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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(自然・原始)
(縄文集落)
縄文
集落 近年の大規模開発に伴う広大な面積の調査によって、
縄文
集落の実態が次第に明らかとなってきた。,このように
縄文
集落の構造は、中期と後期において円形(環状)を基本にした計画のもとに造成されたのであろう /
縄文
集落
通史編1(自然・原始)
(第三節 縄文時代)
第三節
縄文
時代 地質学でいう更新世を経て完新世に入ると気温は次第に上昇し、ヨーロッパなどでは洞窟を,一方、気温の変化に伴って海水面も上昇して現在の沖積(ちゅうせき)平野の低い地域に侵入し始め、
縄文
早期を,経て前期の半ばごろになると、海水の侵入はピークに達し(
縄文
海進といわれる)、関東地方などでは東京湾の水 / 第三節
縄文
時代
資料編1(考古編)
((5)縄文時代後期)
(5)
縄文
時代後期 先の中期後半期に東北地方南部から北上し、円筒土器文化を包括した大木系土器文化も、,その後、関東地方から北上して来た
縄文
時代後期の称名寺式や、それに続く堀之内式・加曽利各式土器文化の席巻,十腰内第Ⅳ式土器になると、さきの第Ⅲ式に出現した羽状
縄文
が盛んに使われ、第Ⅴ式は沈線と斜
縄文
が主体を占,本県の
縄文
時代後期は特色ある葬法を伴い、特に十腰内第Ⅰ式期にそれが多い。,
縄文
時代の葬法については後述する。 / (5)
縄文
時代後期
通史編1(古代・中世)
(弥生文化と続縄文文化)
弥生文化と続
縄文
文化 稲作農耕を生産基盤とする本州の弥生文化に併行する時期に、北海道地方に展開した
縄文
文化以来,の食料採集に生産基盤をおく文化には「続
縄文
文化」という名称が与えられた。,この続
縄文
文化の南下に関しては、気候の寒冷化と結びつけて説明されることが多い。,続
縄文
文化は決して南へ退いていったわけではない。,ところで、続
縄文
文化の指標のひとつである後北(こうほく)式土器とは、「後期北海道式薄手
縄文
土器」を略した / 弥生文化と続
縄文
文化
資料編1(考古編)
(6.縄文時代の工芸)
6.
縄文
時代の工芸
縄文
時代の工芸として考えられるものには、石や粘土等を加工して作り上げた石製品・土製品,
縄文
人によって加工が施された植物製品には、今日の我々の日常生活における木製品の種類等から推定すると、実 / 6.
縄文
時代の工芸
資料編1(考古編)
((6)縄文時代晩期)
(6)
縄文
時代晩期 後期を引き継いだ晩期は、亀ヶ岡式土器の盛行した時代である。,前葉 大洞B式 平行沈線 三叉状入組文 平行沈線 平行沈線 三叉状入組文 斜
縄文
,磨消
縄文
縦位
縄文
壺形,台付浅鉢形,皿形 浅鉢形,台付鉢形,注口土器 鉢形,台付深鉢形,,磨消
縄文
縦位
縄文
刺突文 壺形,台付浅鉢形 浅鉢形,台付鉢形 鉢形,台付深鉢形 深鉢形,我が国の
縄文
土器の中で、たとえ模倣品ではあってもこれほど広範囲に伝播した土器はないであろう。 / (6)
縄文
時代晩期
資料編1(考古編)
((4)縄文時代中期)
(4)
縄文
時代中期 前期に続く中期は、前半が円筒上層式土器(正確には円筒土器上層式土器)の盛行した時代,また、器体の外面には
縄文
を斜めに付けた斜
縄文
・撚りを中間で逆方向に変えた羽状
縄文
・撚り糸を押し付けた絡条体,
縄文
時代の前期と中期に栄えた円筒土器は、その下層式土器の段階において、北は津軽海峡を越えて北海道の石狩川河口,図6
縄文
時代中期の土器(円筒土器) 石神遺跡(1) 円筒上層a式土器 円筒上層a式土器,円筒上層e式土器 円筒上層e式土器 (森田村歴史民俗資料館蔵) 図8
縄文
時代中期 / (4)
縄文
時代中期
資料編1(考古編)
((2)縄文時代早期)
(2)
縄文
時代早期 青森県のみならず、東北地方北部の
縄文
時代早期の土器は、昭和26年(1951)の八戸市鮫町,図3
縄文
時代早期の土器(1) 白浜式尖底深鉢形土器… 八戸市・館平遺跡(江坂輝彌氏提供),
縄文
時代早期については、その後、県立郷土館による東通村下田代納屋B遺跡*22、県教育委員会文化課並びに,表2 青森県出土土器編年表 時代 型式名
縄文
時代 草創期 (無文土器) (隆線文系土器) (爪形文系土器,円筒上層c 円筒上層d 円筒上層e 榎林 最花,中の平Ⅲ 大木10 時代 型式名
縄文
時代 / (2)
縄文
時代早期
資料編1(考古編)
(5.縄文時代の食生活)
5.
