげもと)が任じられ、笠原は御馬廻組頭兼用人(天保五年に家老就任
通史編4(近・現代1) (県政初期の混乱)

一町一村の組頭がまとめて持ってきた。そして七月十九日、青森上浜町の学校地所で焼却した。
通史編5(近・現代2) (出稼ぎの実態)

十五日位休みが付きました、私は素人故、デキ得るカギり人様より早く(二時間)出て働きましが、相手は選雇員(組頭
通史編3(近世2) (二 藩主の日常生活)

山吹ノ間(やまぶきのま)(各部屋などについては図87参照)で戸沢元吉へ小性組頭(こしょうくみがしら)(
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●元和九年(一六二三)正月八日、重臣乾安儔等、組頭町田村勝右衛門へ定書を下し、鉄炮の射撃等について心得方
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