縄文
時代の食生活
縄文
時代人の食生活については、遺跡から発見される食料の残り滓によりある程度知ることができる,その理由は、例えば貝塚は端的に言うと、
縄文
人を含めて古代人のゴミ捨て場であり、生活用具の破損物をはじめ / 5.
縄文
時代の食生活
資料編1(考古編)
((3)縄文時代前期)
(3)
縄文
時代前期
縄文
時代前期を代表する土器に対しては、昭和2年(1927)に長谷部言人(はせべことんど,4年(1929)に山内清男が、下層式を4分類し、以後長期にわたってこれらの分類に基く円筒下層式土器が
縄文
時代前期,に発掘が行われた三沢市早稲田貝塚の出土土器を調査した佐藤達夫は、6分類(1類~6類)し、1類~5類を
縄文
時代早期,なお、
縄文
時代前期中葉の海進絶頂期以前は海進期に当たり、前時期の早期中葉からしだいにそれが現れ、逆に前期中葉以後,図5
縄文
時代前期の土器(円筒土器、大木系土器) 円筒下層a式土器 円筒下層b式土器 / (3)
縄文
時代前期
資料編1(考古編)
(3.縄文時代の集落)
3.
縄文
時代の集落 近年の緊急発掘調査は広大な面積を調査対象とし、それに伴って数々の新しい発見がもたらされている,それらの遺構は土壙群を中心として、同心円状に整然と配置されている状況がとらえられ、少なくとも
縄文
時代中期,本県でも
縄文
時代中期における六ヶ所村富ノ沢(2)遺跡の例を見ると、柱穴群(掘立柱建物跡群)の外側を多数,同様の規則性を持つ集落は、
縄文
時代後期にも見られる。,
縄文
時代の集落の中に、しばしば形状の大きな住居跡が発見される。 / 3.
縄文
時代の集落
通史編1(古代・中世)
(古墳文化と続縄文文化の交流)
古墳文化と続
縄文
文化の交流 石狩低地帯での東北地方弥生時代最終末の天王山系土器と江別C2・D式土器の,続
縄文
土器の分布は、津軽半島から日本海沿岸地域にかけては希薄で、分布はやや東に片寄るものの、ほぼ全域に,青森県内では、この時期の遺物は大半が採集資料であったが、先に触れた天間林村森ヶ沢遺跡では続
縄文
文化の特徴,古墳文化と続
縄文
文化の間に交流関係があったことを示している。 ,続
縄文
文化の前半期には、多くの墳墓のほか、道東部では舌状の張り出し部をもつ隅丸方形ないし小判形の竪穴住居 / 古墳文化と続
縄文
文化の交流
資料編1(考古編)
(2.縄文時代の住居跡)
2.
縄文
時代の住居跡
縄文
時代の住居跡については、草創期のものは未発見である。,
縄文
時代早期の住居跡は上記のようであり、まとめるとすべて竪穴住居で、柱穴は壁際に作られる例が日計式土器期,青森市の三内沢部遺跡においても*187、ほぼ似たような傾向を示すことから、
縄文
時代中期の住居跡プランは,
縄文
時代の最後である晩期は、前時期の後期に比べて遺跡数も少なく、したがって住居跡も同様に発見例は少ない,青森県の
縄文
時代に関する住居跡をプランを中心に追うと、以上のような変遷がとらえられる。 / 2.
縄文
時代の住居跡
資料編1(考古編)
((1)縄文時代草創期)
(1)
縄文
時代草創期 本県では、昭和46年(1971)秋、先端を磨いて鋭利な刃部を構成している1個の,図2
縄文
時代草創期の土器 隆起線文土器… 六ヶ所村・表館(1)遺跡 (県埋蔵文化財調査センター,発見されており、同県が北限と考えられていたが、近年の調査の進展により各県でも出土し、旧石器文化を母胎に
縄文
文化 / (1)
縄文
時代草創期
資料編1(考古編)
((1)縄文時代の甕棺墓)
(1)
縄文
時代の甕棺墓 大型の土器の中から人骨が入った状態で発見される遺構を、単に甕棺墓または改(再,本県では、当該遺跡に対する調査は古く、
縄文
時代における墳墓の調査研究は、この甕棺墓によって始まったと言,りの後期十腰内Ⅰ群(式)土器期に属する甕棺を発見(人骨は18~19歳位の女性骨、頭部を基に復元され、〝
縄文
美人,この骨は、
縄文
時代後期の十腰内Ⅰ群(式)土器期における甕棺葬法を知る重要な資料となった。 / (1)
縄文
時代の甕棺墓
資料編1(考古編)
((1)縄文時代の土壙墓)
(1)
縄文
時代の土壙墓 この墳墓は、地表を楕円形・長楕円形(小判形など)・長方形に深さ50cm~1m,ほど掘り下げて、遺体を安置後覆土したものであり、
縄文
時代のみならず、その後も普遍的な葬法であった。 / (1)
縄文
時代の土壙墓
資料編1(考古編)
([付図])
弘前市大字鬼沢字猿沢236,238-5-90地内 台地東南緩斜面 包含地
縄文
(前・後期)
縄文
土器,十腰内(1)遺跡 弘前市大字十腰内字猿沢 丘陵斜面 集落跡
縄文
(後期)
縄文
土器 11 02011,)
縄文
土器 62 02077 茶畑町遺跡 弘前市大字茶畑町 台地緩斜面 包含地
縄文
(中期)
縄文
土器,包含地
縄文
(早・中・晩期) 弥生,平安
縄文
土器,続
縄文
土器,擦文土器,土偶,土玉,石器 157,~20 丘陵上 包含地
縄文
縄文
土器
通史編1(古代・中世)
([付図])
・弥生・平安 2 沢部(2)遺跡 〃 225の8ほか 畑 包蔵地
縄文
3 天王沢遺跡 〃,黒土字山裾 山林・スキー場 〃
縄文
・中世 32 番館遺跡 番館 畑・宅地 城館跡
縄文
・平安 33,62 堂ヶ沢遺跡 鬼沢字堂ヶ沢 畑 〃
縄文
63 泉田遺跡 楢木 境内 包蔵地・城館跡
縄文
・平安,~20 〃 〃
縄文
225 弥生平遺跡 弥生字弥生平313の1ほか 〃 包蔵地
縄文
・弥生 226,〃 、悪戸字中野 〃 〃
縄文
・平安 264 芦野(2)遺跡 悪戸字芦野 〃 〃
縄文
265 芦野(
通史編1(自然・原始)
(弥生文化の伝来と稲作農耕の開始)
弥生文化の伝来と稲作農耕の開始 約一万年の長きにわたって続いた
縄文
時代も、今を去る約二三〇〇年前のころになり,、南から伝播して来た新しい弥生文化が徐々に浸透し、やがてその文化の有する稲作農耕の技術を学び、次第に
縄文
文化,わが国の歴史は、
縄文
時代の後に弥生時代を設定している。,を表わす
縄文
なる語が、土器の器面に多用されていた縄目文様に起源を発するのとは趣きを異にしている。 ,新しく始まった弥生文化は、さきの
縄文
文化にはみられなかった金属器と、保存食料として優れているコメを伝来
通史編1(古代・中世)
(古墳文化及ばぬ北の世界)
たとえば続
縄文
土器と総称されている、本州に稲作文化が普及し弥生時代に移行したのちもなお、
縄文
時代同様、,とくに後北C1~C2式と呼ばれる北海道の続
縄文
土器と同じものが、弥生時代の青森県下全域から出土しており,古墳時代にほぼ併行する時代になると、北の続
縄文
文化の世界では、後北(こうほく)式に代わって北大(ほくだい,秋田県能代市の寒川(さむかわ)Ⅱ遺跡では、さらに古い後北式C2土器を伴う土壙墓が発見されており、続
縄文
文化,近年の考古学の成果は、すでに
縄文
時代から続く活発な南北交流の存在を明らかにしているが、この遺跡も、それを
通史編1(自然・原始)
(第三節 注および引用・参考文献)
中野平遺跡・向山(4)遺跡』(青森県埋蔵文化財調査報告書一三四) 一九九一年 (13)江坂輝彌 「
縄文
文化,青森県埋蔵文化財調査報告書九三) 一九八五年 (18)佐藤達夫・渡辺兼庸 「青森県上北郡出土の早期
縄文
土器,における考古学的調査』 北海道石狩町教育委員会 一九九二年 (24)山本正敏 「富山県朝日貝塚」『探訪
縄文
,』 中央公論美術出版 一九六九年 (30)鈴木保彦 「勝坂式土器」『
縄文
土器大成』二 講談社 一九八一年,低湿地遺跡の調査1』 福井県教育委員会 一九七九年 B 森川昌和ほか 「福井県鳥浜貝塚」『探訪
縄文
通史編1(自然・原始)
(弥生文化の内容)
恐らく
縄文
時代から主要な用具であった石器類は次第にその地位を失って、金属器(おもに鉄器)が利器の主流を,すでに述べたごとく、
縄文
晩期にはコメが受け入れられていたと仮定すると、生活に不可欠な利器として鋭利な金属器,砂沢式ならびに田舎館式土器期の生活用具や住居なども、先の
縄文
晩期と比較して異なりはほとんどみられぬ状況,であり、したがって生活そのものは
縄文
時代以来の流れを踏襲していたものと考えられる。,、
縄文
時代と同様な丘陵・台地を占地する例が多い。
資料編1(考古編)
((3)多様な技法)
(3)多様な技法
縄文
時代には、多様な編物が作り出され、その緻密な編みを基に編布が生産されて、人々の,このような編みの技法に対し、従来
縄文
時代には考案されていないと思われていた織物の存在を裏付ける資料が、,織布の出現が
縄文
時代晩期中葉にまでさかのぼることの確証と、漆工芸に見られるような高度の技術の存在は、亀,ヶ岡文化の内容のすばらしさを裏付けるとともに、
縄文
人の知恵とこの時代の卓越的な面を暗に物語っている。,図20
縄文
時代の編物(籃胎漆器ほか) 籃胎漆器… 木造町・亀ヶ岡遺跡(晩期) (木造町
縄文
館蔵
通史編1(自然・原始)
([口絵])
) 岩木山麓緊急発掘調査で発掘された土製装飾品 (岩木町薬師Ⅱ号遺跡,
縄文
時代晩期),正面 背面 岩木山麓緊急発掘調査で発掘された土偶(岩木町・薬師Ⅱ号遺跡,
縄文
時代晩期),尾上山(3)遺跡6号土坑遺物出土状況 (
縄文
時代前期、青森県埋蔵文化財調査センター提供),十腰内Ⅰ遺跡3号住居跡 (
縄文
時代晩期、青森県埋蔵文化財調査センター提供) 十腰内,Ⅰ遺跡1号竪穴住居跡 (
縄文
時代晩期、青森県埋蔵文化財調査センター提供)
資料編1(考古編)
((2)植物栽培の起源)
(2)植物栽培の起源
縄文
時代は、日本列島における植物栽培起源の問題に関して、従来考えられていた常識,栽培植物であるリョクトウとヒョウタンが
縄文
時代前期に存在したということは、そのような古い時代に栽培を行,植物を栽培するという技術を
縄文
時代前期に会得し、時代を経るにしたがって進展させていた可能性もある。,年)9月に、京都の平安博物館が実施した三戸郡田子町石亀遺跡の第3次調査で採取されたソバ花粉の存在は、
縄文
時代晩期前葉
資料編1(考古編)
(資料編1「考古編」掲載図・表・写真一覧)
・弥生……77 図1 旧石器時代の石器 図2
縄文
時代草創期の土器 図3
縄文
時代早期の土器(1,) 図4
縄文
時代早期の土器(2) 図5
縄文
時代前期の土器(円筒土器,大木系土器) 図6
縄文
時代中期,図11
縄文
時代晩期の土器(1) 図12
縄文
時代晩期の土器(2) 図13
縄文
時代晩期の土器(3,) 図14
縄文
時代の石器・石製品 図15
縄文
時代の石製品各種 図16
縄文
時代の装身具各種,図17
縄文
時代の土偶(1) 図18
縄文
時代の土偶(2) 図19
縄文
時代の骨角器 図20
縄文
時代
通史編1(自然・原始)
(栽培の問題)
栽培の問題
縄文
晩期にはサイクルにしたがって食料の確保にいそしんでいたが、一方では自然に働きかけ、従来,栽培植物については、さきに三内丸山遺跡の記述で触れたが、
縄文
時代にはそのほかに八戸市是川の風張遺跡で、,)(1)遺跡でも後期終末の十腰内Ⅴ群(式)土器とともに炭化米が検出されるなど、寒冷な東北北部において
縄文
人,現在九州では佐賀県唐津(からつ)市の菜畑(なばたけ)遺跡において、
縄文
晩期後半の山ノ寺(やまのてら)式土器,東北北部と北部九州とが、年代差を越えて稲の栽培を行っていたことは理解しがたく、近年岡山県において
縄文
中期
通史編1(古代・中世)
(日本人の起源)
博物館などに展示されている
縄文
人の顔や体型が、現代和人とかなり異なっていることはよく知られているであろう,写真16
縄文
美人
縄文
時代に先行する旧石器時代については、日本で発見されたこの時代の人骨はそれほど,
縄文
時代には、温暖化による海水面の上昇により(そのレベルについては地域差がかなりあったらしいが)日本列島,が大陸から孤立したため、大陸との遺伝子交換レベルでの交流も少なく、
縄文
人はほぼ均質な集団を形成していたといわれている
通史編1(古代・中世)
(原エミシ文化の形成)
古墳時代前・中期併行期の青森県では、続
縄文
文化をもった北海道系の人々が南下して居住したと考えられているが,、質的には続
縄文
文化でも古墳文化でもない、両者の要素を合わせ持った独自の混交文化を形成していたといえるであろう,本州の平安時代に併行する時期に、東北地方北部や石狩低地帯を中心とする地域における続
縄文
・土師器混交文化,津軽地方では、続
縄文
文化末葉の北大式土器の存在が希薄になるが、北大Ⅰ式土器が太平洋側の農耕文化圏である,政治的概念として文献に登場する「蝦夷」の時代の前代を象徴する考古学的概念として、在地の系譜が希薄になる続
縄文
通史編1(自然・原始)
(食料)
縄文
時代には、コメや麦などの穀物のように長期にわたって備蓄が可能な食物はなく、そのため時には食料難に陥,神奈川県横須賀市の平坂(ひらさか)貝塚で発掘された、
縄文
早期の熟年(働き盛り)の男性骨の例は、右足(右,三内丸山の地に人々が居住しはじめた
縄文
前期中葉のころは、前述したごとく
縄文
海進の絶頂期であり、各地において,フグ毒に関連して
縄文
人と毒について触れると、身近なものとしてキノコの類がある。,
縄文
後期からキノコ型土製品が発見され、
縄文
人もその存在を知り、有毒・無毒を分別していたと思われる。
資料編1(考古編)
(1.古墳時代の概観)
・山形県を中心とする東北地方南部の古墳文化であり、もう一つは青森県・秋田県・岩手県などの北部地域の続
縄文
文化,一方、この時期、東北地方北部地域から北海道にかけては、続
縄文
文化が展開している。,「続
縄文
文化」の名称は山内清男によるもので、その主要な生産基盤を
縄文
時代と同様、漁労・狩猟・採集に置き,、
縄文
文化の伝統を保持したとした。,この続
縄文
文化は、稲作農耕を主とする弥生文化と対峙(たいじ)する文化として弥生時代、北海道においてその
資料編1(考古編)
(12.牧野Ⅱ遺跡)
採集遺物は、
縄文
時代晩期終末の大洞A・A’式と、当地方の弥生時代前期に当たる砂沢式土器であり、中でも大洞,図28 牧野Ⅱ遺跡出土遺物 動物形土製品(
縄文
晩期) 土偶(
縄文
晩期) 動物形土製品,(
縄文
晩期) ※参考文献 1)弘前大学教育学部考古学研究室「牧野Ⅱ遺跡出土遺物について(1)」
通史編1(自然・原始)
(衣服)
衣服 三内丸山を含めて、
縄文
人がどのような衣服を身にまとっていたかは、それを正確に裏付ける証拠に乏しく,
縄文
時代の衣服に詳しい尾関清子によると、衣服の材質は草本(アカソ・カラムシ・アサ)、樹皮(オヒョウ)を,と述べており、
縄文
時代の編みの技法が今日まで伝えられているらしい(46)。 ,
縄文
時代でも後期以後の土偶には、股の部分に線刻で、パンツを現わした形状を示すものもあり、活動しやすいように
資料編1(考古編)
(10.弘前城内遺跡)
遺物は、昭和56年度の蓮池護岸工事で、
縄文
時代前期の円筒下層b式・同d1式土器、同時代中期の円筒上層a,
縄文
時代の石製品では半円状扁平打製石器が見られる。,いずれも台付深鉢形を呈する粗製土器であり、
縄文
時代晩期の大洞C1式に属する。,また、当城本丸跡の天守閣付近でも、
縄文
晩期の大洞A式土器と石器が採集されている。,図25 弘前城内公園緑地課前遺跡出土遺物(
縄文
晩期) ※参考文献 弘前市教育委員会『史跡弘前城跡
通史編1(自然・原始)
(中期)
中期 さきの
縄文
前期に繁栄を誇った円筒下層式土器文化は、次の
縄文
中期に入るとますます隆盛を誇り、作り,における聖火台のモデルになり、また曽利式土器は昭和四十年代の郵便ハガキの定価表示欄に印刷されるなど、
縄文
時代,曽利式土器(水焔渦巻文土器) (中村龍雄『中部高地
縄文
土器文様』1986年 P53より) 北日本,で
縄文
中期を代表する円筒上層式土器は、さきの下層式土器よりも分布範囲は広い。
資料編1(考古編)
(6.十腰内遺跡)
遺跡は東北地方北部の
縄文
時代後期に関する標式土器〈十腰内Ⅰ群(式ともいう)~十腰内Ⅵ群(式)〉出土遺跡,十腰内遺跡出土動物型土製品(イノシシ) 図13 十腰内遺跡出土遺物(4) 土偶・土製品(
縄文
後期,) 土製耳飾(
縄文
後期) 環状土製品(
縄文
後期) 匂玉ほか各種垂飾品(
縄文
後期,本来の十腰内遺跡は現在大字十腰内字猿沢にあるカメコ山(甕子山)地域で、この地から
縄文
時代晩期の大洞B式
資料編1(考古編)
((1)工芸の種類)
(1)工芸の種類
縄文
時代前期の福井県三方町鳥浜貝塚では、大小さまざまな木製品が発見され、それらの品々,このほかに、
縄文
時代前期には大麻を材料とした縄がある。,この中で、縄について
縄文
人は、〝糸・紐・縄・綱の区別を熟知し、土器や木器の補修には径2~3mmの糸が使
通史編1(自然・原始)
(草創期)
草創期
縄文
最古の時代とされる草創期は、旧石器時代において述べたごとく、大平山元Ⅰ遺跡で発掘された無文土器,(つめがたもん)土器へのつながりがみられ、さらに平成九年(一九七七)八戸市八幡の櫛引遺跡より出土の多
縄文
,それに続く多
縄文
土器も薄手に作られ、器面に羽状を呈する
縄文
が施されている。
資料編1(考古編)
((2)県内遺跡の出土工芸品)
(2)県内遺跡の出土工芸品 本県でも、
縄文
時代前期中葉の円筒下層a並びにb式土器期に、鳥浜貝塚と同様,なお、編物に関しては古くから関心が持たれ、
縄文
土器の底面に見られる網代痕(あじろこん)について、人類学会創設者,編物をはじめ木製品製作の技術は、その後も時代の推移とともに継承され、本県では
縄文
時代晩期に至ると、その,北津軽郡板柳町の土井1号遺跡(低湿地遺跡)出土の同種遺物も原材と作りは同様であるが*139、亀ヶ岡遺跡出土の
縄文
館並,びにカルコ(
縄文
住居展示資料館)に展示されている同種遺物は、カヤまたはスゲの類を原材にしているように思
通史編1(自然・原始)
(太平洋戦争終結後)
また江坂輝彌は、六月から十一月にかけ、青森市をはじめ下北半島や上北郡下での遺跡の発掘を行い、おもに
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時代早期,と晩期のほか、続
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期(江別(えべつ)式)に属する遺跡を調査した。,その成果を翌年(昭和二十五)の五月から「
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式文化について」と題し、『歴史評論』に掲載を始めた。,このほか、
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時代に関するおもな調査は、下北の田名部町(現むつ市)にある女館貝塚が江坂輝彌により(82,さきに、江坂輝彌が
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時代早期文化の解明に努力していたが、東京大学の佐藤達夫(さとうたつお)(一九二五
通史編1(自然・原始)
(第二節 旧石器時代)
で十二月三十一日午後八時、現生人類(ホモ・サピエンス)は五〇万年前で十二月三十一日午後十一時となり、
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時代,まりは一万二〇〇〇年前とされるので、十二月三十一日午後十一時五八分過ぎに相当しようか(1)(計算によると
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時代,十二月三十一日午後十一時五十八分三十六秒、青森市の三内丸山遺跡に人々が居住しはじめたのは、午後十一時五十九分二十秒、
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時代
資料編1(考古編)
(8.砂沢遺跡)
(3)調査の経緯 当遺跡は、
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時代終末から弥生時代初頭にかけての主要遺跡であり、弥生時代前期の砂沢式土器,された低地帯に分けられ、第1・第2次調査は高台地区を中心に行い、多数の小柱穴・溝跡・Tピット(落し穴)・
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時代後期,出土遺物は、竪穴住居跡より出土の
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時代後期後葉の十腰内Ⅳ群(式)と同Ⅴ群(式)土器(図20)をはじめ,なお出土した石器・石製品の内容から見ると
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的であり、一方で水田経営がなされているにもかかわらず、
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時代以来,砂沢遺跡発見住居跡(
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後期) 図17 砂沢遺跡発見遺構図 砂沢遺跡発見の弥生初期水田跡
通史編1(自然・原始)
(津軽への稲作の伝来)
八戸市の風張(かざはり)(1)遺跡や亀ヶ岡遺跡などの事例によると、
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人はすでにコメを知っていた可能性,は高く、三内丸山遺跡での発見にみられるごとく、植物栽培が
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前期のころ(約五五〇〇年前)から行われていたと,考えれば、
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後期以後に稲の栽培をも実施していたと仮定しても、唐突な考えではなかろう。,しかし東北北部で確実に稲作が行われたのは
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終末以後のことである。
資料編1(考古編)
((2)4世紀後半代~5世紀代)
十和田湖町三日市遺跡・平内町槻ノ木遺跡などの古墳文化の遺物を出土する遺跡と、大間町大間貝塚・大平D貝塚など続
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式,この時期の北海道系遺物としては、続
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文化の北大Ⅰ式土器と黒曜石製石器であり、古墳文化の遺物としては土師器,しかし、墓地の形態は続
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文化の色彩が強い。 ,墓地の造り方と埋葬の様相は、北海道続
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文化のものと類似する。
通史編3(近世2)
(津軽における漆工芸の起点)
津軽における漆工芸の起点
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時代、漆を取り扱う技が青森県にあったことは、大正十五年(一九二六)、八戸市是川中居,
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時代の籃胎漆器(らんたいしっき)(竹や植物を編んでカゴにしたものに漆を塗った漆器)を観察してみると,そして、このような
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の漆文化は青森県に限ったことではなく、北陸・中部・関東・東北一円に広がっていたことが,
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時代に続く弥生・古墳時代、さらに古代・中世においても木材、樹皮、繊維、皮革、金属など多種類の素地(
資料編1(考古編)
(2.弥生時代の初期稲作について)
における調査で、弥生初期の板付Ⅰ式土器が出土した土層のさらに下層から水田跡が発見され、しかもその水田跡は、
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時代晩期終末,1980)から翌年にかけて調査の行われた佐賀県唐津市菜畑(なばたけ)遺跡において、板付遺跡よりもさらに古い
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時代晩期後半,がしだいにさかのぼるような状況となり、これに対し佐原眞は弥生前期以前に弥生早期を設定し、北九州や近畿地方の
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時代終末,
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時代晩期後半期に北九州で開始された稲作農耕は、その後しだいに本州にも広まり、やがて東北地方北部にも
資料編1(考古編)
(11.牧野Ⅰ遺跡)
調査の経緯 昭和43年(1968)の県立弘前工業高校郷土研究部による試掘調査の折、柱穴状のピットと
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時代前期及,土器は、
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時代前期の円筒下層b・d1・d2式、中期の円筒上層a・b・c(図27)・d・e式、土製品には,図26 牧野I遺跡出土 板状土偶 図27 牧野Ⅰ遺跡出土遺物(
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中期) 円筒上層b式土器
資料編1(考古編)
((3)石製品)
図14
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時代の石器・石製品 石鏃…(前期)天間林村・二ツ森貝塚 (天間林村教育委員会蔵),石槍…木造町・田小屋野貝塚 (前期)(木造町
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館蔵) 石匙…尾上町・八幡崎遺跡(晩期,板柳町教育委員会蔵) 礫石錘…岩崎村・相ノ沢遺跡(前期) (個人蔵) 図15
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時代,の石製品各種 石剣・石棒…木造町・亀ヶ岡遺跡(晩期) (木造町
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館蔵) 独鈷石…岩木町,図16
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時代の装身具各種(石製品・土製品・骨角製品・植物製品) 丹漆塗櫛(歯を欠失)… 尾上町
資料編1(考古編)
(はじめに)
一般に墳墓と聞くと、古墳のような封土(盛土)を持つものを連想するであろうが、
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時代にはそのような大規模,
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時代の葬法には、①土壙墓(どこうぼ)、②石棺墓、③土器棺墓(甕棺墓)などがある。
資料編1(考古編)
(第3節 弥生時代)
第3節 弥生時代
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時代に続く弥生時代は、稲作農耕を主体とした土地を基盤とする経済社会であり、したがってこの,管玉等に見られる装身具の材質変化、甕棺・支石墓(しせきぼ)・方形周溝墓(しゅうこうぼ)等の出現等、先の
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時代
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